2006年9月15日

不器用な年齢

急に涼しくなってきましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
BUTAPENNは、どうも身体のだるさが取れません。階段昇るのもひいひい言ってます。この激しすぎる季節の変化に、どうも身体が対応できてないみたいです。
いやあ、そりゃ夜中までテレビゲームしてたら、しんどいでしょうよ(5ヶ月もかかって、やっとラストダンジョン「空中要塞バハムート」までたどりついた――ってFF12のことですが)。

さて、日付が変わってすぐ、「新ティトス戦記」の第3章をアップしました。
さっそくひとことメールもいただいて、ありがたいかぎりです。
うちの常連さんは、「ティトス戦記」だけは読んでいないとおっしゃる方が多くて、あの膨大な文字の羅列では、そりゃ私でも読み返すのを尻ごみするよなあと思います。特に、「剣と魔法」の世界観のファンタジーというのは、日ごろ現代ものを読みなれている方には、とっつきにくい分野であることは確かです。
ましてや、このお話は恋愛少なめで、冒険の旅がメインなもので……。
「EWEN」と「ティトス戦記」の交互連載をしていたとき、「EWEN」に比べて、あまりに反応が少なく、「誰も読んでいないのだ」と勝手に決めつけて、連載を途中で放棄してしまったことがありました。
熱烈なメールや三周年人気投票のコメントをいただいた今は、そんなことは考えませんが、孤独な更新になることはある程度覚悟して、今回の「新ティトス戦記」の連載に踏み切りました。
予想に反して(笑)、かなりのひとことメールをいただき、感謝にたえません。

それに力を得て、もう少しこのまま、「新ティトス戦記」一本の執筆だけになりそうです。
というのは、この夏こればかり書いていたせいか、それとも「FF12」や「ゲド戦記」のせいなのか、22世紀のロボットの話や、23世紀の三角関係(笑)の話が、どうにも頭の中に浮かんできません。ファンタジーの世界が頭の中に充満しているうちに、少しでも書き進めておきたい、今ほかのお話をはさむと、せっかく動いているキャラたちが消えてしまいそうです。

年を取るにつれて、身体もそうですが、頭の働きが不器用になるのを感じます。以前は、同時進行で複数のことができました。たとえば、テレビを見ながら編み物をしたり、音楽を聴きながら文章を打ったり。
ところがいまや、ひとつのことしかできない。目はひとつにしっかと注ぎ、耳はぎんぎんにすましていないと、見たり聞いたりしたことが頭の中に入ってこない。
小説も、1、2年前までは平気で、いくつかのお話を並行して書き進めていたのですよ。

私はプロットを書くことがあまり得意ではありません。思いついたネタやフレーズを書き留めたりはしているのですが、時間が経つと、ほとんどは捨ててしまいます。そのときそのとき、物語の流れに乗って執筆しながら思いつくネタやフレーズのほうが面白く感じられます。ときには、書くつもりのなかった言葉がパッとひらめいて、自分でも驚いたり。出たとこ勝負のいい加減な性格であることが、よくわかります。
じたばたせずに、そのときの自分に書けるものを書くしかないな、と思います。

というわけで、「セフィロト2」や「ギャラクシーシリーズ」を楽しみに通ってくださる皆様には、本当にもうしわけありませんが、もう少しお待ちくださいませ。
しかし、気まぐれなBUTAPENNのことですから、すぐに気持が変わって書いちゃうかもしれませんので、ときどき覗いてみてくださいね。

2006年9月 6日

長崎・平戸キリシタン歴史紀行(3)

この旅行記も第三回、最終日に入ります。
長崎は、若いころからずっと行きたくて果たせなかった地。山があり海があり、同じく山海にはさまれた神戸の近くで暮らす私にとっては、親しみを覚える街です。

さて、この街での歴史の旅をご案内する前に、ひとこと。おほん。
……長崎ペンギン水族館に行きたかったああぁァ!!(笑)


長崎市街地観光

ホテル ― 大浦天主堂 (―タクシー―) JR長崎駅前 (―路面電車―) 浦上天主堂(―徒歩―)長崎永井隆記念館・如己堂 ― 平和公園 ―原爆資料館 (―路面電車―) みなとめぐりクルーズ (―路面電車―) JR長崎駅前 (―バス―) 長崎空港 (―飛行機―) 大阪空港

宿泊した「長崎全日空ホテルグラバーヒル」を出たときは、あいにくの雨。大浦天主堂は徒歩でごく近くなのですが、雨の中での観光となりました。
大浦天主堂は1864年に完成したという国宝建築物です。
初めは、幕府と各国のあいだに結ばれた通商条約に基づき、大浦に居留し始めたフランス人のために建てられた教会で、「フランス堂」と呼ばれていました。
「フランス堂には、サンタマリアがいらっしゃる」と浦上で潜伏していたキリシタンたちは言い交わし、数人が確かめに行きました。
「わたしの胸、あなたの胸と同じ。サンタマリアの御像はどこ?」
礼拝堂を訪れた信者たちが、フランス人神父の耳にささやいた言葉がこれだったといいます。
ここで、浦上の潜伏キリシタンとカトリック教会が七世代、250年ぶりに歴史的邂逅を果たしたのです。

大浦天主堂  路面電車
   大浦天主堂          長崎市街を走る路面電車

さて、俗っぽい話になりますが、大浦天主堂の門前の坂には、ずらりとお土産屋さんが並んでいて、比較的安いのでおすすめ。
カステラ、びわゼリー、からすみなどの長崎名物がすべてここで買えます。美しいガラス工芸を扱っている店には、同行者の中年女性一同(笑)群がりました。また、この土産物店の一角では、コルベ神父が長崎に来て最初の一年間住んでいた家の暖炉が保存され、公開されています。

ホテルをチェックアウトして、JR長崎駅のコインロッカーでいったん荷物を預けたあとは、路面電車に乗って、浦上天主堂に向かいました。路面電車は一回大人100円子ども50円。安くて観光に便利。間隔も5分?10分おきくらいでほとんど待たなくてすみました。一日乗車券は大人500円ですが、この日私たちは三回しか乗らなかったので、その都度100円を支払うことにしました。

浦上天主堂

私たちは幸いにも、伝手を通して信徒の方に教会の中を案内していただき、お話を一時間にわたって聞くことができました。

大浦天主堂での歴史的邂逅によって、浦上のキリシタンたちは、カトリックへ「復活」を果たしました。
浦上の村民たちはたちまち4つの秘密教会を作り、宣教師による巡回ミサが行われるようになりました。
また、これに力を得て、「キリシタンであるから寺請制度を拒否する」という書き付けを町方に提出しました。
あわてた長崎奉行所は探索を開始。1867年7月早朝3時、村を急襲し68名の信徒を捕縛し、牢に入れます。これが、後に「浦上四番崩れ」と呼ばれる迫害の発端となりました。
村人たちは、棒、鞭、水責めと凄惨な拷問を受けます。ついにひとりを除いて全員が改宗の証文に爪印を押して「転ぶ」ことを選びます。
ところが、村に帰っても、教えを捨てて転んだ彼らを、家族は家に入れてくれない。三日三晩彼らは泣きながら山中で過ごしました。
たったひとり、高木仙右衛門という人だけが拷問に屈せず、今でいう保護観察処分となって村に戻ってきました。村人は彼を歓呼の声で迎え、そして彼を仲立ちにして互いに赦し、転んだ信者たちもふたたび信仰を回復したそうです。この赦し合いがなければ、浦上のキリシタンはこのとき全滅していたかもしれないと、説明をしてくださった信徒の方がおっしゃっていました。
後に浦上のキリシタンたちは、新生明治政府によって一村総流罪という極刑に処せられ、三千人あまりの村人のうち五分の一以上を、流配先で飢えと病のため失うことになりました。
1873年(明治6年)、キリシタン弾圧に対する諸外国の激しい抗議に驚いた政府は、ようやくキリシタン禁制を解き、1614年から262年にわたるキリシタン弾圧は終わりを告げました。

浦上天主堂
    浦上天主堂
浦上はまた、原爆の投下中心地でもあります。当時9千人いた信徒は一瞬にして7千人を失いました。
手前は1914年に建設され原爆によって破壊された旧会堂の壁と石像、向こう側が1980年に改装された会堂です。
会堂右には被爆60周年を記念して、被爆したマリア像に捧げられたチャペルが新しく献堂されました。

カトリック浦上教会は、7300人の信徒が所属、三人の司祭がおられるそうです。毎朝6時の早朝ミサと、土曜に一回、日曜には三回のミサが行われています。一回のミサに千人の出席があるそうですが(それでもびっくり、うちの教会は100人だものなあ)、それでもその数は年々少なくなり、ミサにまったく出席しない信徒も多いのだそうです。
「今は、あらたな迫害の時代です」と、案内をしてくださった方はおっしゃいました。「だから私たちは、祈る教会になりたいと願っているのです」
そのことばをお聞きして、私たちは深くうなずきました。その瞬間、プロテスタントとカトリックの信仰とのあいだには何の隔てもないと、喜びをもって思いました。


原爆の爪跡

如己堂  帳方屋敷跡の碑
 「己の如く人を愛する」―如己堂     帳方屋敷跡の碑と永井隆記念館


浦上天主堂のすぐそばに「如己堂」というわずか二畳の木造の家があります。
ここは、長崎医科大学で放射線科の医師だった永井隆博士が、晩年を過ごした家です。
永井博士は浦上教会のカトリック信徒であり、また妻の緑さんは、浦上のかくれキリシタン組織のリーダーである「帳方」の子孫でもありました。
1945年8月9日、浦上地区に原爆が投下されたとき、永井博士は次々と運ばれてくる負傷者たちを寝食を忘れて治療しました。原爆での被爆以前に、劣悪な状況でのレントゲン検査によってすでに白血病におかされていた博士は、何度も気絶しながらの処置であったと言います。
家に戻ることができたのは、三日後。
自宅は焼灰と化し、台所があった場所には緑さんの遺骨と、ぼろぼろに溶けたロザリオだけが残っていました。
永井博士は、疎開して無事だったふたりの子どもと三人で、友人に建ててもらった如己堂に住まいながら、六年後43歳で亡くなるまで原爆症の研究と、「長崎の鐘」「この子をのこして」などの膨大な著作活動を続けました。
如己堂のそばには、「長崎市永井隆記念館」と「帳方屋敷跡」の石碑があります。

そのあとは、平和公園、原爆資料館を見学し、「長崎港クルージング」のみなとめぐりコースに乗船しました(60分)。出航するとすぐ、右手に三菱重工業長崎造船所が見え、自衛隊のイージス艦が建造中でした。ちょうどその日も一隻が進水したということで、私たちの泊まっていたホテルでは大きな祝賀会が行われる模様でした。
グラバー邸でも、「三菱重工ドックハウス」の瀟洒な建物群を見学しました。昔も今も、造船産業が長崎の経済を支えていることがうかがいしれます。

みなとめぐりクルージング  岬のマリア像
  みなとめぐりクルージング         岬のマリア像

二十六聖人殉教地の記念碑
    二十六聖人殉教地
旅の最後に立ち寄ったのは、JR長崎駅からすぐ。「日本二十六聖人殉教の地」でした。
豊臣秀吉の最初の伴天連追放令に従わず、京都で宣教を続けていた、おもにフランシスコ会の宣教師および日本の伝道者・信徒たち二十六名(うち20名は日本人、最年少は12歳)が、耳を削がれ、京都市中を引き回されたあと、一ヶ月かけて徒歩で長崎まで向かった末、ここ西坂の丘で磔にされたというものです。
碑のそばには「日本二十六聖人記念館」があって、当時の遺品や絵画など、さまざまな展示があります。

旅の終わりに

この丘で、私たちの日本のキリシタンたちの歴史をたどる旅は終わりました。
それは、四百年前の禁教令の時代のみならず、原爆やアウシュビッツ収容所にまで思いを馳せる旅でした。
自分の信仰を最後まで貫いて死ぬことを選んだ人。信仰を受け継ぐために生きることを選んだ人。
家族とともに暴力の犠牲になることを厭わなかった人。家族のために生きようとあがいた人。
いったい、どれが正解でどれが間違っているのか、ほかの誰にも判断することはできません。
苦痛に満ちた死を免れても、その後の生はもしかすると、死よりむごい日々だったことでしょう。

私たちは信教の自由の中で、迫害もなく生きています。しかし、信仰に生きようとするクリスチャンの数は、増えるどころかむしろ減ってきているのです。
案内してくださったカトリック信徒の方がいみじくもおっしゃったように、「今はあらたな迫害の時代」なのかもしれません。
「キリシタン」であることを隠して生きることを強いられた人々のように、今はおのれの「人間性」を隠し、誤魔化して生きることを、人々は強いられているのかもしれません。



参考ウェブサイト:
浦上天主堂
長崎年表

2006年9月 4日

長崎・平戸キリシタン歴史紀行(2)

前回にひきつづき、長崎・平戸旅行のレポートです。

歴史の残る街を訪ねるというのはいいですね。
何百年も前、当時の人々がこの柱に触れ、この石畳を歩いていたと感じることができる。単に見知らぬ土地をめぐるというだけではなく、時間をさかのぼることのできる旅には深みがあります。

二日目は、生月島を中心とする平戸島めぐりの観光で、平戸観光バスの17人乗りのマイクロバスを頼むことにしました。
細かい移動がともなう行程のあと、夕方までに平戸から長崎に移動という超ハードスケジュールだったのですが、貸切バスのおかげで、大変効率よく回ることができました。


平戸島観光

ホテル (―貸切バス―) 生月町博物館島の館 ― ガスパル様 ― カトリック山田教会 ― 幸四郎様 ― カトリック紐差教会 ― 平戸切支丹資料館 ― 川内峠 ― 長崎へ

生月町島の館のくじらのモニュメント  ガスパル様  黒瀬の辻・殉教者の碑
    生月町博物館「島の館」       ガスパル西玄可と妻子の眠る墓      黒瀬の辻に立つ十字架   

まず訪れた「生月町島の館」は、生月島で明治まで盛んだった捕鯨の歴史と、かくれキリシタンの展示が充実している博物館です。
学芸員の方と、ボランティアガイドのおふたりによって懇切に説明を受けることができました。

16世紀終わりに外国宣教師の布教によって、生月島の領主、籠手田氏と一部氏が改宗し、島民たちも続々とキリシタンとなりました。
最初は神社でミサが行われていたようですが、やがて山田地区に大教会が誕生し、常駐の宣教師はいなかったものの、信仰はますます盛んになりました。

ところが秀吉の伴天連追放令が出され、藩主松浦隆信が1599年に亡くなったとき、息子である法印鎮信は大のキリシタン嫌いであったために、過酷な弾圧が始まりました。
まず、父の仏教式の葬儀に出席するよう、生月領主の籠手田・一部氏に命じたのです。これは棄教せよということだと悩んだ両氏は、家族と家臣、島民ら600人を連れて長崎へ逃亡します。
教会は焼き払われ、さらに島民の脱出が続きました。同じく信者であった奉行・ガスパル西玄可は、島にとどまり人々を導くことを決意します。
しかし1609年、「黒瀬(クルス)の辻」で斬首。妻と長男もともに殉教し、その墓は「ガスパル様」として祀られています。

徳川幕府の禁教令以後も、宣教師が生月への潜入を試みては処刑され、多くのキリシタンが殉教しました。彼らが亡くなったと伝えられる場所は、さんじゅあん様(中江ノ島)、だんじく様、幸四郎様、千人塚など、かくれキリシタンの聖地となって生月島のあちこちに残っています。
探索役の役人の設置や、踏み絵・宗門人別改といった制度によって、残された一般信者たちは、潜伏という形をとらざるを得なくなっていきます。

幸四郎さま 「幸四郎さま」 昔ははだしで入ったとされる聖地。 パブロー幸四郎は、もともと踏み絵を踏ませるために島に来た役人だったが、信徒を射ようとした矢が自分の目にあたり、驚いてみずからも信仰を持ったという。後に殉教した。
中江ノ島 中江ノ島は江戸時代に多くのキリシタンが処刑された地でもあり、「さんじゅあん様」として生月のかくれキリシタンにとって最大の聖地である。 毎年一度、聖水を取りにこの島へ渡るが、どんな旱魃のときでも、オラショを唱えれば岩から水がしみでてくると言われている。

彼らは「津元(つもと)」という組織をつくり、親父役、御爺役といったリーダーのもとで行事を行ないました。
行事のときは、納戸に隠していた木箱を取り出し、ご神体であるメダイ、十字架、お掛け絵などを祭壇に祀り、その前でオラショ(教義や祈りをあらわす歌)を唱えたのです。そのため、かくれキリシタンはキリスト教信仰のことを「納戸神」と呼ぶようになりました。家の入り口近くには、荒神や水神を祀り、座敷には弘法大師と仏壇、神棚まで作って、役人の目を逃れていたといいます。

「オラショ」はラテン語の聖歌が伝えられているうちに、意味は不明となり、メロディを聞いてもご詠歌のようにしか聞こえませんが、たとえば「らおだて」の原曲は「Laudate Dominum(主をたたえよ)」であり、「ぐるりよざ」は「O Gloriosa Domina(栄光の聖母よ)」が原曲であることが、研究者によってわかってきています。四百年、口伝のみによってその原型が保たれていたことは、驚くべきことでしょう。

キリシタン弾圧の手は徐々に緩み(生月島には捕鯨という重要な産業があったことも幸いしたようです)、納戸神も木箱に隠す必要はなくなってからも、かくれキリシタンたちは、その信仰形態をずっと守りました。寺の檀家や神社の氏子としての行事を行ないながらも、それ以外に膨大なキリシタンとしての行事をこなしました。
たとえば、葬式の際は、仏教の僧侶が到着する前に「戻し」(死者に聖水をかけオラショを唱える)を行ない、葬式が終わってからは、「今のお経は間違いです」と言う意味の「返し」の行事を行なったところもありました。

何百年もそのような信仰を続けていくうちに、行事は次第に仏教や、農耕行事と結びついた土着の宗教と習合し、独自の形態へと変化していきました。
「お掛け絵」と呼ばれるキリストやマリアを描いた掛け軸は、「お洗濯」と言って幾度も書き直され、日本的な風貌になっていきました。
また拝む対象も、キリストやマリアだけではなく、次第に島で殉教した人々「ガスパル様」や「ハッタイ様」へと変わっていきました。表面上は棄教するふりをしながら生き残ることを選択せざるを得なかった彼らは、信仰を守り通した殉教者を崇拝することによって、その生を赦され、信仰を受け継ぐ強いあらたな決意に導かれていったのでしょう。

明治になって禁教令が解かれ、生月島にもふたたび宣教師が入ってきたとき、島の多くの潜伏キリシタンたちは、カトリックへ「復活」することを望まず、かくれキリシタンとして生きることを選びました。それは迫害を恐れたこともひとつの理由ですが、同時に祀っていた神棚や仏壇も捨て切れなかったこと。あまりにもカトリックの教義とかけ離れてしまった自分たちの信仰を捨てるにしのびなかったことも大きな要因でした。
「島の館」が発行している「生月島のかくれキリシタン」には、こうあります。

今日の生月島のかくれキリシタン信仰は、オラショをはじめとする16世紀カトリック信仰(キリシタン信仰)の信仰形態にその起源を発し、当時から(場合によっては作り替えつつ)継承されてきた聖具などを御神体としているが、精神的には禁教時代の地元殉教者(およびその聖地)に対する尊崇を中心とした信仰だと定義できる

今も生月島には、6つの組、500人におよぶ「かくれキリシタン」がいますが、減少の一途をたどっているということです。
命を懸けてキリストの教えを守りながら、そこからかけ離れてしまった信仰の姿に、私たちは大きな驚きと衝撃を覚えました。
いったい自分がその時代に生きていたら、どういう道を選んだのだろう。美しい自然の風景を満喫するとともに、重い命題が与えられた地でもありました。


平戸から長崎へ

生月島を出てからは、平戸島の東半分を反時計回りにめぐりました。
カトリック紐差教会に来たときは、ちょうど正午の鐘が町に鳴り響いていました。
平戸切支丹資料館を見学したあとは、川内峠の広い草原の真ん中で昼の弁当を食べ、一路バスで長崎に向かいました。


紐差教会  コルベ記念館  コルベ神父記念小聖堂
   カトリック紐差教会        聖コルベ記念館       聖コルベ神父記念小聖堂


長崎と聖コルベ記念館

長崎は、ポーランド出身のマクシミリアノ・マリア・コルベ神父が1930年から6年間宣教に訪れたところでもあります。
相互リンク先の「The Moon River Story」のサイトマスター「太郎じぃ」さんの洗礼名が、コルベ神父にちなんでいると教えていただいたこともあって、個人的にも、長崎に行けばぜひ訪れたい場所でした。

四百年前のキリシタン迫害のときだけではなく、第二次世界大戦もキリスト教迫害の時代です。
太平洋戦争中の日本も、国家神道の名の下に日本や韓国のクリスチャンたちを弾圧しました。また、ヒトラーに率いられたナチスドイツも、ポーランドのキリスト教指導者たちを捕らえ、強制収容所に押し込めていったのです。
日本での宣教を終えてポーランドに戻ったコルベ神父は、アウシュビッツの強制収容所に入れられました。そこで、ひとりの脱走者への見せしめに10人が餓死刑を宣告されたとき、妻子のために死にたくないと叫ぶポーランド将校の身代わりとして、刑を受けることを申し出たのです。二週間の刑でも命を保った神父は、毒殺されました。
「人がその友のために命を捨てる、それよりも大きな愛はない」の聖句を身をもってあらわした生涯だったのです。
予約も何もしていなかったのに、本河内教会の神父が案内に立ち、展示品のひとつひとつを丁寧に説明してくださいました。

その夜は、「全日空ホテルグラバーヒル」に泊まり、夕食後はライトアップされたグラバー邸を散策して、二日目の旅が終わりました。

旧グラバー邸 グラバー邸は、夏季は夜9時半までオープンしています。 ライトアップされた邸内は、とてもきれいでした。グラバーは維新志士たちを援助したことでも有名です。 グラバーの妻ツルは、「蝶々夫人」のモデルにもなった人ですが、オペラの悲劇的な最期とは違って、幸福な結婚生活をまっとうしました。


参考書籍: 「生月島のかくれキリシタン」(平戸市生月町博物館・島の館発行)
参考ウェブサイト:
 キリシタン千夜一夜(たけちゃんのホームページ)
 「中世音楽合唱団・龍翁炉辺談話」オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし

                                                                                                                                                                                                                                      

2006年9月 2日

長崎・平戸キリシタン歴史紀行(1)

長崎・平戸に二泊三日で行ってきました。
去年の沖縄もそうだったのですが、私の行っている教会ではときどきこうやって有志で、歴史や社会を学ぶ旅行を行なっています。今回の参加者はクリスチャンばかり、下は幼稚園児から上は70歳までの総勢12人。
旅行会社のフリープランを利用したので、宿泊と往復の飛行機は手配していただきましたが、それ以外はすべて自分たちで企画した手作り旅行でした。
テーマは、「キリシタンの歴史を聞いて学んで考える旅」。
長崎・平戸・島原・五島列島の四つの候補地が挙げられましたが、今回はその中で長崎と平戸を選ぶことにしました。
二泊三日のおおまかな旅程は次のとおりです。


一日目
大阪空港 (―飛行機―) 長崎空港 (―バス―) 佐世保 (―鉄道―) 平戸 ― 平戸市街地観光(ザビエル記念聖堂・松浦史料博物館・平戸観光資料館・平土城) ― 平戸泊
二日目
平戸 (―貸切バス―) 生月島観光(島の館博物館・ガスパル様・山田教会・幸四郎様) ― 平戸観光(平戸切支丹資料館・紐差教会) (―貸切バス―) 長崎 ― 聖コルベ記念館 ― グラバー邸 ― 長崎泊
三日目
長崎市内観光 (―タクシー・路面電車―) 大浦天主堂 ― 浦上天主堂 ― 永井隆記念館 ― 平和公園 ― 原爆資料館 ― みなとめぐり遊覧 ― 二十六聖人殉教の碑 (―バス―) 長崎空港  (―飛行機―) 大阪空港


長崎空港から平戸まで

長崎空港からは、佐世保までの空港リムジンバスが出ているので、それに乗りました(西肥バス 約80分)。
JR佐世保駅の1番ホームから出ている松浦鉄道へ。
一両だけの汽車というのも、なかなか旅情をそそられます。地元の方々が乗り降りするそばで駅弁をかきこみながらの、78分。
27駅目の「たびら平戸口駅」で下車。ここは「日本最西端の駅」という碑が立っていました。
その日の宿泊先「平戸脇川ホテル」からの送迎バスに乗って、真っ赤な平戸大橋を渡り、約5分でホテルに着きました。

松浦鉄道  日本最西端の駅  平戸大橋
佐世保駅発の松浦鉄道     たびら平戸口駅前           平戸大橋。通行料が要ります。



平戸市街地観光

(―タクシー―) フランシスコザビエル記念聖堂 (―徒歩―) 大ソテツ ― 六角井戸 ― 松浦史料博物館 ―平戸観光資料館 ― オランダ塀 ― 幸橋(オランダ橋) ― 平戸城(約3時間)

チェックイン後、平戸市街地の観光に出かけました。徒歩でじゅうぶんと思っていたのですが、ホテルの方の話では、平戸は坂が多く、なかなかあなどれないとのこと。ホテルの方のアドバイスをいただいて、三台のタクシーに分乗し、まず「カトリック平戸教会」のフランシスコ・ザビエル記念聖堂に行くことにしました。ここからだと他の観光史跡へはほとんど下りになるので、徒歩でもかなり楽でした。

フランシスコ・ザビエルは、イエズス会の伝道者として1549年鹿児島に上陸、翌年に平戸に来訪、その後も二回にわたって平戸を訪れています。キリシタンの歴史を知る旅では最初に訪れなければならないところでしょう(ただし、「ザビエル記念聖堂」はザビエルを記念するために1971年に改名されたもので、特に四百年前の歴史的な地というわけではありません)。

ザビエル記念聖堂  ザビエル記念像  平戸殉教者慰霊碑
   ザビエル記念聖堂         ザビエル記念像             平戸殉教者慰霊碑

平戸は外国船の来航が盛んな地で、オランダ商館もここに置かれ、今でもその当時をしのぶ史跡が市街地に多く残っています。
ポルトガル交易時代からキリスト教の布教も盛んでした。当時の外国宣教師の日本における宣教方針は、まず領主に布教することでした。領主が改宗すれば、領民もこぞって改宗するからです。
平戸でも、藩主松浦(まつら)氏の家臣たちが続々とキリシタンとなりましたが、松浦氏自身は、貿易のためにキリスト教を黙認していただけのようです。

六角井戸  オランダ塀
 中国・明スタイルの六角井戸    オランダ商館時代をしのばせるオランダ塀 


天正十五年六月(1587年7月)、今までキリスト教を保護していた豊臣秀吉が、突如「伴天連追放令」を発布しました。一方では南蛮貿易を奨励もしていたので、宣教師たちは潜伏しつつも引き続き日本にとどまっていました。
しかし、1596年の「サンフェリペ号事件」を契機に、スペインの日本征服を恐れた秀吉は本格的にキリスト教の撲滅に乗り出します。
平戸では、平戸藩主松浦氏において1599年に法印鎮信が跡目を継いだとき以来、キリシタンの猛烈な弾圧が始まるのでした。
過酷な迫害と、「かくれキリシタン」への系譜については、第二日目の生月島観光で詳しく学ぶことになります。

松浦史料博物館 松浦史料博物館。松浦氏の旧邸宅で、西欧貿易華やかなりし頃の調度品や、貴重な史料が展示されている。
平戸散策松浦史料博物館から平戸観光資料館までのあいだの、歴史を感じさせる遊歩道。
平戸観光資料館は、赤穂浪士にも深いかかわりのある山鹿素行や、マリア観音などのかくれキリシタン関係の資料がある。二階からは、平戸城や平戸大橋を見晴らせる。
平戸城平戸城は、会津の兵学者・山鹿素行の縄張り(城の配置)によって作られたお城。明治天皇の祖母が松浦家出身で、そのゆかりの品々も展示されている。 天守閣は、平戸市内を一望できる絶好のビューポイント。

 

2006年8月26日

夏も終わり

このブログもずいぶんサボってしまいました。
しかし、暑い。ほんとうに暑い。今年の関西の暑さってば殺人的です。8月も終わりなのに、35度があたりまえというのは、どうなってるんでしょう。9月もこの暑さは残るそうですから、ここへ来てヘバりぎみです。

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さて、この暑さの中、深夜までハマっていたのが、サウンドノベルゲームの「かまいたちの夜×3(トリプル)」
いい歳をして、何をやってるんだとお思いでしょうが、好きなんですよ。この手の分岐型ゲーム。
それに、TERUさんのサイト「Script1」のゲーム企画にも一枚噛んでいるので、これはプレイしてサウンドノベルの書き方を研究しておかないと……ねえ?(笑)
というわけで、昨夜ついに全エンディングを制覇して「金のしおり」を出しました。

スーファミ版の「かまいたちの夜」が発売されたのが1994年だそうですが(うちの息子まだ小学生だったもんなあ)、12年かかって、ようやく今回が完結編になる模様です。
その記念という意味もあるのか、今回は、その第一作「ペンション『シュプール』編」と、2年前プレステ2で発売された「かまいたちの夜2 監獄島のわらべ唄」のメインシナリオも同梱されています。
完結編と名がつくものの宿命なのか、「1」のときに感じたインパクトにも、「2」のときのボリュームにも劣っているように思えて、やや物足りなさが残るものの、さすがに「金のしおり」を出したあとのおまけエンディングを見ると、しんみりしてしまいました。
いつもの透や真理といった主要メンバーともこれでお別れです。

さてさて、そんなことばかりしてるから、さだめしBUTAPENNの小説執筆はすっかり滞っているだろうと思っているそこのあなた、スルドい!!(笑)
いや、「新ティトス戦記」はなんとか第7回まで書けているのですよ。これで今年いっぱいの更新(毎月2回更新を予定)分のストックはできました。コラボ企画の最終回も、ほぼメドがつきました。
ただし、「セフィロト2」と「ギャラクシーシリーズ」は、まったく一行も書けていません。ロマンススキーの常連さまたちに怒られそう。とほほ。いよいよ自転車操業へと、お尻に火がついてきたなあ。

そんな状態で逃げるわけじゃないのですが、来週早々旅行に行ってきます。♪るんるん
顛末については、またこのブログで報告しますね。
数日留守をしますので、メールや掲示板のレスができなくなりますが、ご容赦ください。

2006年8月15日

父の終戦

暑いですね。みなさまいかがお過ごしですか。

きょう私は実家で、「純情きらり」のお昼の再放送を、私の両親と見ました。主人公は、婚約者を戦地に送り、今また弟をも送り出そうとしています。弟の専攻の物理の本を、夜なべで一文字一文字紙に書き写し、「千人針の代わりだから」と言って持たせている場面がありました。
千人針って若い人はご存じないかも(と言って、私も見たことありませんが)。戦地に行く家族のために、妻や母が街頭に立ち、道行く人に一針ずつ祈りをこめて縫ってもらって、その布を出征する兵士に持たせるのです。
「千人針はなあ。シラミがたかるから、捨てさせられるんや」と、父が言いました。

私の父は、先の大戦中は上海に留学していました。彼の父親、つまり私の祖父が中国で貿易商をしていたからです。
しかし、やがて敗戦の影が色濃くなり、学徒動員で駆りだされた工場では、友人とふたりでベートーヴェンの「運命」を口ずさみながら作業したといいます。「武士道とは死ぬことと見つけたり」のことばに酔っていた青春でもありました。
食料も不足し始め、近隣の農家に米を徴用に行くのは、大学の上級生の仕事でした。徴用とは体のいいことばですが、要するに略奪してくるのです。農家の人たちが必死で隠している大切な米を、無理矢理取り上げる。中国の人にとっても、日中の架け橋となるという理想に燃えて、ここに来たはずの学生たちにとっても、なんと残酷な行為だったことでしょう。
昭和二十年の2月になって、ついに父にも召集令状が来ました。
入隊してわずか数日で、下着にシラミがつくほど不衛生な状態。飲み水は、井戸の水を汲んで、ミョウバンを放り込んで、さらに上澄みを煮沸してようやく飲むことができるのです。揚子江沿いに進軍しているうちに、父は喉の渇きに耐えられなくなり、ひとくちだけ浅瀬の水をすくって飲みました。それから三ヶ月、父はずっと下痢に苦しみました。
夜は散発的なゲリラの銃弾の音が聞こえてきましたが、結局父は一度も銃を撃つことなく、敗戦の日を迎えました。

軍が現地解散となり、ふたたび上海に戻ったのですが、他の都市と違い上海はいたって平穏だったそうです。
日本人に対する略奪などもここでは起こらず、近隣では日本人の薬屋が相変わらず経営を続けていました。日本人は「倭僑」と記した腕章をつけることを義務付けられましたが、上海の人々は敗戦の後もなお、日本人に非常に好意的だったと言います。

自分の家にたどり着くと、別の都市で貿易をしていた祖父が戻ってきました。「やあ無事か」と喜び合いました。
父が祖父に「金持っとるか」と訊くと、「ある」という答え。
後に祖父は、中国で築いた財産をすべて没収されてしまいますが、そのときはまだ裕福でした。
父はもらった銭で、毎日映画館通いをして、好きな洋画をたっぷり見たそうです。
薬屋の娘との縁談も持ち上がりましたが、やがて復員船の順番が来て、日本に帰りました。

悲惨で残虐だと言われる戦争の直後、上海はこんなのんびりした状態だったことを聞き、驚くばかりです。いまだ戦争の全体像も知らなかった当事者たちは、意外に淡々と隣人たちと日々の暮らしを紡いでいたのかもしれません。
だからと言って、日本人が憎まれるようなことは何もしていないと主張するつもりはありません。米の強制徴用の話からもうかがい知ることができるように、戦争は当事者双方にとって、人間としての信頼と尊厳を踏みにじる残酷な行為だということは、決して間違えようがありません。
謝罪しろ、補償しろ、いや謝罪した、補償した、という話ばかりが声高に聞こえてきますが、人間として一個人として隣人として、もう一度話し合うことはできないものなのでしょうか。

父は80歳になろうとしています。戦争の話が当事者たちから直接聞けるのも、あとわずかかもしれません。
今日は61回目の終戦記念日です。

2006年8月14日

RPG風ファンタジー

お盆休みの真っ最中ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
今年のプロ野球も終了したことですし(おい)、うちの夫はお盆も出勤ですので、暇しております。
これといって、ブログのネタもなく。しかしドラゴンズめ……(しつこい)。

というわけで、nyansukeさんのブログ「コトダマの宮 縁側日記」の記事を、さっそくイタダキです。
「ゲーム的思考」と題した記事の中で、「小説を書く時、ゲームができるのとできないのでは、随分引き出しの深さに違いが出るんじゃないかな、と思います」と書いておられました。

私はその「ゲームをする」側なので、「ファンタジー」というジャンルについていろいろ考えてみました。
nyansukeさんも私も、同じくファンタジーを書く人間ですが、小説の中身はやや性質が違うようです。
nyansukeさんのファンタジー「氷の楼閣」や「玻璃の橋板」、「銀の剣士」などは、舞台は異世界でも、登場するのは人間。魔族もエルフもドワーフも妖精も精霊も竜も出てきません。自らおっしゃっているように、現実とあまり変わらない「王朝ファンタジー」「西洋中世風ファンタジー」です。
それに比べて、「異世界ファンタジー」というのは、人間以外の種族が登場し、また多くの場合魔法や、それに類する超常的な力が登場します。そうなると、それぞれの世界観を説明するために、膨大な紙面を割かなければならないところが、ちょっと厄介です。このために、ファンタジーというジャンルを毛嫌いしてしまう人も多いのではないでしょうか。

その「異世界ファンタジー」の中でも、自分が書いている「ティトス戦記」を、私は「RPG風ファンタジー」と称しています。
今でこそ、「ロードオブザリング」「ナルニア国物語」「ゲド戦記」などのファンタジーが日本でも全世界でもブームですが、二十年ほど昔、日本にファンタジーという分野を広めたのは、TVゲームのRPG(ロールプレイングゲーム)の功績でした。
その中でも特に、「ドラゴンクエスト」シリーズと「ファイナルファンタジー」シリーズの影響はあまりにも大きく、後発のほとんどのRPGがその影響を受けてきたと言っても過言ではありません。
そして、RPGで広く流布している「約束ごと」や世界観を採用することによって、複雑な説明を省略してしまおうというのが、RPG風ファンタジーなのだと解釈しています。

その約束ごとというのは、たとえば、「魔法にはいくつかの系統、または属性があること」。
その属性によっては、魔法使いが覚えられないものがあったり、またある種の敵モンスターが倒しやすくなったり、反対に回復させてしまったりすることもあります。
その属性は、おおむね、火、水、風、土、聖、魔といったもので、うちの「ティトス戦記」では、それを、火、氷、土、風の4つのエレメントが具現化してると設定しています。
職業(ジョブ)があるというのも、RPGらしい発想です。種族に関しては、エルフといえば、細くて耳が長くて美しくて魔法が強い。ドワーフは背が低くて斧が得意。竜は古代から生きていて知恵があるが、誇り高くて凶暴でもある……などという約束ごとは、「指輪物語」あたりから採用したものなのでしょう。


そのほかにも、RPGの約束ごとというのは、おおむね次のようなものであると思っています。

1) キャラたちが冒険によって成長する
  成長することによって、生命力があがり、きのう負けた強い敵とも渡り合えるようになる。魔法や技もポイントを貯めたり、使い続けることでひらめいたり、お宝の中から発見したりして、徐々により強い上級魔法を習得できるようになります。この喜びが、RPGの最も大きな醍醐味と呼べるもので、そのためにゲーマーたちは時間をかけてせっせとレベルアップに励むようになるのですね。

2) お宝をゲットする
  せこいと思われるかもしれませんが、私はこれはかなり重要な要素だと思っています。お宝を全然拾えないRPGというのもプレイしたことがありましたが、やっぱりつまらなかった。
ダンジョンを探検して、また難しい迷路の謎を解いて、貴重なお宝を手に入れたときのうれしさ。でも、袋がいっぱいで「何を捨てますか」と問われるときの悲しさ(笑)。

3) 旅をする
  知らない土地を旅する喜びというのは、やはりRPGの大きな醍醐味でしょう。しかも最初は徒歩、騎馬でしかいけなかった場所が、チョコボに乗ったり船に乗ったり、飛空挺に乗ったりして行けるようになるなんて、最高じゃないですか。ああ、旅がしてえ。

4) いろいろな職種のパーティ(仲間)で力を合わせる
  普通なら絶対に性格合わないと思われるマッチョな剣士と痩せた魔導士、高貴な騎士と市井のあざとい盗賊が、協力してひとつの目的に向かって突き進む。その人間模様(もちろん恋愛も!)が、食指をそそりまする。

私はもともと学生時代、西洋中世が大好きで、そういう本を読み漁っていました。なのでRPGを子どもたちといっしょに初めてプレイしたとき、本当にハマってしまったんですね。
そのゲームの楽しさを少しでも文字にできたらと、現在もRPG風ファンタジー「新ティトス戦記」をわき目もふらず執筆中です(いや、その割には「かまいたちの夜3」をプレイしてるけど……)。
あと少しで最初のクライマックスが書き終わるので、もう少しお待ちください。たぶん今週中には第1章をお目にかけることができるかと思われます。

nyansukeさんの「玻璃の橋板」もただいまエンディング間近のじれじれ状態(笑)。長い間待ち望んでいた和風ファンタジー「桜夜叉」も連載が始まりましたので、ぜひリンクから「コトダマの宮」にお出かけになってみてください。

2006年8月 4日

夏休みの更新予定

今日、「きみのそばに…」の更新完了しました。
最初はボンノーいっぱいの主人公たちでしたが(笑)、終わりは中学生らしく、ほのぼのと。さすがの聖も、やっぱり家族の前ではキスできませんよねえ。

さて、主婦に夏休みはないとは言え、夏休み中の学生さんでここを覗いてくださる方も多いと思います。執筆状況や、これからの更新予定を少し。

この夏は、ちょっと更新を少なめにして、できるだけ小説のストックを書き溜めたいと思っています。
まず、夏に連載スタートと予告していた「新ティトス戦記」を最優先で。
ただ今、ちょっと熱を入れてせっせと書いています。自分の中では5章書き溜めたらスタート、と決めているのですが、今第4章まで書き終わっています。あと少しでお目にかけることができるはず……戦闘シーンでコケなければ(笑)。

セフィロト第二部も、第3章全5話をできるだけ全部書き終えてから出したいなあと思っているのですが、自転車操業になっても、一話ずつ出すべきか……悩むところです。

「夜叉往来」には、アンケートでたくさんの続編・番外編のご希望をいただいていまして、これはさすがに、何かお礼のお話を書かねばと思っております。
今頭にひらめいているのは、「満賢の魔鏡」というタイトルのオムニバスストーリー。夜叉の将のひとり満賢爺さんが、しつこくも(笑)死後に遺していった魔鏡に触れてしまった登場人物たちが、次々と過去に引き込まれるという筋立てだったりします。これは秋くらいが目標です。
あと、「ギャラクシー・スクランブル」も、一部の熱狂的支持者の方に「秋までに」とお約束していたのでしたね。
ギャー、これ全部はムリっす。

「ぽけっと・ぐれいす」の「インビジブル・ラブ」ですが、予告編だけ出して、執筆が止まってしまいました。なるべく早く、形にしたいと思っていますので、これも少しお待ちください。

2006年8月 2日

ツンデレって?

つい最近、「ツンデレ」ということばを聞き、何のことかわかりませんでした。
ロシアやカナダ、アラスカに広がる凍原? それは「ツンドラ」だって。
というわけで、遅ればせながら検索して調べてみました。

たとえば、フリー百科事典「ウィキペディア」を引用すると、こういうことが書いてありました。

「普段はツンツンとした態度を取るが、一定の条件下では態度が急変してデレデレといちゃつく」という状態・光景が語源である

どうも恋愛アドベンチャーゲームの女性キャラの性格をあらわすのに使われた言葉が最初だそうです。
「ツン」状態のときのキャラは、相手を嫌ったり見下したり、すべての人との関わりを拒絶しています。ところが何らかの事件により、相手に好意を持ち、ツン状態を維持しようとしても気持ちを隠し切れなくなり、あるときから一変して、相手に甘えるようになる。これがツンデレなのです。
一方、ツンとデレが同居する場合もあって、他人の前では照れのあまり、そっけないツン状態だが、根底には、そこはかとなく相手への愛情が感じられる。あるいは、ツンとデレのあいだを振り子のように揺れ動いている状態のこともあるようです。

今は「ツンデレ」の意味するところがかなり広範囲になってきて、女性キャラのみならず、男性キャラの性格にも使われるとか。
同じウィキペディアによると、「不器用な好意・障壁のある愛を表す」ことが、要するにどの定義にも共通しているようです。
完全に理解できたとは言えませんが、なるほど、というものがあります。
かなりの恋愛小説、ロマンス小説の主人公が、この「ツンデレ」パターンかもしれません。特に私たち女性は、こういう「最初は冷たいが、実は…」的な性格を持った男性キャラに萌えてしまう傾向を持っているようです。

うちのサイトで言えば、「夜叉往来」の統馬が間違いなくこれに当てはまりそう。あとは「セフィロト」の樹とか。「ティトス戦記」のルギドといったところでしょうか。
うちの相互リンクサイト様の、あのキャラも、このキャラもツンデレだなあと、ひそかに分類しています。

2006年7月24日

「舫い船」について

「犬祭3」(sleepdogさん主催)が、先ごろ閉幕しました。
すでにオンライン界の定例イベントとなった感のあるこのお祭りも、今年で三回目。
今のところBUTAPENNも皆勤を続けていますが、今年は自由参加部門で、「金の骨」をいただきました。
三度目にして、初の「金」受賞です。ひゃっほう。
うれしがりと言われようと、うれしいもんはうれしい。ドッグさんからいただいた、受賞記念の「金骨」画像を飾っちゃいます。


dogfes_gold.gif


今年のsleepdogさんは、仕事の最繁忙期にあたってしまい、激務の合間の運営でした。涼しい北海道とはいえ、さぞかし、汗まみれで孤軍奮闘してくださったのだと思います。
ほんとうにお疲れ様でした。

さて、祭終了にともない、参加作の「舫い船」について、いくつか「あとがき」めいたことを書いておきたいと思います。
今だから告白しますが、このお話は犬祭のために考えたというより、ずっと暖めていたいくつかの題材をまとめて投入したという経緯があります。
だから、感想欄でも非常に好意的にご指摘いただいたのですが、犬が登場する必然性があまりない。ここに出てくる「早太郎」という犬のかわりに、村の鎮守の木でも何でもよかった。ドジな使用人の女の子だったりしたら、ちょっとした初恋ものになったかもしれませんね。

私がずっと暖めていた題材というのは、ひとつは私の通っている教会の名誉牧師が礼拝メッセージで話した、子どもの頃の思い出話です。私の父と同じ年の生まれで長野県出身の老牧師は、小さい頃柿の実を盗んで、村のとんでもなく恐いおばあさんに家の中まで追いかけられたりしたそうです。しかし、そのおばあさんはキリストを信じて、180度穏やかな性格へと変えられたのです。
「こ?れ?は?使える!」ということで、メッセージの内容そっちのけで設定をメモしていた、とんでもない信者であります(笑)。

もうひとつの題材というのは、「喫茶吾眠」のとっとさんから、去年の6月にいただいた「掲示板200リク」でした。
そのリクエストとは、村山由佳さんの「すべての雲は銀の...」に出てくる兄弟(優秀な兄と、平凡な弟)と、最初は弟の恋人だったのに、後に兄と結婚してしまう女性を、BUTAPENN流に描いてほしい、というものでした。
この設定は、「夜叉往来」でも使ったばかりだし、どういうふうに料理すべきかと悩みつつも、例として提示された「すべての雲は銀の...」を読んでみました。
このお話は、文字通り兄に恋人を取られた弟が、とあるペンションを舞台にいろいろな人々との交流を通して、傷ついた心が癒されていく……という筋です。
読んでみて、実は私は、ストーリーそっちのけで、兄夫婦に対して怒りを覚えてしまったのです。
特に、弟に対する負い目から追い詰められて入院している彼女を見舞ってやってくれと、兄がペンションまで頼みに来る場面。こんなことを平気で頼むなんて、兄たちはなんと自分勝手なんだと思いました。
主人公が新しい出発をするというラストを読んでも、鬱憤は収まりません。

もし、私が弟だったらどうするだろう。
「いいよ」と見舞いを快く引き受けて、実際は兄嫁と対面するや、ねちねちと苛めて、流産に追い込んじゃう(おい)。
それからも、自堕落な生活を送って、兄夫婦に金銭的にも心配を掛け続け、派手な女遊びをして、あげくの果てには子どもを儲けて、子どものいない兄夫婦に「育ててくれよ」と押しつけてやる。
でも、彼の子どもを懸命に育てる兄夫婦の姿を見て、また復讐の道具として生み出したはずのわが子の成長を見ているうちに、長い年月の果てに彼の心は癒されていく……。

というストーリーを思い浮かべていました。
「舫い船」は、そのすべてのドラマを全部隠した上で、道具とされた子どもの立場から見たお話に仕立てました。
もちろん、とっとさんのリクエストのすべてを満たしているとは、およそ言いがたいですが、とっとさんはこころよく、「これでOK」とみなしてくださいました。というわけで、「掲示板200リク」完了(笑)。

もうひとつのテーマは、このあいだから私をさいなんでいた「閉塞感」です。
このブログにも以前に書きましたが、老親をかかえ、次第に自由に行動できなくなりつつある今に対する鬱屈とした気分が、日々強まってくるのを感じていました。書くことによって昇華したい、と主人公を狭い谷に閉じ込められた少年に選んだのです。
幸い、この話を書いたことと、夫と尾瀬旅行に行ったことで、すっかり私の欲求不満は解消しましたが(笑)。

これほどいろいろな個人的な心情を詰め込んだお話を、丁寧に読んでくださった皆様、投票してくださった皆様、どうもありがとうございました。
でも、この「あとがき」を読んだら、投票しなければよかったと思う方がいらっしゃるかもしれませんね(笑)。

*「犬祭3」の会場はオープンしています。小説・イラスト・短歌などたくさんの作品が展示中ですし、感想掲示板なども稼動していますので、もしよろしければお運びください。