私の書く小説のほとんどには美形の男性が出てきますが、それはただひたすら作者自身の癒しのためです(笑)。
今日アップした「魔王ゼファー」の新作も、これでもかというくらい美辞麗句が出てきて、「うーむ、この頃私は疲れてるんだなあ」と自分で笑ってしまいました。
このところ、あちこちで、ちょいと凹むことが起きています。
人間というのは、どうしてこう他人を貶めて喜べるのでしょう。他人をコントロールして味わうことのできる優越感など、ほんの束の間のものではありませんか。
「老いという病い」の残酷さに日々直面して、人間というのは弱いものだなあと嘆くことが多いのです。
こういうときは、優しいダンナさまに甘えつつ、美形の登場する小説を書くに限る(笑)。
気を取り直して、今日は聖書の中のイケメンたちをご紹介しましょう。
「え、聖書みたいにカタイ本の中に、そんな記述が出てくるの?」という方もおられるでしょうが、なんのなんの。聖書の中でも、特に旧約聖書はイケメンの宝庫であります。
まず最初は、創世記のヨセフ。イスラエルの父アブラハムから数えて四代目にあたります。
彼は兄弟たちにねたまれ、エジプトに奴隷として売られてしまうのですが、売られた先で才能を認められ、家令の地位について主人の全財産の管理をまかされます。それほど有能なことに加えて、「体格もよく、美男子であった」と聖書には書かれています。
しかし、そのイケメンぶりが災いして主人の妻に言い寄られ、主人の怒りを買って投獄されるという波乱万丈の人生を歩むのです。
出エジプトで有名なモーセも、赤ん坊の頃「両親はその子の美しいのを見て」と書かれているので、さぞや美男だったでしょう。
さて時代が下って、イスラエルに王制が敷かれる頃は、イケメン列伝というにふさわしい記述が続きます。
古代の人は、王の資質に「美形」という要素をかなり重要視していたのかもしれません。
イスラエル初代の王サウルは、
「彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった」
という、ヨダレの垂れそうな(笑)描写がされております。
サウルは王となってから驕り高ぶり、神に逆らって王座から追われますが、次の王ダビデがまたイケメン。ペリシテ人ゴリアテと戦って勝ったときはまだ十数歳だったはずですが、「紅顔の美少年」と記述されています。歌もうまく、竪琴を弾きながら歌う姿はさぞ美しかったでしょう。
そのダビデの息子のひとりアブシャロムが、また究極の美男子なのです。
聖書はこう書いています。
「さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。
彼が頭を刈るとき、――毎年、年の終わりには、それが重いので刈っていた。――その髪の毛を量ると、王のはかりで二百シェケルもあった。」
つまり髪の毛も、ロン毛でふさふさだったということですな。
しかし、このアブシャロム王子は父王ダビデに謀反の心を抱き、クーデターを起こして勝手に王を名乗ります。そして木の枝に引っかかったところで殺されるという悲惨な最期を遂げるのです。
その美しさが高慢の種となったとき、人は堕落するという良い見本でしょう。
それでは、肝心のイエス・キリストはどうだったかと言えば、新約聖書には容姿についての何の記述もありません。
ただし、旧約聖書イザヤ書の預言には、
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」
と書かれています。つまり預言の通りだったとすれば、美形からはほど遠い容姿だったと想像されるのですが、しかしその内面の美しさは輝きだして、多くの人を引きつけたでしょう。
人間は心の美しさこそが肝要なのだな、とまるで自分の書く小説とは反対の結論でしめくくってみたり(笑)。
(引用したのは、すべて「新改訳聖書」(日本聖書刊行会版)です)