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CLOSE TO YOU
3rd chapter

              (6)

そうだ。俺が本当に描きたかったものは、形あるモノではない。
この光そのものだ。
つかめるのか。俺の絵筆で本当にこれがつかめるのか。



 夜が明ける前に、目が覚めた。
 俺はカーテンを開けて、ベランダへ出た。ここで琴音さんと顔を合わせたのは、彼女が引っ越してきてすぐ。夕涼みしながら煙草を吸ってたら、さんざんイヤミを言われたっけ。
 気が遠くなるくらい昔の話だ。
 ポケットから煙草を取り出そうとして、やめた。願断ちするんだった。
 キャンバスも用意した。すべての準備が整ったのに、俺はまだ何を描くかを決めかねていた。もう少しで形を取ろうとしているのに、手を伸ばすと、するりと逃げ出してしまう。
 だが今日は、起き上がったときから何かの予感があった。ずっと心が騒いでいる。
 東の空に目を凝らした。と言っても、ここから見えるのは、薄汚れたビルばかり。その隙間にわずかに覗く空は、藍から瑠璃に色を変えつつある。時間が経つにつれ、レースの縁取りをしたケープと見まごう桜色の雲が、くっきりと背景から浮かび上がる。
 永遠の静寂と見えたものが、爆発した。
 彼方の地平から曙光が一直線に俺の目を射ぬき、たじろいだ隙に脇をすり抜け、籠から解き放たれた鳥の群のように舞い上がった。
 壁に当たって砕け散った光は、汚いビルを黄金の王城へと塗り替え、まばゆい切片となって降り注ぎ、世界を暖めた。
『キラキラしてる』
 あの女の子の言葉がよみがえる。
 光。
 そうだ。俺が本当に描きたかったのは、形あるモノではない。この光そのものだ。
 つかめるのか。俺の絵筆で本当にこれがつかめるのか。
 畏怖におののいた。同時に圧倒的な歓喜に震えた。
 俺は、太陽が昇りきるまでベランダに立ち尽くし、それからキャンバスの前に戻った。


 玄関でカサリという音がする。
 琴音さんが朝ごはんをノブに引っかけてくれている音だ。
 朝と夜の二回。食べ終わったあとの食器は、今度は琴音さんのドアのノブに掛けておく。
 俺たちのつながりは、それだけ。顔も合わせないし、ことばも交わさない。
 だが、絶えず互いの息づかいを感じている。
 琴音さんはときどき、お風呂あがりや寝る前に、板で塞いだ壁の穴の前に立つ。ただ黙って、祈りながら立っているのを、まるで目で見るように感じる。
 たぶん向こうも、感じているはずだ。俺がキャンバスに向かうのも、寝ころぶのも、部屋中をイライラとうろついて歩くのも。
 光をテーマにすると決めたその日から、俺は描き続けた。描いては削り、描いては塗りつぶす。その繰返しはちっとも先に進まず、正直もうダメだと思ったこともあった。
 けれど、俺の頭の中には確かな何かが息づいていた。それがこの世界に産み出してほしいと、小さな声で叫び続ける。そのたびに俺はいたたまれない衝動を抱いて、キャンバスに向き直った。
 そのうち、担任の青木が怒鳴り込んできた。
「ばかやろーっ。出て来い。卒業制作を提出せんと、また留年だぞ」
 仕方なく高校に通うことにしたが、それは俺にとって良い気分転換になった。
 大学受験シーズンで授業はほとんど自習だったので、心おきなく机の上に突っ伏して寝られたし、職員室でお茶を飲んで、教師とダベったりした。
 帰りに高台の公園に上って、夕焼けが融け去り夜の帳が降りるまで、ずっと景色を眺めていることもあった。時には、一羽のハトを何時間もデッサンし続けた。
 形を取らない光のもやだったキャンバスの中に、数羽のハトが姿を現した。輪郭を持たず陰影だけでできた鳥たちは、天空の一点を目指して舞い上がろうとしている。
 学年末テストをすっぽかした俺だけ特別の追試があり、子どもの頃に屋根裏部屋で読みふけった本を引用して、テスト用紙の裏までびっしり美術論を書き込んでやった。
 卒業制作は、一時間で描いて出した。
 どちらも開校以来の優秀な成績だったらしく、俺はめでたく高校を卒業できることになった。
 卒業式では、青木が「世話を焼かせおって」と、ぐりぐり俺の頭を小突いた。
 こいつは俺が補導されたことに、ずっと責任を感じていたそうだ。だから俺が不登校でダブったとき、続けて担任をすることを買って出てくれたのだと、あとで聞いた。
「厄介者を追い出せるから嬉しいだろ」と憎まれ口を返したが、心の中ではかなり感謝していたりする。
 マンションに帰ると、ドアのところにケーキの箱と花束が置かれていた。花束は、あの駅前のフラワーショップの見覚えのある包装紙だ。たくさんの黄色のチューリップ。はにかんだ店主の笑顔が花の陰から見え隠れする。
 『彩音。卒業おめでとう』と書いて添えられた差出人の名もないカードを、その夜は抱いて寝た。
 それ以降は、ほとんど外に出ずに朝から晩までを絵に費やした。管理会社から頼まれたという工事の人が壁の穴をふさぎに来たけれど、パレットナイフを突きつけたら、もう二度と来なかった。
 部屋の中央に置かれたキャンバスは、まるで戸外に向かって開かれた窓だった。俺は何もせずに、その窓をじっと覗き込むだけの時間が次第に多くなった。
 そうすると時折り、「もっと羽根を広げたい」「ここに、もう少し黄色を足して」と囁きかけてくる声が聞こえるのだ。
 自分が絵を描いているのではなく、誰かに絵筆を動かされているという不思議な錯覚が絶えずつきまとった。
 606ミリ×500ミリのキャンバスに、たくさんの生命が息づいている。俺はその中で、いっしょになって、光の中ではしゃいだり、ころげまわったりしている。
 そんな夢を見て目が覚めた朝、唐突に終わったと感じた。
 絵は完成した。すでに俺の手を離れ、自身で存在している。
 俺は細い絵筆を取り上げ、画面の隅に署名した。自分の名をキャンバスに刻むのは生まれて初めてで手が震えた。
 【 Zion/K 】。
 「Zionサイオン」は、天国を意味する言葉。父と母とが俺を愛して、ふたりで付けてくれた名前だった。
 スズキ美術の若林に電話すると、ものすごい勢いで飛んできた。
 部屋に入るなり、じっと押し黙って何十分も絵に見入っていた。あまり長いので、立ったまま寝ているのかと思った。
「わたくしどもに、しばらく預からせてください」
 彼は振り返り、ひどく真面目くさった顔で言った。
「どうするの?」
「まずは、ニューヨークで来年開かれるトリエンナーレに出品します」
「パリじゃないんだ」
「トリエンナーレに出品することは、三年に一度のチャンスなんです。それに三十歳未満の新進アーティストだけを対象とした世界的コンクールは、他にはありません」
「ふうん」
 俺はパリじゃないと聞いて、たちまち興味を失った。「いいよ、あんたに任せるから。好きにして」
「ありがとうございます」
 若林は19歳のガキに向かって、深々と頭を下げた。


 キャンバスが運び出されていくと、俺はがらんとした部屋にひとり残された。
 胸の中には、まだ熱いものがくすぶっている。次のキャンバスが欲しい。世界が生まれるところをまた見たい。
 絵を完成させたことよりも、描きたいという思いが消えていないことが、何よりもうれしかった。
 煙草を探し出して一服くゆらしたが、すぐに消してしまった。久しぶりの煙草は、ちっとも美味くない。
 暗くなった頃、起き上がって壁の前に立った。
 この穴の向こう側に琴音さんがいる。二ヶ月前、『絵が完成したら、ドアをノックする』と約束して別れたきり、ずっと会っていない。
 コトリという音がした。たった今、琴音さんがマグカップをテーブルに置いた。
 彼女の細い指がカップの持ち手から離れ、ガラスの砂糖入れに伸ばされた。そんな光景まで、ありありと思い浮かべることができる。
 大きく息を吸い込んで、くっと拳を握りしめた。
 ベニヤ板は、壁に比べるとかなりもろい。前は回し蹴り三回だったが、今度は一回で十分。
 立ち込める埃とともに入ってきた突然の闖入者に、琴音さんは驚かなかった。
 椅子からゆっくり立ち上がり、「コーヒー飲む?」と訊ねる。まるで毎日会っているみたいに。
「うん、飲む」
「クリーム切らしてるの。ミルクでいい?」
 俺は椅子に腰かけると、湯気の立つマグカップを両手で持ち、一口含んだ。
「琴音さん」
 テーブルに両肘をついて身を乗り出した。「絵、完成した」
「おめでとう」
 彼女の素っ気ない答えに、俺は唖然とした。
「おめでとう? それだけ?」
「ええ。だって、私の待ってる人は、ドアから入ってくるって約束したもの」
「違わないだろ」
「全然違う。こんなことされたら、部屋の中また掃除しなきゃなんないし」
 俺は、彼女の不機嫌さに次第に苛立ち始めた。
「どうだって、いいじゃんか。廊下に出てチャイムを鳴らして待つなんて、そんなまどろっこしいこと、やってられねえよ」
「そう、あなたは何も変わっていないのね。彩音」
 と、怒りをこめた目でまっすぐに俺を見つめた。
「何わけわからないこと言ってんだよ。二ヶ月ぶりに会えたのに」
「相変わらず少しも辛抱できない、欲望のままに行動する子どもなのね」
 自分で自分のことばに感極まったのか、彼女はばんとテーブルを叩いた。
「もうあなたの母親役は、うんざりよ。セックスだって自分の都合ばっかり優先させて、女には時間をかけた気持の高まりだって必要なの。絵を描くことが何よ、そんなに人生の一大事なの。私と絵と、どっちが大切なのよ」
 頭がドラみたいにがんがん鳴っている。機関銃のような罵倒のせいではない。さんざん叫びながらも彼女の目にあふれ出す、水晶のような涙のせいだ。
 俺はたったひとつ腹の底から染み出てくる気持を、正直に言うしかなかった。
「好きだよ、琴音さん」
 それが合図だったかのように琴音さんはぶるりと身を震わせた。よろよろと近づいてきて、俺の首にむしゃぶりついた。
「彩音……彩音」
「会いたかった」
「私もよ……二ヶ月間あなたの立てる物音を聞きながら、寂しくて死にそうだった。あなたの食べた食器を洗いながら、何度飛んでいきたかったかわからない……卒業式だって、どんなに」
 あとは涙で聞き取れない。
 こんな子どものような琴音さんを見たのは、初めてだ。いつも大人びて冷静で、どんな事態にも動じないはずなのに。
「琴音さん」
 彼女の脆さに本当は気づいてた。それなのに見ないふりをして、いつだって完璧な母親という虚像を押しつけていたんだ。
「ごめん」
 謝らなければならないことがたくさんある。
 俺はたぶん、これからも頑固で子どもじみて、我が儘でひとりよがりだ。彼女よりも絵を優先させてしまうだろう。
 絵が描ければ有頂天で、描けないときは八つ当たりして、きっと何回も泣かせる。
 こんな男といれば、女は不幸になる。もし俺が琴音さんのためを思うなら、今のうちに、さっさと別れようと言うべきなんだ。
 それでも俺の口からボロボロこぼれてくるのは、正反対の言葉ばかりだった。
「琴音さん、お腹すいた。何でもいいから食べさせて」
「うん……すぐに作るね」
「でも、その前にもう限界。ヤらせて……ください」
 そのときの琴音さんの微笑は、まるで神々しい女神だった。
 俺は彼女を抱き上げると、テーブルの上にそっと座らせた。
 宝物を扱うみたいに服のボタンをはずした。
 そして熱烈な崇拝者として足元にひざまずき、彫塑のようになめらかな体に隅々まで口づけた。
   



 
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