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CLOSE TO YOU
3rd chapter

              (2)

運命ってすごい。
普通なら絶対に結ばれない男と女が、
こうやって糸を手繰るみたいに互いを見つけてしまうんだから。



「絵を描くのは、もうやめる」
 俺がそう宣言したとき琴音さんは、さほど驚かなかった。
 この数ヶ月、俺が夜ごと描いてはキャンバスを破っていたことを知っているのだろう。おまけに、よりによって彼女の目前で、描きかけの絵に絵の具をぶちまけてしまった。
 自分でも、わかっていた。久世彩音という絵描きは、もう死んだのだ。
 俺は絵の道具を全部ゴミ袋に放り込み、画架といっしょにマンションのゴミ置き場に捨てに行こうとした。持っていてもしょうがない。絵に未練なんてないのだから。
「彩音、待って」
 琴音さんは、あわてて俺を引き止めた。「粗大ゴミは、出す日が別だから」
 そして、なだめるような笑顔で、ゴミを俺から取り上げた。
「私があとで捨てておくから。ね」
 俺の部屋は正真正銘、空っぽになってしまった。広く寒々しく、タバコをふかしながら眺める対象が何ひとつない。
 ただ、壁や床にしみついた油絵の具の匂いが、俺がここで暮らした四年という時間を思い出させる。
「ごはんよ」
「ん」
 のそのそと猫のように、壁の穴をくぐって琴音さんの部屋へ行く。
 そう、まさに飼い猫だ。琴音さんに守られて、食わせてもらって、何もせずに寝てるだけの存在。彼女にとって迷惑でしかない、十歳年下のガキ。
 見離すこともできずに、惰性で仕方なくそばにいるだけなのかも。
「ねえ、彩音」
 山盛りによそったお茶碗を差し出しながら、彼女が言った。
「私、絵を描かない彩音も好きよ」
「……」
 この人は、人の顔色を素早く読んで、こういうことをさらりと言える人なんだ。俺はいじける暇も与えてもらえない。
 湯気の立つ、甘くて真っ白な飯を、時間をかけて噛みしめ噛みしめ、飲み込んだ。
「俺、仕事見つける」
「えっ」
 世界で一番意外なことばを聞いたという顔をして、彼女がキッチンから振り向いた。
「昨日、担任と進路の相談をした。美大に行かないって決めたから、卒業できたら、どこかに就職する」
「どこかって、どこに」
「それがわかれば、苦労はしない」
「どんな仕事がしたいの。彩音は」
 俺はじーっと考え込んだ。
「ホスト、かな」
 呆れかえった琴音さんの手からお玉が落ちて、鍋の味噌汁がぼちゃんと跳ねた。


「彩音。付き合って」
 会社が休みの土曜日、琴音さんが俺を外出に誘った。
「スーツが欲しいの。私の趣味にいつも文句言うんだから、ちゃんと見立てて」
「どこ行く?」
「横浜」
 以前ずっと住んでたから、どこに何の店があるかがよくわかるのだと言う。
 俺は、「へん」と悪びれた調子で溜め息をついた。
「また、性懲りもなく、智哉と歩いたデートコースかよ」
 琴音さんは一瞬ぽかんとした表情をして、それから笑い出した。
「なつかしい、その名前。ほんっと久しぶり。このごろ全然思い出しもしなかった」
 屈託のない、透き通った笑みだった。
「二年前は、あれほど毎日思い出して泣いてたのにね。嘘みたい」
「ああ、そうだったな」
「うそ。知らないくせに」
「知ってるに決まってるだろ。幽霊みたいな顔して、マンションの廊下をふらふら歩いてたくせに」
 琴音さんが、好きな男と結婚式直前に別れて、ここに越して来たばかりの頃。
 俺が最初に彼女を見かけたのは、マンションの玄関。
 公園の満開の桜に生気を吸い取られ尽くした亡者のように蒼ざめて立っていたのが、琴音さんだった。
 あの頃の俺は、町で出会ったアタマの軽そうな女を部屋に連れ込む毎日で。性欲だけを満たしてくれ、心のエネルギーを消費しない相手なら、誰でもよかった。
 琴音さんと言葉を交わすようになったのも、これくらい歳の離れた女なら絶対に本気にならないだろうとタカをくくってたからだ。
 それは琴音さんも同じだったと思う。
 もし俺が大人の男だったら、ボロボロに傷ついていた彼女は、決して俺に近づかなかったはず。
 俺たちは年の差があるから、安心して距離を縮めて――そして、サイコーに本気になっちまった。
 運命ってすごい。普通なら絶対に結ばれない男と女が、こうやって糸を手繰るみたいに互いを見つけてしまうんだから。


 琴音さんと横浜に来るのは、二度目だ。
 俺は引っぱられて街を歩きながら、何気ない瞬間――街角で信号を待つとき、店の看板を見上げるとき、懐かしいものを捜す仕草で、彼女の視線が泳ぐのに気づく。
 ほら。エラそうなこと言って、やっぱり昔の男のことを思い出してるんじゃないか。
 琴音さんのことなら、何だってわかるんだ。真実なのか嘘なのか、本心なのか虚勢なのか、目を覗き込んだだけでわかっちまう。
 たぶんそれは、母親の顔色をずっと伺っていた子どものときからの、俺の習性だ。
 中華街で晩飯をたらふく食って、山下公園をぶらぶらと通り抜ける。冬空はゆっくりと暮れ、水面はタールを流したように黒く、船や桟橋の明かりを絵の具のように溶かし込んでいる。
 コートのポケットに入れた自分の指が、無意識に動き始めるのを感じた。俺の目はカメラのように映像を刻み、脳のキャンバスにそれを写し取れと命令する。
 絵なんかやめたというのに、いったい何をしてるんだろう。
 ポケットから手を出して、ふーっと息を吹きかけた。
「ああ、そうか」
「なに?」
「琴音さんが、俺を横浜に引っ張りだしたわけ。スーツなんか買うつもりなかっただろ。だって、全然ショーウィンドウ覗いてなかったし」
「気に入ったのがなかっただけよ」
「違う。俺が描きたいものを見つけるのを、待ってたんだろ?」
「……」
 黙り込んだのは、肯定のしるし。
「悪いけど、そういう気づかいするな。俺もう、描く気ないし」
「彩音。そんなに早く結論を出すことないわ」
「結論は出てる。だって、一番好きな女さえ描けないんだぜ?」
 俺は柵にもたれて思い切り背を反らせ、みなとみらいを仰いだ。上下が逆さまになった夜景は、まるで宇宙に包まれているみたいだ。
「世界中のどんなきれいなものを見たって、絵筆を持つ気にはならない」
 視界の端にちらりと、彼女のうるんだ目を捉える。
 そんな目で見ないでくれ。まるで地中に埋めておいた大事な宝物を失ってしまったガキみたいな気分になるじゃないか。俺をよけいに惨めにしないでくれ。
 片手を伸ばして琴音さんのうなじに回し、そのままグイと引き寄せた。
 考えることから逃げるために、彼女の唇をむさぼった。甘い蜜をしたたらせる忘却の果実にかぶりつく。
「琴音さん。ホテル、行こ」
「どうして?」
 夜の中で白い吐息が交わる。
「どんなに大声を出しても構わない場所で、ヤリたい」
 だって、俺たちの部屋と来たら、ベニヤ板みたいに壁が薄いもんな。俺たちはいつも近所の耳をはばかって、息を殺しながら暮らすのが習慣になっちまってる。
 せめて今日くらいは、思う存分琴音さんを啼かせてやりたい。街を見下ろしながら、俺の痕を全身に刻みつけてやる。智哉の思い出など、どこにも残らないくらいに。
 俺は、星の高みにそびえ立つ対岸の高層ビルを指差して、宣言した。
「今夜は、あのホテルの最上階に泊まる」


「ふーん、最上階ねえ」
 琴音さんは呆れたように、狭いツインルームを見渡した。
 港を見下ろすスイートどころか、窓の外に見えるのは、隣の四階建てビルの汚い壁だけだ。
「おかしいなあ」
 この間まで財布の中に潜んでいた腹心の福沢諭吉軍団は、もうとっくに何処かに逃げ出していた。
 結局、俺の手持ちの金で借りられたのは、港からだいぶ離れた、安っぽいシティホテルの一室だ。
「別に構わないわよ」
 バスルームの点検をすませて戻ってきた彼女が、言った。「けっこう内装も新しいし、タオルもいい感じ。合格よ」
 ヘタな慰めだ。これじゃあ、俺が一文無しのただのガキだということが、証明されただけじゃないか。智哉に勝つどころか、彼女に守られていることしかできない、十八のガキだということが。
 意気消沈してベッドの上に座っていると、どこからかシャワーの水音が聞こえてきた。知らないおっさんが歌ってる鼻歌も。
「ここの壁、めちゃ薄」
 俺たちは、声をそろえて笑い出した。これじゃ、自分の部屋にいるのと何も変わらない。
「ばっかみてえ。これじゃ、蒲田のラブホのほうが防音、百倍マシ」
「ふうん。よく知ってるね」
「そ、東京二十三区ラブホ評論家と呼んで」
「あのね、彩音」
 呪いをかける魔女みたいに、琴音さんはゆっくりと俺の腕を人差し指の腹で撫でた。
「私、これでもけっこう、あなたの華麗な女性遍歴に傷ついてるのよ」
 次の瞬間、「いてっ」と飛び上がった。手の甲に琴音さんの爪の痕がくっきりとついている。
「私の過去ばっかり責めるけど、それってすごく不公平だと思う」
 彼女の肩が俺の背中にとんと当たる。体が共鳴して、語尾がぶれて聞こえた。
 俺が智哉のことを思い浮かべて苛立つように、彼女も俺の昔の女たちに苛立つのだろうか。
 こんなにそばにいるのに、好きでたまらないのに、相手の心の揺れまで見通せるのに。
 俺たち、まだどこかで互いのことを信じてない。
「琴音さん」
 おずおずと彼女を見た。「ときどき思うんだ。俺たち、このまま一緒にいていいのかなって」
「よくないのかもね」
 彼女は茶化したように微笑んだ。「十八歳の高校生と二十八歳のOL。常識なら、ありえない組み合わせよ」
「いつか突然、琴音さんがいなくなってしまいそうな気がするんだ」
「彩音」
 琴音さんは、いつもの優しい呼びかけで、包み込むように俺を抱きしめた。
「どんなことが起こっても、私はあなたのそばにいる」
 何も心配しなくていいと、まるで母親が子どもをあやすように。俺はその柔らかさの中で溺れてしまいそうになる。どんどん甘やかされて、永久に覚めない深いまどろみの中に沈んでいきそうになる。
「……琴音さん――琴音」
 彼女の名を呟きながら、ふたりしてベッドの上にもつれこんだ。
 もどかしい手つきで互いの体を覆っているものを剥ぎ取る。布一枚さえ、俺たちの間に割り込ませない。
 布一枚の遮断でさえ、今の俺には耐えられない。
 絵筆を捨てた。絵の具もパレットもキャンバスも、もう何もない。
 何の価値もない。何の目的もない。琴音さん以外の何もないんだ。
 胎児が子宮に戻っていく至福に我を忘れながら、俺は彼女の内部に深く深く没入した。






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