2008年7月26日

文化庁の調査結果に憮然とする

お暑うございます。
関西は今日も最高予想気温36度。エアコンを我慢することが地球のためによいとわかっていても、我慢できません。たとえ明日の人類が滅びても、今の暑さを何とかしてくれと言いたくなります。いや、人間というのは生来、我が身を滅ぼす生き物ですな。

ところで、おとといのニュースで、この暑さに油を注ぐような記事を見ました。少し長いですが、読売オンラインの記事を引用します。

7割の人が「憮然=腹立て」と誤用、文化庁の国語世論調査
7月24日22時2分配信 読売新聞

 日本語の慣用句や言葉の使い方について、文化庁が世論調査した結果、70%以上の人が「檄(げき)を飛ばす」や「憮然(ぶぜん)」の本来の意味を取り違えていたことがわかった。

 議論などで結果が出る「煮詰まる」についても、40%近くが「議論が行き詰まり結論が出せない状態になること」と逆の意味に思い込んでいた。

 調査は今年3月、全国の16歳以上の男女3445人を対象に行われた。

 「檄を飛ばす」は「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求める」というのが本来の意味。選択肢の中から正答を選んだのは19%にとどまり、73%が「元気のない者に刺激を与えて活気づけること」と回答した。「憮然」についても「腹を立てている様子」と誤った答えを選んだ人が71%に上り、「失望してぼんやりしている様子」と理解している人は17%だけだった。

 また「卑劣な方法で失敗させられる」という意味の慣用句は「足をすくわれる」が正しい答えだが、74%の人が「足下をすくわれる」と回答、「足元を見る」という表現と混同していた。

 「話などの要点」を意味する「さわり」も正しく回答したのは35%で、55%は「話などの最初の部分」と勘違いしていた。特に「煮詰まる」は世代間で使い方に大きな開きがあり、「結論の出る状態」とする回答は50歳以上は70%を超えたのに対し、16歳から19歳は16%だった。

なるほど。確かに間違いやすいものばかりです。「檄を飛ばす」などというのは、実は私も過去に誤用しそうになった言葉。「檄」という漢字の字面が、「激励」と混同しやすいんでしょうね。

ただ、言葉というのは時代の流れを映す鏡だなと、同時に感じるものもありました。
「煮詰まる=議論のこう着状態」という誤用は、そこまで議論を突き詰めたことのない、今の時代を反映していたり。
「さわり=最初の部分」と感じるのも、「つかみがOK」でないと見向きもしてもらえないインスタント時代を反映しているとも言えます。

で、ここからが本題なのですが。
この中の「憮然」ということば。これは十代よりも五十代の誤用が多いとNHKのニュースでは指摘されていたことばです。
そして、まぎれもなくアラフィーの私も、「憮然と」を「腹を立ててむっつりしている様子」だと解釈して、今まで小説を書いてきました。
試しにトップページに置いてある「サイト内検索」で「憮然」をかけてみると、出てくるわ出てくるわ、14件。すべて、誤用と言われてもしかたのない使い方をしています。
これが誤用だとすると、ちょっとショックなのです。

確かに字から考えても「心を無くした状態」。つまり、失望してぼんやりしている様子がもともとの意味であったことは推測できます。
「ぶぜん」という音や語感が、「無愛想な」「不機嫌な」「ぶすっとした」「むっつりとした」という語と混同されて、今まで来てしまったのだろうなとも思います。
ただし、ここまで世代を重ねてきた用法が、今さら誤用と言われてもなあ、と戸惑うばかり。
言い換えは可能です。しかし、どれもぴんと来ない。「憮然」ということばにこめていた私のイメージ――特に男性が、目の前の状況を憤っているにもかかわらず、その不満を言葉にせずに、表情に表わしている状態――が、「無愛想」や「ぶすっとした」では表わせないのです。

ちなみに、三省堂「大辞林 第二版」では、「思いどおりにならなくて不満なさま」という語意が一番にきています。さすがに他の権威ある辞書では(笑)、その意味が載っているものはありませんが。

また手許にあった藤沢周平の「遠方より来る」(「雪明り」収録)という短編には、

 黙っていると、いきなり尻をつねられた。
「おまえさまは、お人が好いから」
 尻をつねられて、甚平は憮然として台所を出た。甚平が、いかに仕官を焦ったとはいえ、足軽に身を落としたのはどういうものだったかと、後悔に似た気分を味わうのはこういうときである。
・・・(中略)・・・
 いまも、亭主の尻をつねるとは何ごとかと、むっとしたが、しかし昔は昔、足軽がそう固いことを言ってもはじまらない気もした。

とあります。
前後の状況から見て、主人公が驚いたり失望しているというよりも、むっとした、妻の行動を腹に据えかねた気分であることは、間違いないような気がします。
もちろん有名作家なら誤用はしないというわけではないのですが、それだけ市民権を得た用法であると思いたいのです。

しかし、これからどうすればよいのでしょうか。
違いすぎるふたつの意味が混在する言葉というのは、使いにくいこと、このうえない。
......いやいや、これからも「憮然=腹の立つ」が晴れて市民権を得るまで、使ってまいりましょう。

当サイトでは、今までもこれからも、「憮然」は「腹を立てた」状態を表わしています。
ぶすっとした、ぶたぺんは、憮然として言い放つのであります。

2008年7月19日

ゼファー 倒産?

この数日のアクセス解析を見ていてビックリしたのは、「ゼファー 倒産」というキーワードで、うちのサイトに来られるお客様が多いということでした。
今朝の新聞を見ていて、その理由がわかりました。
以下読売新聞の引用と要約。

「ゼファー民事再生申請」 負債949億円、マンション市況悪化

東証一部上場の不動産会社「ゼファー」が、東京地裁に民事再生手続きの開始を申請した。ゼファー株は、8月19日に上場廃止される。このところ、地価や建設資材の高騰でマンション市況が悪化しており、建設、不動産会社の経営が厳しさを増している状況が浮き彫りになった。

このニュースを調べるたびに、うちのサイトがヒットしているのだとしたら、まことに申し訳ない限り。
一応ここで、申し添えておきます。
うちの「ゼファー」は小説の主人公で、彼の会社は当面の倒産危機を脱しましたので。

2008年7月15日

今年後半に向けて

今朝、夫は竹島問題で日本とケンアクになっている韓国に出張で旅立っていきました。
ふって湧いたような、三日間の自由な夜。朝寝坊もOK(ゴミ出しがあるから、しないけど)だと思うと、うれしいですよね。
ここで、少しでも小説を書き溜めておきたいところです。

毎年恒例になった(いや、それほどでもないか)、今年後半のサイト方針ですが、もう7月も半ばを過ぎた今となっては、間が抜けてますね。
つい先ごろ「ギャラクシー・シリーズ」が完結し、「魔王ゼファー」も倒産危機編に一応の目途が着きました。
こうなってみると、二年前「長編で完結作品がないよー」と叫んでいたのが嘘みたいに、連載中作品がぐっと少なくなってきたようで、さびしく感じています。

何か新しい連載を企画して始めるべきか。
それとも、欲張らずに、今ある作品だけに集中すべきか。
はたまた、完結作品の番外編を考えるべきか。
今年の後半は、この見きわめが課題となりそうです。

まず連載作品の今後ですが、「新ティトス」と「魔王ゼファー」は、これからも月一くらいのペースで続けていくつもりです。
「インビジブル・ラブ」も、携帯サイトの連載が章ごとにまとまれば、その都度アップしていきたいと思っています。

「EWEN」に関しては、人気投票でもいつも上位なのに本当に心苦しいのですが、私の頭の中で、今は彼らの動きが物語としてまとまりません。
そろそろ「完結」マークをつける潮時かなあとも思っています。
「EWEN3/エピソード0」と銘打っていた「空の散歩道」は、来年3月で、物語の中の時間に追いつきます。それを区切りとして、ページラストに移動させ、「EWEN」全体を完結とすることを考えています。
だからと言って、もう書かないというのではなく、アイディアが浮かびしだい、他の完結作品と同じように番外編として書き続けていきたいと思っています。

完結作品の番外編で今考えているのは、ひとつは「ギャラクシー・シリーズ」の木星移民団編。ひとつは「夜叉往来」の短編集です。
「夜叉往来短編集」は、もし始めるとすれば、まず携帯サイトでの連載となります。「インビジ」で「夜叉往来」のキャラたちが客演しているため、携帯の読者さまにも入りやすい、軽めの一話完結の短編集、というイメージです。
いずれも、まだ海のものとも山のものともしれません。

新作に関しては、ちらちらと考えてはいるのですが、まだご紹介できるほど熟成しているものは、ひとつもありません。
このところ、どうも、新しいことを始めるのに及び腰になっているみたいです。創作意欲が落ちているのでしょうか。短編もイベント以外では、まったく書いてないし。
ほんとに困ったものです。キリリクでもいただけば、真剣に考えるのかなあ(あ、霧島センセのリクもまだだった...)。
秋には100万ヒットを迎えるので、そのときには新作をご披露したいと、ひそかに望みだけは大きく持っておるのですが。

なんだか、展望のないダメダメの話ばかりで、申し訳ない。
口直しとして、最後に、ちょっと前向きな話を。
夏休み企画として、「EWEN」と「魔王ゼファー」のクロスオーバー、「手編みのマフラー」シリーズの第三弾を集中連載する予定です。タイトルは「約束したから」。
これは実は、かなり前から書きたかった話なのですが、これを出してしまうと長編化への一歩を歩みだしてしまいそうで、怖くて出せませんでした。
このお話は、あくまでお遊び企画として書いてきたので、本編を左右するような長編になることは正直望んでいません。しかし、雪羽と聖のカップルが、私にとってかなり動かしやすい、愛おしい存在になりつつあることも確かでして。
とりあえず、ここは、後先を考えずに出してみようと思います。後はなんとかなるさ。

最後になりましたが、「ギャラクシー」や「魔王ゼファー」に、たくさんのウェブ拍手やコメントをありがとうございました。熱いコメントの数々に、すごいパワーをいただきました。
当サイトでは、ウェブ拍手には原則としてお返事はしないことにしています。
が、どうしても返事がしたいコメントがありました。(ごめんなさい。質問じゃありませんと、ちゃんと書き添えてくださっているのに)。

>、「手編みのマフラー」では息子さんが社長職継いでますよね......借金を断った息子さんと同一人物なのでしょうか??
はい、同一人物です。「手編みのマフラー」の世界では、坂井社長はかなり歳を取ってしまい、商社マンで転勤ばかりだった息子(今は博多勤務)に頼み込んで、社長の座を継いでもらったのです。坂井エレクトロニクスは経営がそれなりにうまく行っているので、最初は批判的だった息子も心が動いたのかもしれません。
でも、これはあくまで、本編とは無関係の話ですから(ここまで説明しておいて、笑)。

2008年7月11日

弱さを用立てる

賛美歌に関する書物を読んでいて、「弱さを他の人のために用立てる」ということばに目が留まりました。
ヘンリ・ナウエンというカトリックの指導者の書いた『創造的ミニストリー』という著書の中に、そういう表現があるそうです。
もともとは牧師に関する助言であり、「牧師は、自分の人間的な弱さを信徒から隠してはならない。それどころか、自分が経験している弱さを、正直にさらけだすことによって、信徒を導くべきである」(「賛美歌・唱歌ものがたり」 大塚野百合著 創元社より引用)と書かれているそうですが、なんとも深い言葉ではないでしょうか。


今日、私が頑張って強く見せることによって、誰かが追いつめられる。
今日、私が弱さをさらけだすことによって、誰かが楽になる。
だから、自分の弱さを他の人のために用立てよう。

自分は強いと見せかける演技に凝り固まった社会は、生きにくいですね。お互い、もっともっと弱くなりませんか。

このお話をもっと聞きたい人は、今度の日曜、私の教会で行なわれている「さんび講座」に出てください。私の夫が司会をしています(笑)。

2008年7月10日

落雷注意

CIMG1240.JPGこのところ、兵庫県南東部では、毎日のように雷雨があります。
それも、私が買い物に出ているときに限って(笑)。
昨日も滝のような雨の中を足元ずぶぬれになって帰ってきて、夕飯の支度を終えた6時半ごろ、突然、バスンという音がしたかと思うと、家中の電気が消えてしまいました。
不思議なことに、裏の家は煌々と灯りがついています。うちの家の通りだけが停電になってしまったのです。こんな局地的な停電ははじめてです。
近所の人の目撃証言によれば、通りの向こう側の電柱の変圧器が煙を上げて燃え上がったそうです。

そのとき、雨も小降りになり、雷も鳴っていませんでした。
落雷とは、遠くに去ってしまっても油断はできないという怖さがありますね。関電の人がサイレンを鳴らして駆けつけ、電柱に登って修理してくださり、一時間半後の8時ごろに復旧しました。

おりしも夕食どき。停電になると、電気もテレビもエアコンも点かないだけではなく、電気ポットのお湯も出ないし、ガス風呂さえも沸かないのです。冷蔵庫も、停電時にはドアも開かないことがわかりました(手動では開けられますが)。
うちはオール電化ではないのですが、いかに、生活のすべてが電気に依存しているか思い知らされました。
幸いにして炊飯器のご飯は炊けていたので、ヤカンでお茶を沸かし、ロウソクの明かりの中でキャンドルナイトディナー(笑)と相成りました。地球温暖化防止のためにちょっぴり貢献できたかな。
幸い、パソコンも復旧し、書きかけの小説のデータも無事でしたが、もしやと思って肝が冷えました。落雷の多い夏、皆様も大事なデータのバックアップだけは、くれぐれもきちんと取っておかれますように。

小説の更新がやや遅れております。もちろん、雷のせいではありません(笑)。なんとか今週中には更新したいと思っていますので、しばらくお待ち下さい。

私信
Pさんへ
「500文字の心臓」の次回のテーマが決まりました。「ノイズレス」です。〆切は7月21日。お仕事お忙しくなければ、参加お待ちしています。

2008年7月 2日

ヨメの値打ち

結婚26周年ということは、嫁歴も26年ということです。
その26年のうち、主人の実家で義父母と同居しているのは、正味14年ほど。
このごろ頓に、嫁である私の発言権が増していることを、しみじみと感じます。ま、うんと傲慢な言い方をしてしまえば、私がいなければ、一日だってこの家は回っていかない。
義父のストマの袋を交換しながら、もしダンナが浮気でもしたら、私はさっさと出て行って、この家はウ○コまみれになるんだろうなと空想しながら、ひそかに溜飲をさげています(ヤな嫁だねー)。

もうひとつ、このところ感じているのは、嫁という立場の人間がひとり一家にいるかいないかの違いは、大きいということです。
たとえば、病気。入院や手術。たとえば、葬式。
血を分けた家族たちが、情がからむゆえにオロオロとする中で、ただひとり冷静に、客観的に、またある意味、非情にものごとを決断し、進めていけるのは、血のつながりのない嫁だけではないかと思うこともあるのです。

もちろん一方では、血のつながりのないゆえに、疎外感をたっぷり感じるでしょう。
そうか、やっぱり私は、何年たっても他人なんだな、と。
けれど、私はこの家族のために、非常時に備えて遣わされているのだと考えれば、孤独な嫁の立場もなかなか悪くありません。

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