2008年10月 6日

今年も

毎年秋になると、このブログでご案内しております「阪神女性の集い」。
阪神間の数十のプロテスタント教会が協力して行なうイベントが、今年も催されます。
今回はコンサート。ドイツ在住の工藤篤子さんというクリスチャンのソプラノ歌手が、たっぷりと歌とお話を聞かせてくださいます。

工藤篤子さんは、スペインで声楽を学び、ヨーロッパを中心として活躍しておられる方です。その歌声は、「地中海ソプラノ」と呼ばれて、定評があります。「地中海ソプラノ」とは、イタリアオペラに見られる金管楽器のような音ではなく、木管楽器のような柔らかな響きが特徴。
今年は西宮ではなく、「芦屋ルナホール・大ホール」が会場です。西宮アミティホールよりはやや狭いですが、階段状の独特の構造で、客席から舞台がとても近くに感じられます。

毎度のことですが、BUTAPENNも聖歌隊として出演します。ぜひ、阪神間にお住まいの方はお出かけください。

時  10月9日(木) 10:15から12:00
所  芦屋ルナホール(阪神・JR芦屋駅、阪急芦屋川駅下車、徒歩五分ほど)
講師 工藤篤子さん(ソプラノ歌手)
入場無料(席上にて、志のある方だけ自由献金)

2008年9月22日

子どもは親を超えていく

今日、クリスチャンのミーティングで、外国の宣教師のお話を聞く機会がありました。
その中で、
「日本人は特に、子どもが自分を超えるように育てるのが苦手」
ということばが心に留まりました。
親子の関係だけではなく、教師が生徒を、師が弟子を育てるとき、自分を超えることを期待せず、逆に抑えつけてしまう要素があるという趣旨だったと思います。

イエスのことばに、
「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、また、それよりもさらに大きなわざを行ないます」(ヨハネ14:12)
とあるように、どんなに不甲斐ない弟子でも(実際、イエスの弟子は師を見捨てて逃げてしまった)、イエスはその弟子を信頼したのです。
振り返って、私は自分の子どもの無限の可能性を信じて子育てをしてきただろうか。自分を超えてほしいと願って(かと言って、あれもこれもと過大な要求をせずに)接してきただろうか、と考えさせられます。
むしろ、子どもが大きくなるにつれて、「駄目じゃん」と決めつけてしまうことのほうが多かったような気がします。

今日のお話で、もうひとつのテーマは、
「親は自分の弱さを、きちんと子どもに見せなければならない」
というものでした。これは、特に父親にとっては、むずかしいことだろうと思います。
子どもの前で自分の非を認め、素直にごめんと言える親。取り繕わず、子どもの目線まで降りていって、同じ気持になれる親。放蕩息子の父親のように、なりふりかまわず、ころげるように走りよって、子どもを抱きしめてやれる親になりたい。

聞いているうちに、このことと、最初の「子どもが自分を超えていくことを信じる」ことは、実はひとつのことなのではないかと思いました。
両方に共通するのは、実は親自身がそのようにして見守られてきたという安心感です。これからも、神に、そして周囲の人々に見守られていくという未来に対する確信です。

もしそれがあれば、自分にどんなに力がなくても、疲れ果てても、子どもの未来を信じて明日を待つことができるはずです。自分の弱さをとことんまで認めて、家族に地域に、助けを求めることもできるはずです。
たとえどんな事情があっても、子どもの命を絶って、未来に実を結ぶべきすばらしい芽を摘み取ることだけは、絶対にしてほしくはありません。
なぜなら、子どもは必ず、親より大きな存在になれるのですから。

2008年7月11日

弱さを用立てる

賛美歌に関する書物を読んでいて、「弱さを他の人のために用立てる」ということばに目が留まりました。
ヘンリ・ナウエンというカトリックの指導者の書いた『創造的ミニストリー』という著書の中に、そういう表現があるそうです。
もともとは牧師に関する助言であり、「牧師は、自分の人間的な弱さを信徒から隠してはならない。それどころか、自分が経験している弱さを、正直にさらけだすことによって、信徒を導くべきである」(「賛美歌・唱歌ものがたり」 大塚野百合著 創元社より引用)と書かれているそうですが、なんとも深い言葉ではないでしょうか。


今日、私が頑張って強く見せることによって、誰かが追いつめられる。
今日、私が弱さをさらけだすことによって、誰かが楽になる。
だから、自分の弱さを他の人のために用立てよう。

自分は強いと見せかける演技に凝り固まった社会は、生きにくいですね。お互い、もっともっと弱くなりませんか。

このお話をもっと聞きたい人は、今度の日曜、私の教会で行なわれている「さんび講座」に出てください。私の夫が司会をしています(笑)。

2008年1月15日

「乱れ雪月花」の閉鎖

相互リンクをしていただいていた霞 桜蘭さんの「乱れ雪月花」が閉鎖しました。

その理由については、乱れ雪月花トップからの「閉鎖のお知らせ」をお読みくださればわかると思いますが、同じクリスチャンとして、またお互いのために祈り合っていたサイト仲間として、少し書かせていただきたいと思います。

クリスチャンでない人にとってはわかりにくいクリスチャン用語かもしれませんが、桜蘭さんがサイト閉鎖の決意をされた理由は、ひとつには、とりなしの祈り(人のために祈ること)と預言(神のことばを伝えること)のために献身をする決心をされたことです。
「献身」とは、自分の人生のすべてを神にささげることです。もちろん牧師になることも含みますし、普通の仕事をしながら、神のために働くことも含みます。それぞれは、制度で決まっていたり強制されるものではなく、自分と神との個人的な関係の中で決めることです。

お知らせで書いておられるように、桜蘭さんは書くことがイヤになったり、時間がとれなくなったから、サイト閉鎖を決意したのではなりません。
たぶん、今桜蘭さんの心を占めているのは、イエス・キリストだけなのだと思います。キリスト教の信仰というのは、遠い理想をかかげるものでもなく、教えを奉じるものではなく、神から与えられたリアルな実体験です。そのリアルな神の愛ゆえに、彼女は彼女にしかできない方法で、神に従い続ける生き方を定めたのだと思います。

サイト閉鎖のもうひとつの理由は、小説の中で逸脱した性描写をすることが、神の御心に反すると示されたからだとおっしゃっています(「示される」とは、聖書のみことばによって、また祈りの中で、神から教えられることです)。
性そのものが神の御心に反するのではありません。むしろ祝福です。しかし、結婚という神の定められた結びつきを経ずに性行為を持つことは、キリスト教では明らかな罪です。
(当サイトでも、性描写に関しては一定の基準を持っていますが、それでも迷うことが多く、間違った誘惑に駆られることも多いのです。私が道をはずれないようにお祈りください。)

実は私は今、桜蘭さんにサイト閉鎖を思いとどまるように引き止めたい気持でいっぱいです。
性描写を含まない作品だけを残せばいいのでは? その部分を改稿すればいいのでは?
そう説得したいほど、「乱れ雪月花」の閉鎖と、そこに掲載されていた神の愛に満ちあふれた小説を失うことは残念です。
でもそれをしてしまうことは、彼女が苦渋の中で身を切られるような思いでくだした決意に、水をさすことになります。

私も若い頃、ひとつの体験をしました。
中学生のときから小説を書き続け、一生書き続けたいと願っていたのです。いつも鉛筆を握っていたので、ペンだこもすごく大きくなりました。
しかし大学のとき、あまりにも書くことにのめりこみ、自分の描く登場人物を愛するあまり、自分の優先順位の中で、神への思いがはるか下になっていることを示されました。
私はそのとき、文字どおりはらわたを引き裂かれるような痛みを感じながら、書くことを断念しました。
それから二十数年経ったあとに、サイトトップに掲げてある聖書のことばをいただき、まさか小説サイトを開くことになるとは。
たぶん、私にとってこのブランクは必要な時でした。あの頃抱いていたナルシズムに似た偏愛はなくなり、自分の書いたものを客観的に見ることができるようになったことも、神の訓練期間だったと思います。

新しい出発をする桜蘭さんにエールを送ります。
与えられた道を迷わずに進んでください。もしいつか、小説をとおして語りなさいと神がおっしゃるときが来たら、そのときは、イヤでも(笑)戻ってきてください。
私もそれまで、与えられたこの場で書き続けたいと思います。

2007年12月25日

風上に立つ人

前からここでお知らせしていましたが、昨日の午後、近所のショッピングモール「エビスタ」で行なわれた、教会の聖歌隊ミニコンサート。多くの方が訪れてくださったことをありがとうございます。

エビスタコンサート
実は、会場のコンディション自体はあまり良くなくて、1時の開始時には、猛烈な北風が広場を吹き抜け、楽譜は飛ぶし、マイクは風の音を拾うし、寒さで手はかじかんで伴奏は間違えるし、間違えたことさえわからないほど、自分の弾いているキーボードの音が聞こえない状態でした。

途中ではバイクの集団が、すぐ目の前を駆け抜けるハプニングも。(中には、ちゃんと降りて歩いてくれた子たちもいたのは、うれしかったです)

万全の準備をしたはずなのに、思ってもいなかったことが起こる。でも、そういう不運の中でも喜べてしまうのは、そばに仲間たちがいるからでしょう。3時、5時の開演のときには、風も少しずつ止み、スタッフの不休の努力で、音響も格段によくなっていました。

エビスタコンサート
私は向かって左側のキーボードのそばにいました。ところが、後でこの写真を見て驚いたのは、一番右側にいた数人に当たっている風は、私のところに届いていた風の比ではなかったのです(右側の人たちのガウンのすそを見てください)。
私は寒い寒いと言っていたのに、もっと寒い思いをしていた彼女たちが風除けになってくれたので、私にはそれほど風は当たっていなかったのです。

きっと私が生きてきた間には、親や夫や友人などたくさんの人が知らぬ間に風上に立って、私に風が当たらないように守ってくれていたに違いありません。ただ私はそのことを知らないだけ。
そのことを思うと、感謝があふれます。
同じように、二千年前ベツレヘムの片隅で生まれたイエス・キリストが、私の知らないうちに、私のために十字架にかかり、私を愛し、どんな苦難のときも私の人生を守っていてくださったのです。

今年のクリスマスはもうすぐ終わります。クリスマスの祝福が、このブログを読んでくださった方々にありますように。

2007年12月13日

今年もエビスタコンサート

クリスマスまであと10日あまりあるのに、すでに満喫しきりました。
教会の女性会クリスマス、子どもクリスマス、阪神の教会合同のクリスマス。昨日は、クリスマスの案内を配布し、今日は「牡蠣の土手鍋クリスマスパーティ」(笑)でした。
気持も体脂肪も、豊かになるったら。

さて、去年も宣伝しましたが、今年も私の属している教会の聖歌隊が、阪神西宮駅前のモール「エビスタ」広場で、ミニコンサートを開きます。
今年は、ヘンデルの「メサイヤ」から「見よ神の栄光は地にあらわれ」「ハレルヤコーラス」、「オー・ホーリーナイト」「アヴェ・ヴェルム・コルプス」「みつかいの糧」、クリスマスの定番「ホワイトクリスマス」などの小曲もあります。
12月24日(祝・月)の午後1時、3時、5時の三回。

エビスタのクリスマスイベントページ

下のほうに小さく去年の様子がピンボケで写っていますが、手前でキーボードを弾いているのが私です。
しかし、「おしりかじり虫」って、今すごい人気みたいですね。これを見るまで知りませんでした。
このミニコンサート、去年は二回だったのが、今年は三回。しかもその日の6時半からは、教会でイブの集いで、また歌います。
うーん、途中で倒れないだろうか。体力の限界に挑戦、ですな。
近隣にお住まいの方で、その日お時間のある方は、ぜひとも見にいらしてください。

2007年10月15日

阪神女性の集い

すっかり秋の空の青さが目に染みる関西からお送りいたします。
ああ、今日もテレビが見られへんかった。唯一の慰めは、新聞が休刊だったことだわさ。

さて、去年もご案内いたしましたが、今年も「阪神女性の集い」という、阪神間のキリスト教会連合のイベントが催されます。
26回目となる今年は、「日本国際飢餓対策機構(JIFH)」の特命大使、神田英輔氏が世界の飢餓の現状リポートなどをまじえた講演をしてくださいます。

BUTAPENNもまたまた、聖歌隊として出演します。今年は「Oh Happy Day」などのゴスペルソングや、G・カッチーニの「アヴェマリア」のアレンジなど、なかなかステキな曲目がそろっています。
ぜひ、西宮近辺にお住まいの方はお出かけください。

時  10月18日(木) 10:15?12:00 所  西宮市民会館アミティホール(阪神西宮駅下車、市役所側の改札を出てすぐ) 講師 神田英輔氏(日本国際飢餓対策機構特命大使)

2007年6月 6日

ニーバーの祈り

先日更新した「セフィロトの樹の下で2」第4章(1)の中で、柏所長がこんな言葉を引用していました。
『自分に変えられることは変えてみせろ、変えられないことは受け入れろ』
これは実は、私の教会では、少人数の集まりなどのときに、「開会の祈り」としてときどき用いている祈りのことばです。
ラインハルト・ニーバー(Reinhold Niebuhr, 1892年-1971年)という、ドイツ系アメリカ人のプロテスタント系神学者、牧師、また政治学者の書いたことばです。

いろいろな訳がありますが、ここでは私の教会で用いている訳をご紹介します。
かなり翻訳調です。

神さま、私にお与えください。
自分に変えられないものを、受け入れる平静な心を。
変えられるものは変えていく勇気を。
そして、二つのものを見分ける賢さを。

一日単位で生き、一瞬一瞬を楽しみ、
この罪に満ちた世界を、自分がそこに染まるのではなく、
あるがままに受け入れ、
私がみこころに明け渡すならば、
あなたがすべてを変えてくださると信頼し、
それによってこの世においては適度な幸せに、
次の世においては、
あなたのみそばで最高の幸せにおらせてください。

特に前半部分は、名言としてビジネス関係の書物などで引用されることが多いようです。

このことばが、つい最近亡くなられたアメリカの小説家カート・ヴォネガットの「スローターハウス5」という小説に、主人公の生活信条として引用されていることを、海野希倫さんのブログ「Days…」の記事で初めて知りました。 → 「カート・ヴォネガットのこと」
原文も載せてくださっているし、たぶんこっちの訳のほうが良いので(笑)、興味のある方は、ぜひ覗いてみてください。

2007年4月 2日

他人に帯を締められ

やっぱり連続更新記録は三日で終わりましたわねえ。(←いばるな)

さてきのうの日曜は、教会でクリスチャンの友人たちと話す時間がありました。クリスチャンが集まると、ケーキとお茶しながらでも、死や老いなどというホンネなテーマで語り合います。
お父さまが亡くなられた方の体験談を聞きながら、私の頭には、ある新約聖書の一節が思い浮かんできました。

はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。         (ヨハネによる福音書21章18節 新共同訳)

これは、イエスが復活されたあと、ガリラヤ湖畔で弟子のペテロ(ペトロ)に言ったことばです。
ペテロは、十字架にかかる直前のイエスを三度「知らない」と言って否みましたが、まるで挽回のチャンスを与えられたかのように、三度イエスから「あなたは私を愛するか」と尋ねられます。
その直後に、イエスは上のような予言をしたのです。

年齢を重ねて老境に達すると、今まで持っていた地位や役職を取り上げられ、物心両面での不足を覚える。自分の体さえ自分で動かすことがままならなくなる。
それはまるで、一枚一枚自分の着ていたものを脱いでいく作業に似ています。
しかも、徐々にそうなるならまだいいのですが、ときには病気や退職で一気にすべてを失うことが起こり得るのです。
人はそんなとき、抗います、抗いつつも、ときには弱く力のない自分に絶望します。過去への執着のあまりに昔の話を毎日繰り返したり、預金通帳を絶対に手離さず、隠しまわったあげく無くしてしまう悲喜劇も起きる。それを見ている家族も、元気だったころを知っているだけにつらいのです。

ペテロも、十二使徒のリーダーである自負と責任感に満ち溢れていました。私の経験から言えば、こういう人は老いの入り口で苦しみます。イエスはそんな彼を労わるために、「おまえも年を取ると、他の人に帯を締めてもらうようになるんだよ」と諭したのかもしれません。

上手に年を取ることはむずかしい。
昨日できたことが今日できなくなる自分を受け入れる。自分が後生大事にかかえていた職も健康も能力も誇りもひとつずつ脱ぎ捨てる。
裸でこの世に来たように、裸で天に帰っていくという人生最大の大事業が、人間の晩年のテーマなのでしょう。

人は誰かを愛するとき、自分の大事なものさえ平気で捨てられるもの。
だとしたら、すべてを脱ぎ捨てていく老いとは、人間が神に捧げられるもっとも美しい愛のかたちだと言えるのかもしれません。

2007年3月 9日

聖書イケメン列伝

私の書く小説のほとんどには美形の男性が出てきますが、それはただひたすら作者自身の癒しのためです(笑)。
今日アップした「魔王ゼファー」の新作も、これでもかというくらい美辞麗句が出てきて、「うーむ、この頃私は疲れてるんだなあ」と自分で笑ってしまいました。

このところ、あちこちで、ちょいと凹むことが起きています。
人間というのは、どうしてこう他人を貶めて喜べるのでしょう。他人をコントロールして味わうことのできる優越感など、ほんの束の間のものではありませんか。
「老いという病い」の残酷さに日々直面して、人間というのは弱いものだなあと嘆くことが多いのです。
こういうときは、優しいダンナさまに甘えつつ、美形の登場する小説を書くに限る(笑)。

気を取り直して、今日は聖書の中のイケメンたちをご紹介しましょう。
「え、聖書みたいにカタイ本の中に、そんな記述が出てくるの?」という方もおられるでしょうが、なんのなんの。聖書の中でも、特に旧約聖書はイケメンの宝庫であります。

まず最初は、創世記のヨセフ。イスラエルの父アブラハムから数えて四代目にあたります。
彼は兄弟たちにねたまれ、エジプトに奴隷として売られてしまうのですが、売られた先で才能を認められ、家令の地位について主人の全財産の管理をまかされます。それほど有能なことに加えて、「体格もよく、美男子であった」と聖書には書かれています。
しかし、そのイケメンぶりが災いして主人の妻に言い寄られ、主人の怒りを買って投獄されるという波乱万丈の人生を歩むのです。

出エジプトで有名なモーセも、赤ん坊の頃「両親はその子の美しいのを見て」と書かれているので、さぞや美男だったでしょう。
さて時代が下って、イスラエルに王制が敷かれる頃は、イケメン列伝というにふさわしい記述が続きます。
古代の人は、王の資質に「美形」という要素をかなり重要視していたのかもしれません。
イスラエル初代の王サウルは、

「彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」

という、ヨダレの垂れそうな(笑)描写がされております。
サウルは王となってから驕り高ぶり、神に逆らって王座から追われますが、次の王ダビデがまたイケメン。ペリシテ人ゴリアテと戦って勝ったときはまだ十数歳だったはずですが、「紅顔の美少年」と記述されています。歌もうまく、竪琴を弾きながら歌う姿はさぞ美しかったでしょう。

そのダビデの息子のひとりアブシャロムが、また究極の美男子なのです。
聖書はこう書いています。

「さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。 彼が頭を刈るとき、――毎年、年の終わりには、それが重いので刈っていた。――その髪の毛を量ると、王のはかりで二百シェケルもあった。」

つまり髪の毛も、ロン毛でふさふさだったということですな。
しかし、このアブシャロム王子は父王ダビデに謀反の心を抱き、クーデターを起こして勝手に王を名乗ります。そして木の枝に引っかかったところで殺されるという悲惨な最期を遂げるのです。
その美しさが高慢の種となったとき、人は堕落するという良い見本でしょう。

それでは、肝心のイエス・キリストはどうだったかと言えば、新約聖書には容姿についての何の記述もありません。
ただし、旧約聖書イザヤ書の預言には、

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」

と書かれています。つまり預言の通りだったとすれば、美形からはほど遠い容姿だったと想像されるのですが、しかしその内面の美しさは輝きだして、多くの人を引きつけたでしょう。
人間は心の美しさこそが肝要なのだな、とまるで自分の書く小説とは反対の結論でしめくくってみたり(笑)。

(引用したのは、すべて「新改訳聖書」(日本聖書刊行会版)です)