CLOSE TO YOU

chapter4

踏切にて



 あるとウザいけれど、ないと寂しいものが、人生にはいろいろある。
 たとえば、踏切。マンハッタンには踏切が見当たらない。地下鉄や高架鉄道しか存在しないから、当然と言えば当然だ。

 琴音さんと近所のスーパーに買い物に行くときは、いつも踏切を渡っていた。
 ああ、しまった、また五分も待たなきゃなんないぞ、なんて愚痴りながら、バツ印の警報機を仰ぎ見る。
 かんかんという不協和音、点滅する赤い光。
 だめだ、だめだ、近づくなという警告が、ますます花の蜜みたいに人を引き寄せる。すぐ目の前を轟音を立てて走り抜けていく車両に、気を抜くと引きずり込まれてしまう。
 思わず強く握りしめる琴音さんの手のやわらかさと暖かさは、俺を確かな鎖で縛りつけた。

 イエローキャブがクラクションを鳴らしながら道路を猛スピードで駆け抜けていく。種々雑多な人間たちが横断歩道を早足で歩いていく。その流れの中に溶けてしまいそうになって、思わず琴音さんの手を捜している。

 けれど、隣には誰もいない。
 ああ。ここはニューヨークだった。




海底の
寝心地



 彩音がニューヨークに行ってしまってから、一週間が経った。受賞式が終わってからも、スポンサー主催のパーティや雑誌の取材など、いろいろ用事があるものらしい。
 スズキ美術の若林さんがついててくれるから大丈夫と思うけれど、突飛なふるまいはしていないか、心配。たとえば、地下鉄の車内が暑いと言って、上半身ハダカになってしまったり(一度、経験あり)。車道の真ん中で、スケッチしたいものを見つけて座り込んでしまったり(これは、未遂)。

 彩音がいないと、夜がとても長い。
 食事もスーパーの惣菜で簡単にすませるから、ますます暇をもてあます。

 壁の穴をくぐって、彩音のアトリエに入った。キャンバスや道具入れがぞんざいに隅に片付けてあり、部屋の中はがらんとしている。
 絵の具のしみだらけになったフローリングの上に、仰向けに大の字になって寝ころんでみる。パレットナイフを落とした床の傷が指の先に触わる。冷たくて、固くて、海の底に寝ているみたい。
 彩音の足音や、鼻歌や、笑い声が、ぼこぼこと泡になって、部屋の中に浮かんでいる。私は目を閉じて、その泡を追いかけて夢中で泳ぎ回る。




偽物の
世界



 世界中から集まった入選者たちは、いろんな形、いろんな色、いろんなサイズでできていた。
 暇さえあれば、機知とユーモアに富んだ、いかにも文化人的な会話を楽しんでいる。
 自己主張と相手への好奇心がよじり合わされ、巨大な渦巻きとなって俺まで巻き込もうとする。

 「きみの絵はすばらしい」
 「陰影のつけかたは、グリザイユ技法だね」
 「どこで、絵を学んだんだい?」

 俺は話しかけられるたびに、適当な英語とあいまいなフランス語で返していた。ときどき誰もわからないと思って、うんと卑猥な日本語も混ぜたら、隅のほうで若林が、思い切り顔をしかめた。
 「有名なディーラーや美術館関係者に会える、めったにないチャンスなんです。ここで人脈を作っておくかどうかで、将来が全然違ってくるんですよ」

 ああ、小さい頃から父親の姿を見て、よくわかってるよ。絵描きがどんな才能を持っていても、絵を描くだけではやっていけないのは。
 営業努力と追従めいた笑顔が、絵の具の次に必要なんだってことは。

 四階ホールの奥の一番目立つところに、俺の絵が飾られている。
 大賞受賞作 「光」
 なんだかウソっぽくて、俺は自分の絵をめちゃくちゃに破りたくなった。




来年咲く花



 ひらひらと、花びらが舞い落ちてきた。
 寒の戻りで長い間がんばっていた公園の桜も、そろそろ散り始めている。
 もう、何年目になるだろう。彩音と初めて出会ったのも、桜の季節だった。

 「とうとう今年は、いっしょに花見ができなかった」
 と電話で愚痴を言うと、
 「また、来年見ればいいじゃねえか」
 と暢気な声が、海の向こうから帰ってきた。「来年だって、再来年だって、一生死ぬまでいっしょに見られるって」
 「うん」と答えた。
 二十歳らしい真っ直ぐな答えはあまりに迷いがなさすぎて、三十歳の私はよけいに不安になる。

 本当に、来年あなたの隣に私は並んで立っているだろうか。
 ひらひらと、来年咲く桜の幻影が舞い落ちて、雨を待つ渇いた獣のように、私は空を仰ぎ見た。




間違い
街角



 なぜか毎朝五時になると目を覚ましてしまう。いわゆる時差ボケというものらしい。
 起き上がり、ヒゲも剃らずに、上着だけ引っ掛けて、ホテルを出た。
 セントパトリック寺院らしき尖塔を仰ぎ、ロックフェラーセンターらしき金色のオブジェを横目に眺め、無人のビジネス街をのし歩いて、さあ、ホテルに戻ろうと思うと帰り道がわからない。
 街角を曲がるたびに、どんどん正しい方向から反れていくっぽい。腹の突き出たプエルトリコ人の清掃員が「どうした」と話しかけてきた。
「家に戻りたいけど、道がわからないんだ」
「住所は?」
「トーキョー」
 彼はいたましげな顔つきになって首を振り、「グッドラック」と言い残して去っていった。
 それからずっと闇雲に歩いていると、セントラルパークに突き当たった。
 起き出す時刻を見はからって若林に電話し、迎えに来るまでの時間を、公園の遊具に腰かけて緑の森を見て過ごした。

 俺はたぶん、幾度も曲がる角を間違えてきたんだろう。
 だからこそ、琴音さんに出会えた。そう考えれば、間違えるのも悪くない。




胡桃割り人形の
錯乱



 山の手線の電車に乗り込んですぐに、彼を見つけた。神経質そうな横顔は、私のほうを向いたとたんに、こわばった。
 智哉は、私の元婚約者。直前になって結婚をとりやめた相手だ。
「……お久しぶり」
 紺のスーツの胸には、かつて私も勤めていた会社の社章。見覚えのあるネクタイ。少し太って、少し歳を取った以外は、何も変わっていない。
 あまりの気まずさに、次の駅で降りようかとも思ったが、取引先に向かう途中なのでそうもいかない。彼も同じだろう。
 午後イチの車内はガラガラに空いていたので、どちらともなく隣り合って座った。
「どうしてるの」
 ふたりのあいだに自然にできた二十センチの隙間が、三年の歳月と心の距離を表わしている。
「有紀と結婚したよ」
 私と智哉が別れる原因となった女性の名前。
「もうすぐ、子どもも生まれる」
「そう。おめでとう」
 智哉が幸せになったことを喜んでいるのに、心からの祝福を伝えたかったはずの言葉は、なぜかみっともなく声がかすれていた。
「めでたいはずないだろう。有紀はどこまで行っても、日陰の身だ。式も挙げていない。ことあるごとにおまえと比較され、今でもおまえの幻影におびえている」
「まさか、どうして」
「どうして? いい身分だな。人をさんざん不幸にしておいて、自分は新進気鋭の画家さまのそばにぴったりくっついて、アゲマン気取りか」
 押し殺すような声で言い終えた智哉は、私に視線をぶつけることもなく、ただひたすら真正面を向いていた。
「……ごめんなさい」
 その後はひとことも言葉を交わさずに、私は自分の降りる駅で降りた。
 喉がカラカラで、汗をびっしょりかいていた。道を歩く足取りも、営業用の笑顔も、カクカクと動く木彫りの人形みたいだった。
 そのくせ、体の深いところが、じんとうずいている。彩音に満たしてもらったはずの場所は、いつのまにか、ぽっかりと胡桃のような空洞ができていた。




飛行船群の襲来



 アメリカへ来て、もう二回も飛行船が空を飛んでいるのを見た。
 最初はたまげた。俺は子どものころ引きこもりだったから、生まれてから今まで一度もそんなものを見たことがなかったのだ。
 真っ青な空に目がつぶれるくらい鮮やかな赤の広告。灰色の都会じゃなく、緑の森の上を飛んでいたら、色のコントラストは、さらにすごいだろうな。
 この国は、マーケットで売っている果物も、ジュースもキャンディも色が派手だ。鮮やかで強烈で、すべてが巨大で、はなやかな芳香を放ち、熱帯のジャングルを歩いているみたいだ。

 トリエンナーレの出展作品を見て回っていると、一枚の絵に興味を引かれた。
 灼熱の砂漠の上に広がる、血がしたたるように赤い夕焼け。預言者エリヤの火の馬車が軍団をなしてやって来たって、これほどじゃない。
「大賞受賞者が、僕の絵に興味があるとは、光栄だね」
 振り向くと、薄い口ひげを生やした赤毛で碧眼の男が立っていた。絵のプレートには、アンドルー・M―、アメリカ人とある。
「どこが、気に入ってくれた?」
「色がすごい。普通の絵の具じゃ、この色は出せないな」
「シルクスクリーンだよ。版画の一種」
「版画?」
「この近くに、優秀な刷師のいる版画工房があるんだ。若手の版画家がたむろしてる」
 「行ってみる?」と、出来の悪い生徒に居残り授業を命じる教師みたいに、彼は鷹揚にほほえんだ。




読書の
残骸



 どうしても眠れないので、本を読むことにした。
 はらり。
 ページを繰る音が好き。一枚めくるたびに、違う世界へ行けるような気がする。過去あるいは未来へ。それとも、どこにもないステキな場所へ。
 けれど、今はその恩恵も受けられない。

 昨日、電車の中で偶然智哉と再会してからずっと、三年前のあの地獄のような日々のことが頭を離れない。
 彼を愛していた。同時に彼を恐れてもいた。だから、ああいう手段で逃げるしかなかった。
 けれど、挙式二週間前の突然の失踪という無責任きわまりない行動の結果、智哉と彼の両親、まして当事者である私の両親は、どれほど招待客に頭を下げて回っただろう。どれほど周囲の好奇と非難の目に耐えなければならなかっただろう。
 私のしたことは今でも、私の一番大切だった人たちを苦しめている。

 地図も道標もない迷路から抜け出すために、またページを繰る。
 この三年間、私の生活は彩音で満たされていた。彼がいれば何も怖いものはなかった。なのに、今の私はすっかり穴だらけになって、すきまからどんどん昔なじみの苦い思いが染み込んでくる。
 そのたびに、私の一部が雲母のように剥がれ落ちていく。
 はらり。
 はらり。




不響輪音



「シルクスクリーンは、セリグラフとも呼ばれ、アメリカが発祥の地なんだ。アンディ・ウォーホールは知ってるだろう」
「知らない」
 高校で芸術コースとか通ったけど、行ってもほとんど寝てたもんな。親父の家にも、現代美術の本は置いてなかった。
 ドルーは、実に親切に、時間をかけて説明してくれた。
 世の中にはときどき、こういうやつがいる。苦労をいとわずに、教える立場に回ることを生きがいだと感じる人種だ。だから、俺みたいに何も知らないことは決して悪いことじゃない。いわば人助けをしているみたいなもんだ。
「原画を何枚も、ときには何十枚もの版に分けて、色を重ねていくんだ。ホクサイやウタマロと同じ。違うのは、写真製版であることかな」
 版画工房の中は、音が満ちていた。
 それほど広くない部屋の中には、いくつもの作業台や製図台や画材の棚がところせましと置いてあって、隙間をすり抜けるようにしなければ、奥に入れない。
 隅でひとりで黙々と作業しているやつ、何人かでパソコンを覗きこみながら大声で議論している連中。
 紙、布、ガラス、陶器、金属板など、あらゆる素材が山積みになっていた。巨大な機械がうなりをあげながら絵をスキャンしていた。
「版画にはいろんな手法があるけど、セリグラフはもっとも大きな可能性を秘めていると僕は思う。印刷される素材を選ばない。油絵の具やプリント用インクを混ぜることで、鮮やかな色も、淡いグラデュエーションも自在に作り出せる。塗り重ねることによって厚みを増し、平板にも立体的にも、思いのままに表現できる」
 キャンバスに絵を描くという静かで孤独な戦いとは全く異なる、にぎやかで活気のあるお菓子工場のような世界。頭の中でメリーゴーラウンドのように音がくるくる回って、俺は酔っぱらいそうな心地になった。
「油絵だけ、というのはもう古い。芸術は絶えず、新しいツールを求めている」
 彼は、新世界に降り立った宣教師が原住民に対するように、おごそかに確信をこめて言いつのった。
「ただ、そのために必要なのは、優秀なプリンター(刷師)と組むことだ。その幸運がここにはある」
 彼が伸ばした手の指し示す先では、小柄な眼鏡の女が一心不乱にゴムべらを動かしていた。
「サイオン。僕たちの女神、アンジーを紹介するよ」




ゆらりゆらら



 昼休みに、若林さんから来たメールを開けてみて驚いた。彩音を残して一足先に帰国したという。
「どういうことなんですか」
 なじるような調子になっている自分が止められない。
『版画の技法を学ぶために、もう少し滞在を延ばしたいのだそうです』
「版画?」
『今は、版下にする原画にかかりっきりらしくて、現地の工房に入りびたっています』
 いったん創作に入った彩音は、何を聞かれても、ろくに返事もしなくなる。若林さんは次の仕事を控えて、さぞ弱ったことだろう。
「ありがとうございました。後はこちらで、なんとかしますから」
 とってつけたようなお礼を言って電話を切り、茫然とする。
 つい数日前まで、あれほど日本に帰りたがっていたのに、いったい何が起きたのだろう。
 彩音の携帯にかけてみるが、すぐに録音に切り替わる。何度やっても同じ。
 ニューヨークは今、夜の十時過ぎだよ。まだ絵を描いているの。どこで寝るの。ごはんは、ちゃんと食べてるの。
 帰れないことを、どうして一番最初に私に連絡しようとは思わなかったの。
 涙があふれて、携帯の待ち受け画面にした彩音の絵が、ゆらりゆららと細波を立てる。
 彼にとって、絵を描くことが何よりも大事で、私は二の次だ。最初からわかってはいるけれど。
 わかっては、いるのだけど。
 彩音。今だけは、私のそばにいてほしかった。




沈殿都市



「これを、刷ってほしい」
 勝負とばかりに、俺は描きあげたばかりの水彩画を、アンジーの前に置いた。
 三日間ほとんどホテルに閉じこもって、ひたすら描いていた。この前、眠れずに街を歩き回ったときに目に焼きついた夜明けのセントラルパーク。
 黒々とうずくまる森を足下に置き、空に向かって伸び上がる摩天楼の頂は、朝焼けの雲を映し、まるで海の底に沈んだ尖塔の群れのように見えた。
 はるか昔に失われた古代の光の神殿だ。
「で、何枚刷る?」
 素っ気ない声が返ってきた。天井の青白い蛍光灯を反射した眼鏡のせいで、彼女がどんな表情をしているのかわからない。
「さあ。だいたい何枚刷るもん?」
「資金によるわ。基本は三十枚」
「じゃ、それでいい。カネの話は全部、スズキ美術の若林にしてくれよ」
「わかった。明日からとりかかる」
 違う。
 俺の聞きたいのは、そんな返事じゃない。
「アンジー。ほんとに、この絵を刷りたいと思ってるのか?」
 彼女は、金色のポニーテールを揺らして振り返り、にやっと笑って拳を突き出した。
「早くスキージ(ゴムべら)を握りたいって、こいつが言ってるわよ」
 俺は隣にいたドルーと、右手のひらを打ち合わせた。
 彼が世界最高の刷師だと絶賛するアンジーは、まだ25歳の女だ。彼女の握るスキージは正確で繊細で、0.1ミリ単位だって絵の具を塗り分けられる。俺は彼女の仕事の現場を見て、衝撃を受けた。
 俺の絵を、彼女の手にゆだねたい。ばらばらに分解され、彼女の目を、指を、脳をとおして、組みなおされて新しい形になって生まれ変わる絵を見たい。
 はじめての体験に、俺は興奮していた。摩天楼のてっぺんに登ったくらい有頂天になっていた。―ー琴音さんのことを忘れてしまうほどに。




空中花



 前触れなく、着信音が鳴った。
「彩音。今どこなの」
「ニューヨーク」
 眠そうで素っ気ない返事に対抗するように、私は低い一本調子の声で問いかける。
「いつ帰ってくるの」
「当分は、ムリかな」
 眼の奥がけいれんして、世界が揺らいだ。
「どうして……、そんな予定じゃなかったでしょ。個展の準備があるからって、一日でも早く帰らなきゃって―ー」
「琴音さん」
 私の訴えなんかまったく聞いていないかのように、彼はことばを遮った。
「毎日が、新しいことばかりなんだ。一番いい色の組み合わせを決めるのに、何時間もかかってテストする―ーまるで混沌から星をひとつ創造するみたいな緻密さで。俺の絵のために、工房にいるみんなが真剣に議論してくれる。俺、今最高に幸せなんだよ」
 じゃあ私は、どうなるの? 私は今、最高に不幸よ。
「……そういうの、よくわからないわ」
「たぶん理解できないよ。だって琴音さんは絵描きじゃないし」
 タブン、理解デキナイヨ。
 深い、底のないひび割れが、私と彩音のあいだに音を立てて走ったような気がした。
「気のすむまで……好きなようにすればいい!」
 オフキーを押し、私は扉を押して、夜の街に飛び出した。
 駅前のフラワーショップでは、店長さんが、バケツを店内に運びこんでいるところだった。
「あら、こんな時間にどうしたの」
「吉永さん、お願い」
 どんなのでもいい。売れ残った花を全部ゆずってちょうだい。
 私は抱えられるだけの花束を、家に持ち帰った。
 壁の穴をくぐり、彩音のアトリエに入って、しばらく荒い呼吸をしてから、腕の中の花を全部、空中に放り投げた。
 さまざまな色と香りで創造された混沌。私はその中に座りこんで、泣いた。




オレンジ色の人



 アンジーはまず、俺の原画を下敷きにし、同じ色の部分だけトレースしていった。色調ごとに何枚もの版に分けるためだ。
 できた版ごとに色を調合する。俺がアクリル彩色で塗った朝焼けを忠実に再現するために、ありとあらゆるオレンジ色を調合した瓶が棚に並んだ。
 感光乳剤、紫外線、洗浄という工程を次々と手際よく行うさまは、化学者というよりは魔女みたいだ。ウォルマートで買ったTシャツに、はちきれそうな胸を包んだ、現代の魔女。
 彼女は、俺の絵の猛烈な崇拝者だった。ときには、猛烈な告発者にもなった。
 早朝のダイナーで、人目もはばからず怒鳴り合ったこともある。俺の手の甲にはいつのまにか、ひっかき傷ができていた。俺も彼女を一発ぐらい叩いたかもしれない。
 版を重ねるにつれて、暁が絶妙のグラデーションを造り出す。
 その様子を眺めるたびに、みぞおちがたぎった。行き場のない熱が体の奥から湧き上がり、皮膚の下を駆け巡った。
 とても甘美で、おそろしい二週間が過ぎた。自分の生命を削った火花が見えるようだった。
 153版目を刷り終わったとき、アンジーは「終わったよ」と俺にほほえんだ。
 一枚一枚に「Zion / K」の署名を入れ、鉛筆で余白にエディションナンバーを入れていく作業が終わると、俺は精根尽き果てて床に寝ころがった。その隣にアンジーがぴたりと体を寄せてきた。
「おめでとう」
 髪を結んでいたゴムがはずれ、長い金髪がオレンジのインクだらけの床に広がる。「あんたの絵をこの手で刷れて、幸せだよ」
 俺は深海の水圧に抗うように体を起こした。そして、アンジーの上に身をかがめ、唇を重ねた。




暗夜回路



 泣き明かした夜が終わろうとするころ、私は立ち上がり、明かりをつけて、アトリエの床に散らばった花を拾い集めた。
 花は無残に折れ、しおれていた。
「ごめんなさい、あなたたちに八つ当たりして」
 自分だけが不幸だと思いこむ人は、まわりをどんどん不幸にしてしまう。
 花粉だらけの床をモップで拭き終えてから目を上げると、壁に、彩音が絵の具でつけた手形を見つけた。
 こんなもの、以前はなかった。アメリカに行く直前に書いたのだろうか。おそるおそる近づくと、指の長い大きな手のそばに、小さな鉛筆のラクガキ。

『琴音さん。愛してる。俺がどこにいても、何をしても、俺を愛して』

 思わず笑ってしまった。笑いながら泣き、最後は大声で泣いた。
 なんて身勝手な言い草。子どもじみて、ひとりよがりな言い草。こんなセリフでついてくる女がいたら、お目にかかりたい。
 そんなバカな女、私以外には絶対にいない。
 自分の部屋に戻って、熱いシャワーを浴び、炊きたてのご飯と熱い味噌汁を胃に詰め込んだ。
 ばかばかしい。泣くのは、もうやめた。
 私は彩音の帰りを待つ。彼がどこにいても、何をしていても、私は彼の帰りをここで待っている。
 私の中には、智哉と付き合っていたときに徹底的に刷り込まれた、自分ばかりを責める堂々巡りの思考が住みついていた。
 私が悪いから。私がいたらないから。魅力がないから。
 十歳も年上だから。
 そんなものに囚われ続けるのは、もうきっぱりとやめよう。
 どこへも通じていない暗い夜を後ろに置き去りにして、前に進む。彩音が描いている、あの暖かな光の中にいっしょに飛び込むために。




可憐な罠



 弁解すれば、俺にとってアンジーとのキスは、動物の子どもが互いの毛を舐めるような、ごく自然な行為だった。
 二週間、ひとつの完全な世界を創り上げるために、ともに苦闘した戦友同士。感謝と尊敬と。高揚と解放感と。
 ほんの少しの征服欲もあった。
 夜更けの工房の中、俺たちは丸太みたいにゴロゴロころがって、ふざけあった。
 いっときの興奮がおさまって起き上がろうとする俺の首に、彼女は腕を回した。
「サイオン。次の絵も一緒にやろう。その次も。あたしたち、ずっと一緒にタグを組もうよ」
 それは、魅力的な誘惑だった。
 彼女の刷師としての腕があれば、俺はさらに素晴らしい作品を生み出せる。この街から世界中に俺の絵を発信することができる。
 眼鏡をはずしたアンジーの碧い瞳がうるんだように、見上げている。俺はもう少しで、その中に堕ちそうになった。
「ダメ」
 大きく息を吸い込んで、全身の毛穴から拒絶のことばを吐き出した。
「この一作だけでおしまいだ」
「なぜ」
「俺は、日本に帰る。大切な人がいるから」
「あたしと絵を創るよりも、大切なの?」
「うん」
 アンジーは埃をはらって立ち上がった。「なあんだ、がっかり」
 工房を出たとたん、イーストリバーから冷たい風が吹きつけ、俺の体によどんでいた熱の塊を、ひとつ残らず剥がしていった。
 携帯を開くと、昨日の日付でメールが入っていた。
『ええ、彩音。あなたを愛してる。あなたがどこにいても、何をしていても』
 ああ、琴音さん。
 なんて周到で狡猾な罠なんだ。素敵すぎる。これじゃ、男は絶対に逃げられないよ。
 夜明けを迎えようとする藍空を仰ぎ、俺は両腕を伸ばした。背中から翼が生えて、今すぐにだって日本へ飛んで帰れそうな気がした。




音符の
行進



 彩音にメールを送ったあと、すぐに実家の番号をダイアルした。
 留守録に切り替わる。両親は私からだとわかると、絶対に受話器を取ってくれない。
「お父さん。お母さん。琴音です。ご無沙汰しています」
 くじけそうになるのを堪える。今ここではっきりと自分の気持ちを伝えなければ、私は前に進めない。
「このあいだ、電車の中で智哉さんに会いました。有紀さんと結婚したことも知りました。あらためて、私はまだ彼から赦されていないとわかった。でも、それでいいと思っています。もし彼のそばに居続けたら、私は私でいられなかった。自分を殺し続けて、からっぽになってしまった。だから、自分の選択を後悔していません」
 さっきまで、あれほど泣いてばかりいた同じ喉とは思えないほど、晴れやかな声が出てくる。
「私は、彩音のそばで一番私らしくなれる。……ごめんなさい。お父さん。お母さん。私のせいで苦しい思いをさせてしまいました。私のことはもう忘れて。でも、どうしても、ありがとうって伝えたかった。それじゃ――」
『琴音。切るな、琴音!』
 唐突に、受話器の向こうから父の叫びが聞こえてきた。
「お父さん……」
『この三年間、智哉くんと彼のご両親と接していて、あの人たちがどういう人たちか、ようやくわかった。じわじわと他人をおとしめ、縛りつけ、意のままに操ろうとする。もし、あの家に嫁いでいたら、おまえは大変な目に会っていた』
「お……父さん」
『僕たちは、おまえの心をわかろうとしていなかった。智哉くんのうわべしか見ていなかった。赦してくれ』
 泣きじゃくる私の耳に、かすれた小さな声が届いた。
『母さんが、毎日会いたいと言って泣いている。一度、顔を見せてくれないか』

 握りしめた携帯の画面には、いつのまに押さえたのか、シャープの記号がたくさん並んでいた。
 ――半音上へ。少しだけ上へ。




最後の
楽団



 工房へ入ると、アンジーとドルーが製図台にもたれ、抱き合ってキスしていた。
 ああ、そうなんだと思った。そう言えば、最初にドルーが言ってたっけ。
『サイオン。僕たちの女神、アンジーを紹介するよ』
 彼女は、ここにいるみんなの女神だったんだな。
「俺、今夜の飛行機で東京に帰ることにした」
 彼女は俺を見て、困ったような顔をした。
「まだ絵の引き渡しはできないよ。乾くのに、しばらくかかるから」
「一枚だけ、持って帰れればいい。あとは全部、きみにあげる」
 俺は、ナンバー1と書き入れた版画を見つけ出して、慎重に梱包して、バッグにしまいこんだ。
「世話になった」
「さよなら」
「元気でな。サイオン」
 彼らの声は、ひどくよそよそしく、他人めいていた。俺はもう彼らの仲間じゃない。
 あれほど笑い合い議論し合い、活気に満ちて輝いていた工房の中は、朝の光の中で妙に白っぽく色あせて見えた。
 ミューズたちのかけた魔法は、解けたのだ。もうこの街に、俺を引き留めるものは何もない。
「じゃあ」
 オーケストラの最後のひとりがステージから降りるように、俺は静かにドアを閉めた。




増殖する



『琴音さん、今ニューヨークの空港に着いたところ。愛してる』
『今、成田に着いた。すぐ電車に乗るから、あと一時間。愛してる』
『機内食、ゲロまずかった。琴音さんの作ったご飯が死ぬほど食べたい。愛してる』
「愛してるの大安売りだね。版画だって、印刷枚数が多いと、それだけ値打ちが下がるんでしょう?」
『限定枚数一枚、絶対にそれ以外は刷らないから』
「あ、そうそう。新作の版画を全部向こうの工房に譲ったって聞いて、若林さん悲鳴あげてたわよ。工房には、別刷りを渡す契約になってるんだって」
『あー。そういえば、P.P.(プリンターズプルーフ)っていうのにサインした』
「すぐにニューヨークに飛んで、取り戻してくるって。彩音、そういうの、もっと慎重にならなきゃダメだよ」
『どうでもいい。琴音さんさえ、そばにいてくれれば』
「調子いいんだから」
『愛してる、愛してる、琴音さん、愛してるーっ!』
「ちょっと待って……そこ、どこ?」
『東京駅のど真ん中』




暁の真ん中で



 部屋に入ったとたん、なつかしい匂いに包まれた。
 甘やかな、琴音さんの匂い。俺はようやく、自分の居場所に帰ってきたんだ。
「疲れたー。もう飛行機なんか、二度と乗らねえ」
「はいはい。とりあえず、ご飯にしようか。受賞祝いのご馳走よ」
 台所に立とうとする彼女を、俺は引き戻して、背中から抱きしめた。
「ただいま」
 記憶にあるより細くて小さな体に愕然とする。琴音さんは、この一カ月でこれだけ痩せたんだ。
 電話の向こうの泣きそうな声を思い出す。俺はちゃんとその声を聞いたはずなのに、頭の隅に追いやった。絵に夢中になって、大事なことを忘れていた。
 一生離れないって約束したのに、俺は約束をやぶった。琴音さんがいなければ生きていけないのは、俺のほうなのに。
「ごめん」
「彩音。泣いてるの?」
「ひとりぼっちにして、ごめん」
 彼女の良い香りのする髪にキスした。存在を確かめるように、うなじを幾度もたどった。
「いいの、ちゃんと帰ってきてくれたから。それに」
 琴音さんは背中をのけぞらせ、両手を伸ばして、俺の髪をくしゃくしゃに乱した。
「ふたりでいるときは、全然回りを見ようとしていなかったのだと思う。面倒なことは全部うやむやにして放っておいて、そのツケが、いっぺんに押し寄せてきた感じの一ヶ月だった。でも、ひとりで問題に立ち向かうために、私には必要な時間だったの」
 彼女は魚みたいに体をするりとひるがえし、俺をまっすぐに見上げて毅然と、女王のようにほほえんだ。
「彩音。おかえりなさい」

 俺たちはそのまま体を重ね、琴音さんの用意したご馳走を腹いっぱい食べて、それでも満たされない飢えを満たすために、もう一度体を重ねた。
 琴音さんの寝物語は、何度も俺を崖の底へと突き落とした。
 たとえば、智哉に電車の中で偶然会って、昔話がはずんだこととか。ご両親と和解して、久しぶりに実家に帰った席で、結婚は当分しないと宣言したこととか。
 俺はまだまだ、智哉の幻影に勝てない。結婚にふさわしい男じゃない。暗黙のうちに、そう宣言されているようだった。
 琴音さんの心と体を完璧に自分のものにするまで、俺はあとどれだけ崖をよじのぼり続けることになるんだろう。

 夜が明けるころ、旅の荷物を開けた。
「ニューヨークって、何もないところなんだ。踏切もないし、飛行船がビルのてっぺんに引っかかって、ときどき落ちてくるし」
 俺は持ち帰った版画を取り出し、体を椅子がわりにして、彼女を座らせた。
「でも、この朝焼けを見たとき、これだけは絶対に琴音さんに見せたいと思った」
「きれい」
 と琴音さんは、うっとりとため息をつきながら丹念に見てくれる。「自分で見るよりも、彩音の目を通して見たほうが、きっと何倍もすてきよ」
 ああ。俺のこの絵は、やっと今ここで完成した。
「いつか、本物のセントラルパークを、いっしょに見に行きたいな」
「さあ、いつのことかしら」
「いつだっていい。俺たちは一生いっしょなんだから」
 琴音さんは、俺の腕の中にゆったりと身を預けた。「うん、一生いっしょだね」

 俺は彼女の手の甲に口づけてから、版画にサインするように、指文字を書いた。

              『Zion/K   1/1』




      (了) → あとがき