2006年9月27日

MT3.3へのアップグレード

この夏に最新版MT3.3が出たMovable Typeですが、順調に不具合が見つかって(笑)、8月に3.32、つい昨日3.33の修正版がリリースされました。
もうそろそろこれで修正も打ち止めかな、ということで、本日このブログも3.3にアップグレードしました。
とは言え、このブログをご覧になっている方が気づくような変更点は何もありません。
右サイドバーの下のほうの文字が、「Powered by Movable Type 3.33-ja」に変わったというだけです。

管理画面では、「タグ」と「Widget Manager」という機能が加わりました。
「タグ」は、カテゴリーとは別に、記事の分類をしやすくするためのラベルのようなものらしいです。
「Widget Manager」は、右のサイドバーに表示される「カテゴリーリスト」「月別アーカイブリスト」「カレンダー」「検索」などのパーツを追加したり入れ替えたりする管理が簡単にできるテンプレートモジュールです。とは言え、私も全然まだ使い方を把握していません。
あとは、無償ダウンロード画面が「ECバイヤーズ」というショップサイトに移行したのが目新しい点でしょうか(もちろん、無料なのは変わりません)。

3.3のインストールおよびアップグレードについては、いつもお世話になっているMilanoさんのページを参考にしました。

2006年9月20日

静かなるクーデター

タイで軍事クーデターが起きたと大きく報じられています。
テレビで、バンコク市内を走る戦車などのものものしい映像が流れ、テレビ局の占拠、市内の会社・学校の臨時休業、外務省からもタイ渡航自粛の情報が出たりと、かなり緊迫した状況に見えますが、現地にいる人は案外のんびりしているのではないかと思います。
現に、第一報は日本からのニュースで知ったという在留日本人も多いそうな。確かにタイ語があまり話せない日本人にとって、頼りは日本からのNHKのニュースと新聞、ネットと口コミですから。

だいたい軍事クーデターというと、日本人は二・二六事件のような緊迫した流血の惨事を思い浮かべてしまいますが、1932年に立憲君主国になってから16回もの軍事クーデターが起きているタイは、実はクーデター慣れしている国なのです。そして、おだやかな国民性(必ずしも一概には言えませんが)を反映してか、シナリオどおりに運んでいく、静かなクーデターが多いのです。
クーデターの首謀者たちが、テレビカメラの前で両手を合わせてワイの挨拶をするのを見ると、なんだか微笑ましくさえ感じてしまいます。

過去あったクーデターでもっとも最近のものは、1991年、当時のチャチャイ政権に対して軍が起こしたもの。そのときは、プミポン国王がクーデター首謀者を一喝して終結したとか。
時の政権の腐敗 → 国民の不満高まる → 軍部の蜂起 → 軍事政権 → 国王の調停 → 文民政権へ移行
という構図が今回もあてはまると言えそう。

タイ人にとって、現在のプミポン国王に対する敬愛と信頼は絶大なものがあります。ほとんどの家や個人商店に行くと、国王ご夫妻の肖像画がかかげてあります。
「国王がそうお考えになるのだったら正しい」と国民も軍人も政治家も素直に受け入れてしまうので、よほどのことがないかぎり、タイの国情がガタガタになることは、まずありえないと言っていいでしょう。と言っても、今の国王がご存命中の話です。次の国王になる皇太子はかなりアホだといわれているので(笑)、タイが不安定になるとしたら、未来のことでしょう。

ただし、国王は現在のタクシン首相がもともとお嫌いのようなので、今回のタクシン政権に対するクーデターは、国王自らが事前に承認していた可能性もあります。
いずれにせよ、民主主義の原則を無視した政権移行はあまり誉められたことではないのは間違いありません。

2006年9月19日

飲酒運転撲滅の秘策

飲酒運転が後を絶ちません。
みんなニュースを見てないのか。それとも、マスコミがやっきになって小さな事故も掘り起こして報道するから、減らないように見えるのか。
とりあえず、今言われていることは、飲んでしまった本人の判断能力はすでに信用できないのだから、周囲にいる同乗者や、酒を提供した飲食店が半強制的に、飲酒した運転者を車から遠ざけなければならないということのようです。
しかし、これはかなりむずかしそう。なぜなら、同乗者もきっと同じく酒を飲んで判断能力を失っているだろうし、飲食店は商売をふいにしてまで、断固として酒の販売を断れるかどうか。

そんな折、これは飲酒運転撲滅の秘策となるのではと思う装置が、あるNPO法人によって紹介されました。
その名も、「アルコール・イグニッション・インターロック」。欧米ではすでに数年前から一部で導入されていて、おもに飲酒運転の累犯者の車に装着が義務付けられているそうです。
下のページをご覧くださると、概容がわかります。

NPO法人MADD Japan インターロック装置義務化の要望書

要するに、運転者の呼気を測定し、もし一定濃度のアルコールが検出されれば、イグニッションキーをロックしてしまう装置だそうな。
日産自動車も、同様の装置を搭載した飲酒運転防止車を開発することを決定したようです。→ こちら

実は、自慢になりますが(おい)、3年前に書いた「セフィロトの樹の下で」の中で、私はそれとほとんど同じ装置を描いているんですね(第3章(4))
そのときは、22世紀だったら、こんなものも発明されているだろうな、といい加減な空想をして書いたのですが、それがまさか、現在すでに実現しているとは。
静脈認証装置も、この数年ですっかり普及してしまうし、このお話をあと5年くらいして読んだら、どの技術も古臭く感じてしまうでしょうね。だから近未来ものを書くのは困るんだわ。

ただし、「セフィロト」の中では、エンジンがロックされてしまったあと、犬槙博士は誘導電波による自動操縦システムを作動させていましたが、これはさすがに当分は実現されないでしょう……うん、たぶん。

2006年9月15日

不器用な年齢

急に涼しくなってきましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
BUTAPENNは、どうも身体のだるさが取れません。階段昇るのもひいひい言ってます。この激しすぎる季節の変化に、どうも身体が対応できてないみたいです。
いやあ、そりゃ夜中までテレビゲームしてたら、しんどいでしょうよ(5ヶ月もかかって、やっとラストダンジョン「空中要塞バハムート」までたどりついた――ってFF12のことですが)。

さて、日付が変わってすぐ、「新ティトス戦記」の第3章をアップしました。
さっそくひとことメールもいただいて、ありがたいかぎりです。
うちの常連さんは、「ティトス戦記」だけは読んでいないとおっしゃる方が多くて、あの膨大な文字の羅列では、そりゃ私でも読み返すのを尻ごみするよなあと思います。特に、「剣と魔法」の世界観のファンタジーというのは、日ごろ現代ものを読みなれている方には、とっつきにくい分野であることは確かです。
ましてや、このお話は恋愛少なめで、冒険の旅がメインなもので……。
「EWEN」と「ティトス戦記」の交互連載をしていたとき、「EWEN」に比べて、あまりに反応が少なく、「誰も読んでいないのだ」と勝手に決めつけて、連載を途中で放棄してしまったことがありました。
熱烈なメールや三周年人気投票のコメントをいただいた今は、そんなことは考えませんが、孤独な更新になることはある程度覚悟して、今回の「新ティトス戦記」の連載に踏み切りました。
予想に反して(笑)、かなりのひとことメールをいただき、感謝にたえません。

それに力を得て、もう少しこのまま、「新ティトス戦記」一本の執筆だけになりそうです。
というのは、この夏こればかり書いていたせいか、それとも「FF12」や「ゲド戦記」のせいなのか、22世紀のロボットの話や、23世紀の三角関係(笑)の話が、どうにも頭の中に浮かんできません。ファンタジーの世界が頭の中に充満しているうちに、少しでも書き進めておきたい、今ほかのお話をはさむと、せっかく動いているキャラたちが消えてしまいそうです。

年を取るにつれて、身体もそうですが、頭の働きが不器用になるのを感じます。以前は、同時進行で複数のことができました。たとえば、テレビを見ながら編み物をしたり、音楽を聴きながら文章を打ったり。
ところがいまや、ひとつのことしかできない。目はひとつにしっかと注ぎ、耳はぎんぎんにすましていないと、見たり聞いたりしたことが頭の中に入ってこない。
小説も、1、2年前までは平気で、いくつかのお話を並行して書き進めていたのですよ。

私はプロットを書くことがあまり得意ではありません。思いついたネタやフレーズを書き留めたりはしているのですが、時間が経つと、ほとんどは捨ててしまいます。そのときそのとき、物語の流れに乗って執筆しながら思いつくネタやフレーズのほうが面白く感じられます。ときには、書くつもりのなかった言葉がパッとひらめいて、自分でも驚いたり。出たとこ勝負のいい加減な性格であることが、よくわかります。
じたばたせずに、そのときの自分に書けるものを書くしかないな、と思います。

というわけで、「セフィロト2」や「ギャラクシーシリーズ」を楽しみに通ってくださる皆様には、本当にもうしわけありませんが、もう少しお待ちくださいませ。
しかし、気まぐれなBUTAPENNのことですから、すぐに気持が変わって書いちゃうかもしれませんので、ときどき覗いてみてくださいね。

2006年9月 6日

長崎・平戸キリシタン歴史紀行(3)

この旅行記も第三回、最終日に入ります。
長崎は、若いころからずっと行きたくて果たせなかった地。山があり海があり、同じく山海にはさまれた神戸の近くで暮らす私にとっては、親しみを覚える街です。

さて、この街での歴史の旅をご案内する前に、ひとこと。おほん。
……長崎ペンギン水族館に行きたかったああぁァ!!(笑)


長崎市街地観光

ホテル ― 大浦天主堂 (―タクシー―) JR長崎駅前 (―路面電車―) 浦上天主堂(―徒歩―)長崎永井隆記念館・如己堂 ― 平和公園 ―原爆資料館 (―路面電車―) みなとめぐりクルーズ (―路面電車―) JR長崎駅前 (―バス―) 長崎空港 (―飛行機―) 大阪空港

宿泊した「長崎全日空ホテルグラバーヒル」を出たときは、あいにくの雨。大浦天主堂は徒歩でごく近くなのですが、雨の中での観光となりました。
大浦天主堂は1864年に完成したという国宝建築物です。
初めは、幕府と各国のあいだに結ばれた通商条約に基づき、大浦に居留し始めたフランス人のために建てられた教会で、「フランス堂」と呼ばれていました。
「フランス堂には、サンタマリアがいらっしゃる」と浦上で潜伏していたキリシタンたちは言い交わし、数人が確かめに行きました。
「わたしの胸、あなたの胸と同じ。サンタマリアの御像はどこ?」
礼拝堂を訪れた信者たちが、フランス人神父の耳にささやいた言葉がこれだったといいます。
ここで、浦上の潜伏キリシタンとカトリック教会が七世代、250年ぶりに歴史的邂逅を果たしたのです。

大浦天主堂  路面電車
   大浦天主堂          長崎市街を走る路面電車

さて、俗っぽい話になりますが、大浦天主堂の門前の坂には、ずらりとお土産屋さんが並んでいて、比較的安いのでおすすめ。
カステラ、びわゼリー、からすみなどの長崎名物がすべてここで買えます。美しいガラス工芸を扱っている店には、同行者の中年女性一同(笑)群がりました。また、この土産物店の一角では、コルベ神父が長崎に来て最初の一年間住んでいた家の暖炉が保存され、公開されています。

ホテルをチェックアウトして、JR長崎駅のコインロッカーでいったん荷物を預けたあとは、路面電車に乗って、浦上天主堂に向かいました。路面電車は一回大人100円子ども50円。安くて観光に便利。間隔も5分?10分おきくらいでほとんど待たなくてすみました。一日乗車券は大人500円ですが、この日私たちは三回しか乗らなかったので、その都度100円を支払うことにしました。

浦上天主堂

私たちは幸いにも、伝手を通して信徒の方に教会の中を案内していただき、お話を一時間にわたって聞くことができました。

大浦天主堂での歴史的邂逅によって、浦上のキリシタンたちは、カトリックへ「復活」を果たしました。
浦上の村民たちはたちまち4つの秘密教会を作り、宣教師による巡回ミサが行われるようになりました。
また、これに力を得て、「キリシタンであるから寺請制度を拒否する」という書き付けを町方に提出しました。
あわてた長崎奉行所は探索を開始。1867年7月早朝3時、村を急襲し68名の信徒を捕縛し、牢に入れます。これが、後に「浦上四番崩れ」と呼ばれる迫害の発端となりました。
村人たちは、棒、鞭、水責めと凄惨な拷問を受けます。ついにひとりを除いて全員が改宗の証文に爪印を押して「転ぶ」ことを選びます。
ところが、村に帰っても、教えを捨てて転んだ彼らを、家族は家に入れてくれない。三日三晩彼らは泣きながら山中で過ごしました。
たったひとり、高木仙右衛門という人だけが拷問に屈せず、今でいう保護観察処分となって村に戻ってきました。村人は彼を歓呼の声で迎え、そして彼を仲立ちにして互いに赦し、転んだ信者たちもふたたび信仰を回復したそうです。この赦し合いがなければ、浦上のキリシタンはこのとき全滅していたかもしれないと、説明をしてくださった信徒の方がおっしゃっていました。
後に浦上のキリシタンたちは、新生明治政府によって一村総流罪という極刑に処せられ、三千人あまりの村人のうち五分の一以上を、流配先で飢えと病のため失うことになりました。
1873年(明治6年)、キリシタン弾圧に対する諸外国の激しい抗議に驚いた政府は、ようやくキリシタン禁制を解き、1614年から262年にわたるキリシタン弾圧は終わりを告げました。

浦上天主堂
    浦上天主堂
浦上はまた、原爆の投下中心地でもあります。当時9千人いた信徒は一瞬にして7千人を失いました。
手前は1914年に建設され原爆によって破壊された旧会堂の壁と石像、向こう側が1980年に改装された会堂です。
会堂右には被爆60周年を記念して、被爆したマリア像に捧げられたチャペルが新しく献堂されました。

カトリック浦上教会は、7300人の信徒が所属、三人の司祭がおられるそうです。毎朝6時の早朝ミサと、土曜に一回、日曜には三回のミサが行われています。一回のミサに千人の出席があるそうですが(それでもびっくり、うちの教会は100人だものなあ)、それでもその数は年々少なくなり、ミサにまったく出席しない信徒も多いのだそうです。
「今は、あらたな迫害の時代です」と、案内をしてくださった方はおっしゃいました。「だから私たちは、祈る教会になりたいと願っているのです」
そのことばをお聞きして、私たちは深くうなずきました。その瞬間、プロテスタントとカトリックの信仰とのあいだには何の隔てもないと、喜びをもって思いました。


原爆の爪跡

如己堂  帳方屋敷跡の碑
 「己の如く人を愛する」―如己堂     帳方屋敷跡の碑と永井隆記念館


浦上天主堂のすぐそばに「如己堂」というわずか二畳の木造の家があります。
ここは、長崎医科大学で放射線科の医師だった永井隆博士が、晩年を過ごした家です。
永井博士は浦上教会のカトリック信徒であり、また妻の緑さんは、浦上のかくれキリシタン組織のリーダーである「帳方」の子孫でもありました。
1945年8月9日、浦上地区に原爆が投下されたとき、永井博士は次々と運ばれてくる負傷者たちを寝食を忘れて治療しました。原爆での被爆以前に、劣悪な状況でのレントゲン検査によってすでに白血病におかされていた博士は、何度も気絶しながらの処置であったと言います。
家に戻ることができたのは、三日後。
自宅は焼灰と化し、台所があった場所には緑さんの遺骨と、ぼろぼろに溶けたロザリオだけが残っていました。
永井博士は、疎開して無事だったふたりの子どもと三人で、友人に建ててもらった如己堂に住まいながら、六年後43歳で亡くなるまで原爆症の研究と、「長崎の鐘」「この子をのこして」などの膨大な著作活動を続けました。
如己堂のそばには、「長崎市永井隆記念館」と「帳方屋敷跡」の石碑があります。

そのあとは、平和公園、原爆資料館を見学し、「長崎港クルージング」のみなとめぐりコースに乗船しました(60分)。出航するとすぐ、右手に三菱重工業長崎造船所が見え、自衛隊のイージス艦が建造中でした。ちょうどその日も一隻が進水したということで、私たちの泊まっていたホテルでは大きな祝賀会が行われる模様でした。
グラバー邸でも、「三菱重工ドックハウス」の瀟洒な建物群を見学しました。昔も今も、造船産業が長崎の経済を支えていることがうかがいしれます。

みなとめぐりクルージング  岬のマリア像
  みなとめぐりクルージング         岬のマリア像

二十六聖人殉教地の記念碑
    二十六聖人殉教地
旅の最後に立ち寄ったのは、JR長崎駅からすぐ。「日本二十六聖人殉教の地」でした。
豊臣秀吉の最初の伴天連追放令に従わず、京都で宣教を続けていた、おもにフランシスコ会の宣教師および日本の伝道者・信徒たち二十六名(うち20名は日本人、最年少は12歳)が、耳を削がれ、京都市中を引き回されたあと、一ヶ月かけて徒歩で長崎まで向かった末、ここ西坂の丘で磔にされたというものです。
碑のそばには「日本二十六聖人記念館」があって、当時の遺品や絵画など、さまざまな展示があります。

旅の終わりに

この丘で、私たちの日本のキリシタンたちの歴史をたどる旅は終わりました。
それは、四百年前の禁教令の時代のみならず、原爆やアウシュビッツ収容所にまで思いを馳せる旅でした。
自分の信仰を最後まで貫いて死ぬことを選んだ人。信仰を受け継ぐために生きることを選んだ人。
家族とともに暴力の犠牲になることを厭わなかった人。家族のために生きようとあがいた人。
いったい、どれが正解でどれが間違っているのか、ほかの誰にも判断することはできません。
苦痛に満ちた死を免れても、その後の生はもしかすると、死よりむごい日々だったことでしょう。

私たちは信教の自由の中で、迫害もなく生きています。しかし、信仰に生きようとするクリスチャンの数は、増えるどころかむしろ減ってきているのです。
案内してくださったカトリック信徒の方がいみじくもおっしゃったように、「今はあらたな迫害の時代」なのかもしれません。
「キリシタン」であることを隠して生きることを強いられた人々のように、今はおのれの「人間性」を隠し、誤魔化して生きることを、人々は強いられているのかもしれません。



参考ウェブサイト:
浦上天主堂
長崎年表

2006年9月 4日

長崎・平戸キリシタン歴史紀行(2)

前回にひきつづき、長崎・平戸旅行のレポートです。

歴史の残る街を訪ねるというのはいいですね。
何百年も前、当時の人々がこの柱に触れ、この石畳を歩いていたと感じることができる。単に見知らぬ土地をめぐるというだけではなく、時間をさかのぼることのできる旅には深みがあります。

二日目は、生月島を中心とする平戸島めぐりの観光で、平戸観光バスの17人乗りのマイクロバスを頼むことにしました。
細かい移動がともなう行程のあと、夕方までに平戸から長崎に移動という超ハードスケジュールだったのですが、貸切バスのおかげで、大変効率よく回ることができました。


平戸島観光

ホテル (―貸切バス―) 生月町博物館島の館 ― ガスパル様 ― カトリック山田教会 ― 幸四郎様 ― カトリック紐差教会 ― 平戸切支丹資料館 ― 川内峠 ― 長崎へ

生月町島の館のくじらのモニュメント  ガスパル様  黒瀬の辻・殉教者の碑
    生月町博物館「島の館」       ガスパル西玄可と妻子の眠る墓      黒瀬の辻に立つ十字架   

まず訪れた「生月町島の館」は、生月島で明治まで盛んだった捕鯨の歴史と、かくれキリシタンの展示が充実している博物館です。
学芸員の方と、ボランティアガイドのおふたりによって懇切に説明を受けることができました。

16世紀終わりに外国宣教師の布教によって、生月島の領主、籠手田氏と一部氏が改宗し、島民たちも続々とキリシタンとなりました。
最初は神社でミサが行われていたようですが、やがて山田地区に大教会が誕生し、常駐の宣教師はいなかったものの、信仰はますます盛んになりました。

ところが秀吉の伴天連追放令が出され、藩主松浦隆信が1599年に亡くなったとき、息子である法印鎮信は大のキリシタン嫌いであったために、過酷な弾圧が始まりました。
まず、父の仏教式の葬儀に出席するよう、生月領主の籠手田・一部氏に命じたのです。これは棄教せよということだと悩んだ両氏は、家族と家臣、島民ら600人を連れて長崎へ逃亡します。
教会は焼き払われ、さらに島民の脱出が続きました。同じく信者であった奉行・ガスパル西玄可は、島にとどまり人々を導くことを決意します。
しかし1609年、「黒瀬(クルス)の辻」で斬首。妻と長男もともに殉教し、その墓は「ガスパル様」として祀られています。

徳川幕府の禁教令以後も、宣教師が生月への潜入を試みては処刑され、多くのキリシタンが殉教しました。彼らが亡くなったと伝えられる場所は、さんじゅあん様(中江ノ島)、だんじく様、幸四郎様、千人塚など、かくれキリシタンの聖地となって生月島のあちこちに残っています。
探索役の役人の設置や、踏み絵・宗門人別改といった制度によって、残された一般信者たちは、潜伏という形をとらざるを得なくなっていきます。

幸四郎さま 「幸四郎さま」 昔ははだしで入ったとされる聖地。 パブロー幸四郎は、もともと踏み絵を踏ませるために島に来た役人だったが、信徒を射ようとした矢が自分の目にあたり、驚いてみずからも信仰を持ったという。後に殉教した。
中江ノ島 中江ノ島は江戸時代に多くのキリシタンが処刑された地でもあり、「さんじゅあん様」として生月のかくれキリシタンにとって最大の聖地である。 毎年一度、聖水を取りにこの島へ渡るが、どんな旱魃のときでも、オラショを唱えれば岩から水がしみでてくると言われている。

彼らは「津元(つもと)」という組織をつくり、親父役、御爺役といったリーダーのもとで行事を行ないました。
行事のときは、納戸に隠していた木箱を取り出し、ご神体であるメダイ、十字架、お掛け絵などを祭壇に祀り、その前でオラショ(教義や祈りをあらわす歌)を唱えたのです。そのため、かくれキリシタンはキリスト教信仰のことを「納戸神」と呼ぶようになりました。家の入り口近くには、荒神や水神を祀り、座敷には弘法大師と仏壇、神棚まで作って、役人の目を逃れていたといいます。

「オラショ」はラテン語の聖歌が伝えられているうちに、意味は不明となり、メロディを聞いてもご詠歌のようにしか聞こえませんが、たとえば「らおだて」の原曲は「Laudate Dominum(主をたたえよ)」であり、「ぐるりよざ」は「O Gloriosa Domina(栄光の聖母よ)」が原曲であることが、研究者によってわかってきています。四百年、口伝のみによってその原型が保たれていたことは、驚くべきことでしょう。

キリシタン弾圧の手は徐々に緩み(生月島には捕鯨という重要な産業があったことも幸いしたようです)、納戸神も木箱に隠す必要はなくなってからも、かくれキリシタンたちは、その信仰形態をずっと守りました。寺の檀家や神社の氏子としての行事を行ないながらも、それ以外に膨大なキリシタンとしての行事をこなしました。
たとえば、葬式の際は、仏教の僧侶が到着する前に「戻し」(死者に聖水をかけオラショを唱える)を行ない、葬式が終わってからは、「今のお経は間違いです」と言う意味の「返し」の行事を行なったところもありました。

何百年もそのような信仰を続けていくうちに、行事は次第に仏教や、農耕行事と結びついた土着の宗教と習合し、独自の形態へと変化していきました。
「お掛け絵」と呼ばれるキリストやマリアを描いた掛け軸は、「お洗濯」と言って幾度も書き直され、日本的な風貌になっていきました。
また拝む対象も、キリストやマリアだけではなく、次第に島で殉教した人々「ガスパル様」や「ハッタイ様」へと変わっていきました。表面上は棄教するふりをしながら生き残ることを選択せざるを得なかった彼らは、信仰を守り通した殉教者を崇拝することによって、その生を赦され、信仰を受け継ぐ強いあらたな決意に導かれていったのでしょう。

明治になって禁教令が解かれ、生月島にもふたたび宣教師が入ってきたとき、島の多くの潜伏キリシタンたちは、カトリックへ「復活」することを望まず、かくれキリシタンとして生きることを選びました。それは迫害を恐れたこともひとつの理由ですが、同時に祀っていた神棚や仏壇も捨て切れなかったこと。あまりにもカトリックの教義とかけ離れてしまった自分たちの信仰を捨てるにしのびなかったことも大きな要因でした。
「島の館」が発行している「生月島のかくれキリシタン」には、こうあります。

今日の生月島のかくれキリシタン信仰は、オラショをはじめとする16世紀カトリック信仰(キリシタン信仰)の信仰形態にその起源を発し、当時から(場合によっては作り替えつつ)継承されてきた聖具などを御神体としているが、精神的には禁教時代の地元殉教者(およびその聖地)に対する尊崇を中心とした信仰だと定義できる

今も生月島には、6つの組、500人におよぶ「かくれキリシタン」がいますが、減少の一途をたどっているということです。
命を懸けてキリストの教えを守りながら、そこからかけ離れてしまった信仰の姿に、私たちは大きな驚きと衝撃を覚えました。
いったい自分がその時代に生きていたら、どういう道を選んだのだろう。美しい自然の風景を満喫するとともに、重い命題が与えられた地でもありました。


平戸から長崎へ

生月島を出てからは、平戸島の東半分を反時計回りにめぐりました。
カトリック紐差教会に来たときは、ちょうど正午の鐘が町に鳴り響いていました。
平戸切支丹資料館を見学したあとは、川内峠の広い草原の真ん中で昼の弁当を食べ、一路バスで長崎に向かいました。


紐差教会  コルベ記念館  コルベ神父記念小聖堂
   カトリック紐差教会        聖コルベ記念館       聖コルベ神父記念小聖堂


長崎と聖コルベ記念館

長崎は、ポーランド出身のマクシミリアノ・マリア・コルベ神父が1930年から6年間宣教に訪れたところでもあります。
相互リンク先の「The Moon River Story」のサイトマスター「太郎じぃ」さんの洗礼名が、コルベ神父にちなんでいると教えていただいたこともあって、個人的にも、長崎に行けばぜひ訪れたい場所でした。

四百年前のキリシタン迫害のときだけではなく、第二次世界大戦もキリスト教迫害の時代です。
太平洋戦争中の日本も、国家神道の名の下に日本や韓国のクリスチャンたちを弾圧しました。また、ヒトラーに率いられたナチスドイツも、ポーランドのキリスト教指導者たちを捕らえ、強制収容所に押し込めていったのです。
日本での宣教を終えてポーランドに戻ったコルベ神父は、アウシュビッツの強制収容所に入れられました。そこで、ひとりの脱走者への見せしめに10人が餓死刑を宣告されたとき、妻子のために死にたくないと叫ぶポーランド将校の身代わりとして、刑を受けることを申し出たのです。二週間の刑でも命を保った神父は、毒殺されました。
「人がその友のために命を捨てる、それよりも大きな愛はない」の聖句を身をもってあらわした生涯だったのです。
予約も何もしていなかったのに、本河内教会の神父が案内に立ち、展示品のひとつひとつを丁寧に説明してくださいました。

その夜は、「全日空ホテルグラバーヒル」に泊まり、夕食後はライトアップされたグラバー邸を散策して、二日目の旅が終わりました。

旧グラバー邸 グラバー邸は、夏季は夜9時半までオープンしています。 ライトアップされた邸内は、とてもきれいでした。グラバーは維新志士たちを援助したことでも有名です。 グラバーの妻ツルは、「蝶々夫人」のモデルにもなった人ですが、オペラの悲劇的な最期とは違って、幸福な結婚生活をまっとうしました。


参考書籍: 「生月島のかくれキリシタン」(平戸市生月町博物館・島の館発行)
参考ウェブサイト:
 キリシタン千夜一夜(たけちゃんのホームページ)
 「中世音楽合唱団・龍翁炉辺談話」オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし

                                                                                                                                                                                                                                      

2006年9月 2日

長崎・平戸キリシタン歴史紀行(1)

長崎・平戸に二泊三日で行ってきました。
去年の沖縄もそうだったのですが、私の行っている教会ではときどきこうやって有志で、歴史や社会を学ぶ旅行を行なっています。今回の参加者はクリスチャンばかり、下は幼稚園児から上は70歳までの総勢12人。
旅行会社のフリープランを利用したので、宿泊と往復の飛行機は手配していただきましたが、それ以外はすべて自分たちで企画した手作り旅行でした。
テーマは、「キリシタンの歴史を聞いて学んで考える旅」。
長崎・平戸・島原・五島列島の四つの候補地が挙げられましたが、今回はその中で長崎と平戸を選ぶことにしました。
二泊三日のおおまかな旅程は次のとおりです。


一日目
大阪空港 (―飛行機―) 長崎空港 (―バス―) 佐世保 (―鉄道―) 平戸 ― 平戸市街地観光(ザビエル記念聖堂・松浦史料博物館・平戸観光資料館・平土城) ― 平戸泊
二日目
平戸 (―貸切バス―) 生月島観光(島の館博物館・ガスパル様・山田教会・幸四郎様) ― 平戸観光(平戸切支丹資料館・紐差教会) (―貸切バス―) 長崎 ― 聖コルベ記念館 ― グラバー邸 ― 長崎泊
三日目
長崎市内観光 (―タクシー・路面電車―) 大浦天主堂 ― 浦上天主堂 ― 永井隆記念館 ― 平和公園 ― 原爆資料館 ― みなとめぐり遊覧 ― 二十六聖人殉教の碑 (―バス―) 長崎空港  (―飛行機―) 大阪空港


長崎空港から平戸まで

長崎空港からは、佐世保までの空港リムジンバスが出ているので、それに乗りました(西肥バス 約80分)。
JR佐世保駅の1番ホームから出ている松浦鉄道へ。
一両だけの汽車というのも、なかなか旅情をそそられます。地元の方々が乗り降りするそばで駅弁をかきこみながらの、78分。
27駅目の「たびら平戸口駅」で下車。ここは「日本最西端の駅」という碑が立っていました。
その日の宿泊先「平戸脇川ホテル」からの送迎バスに乗って、真っ赤な平戸大橋を渡り、約5分でホテルに着きました。

松浦鉄道  日本最西端の駅  平戸大橋
佐世保駅発の松浦鉄道     たびら平戸口駅前           平戸大橋。通行料が要ります。



平戸市街地観光

(―タクシー―) フランシスコザビエル記念聖堂 (―徒歩―) 大ソテツ ― 六角井戸 ― 松浦史料博物館 ―平戸観光資料館 ― オランダ塀 ― 幸橋(オランダ橋) ― 平戸城(約3時間)

チェックイン後、平戸市街地の観光に出かけました。徒歩でじゅうぶんと思っていたのですが、ホテルの方の話では、平戸は坂が多く、なかなかあなどれないとのこと。ホテルの方のアドバイスをいただいて、三台のタクシーに分乗し、まず「カトリック平戸教会」のフランシスコ・ザビエル記念聖堂に行くことにしました。ここからだと他の観光史跡へはほとんど下りになるので、徒歩でもかなり楽でした。

フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の伝道者として1549年鹿児島に上陸、翌年に平戸に来訪、その後も二回にわたって平戸を訪れています。キリシタンの歴史を知る旅では最初に訪れなければならないところでしょう(ただし、「ザビエル記念聖堂」はザビエルを記念するために1971年に改名されたもので、特に四百年前の歴史的な地というわけではありません)。

ザビエル記念聖堂  ザビエル記念像  平戸殉教者慰霊碑
   ザビエル記念聖堂         ザビエル記念像             平戸殉教者慰霊碑

平戸は外国船の来航が盛んな地で、オランダ商館もここに置かれ、今でもその当時をしのぶ史跡が市街地に多く残っています。
ポルトガル交易時代からキリスト教の布教も盛んでした。当時の外国宣教師の日本における宣教方針は、まず領主に布教することでした。領主が改宗すれば、領民もこぞって改宗するからです。
平戸でも、藩主松浦(まつら)氏の家臣たちが続々とキリシタンとなりましたが、松浦氏自身は、貿易のためにキリスト教を黙認していただけのようです。

六角井戸  オランダ塀
 中国・明スタイルの六角井戸    オランダ商館時代をしのばせるオランダ塀 


天正十五年六月(1587年7月)、今までキリスト教を保護していた豊臣秀吉が、突如「伴天連追放令」を発布しました。一方では南蛮貿易を奨励もしていたので、宣教師たちは潜伏しつつも引き続き日本にとどまっていました。
しかし、1596年の「サンフェリペ号事件」を契機に、スペインの日本征服を恐れた秀吉は本格的にキリスト教の撲滅に乗り出します。
平戸では、平戸藩主松浦氏において1599年に法印鎮信が跡目を継いだとき以来、キリシタンの猛烈な弾圧が始まるのでした。
過酷な迫害と、「かくれキリシタン」への系譜については、第二日目の生月島観光で詳しく学ぶことになります。

松浦史料博物館 松浦史料博物館。松浦氏の旧邸宅で、西欧貿易華やかなりし頃の調度品や、貴重な史料が展示されている。
平戸散策松浦史料博物館から平戸観光資料館までのあいだの、歴史を感じさせる遊歩道。
平戸観光資料館は、赤穂浪士にも深いかかわりのある山鹿素行や、マリア観音などのかくれキリシタン関係の資料がある。二階からは、平戸城や平戸大橋を見晴らせる。
平戸城平戸城は、会津の兵学者・山鹿素行の縄張り(城の配置)によって作られたお城。明治天皇の祖母が松浦家出身で、そのゆかりの品々も展示されている。 天守閣は、平戸市内を一望できる絶好のビューポイント。

 

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