2005年2月26日

沖縄旅行 その4

沖縄の景色


せっかく沖縄に行ったのだから、勉強だけでなく楽しむ時間も必要というもの。特にメンバーの大半を中年女性が占めるので、車中でもホテルでも、おしゃべりの耐えない楽しい旅でした。
しかし最初に申し上げたとおり、三日間とも沖縄は雨。気温は15度から18度と、本土よりはマシですが、それでも海風が吹くと熱を奪われ、コートが手放せませんでした。2月のこの時期沖縄に行く方は、着る物に要注意かもしれません。

沖縄に来てなるほどと思ったのは、この県には鉄道がない(那覇にはモノレールがありますが)。移動手段はすべて車です。高速道路が整備されていますが、朝晩の渋滞はけっこう激しいらしいです。空港などに行くときは、かなり時間の余裕を見たほうがいいでしょう。

那覇からホテルのある北谷町までずっと車中の景色を見ていると、いくつかの発見をしました。
ひとつは、私たちが自分の町で見かけるチェーン店はほとんどが沖縄にもあること。
「大きな会社や商店は、必ず沖縄に支店や支社を置くんですよ。そうしないと全国展開したことにならないんです」
と車で案内しながら、地元の牧師は教えてくれました。「全国ツアーするアーティストも、必ず沖縄で公演します。その点は他の地方都市よりも、ずっと恵まれていますね」
この便利さと、ゆったりと流れる沖縄時間、豊かな人情などにあこがれて、沖縄に移り住む若者も増えているそうです。もっとも地元では職があまりないので、全国ワーストの失業率を押し上げる結果になるそうですが。

沖縄古来の赤い屋根(写真は平和資料館のもの)

そして、もうひとつは家の形。
沖縄伝統の赤屋根を見ることはあまりなく、堅牢なコンクリート作りの家が多いのですが、そこには必ず、本土では絶対見かけないようなかなり大きなバルコニーがついているのです。
さすが南の国。もしかして、この広いバルコニーで家族が集まって、宵の団欒のときを過ごすのかもしれません。
また南北に長く、東西が非常にせまい沖縄本島は、ダムも少なく、雨が降らないとすぐ旱魃になって断水になってしまいます。そのためにどの家も、屋上に水のタンクを備えているのも特徴的でした。

沖縄の食事とお土産

ホテルのビュッフェ。まだ前菜これからが本番です  

沖縄料理と言えば、脂っこいイメージがありましたが、案外ヘルシーです。特に、もずくはとてもおいしく、全国に出回っているもずくのほとんどは沖縄産です。豆腐は硬くて中国豆腐のようです。
デザートに絶対食べないと損なのが、沖縄ブランドの「ブルーシール」アイスクリーム。私はその中でもとりわけ「紅芋アイス」が気に入りました。
昼の定番はやはり、「沖縄そば」でしょう。どの観光地に行っても「沖縄そば」のお店があるのです。沖縄そばは中華そばを平たくのしたような麺で、豚の三枚肉の角煮が乗っています。その代わりにスペアリブが乗っているのを「ソーキそば」と呼んでいました。
かならず、「島とうがらし」という調味料をかけていただきます。お酢ととうがらしが合わさった調味料で、これはタイ料理に出てくる調味料と同じだなと思いました。

本場・沖縄そば

写真の沖縄そばは、日曜の礼拝のあと、案内してくださった牧師さんの教会でご馳走になったものです。
沖縄では、沖縄そばをおいしく作れることが一人前のお嫁さんの条件だそうです。ここのそばは数日前から豚で出汁をとってくださったもので、豚肉も甘くてとろけるようで、今まで食べたものの中で一番美味でした。

沖縄のおみやげ

私が買った沖縄のお土産を並べてみました。
お菓子では、有名な「紅芋たると」のほか、黒糖味、パイナップル味、ゴーヤ味などの沖縄限定菓子がたくさんあります。年配の方向きのおみやげには、塩もずくか、グリーンキャビアといわれる「海ぶとう」も喜ばれると思います。今の季節なら「たんかん」というみかん、春ウコンも出回っています。

さて、二泊三日あっというまに終わってしまった沖縄旅行。
無事に西宮に帰宅し、荷物を整理していると、おもしろいものを見つけました。空港で飲めずに持ち帰った缶飲料です。

 ハイサイ お茶

「お○い お茶」だと思い込んでいたら、「ハイサイお茶」という文字が見えて笑いました。「ハイサイ」とは沖縄の挨拶のことば。こんなところにも沖縄限定品を見つけて、得した気持ちになりました。

***

沖縄旅行記はこれで終わりです。
読んでくださってありがとうございました。これからまた小説の定期更新に戻りたいと思います。

2005年2月25日

沖縄旅行 その3

ひめゆりの塔

「ひめゆりの塔」の名の由来となった小さな慰霊塔  第3外科壕を前に立つ慰霊碑

ここは、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の「ひめゆり学徒隊」の方々の慰霊碑のあるところです。
沖縄で初めてというほど、ずらりと並ぶ観光バス。たくさんの人が献花し、祈りを捧げていました。
その隣に、昨年改装されたという「平和祈念資料館」があります。
私たちはその展示室の中、かつての壕の様子を模した展示の前で、幸いにも語り部を務めておられる体験者のお話をうかがうことができました。
米軍が上陸する直前の3月23日、沖縄女師・一高女の生徒222人は、深夜突然に南風原(はえばる)にある陸軍病院に配属命令を受けました。現地に赴くとき、彼女たちは「病院は国際法によって攻撃を受けないことになっているから大丈夫」と励まし合っていたと言います。
病院とは言え、そこは数十メートルの横穴がいくつも掘られた壕の中でした。そこで前線から送られてくる負傷兵の看護に彼女たちは忙殺されていくのです。
その悲惨な有様をここで具に書くことはしたくありません。ぜひ、現地に行って、実際に語り部の方から聞いてほしいのです。
私たち一行も、もしこれが本やテレビで知らされた事実だとしたら、これほど衝撃は受けなかったでしょう。その地を訪れ、そこの空気を嗅ぎ、実際の体験者の息遣いを感じながら聞いたからこそ、自分のことのように受け止められたのです。メディアを否定するわけではありませんが、行かなければわからないことはあるのです。

ただ、うかがった中のひとつのエピソードだけを書きたいと思います。
医薬品や満足な施設もない場所で、ましてや高温高湿の沖縄の地で、負傷した兵士の治療法は手足を切断するしかなかったと言います。麻酔もなく、わずかな缶に入れた油の灯りだけで、次々と四肢が切断され、その手足を捨てに行くのは、ひめゆりの女生徒たちの仕事でした。
最初は震えるばかりだった彼女たちも次第に無感情になっていきます。手足を肩にかついで外に捨てに行く。そのとき、米軍の砲弾でやられる人もいました。生理も止まり、彼女たちが見交わす互いの表情は、すでに若い女性のものではありませんでした。

そののち、米軍の攻撃はどんどん激しさをまし、彼女たちは南風原陸軍病院の壕を捨てなければなりませんでした。動けない重傷者には青酸入りのミルクを渡し、一行は南端に向かいます。
そして、6月18日、突然の「解散命令」。戦場の真ん中に放り出されて、何の生きる術もない人々は逃げ惑います。そして「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」との非情の教えに従い、兵も一般人も、手榴弾で命を断ち、あるいは米軍の攻撃で命を失いました。
この「解散命令」のあとの数日に亡くなったひめゆり学徒たちが、死亡した136人のほとんどを占めるのです。この解散命令こそは沖縄の人たちの生きる権利を踏みにじった、日本のおかした最も赦されざる行為であったと私は思います。

話をしてくださった語り部の女性は、どう考えても75歳は過ぎていらっしゃるはずでしたが、30分以上その場でじっと立ち尽くして、淡々と語られました。
「私はいつまでこうして語ることができるかわかりません。私たちの話はビデオに撮られ、後継者にも直接伝えています。
ひとりでも多くの人に、ここへ来て真実を知っていただきたいのです。このひめゆり資料館は昨年改装されましたが、一切公の援助を受けていません。入館料だけで維持しています。それは、展示についてどこからも指示を受けないためです」
その毅然とした声は、大勢の雑音の中で小さかったけれど、澄ませていた私たちの耳には、とても大きく響きました。

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2005年2月22日

沖縄旅行 その2

沖縄の歴史

「沖縄県には大きな公文書館があるんですよ」
と、私たちを空港から乗せてくれたタクシーの運転手が、教えてくれました。
「他県にはない公文書館が沖縄にあるのは、沖縄が戦後「琉球政府」という、日本から見ると外国だったからです。だから、アメリカや日本と交わした外交文書が多数存在するのです」
少し誇らしげだと感じたのは私の気のせいかもしれません。でも、沖縄県民の中に今も自分たちの文化に対する誇りがしっかりと根づいているように思えます。

座喜味城跡  敵兵をおびきよせる迷路

それ以前にも、沖縄は15世紀から19世紀まで「琉球王国」という独立国でした。沖縄の中には多数の城(グスク)跡が保存されており、そのタクシーが連れて行ってくれた読谷(よみたん)村の座喜味城跡も、15世紀初頭、琉球王国統一の頃の城跡で、他の城跡とともに世界遺産に登録されています。

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2005年2月21日

沖縄旅行 その1

二泊三日の沖縄旅行に行ってきました。三日間とも雨にたたられ、「ここは本当に沖縄か」と言うくらい寒く、青い空もコバルトブルーの海も見られませんでした。
それでも、行ってよかった。
実際にその場に行くのは新聞や本で読みテレビで見る映像とは違って、自分の体験となって響いてきます。五感が、沖縄という土地の歴史の重みを覚えます。
これから三回にわたって、沖縄レポートをお届けしたいと思っています。


嘉手納空軍基地

嘉手納空軍基地  ずらりと並ぶ空軍機


私たちの泊まった北谷(ちゃたん)町は、近年リゾート地として開発が進み、近くのアメリカンビレッジは地元の若者と観光客で深夜まで賑わう街です。
ところが、そこからひとつ国道を隔てると、そこは嘉手納米軍基地。羽田空港の二倍という面積に学校、スーパー、ボーリング場、映画館やゴルフ場があり、一部は日本人も立ち入ることができます。3500メートル級の滑走路を2本持ち、今話題の中部国際空港より大きいのです。沖縄の航空管制の指令はすべてこの基地が出していると言われます。そのため民間旅客機が那覇空港に離着陸するとき、数百メートルという低空飛行で数十キロ手前から進入しなければならないそうです。

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2005年2月16日

小説のネタ

小説サイトオーナーの皆様は、どこで小説のネタを仕入れていらっしゃるんでしょうか?
私はご存じの通り、長い間専業主婦をしているため、住んでいる世界が狭いんです。勤めていた期間も短いので、オフィスものは書けません。一日に会って会話する人数も、外で働いておられる方に比べて、どうしても限られてきます。たいてい、読んだ本やテレビのニュースが主な情報源になってしまいます。

「狗頭クラブ」は、新聞に載っていたブッシュ、ケリー両大統領候補(当時)が、同じ母校の秘密クラブに属していたというコラムを参考にしました。「ジョハリのピアス」は、PTA役員をしていた頃に参加した講演会で「ジョハリの窓」という心理学用語について聞いたことがひらめきになりました。「手をのばして」は、実家の父の戦争体験をもとに書きました。
こうやって、狭いながらも懸命にアンテナを伸ばしていたけれど、さすがにそろそろネタが切れてきたかもしれません。

そんな私にとって、とても貴重なのはキリリクです。「こんなお話を書いて」とアイディアをいただくとき、「書けないよ」と思いつつも調べていくと、思ってもみなかったお話が生まれることがあります。
今度、太郎さんにいただいた「掲示板レベル50キリリク」も、「ダマスカスナイフ」という御題をいただいて調べていくうちに、だんだん話ができてきました。短編ですが、スケールだけは壮大な吸血鬼ものです。「沈黙の回廊」が終わったら、アップ予定。

もうひとつ、私にとって貴重なネタ源があります。それは、教会で毎年行っている講演シリーズです。
プロテスタント福音派の教会というのは、えてして自分の内面の信仰に心を向け、社会的な問題に関心が薄いのが特徴ですが、それではいけないということで、外部から講師を呼び、広く浅くいろいろな問題について講演を聴き、それをもとにアクションを起こそうというものです。私は数年前から、イベントスタッフのひとりに加えていただいています。
そこで4年前に講師にお呼びした神戸在住のヒュー・ブラウン牧師が、北アイルランド出身の元テロリストの方でした。彼の講演を聞いたことがきっかけで、「EWEN」というお話は生まれました。
それ以外にも、ホームレスの支援団体の方や心理カウンセラー、海外NGOや戦争体験者のお話は、ことごとく私の小説のネタにさせていただいています。

その講演会スタッフが中心になって、今度の週末に二泊三日の沖縄ツアーに行くことになっています。南部の戦跡を中心に、60年前日本で唯一の地上戦が行われ、今なお米軍基地の残る地を見て回る予定です。
夫や年老いた義父母をほったらかして参加するのは、ええ、もちろん、勉強のためです。けっしてリゾートホテルのエステやスパや、沖縄料理食べ放題が目的ではないですとも(笑)。

「沈黙の回廊」の更新が少し遅れることになりますが、お許しください。

2005年2月12日

チョコレートの季節

連休中に、三宮のそごうに行きました。別の用事で行ったのですが、ちょうど季節柄、各階でバレンタイン向けセールの熱気がむんむん。7階の特設会場に行くと、各ショップのブースがずらりと並んで、すごい人ごみです。
私も思わず、夫や父のために3つも買ってきてしまいました。
さて、関西人にとってチョコレートと言えば、ゴンチャロフとモロゾフを抜きにして語ることはできません。このふたつの洋菓子店について、おもしろい記事を見つけました。

亡命ロシア人たちの東アジア
大正12年(1923)に神戸で創業されたゴンチャロフは、「チョコレートづくりの名人マカロフ・ゴンチャロフがつたえた、ロマノフ王朝の香り漂う高級洋菓子の伝統と感動を現代にお届けします」というのがキャッチフレーズ。 ロマノフ王朝と言えば、帝政ロシア最後の王朝。その香りを伝えるマカロフ・ゴンチャロフは、勿論、亡命ロシア人です。同じく神戸の洋菓子メーカー「モロゾフ」もまた、亡命ロシア人F・モロゾフが創業者。

このように、ふたつの老舗は、どちらも亡命ロシア人によって創設されたというのです。当時の日本文化に彼らが与えた影響がとても大きかったことをうかがい知ることができます。
ロシア革命後に国外に亡命したロシア人のことを「白系ロシア人」と呼ぶのですが、私はなぜかこの言葉に子どもの頃から、大陸的な壮大なロマンを感じてあこがれていました。なぜ「白系」と呼ぶのかといえば、「赤軍」と対比して「非共産主義のロシア人」という意味なのだそうです。この亡命ロシア人たちは200万人とも言われていて、東アジアにも多く逃れてきて、中国や日本の文化、特に音楽文化に大きく貢献しました。

それにしてもチョコレートというのは、原料のカカオはベネズエラやガーナなどの南方の国なのに、どうしてあれほど溶けやすく、寒い国で好まれるのでしょう。そのあたりにも、世界的な広がりを感じる食べ物です。
さて、2月14日のバレンタインデーですが、これはモロゾフさんが1936年に英字新聞の広告によってはじめて日本に紹介したと言われています。
私が小学生だったのは1960年代の後半ですが、もうそのころには、チョコレートを同じクラスの親しい男の子にあげるかどうかを、友だちと相談したことを覚えています。
はじめての恋の相手にチョコを贈ったのは中学2年のとき。直接渡すなんてとんでもなくて、友だちに頼んで渡してもらいました。
彼はちょっとけんかっぱやいけど、気持ちの優しい男の子で、一重瞼の目がきりっとしていました。夫も一重なので、私はそういう和風の顔立ちが好きなのかもしれません。
でも、彼には別のクラスに片思いの好きな女の子がいるらしいことがわかり、私の初恋はあえなく玉砕してしまいました。
ちょうどその一月後の3月14日、彼は「お返し」と言って私にチョコをプレゼントしてくれました。ホワイトデーの習慣を知っていたのかどうかはわかりませんが、私の気持ちに応えられないお詫びの気持ちだったのでしょう。ちょっぴりせつない味のするチョコレートでした。

今年はバレンタイン企画の短編が書けなかったので、その代わりに30年前のBUTAPENNの恋バナをお届けしました。

2005年2月10日

スポーツと漫画

きのうのサッカーの試合はすごかったですねえ。大黒選手の反転ゴール。と言ってもリアルタイムでは見ていません。同点にされた途端にチャンネルを変えてしまった小心者です。ロスタイムの決勝ゴールというのは、ドラマや漫画の中だけの話と思っていたら、けっこう実際にあることなのでびっくりします。

サッカーといえば、私の中学生の頃もけっこう盛んでした。
1970年代初めになりますが、私の行っていた大阪近郊の中学では、野球とサッカーはグラウンドを我が物顔に占領する、男子あこがれの二大部活だったのです。野球部員は、きっちり丸刈りにして折り目正しいのに対し、サッカー部員は髪をちょっと伸ばし、「イケメンにーちゃん」タイプでした。
あの頃の日本サッカーは今よりずっと強かったんです。1968年のメキシコオリンピックで、日本サッカーはヨーロッパや南米をくだし、銅メダルという快挙を成し遂げました。三位決定の対メキシコ戦で「メヒコ、ラーラーラー」という会場のうねるような歓声は、子ども心に深く刻みつけられています。はじめは自国を応援していたメキシコの観衆は、釜本ら日本チームの善戦に後半「ハポン」と叫びだしたのですね。

ところで女子のあこがれの部活と言えば、これはもう圧倒的にテニス(軟式)でした。そのころ「エースをねらえ!」という漫画が流行ったのです。私が卒業する年には、男女あわせて100人以上が入部したというくらいですから、漫画の力はすごいものです。
サッカーのほうは、80年代になって「キャプテン翼」という漫画が人気になり、大サッカーブームが巻き起こりました。あの頃「翼」を夢中になって読んだ世代がサッカーを始め、今のJリーグのさきがけとなった一面もあるはずです。

漫画の作るブームは即効性はありませんが、じわじわと長期間にわたる影響を子どもたちに与えます。
いつの時代も子どもたちが成長するには、目を輝かせてくれるような、あこがれる対象が必要です。夢のない時代だといわれる今は、なおさらそうなのです。
虚実とりまぜてのヒーローたちに、これからも次世代を作るようなパワーのある活躍を期待しています。

2005年2月 4日

更年期障害

歌手の森昌子さんが、緊急入院をしたという報道がありました。貧血と不眠症ということで、まもなく退院されたそうですが、ニュースの中で、「更年期障害の治療のためのホルモン剤が合わなかったのが原因ではないか」ということを言っていました。
実は彼女と私は1歳しか年が違いません。更年期障害というのは、ちょうどこの年代から突入していくのだなとあらためて思わされました。これから迎える閉経という人生の峠を前にして、ただ漠然とした不安を抱いているだけで、具体的にどんな備えをしたらよいのか、わかっていません。

更年期障害の症状は実にさまざまです。私の友人にも、かっと顔がほてる、急に心臓がどきどきするという人がいます。起き上がれない、鬱状態になるという重症のものもあれば、ほとんど知らないうちにその時期を過ぎてしまう幸運な人もいます。
個人差が大きいだけに、この病気はなかなか今まで理解されずに来たのではないでしょうか。

そもそも、一家の主婦というのは病気をしないものと、家族は決め付けているふしがあります。「しんどい。つらい」と自己申告しても、「あ、そう。だいじょうぶ?」で終わり。下手をすると、「またあ?」と狼少年扱いをされかねません。
寝ていればいるだけ家事はたまる一方なので、這うようにして台所に立ったりすると、もうそれだけで全快したと思われてしまう。
病気そのものの辛さに、理解されないという辛さが加わってしまい、悪循環に陥るのです。
人間は、自分の辛さが理解されたと心から感じるとき、癒しへの戸口に立てるものではないでしょうか。

森昌子さんには悪いのですが、この報道がきっかけで、「更年期障害とは大変な病気なんだなあ」とあちこちの家庭で言い交わされるようになれば、彼女の味わった苦しみには大きな意味があったと思えるのです。

2005年2月 2日

ブログコラムス

前から本館の掲示板などでやりとりしていたので、ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、高橋京希さんを編集長とした新ブログコラムスが昨日出発(正式には創刊準備号)しました。
編集長挨拶の冒頭を引用します。

「去年、自分のサイトでブログを始めて、その手軽さに秘められた面白さに気がついた。
 そこでもっと、このブログを使って変わった事が出来ないかと考え思いついたのが、多人数でひとつのブログ・コロニーを形成する、というものだった。」

高橋さんの考えたのが、「月刊完成形ミニコミ的コラム&エッセイ・ブログ」というものでした。複数の人が順繰りに思い思いのコラムを発表し、1カ月でひとつの月刊誌が完成するわけです。
「同時代人」をキーワードに、「普通の人たちの普通に思うことを紹介」するための気軽なコラムを目指しています。
私も、高橋さんのお誘いを受けて、参加することに決めました。軌道に乗れば、面白い企画になるぞと感じたからです。今のところ執筆者は私を含めて4人ですが、もっと多くの参加者が得られれば、毎日発行も夢ではありません。
ぜひ下記をブックマークして、ときどきのぞいてみてください。そして、あなたも読む側から書く側に回ってみませんか。単発コラムも受け付けています。

ブログコラムス

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