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  今回の予告は……

   人の心は複雑怪奇。回帰するのは、悲しい記憶。
   過去を振り返っていると、主人公を取り巻く人々が訪ねてくる。
   彼らが心に抱いているのは、信頼か裏切りか、友情か打算か。
   そして、突然走り出す主人公。その理由は?
   ちょっぴり明るい未来がやってきたと思ったら、
   ラスト一文で奈落に落とされる主人公の運命はいかに。



Side DOUGHNUT   第2話 「ツイスト・ドーナツ」

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「放課後、緊急召集」
 牧村由香から、下坂と高野の携帯に素っ気ないメールが届いたのは、昼休みのこと。
 部活・掃除・先生の呼び出し、全部すっぽかして彼女の自宅に向かった。
 わがままで気が強く、おまけにすらりとした美人である。召集に応じないと、どんなムゴい目に会うかわからない。高野直己はこの同級生のことをひそかに「ドロンジョさま」と呼んでいる。
 往年のアニメの悪役一味の女ボスの名前を、今ドキの高校生が知っている不思議はさておき、自分たちのことを「手下のボヤッキーとトンズラー」に見立てるところは、やや卑屈ながら、的を射ているのは確かである。
 駅から十分ほど上った山の手の住宅街の、庭付き一戸建て住宅。由香の家に入ると真っ先に、ガラス窓が無事なのを確かめて、下坂はほっと胸をなでおろした。ちなみに下坂亮太の家は、家族で住建会社を営んでいて、半年前ひそかにここの割れたガラスを交換したのも、彼と彼の兄なのだ。
「お役目ご苦労」
 玄関で、タンクトップとタイトスカートの私服姿に着替えた由香が出迎えた。
「まあ、入って。茶ぁくらい出してやる」
 居間に入ると、由香の母親である牧村香澄が、ソファの上でクッションを抱えながら、ぽけっとした顔で座っていた。
「あ、下坂くん、高野くん、……いらっしゃい」
「どうしたんですか、香澄さん。泣きはらした目をして」
 高野の問いに、麦茶のコップを持ってきた由香が代わりに答える。
「それがねえ。不倫が失敗したらしいのよ」
「不倫?」
「ホテルまでは漕ぎつけたんだけどねえ。相手の男がどうしようもないクソヤローで、避妊さえさせてくれなかったんだって。だからセックスの途中で逃げてきたらしい」
「ほええ」
 あまりに生々しい状況を想像させることばの羅列に、体格のよい下坂なんかは、早くも下半身をもぞもぞさせている。
「う……う」
 香澄は、また悲惨な夜を思い出して、ぐしょぐしょのハンカチを目頭に当てた。
「ごめんなさい。由香にはアリバイ工作までしてもらったのに。全部ムダにしちゃって」
 そう、実は、香澄が夫に内緒で三雲とのデートをセッティングできたのは、娘の由香が架空のPTA旅行をでっちあげて、誤魔化してくれたからなのだ。
「いいのよ、いいのよ。ママ。ヘンな男に引っかからなかっただけマシ」
 慰めるように母親の肩をぽんぽんと叩くと、女王は手下に向かっておごそかに言う。
「だから、わがMRAメンバーに今日集まってもらったのは、また元通り自信喪失しちゃったママを励ますためなの」
 MRAとは「ママ再生同盟」と思われる単語を、由香が無理矢理辞書から引っぱってきて命名した、要するに「母親・香澄の女としての自立を応援しよう」という会合なのであった。
 ことの起こりは、半年前にさかのぼる。

「牧村さん。ご依頼のご主人の素行調査の結果ですが」
 いったん口をつぐんでパソコンから目を上げると、太った探偵はソーセージのような指を、長年使い込まれたデスクの上に組んで話し始めた。探偵ということばから想像するより、ずっと若い。まだ20歳そこそこなのではないかと思われる。
「単刀直入に言いまして、ご主人はシロですな」
「シロ?」
「この二週間の尾行から見る限り、ご主人の生活には、まったく女性の影は見当たりません。お疑いのようなことはないと、かなりの確率で申し上げられますな」
「でも……」
 依頼主の女性は助けを求めるように、コーヒーを運んできた少女(こちらは、驚いたことにまだ中学生にしか見えない)に、思わず視線を向けた。少女は屈託のない笑顔でニコッと笑う。
「よかったですね。ご主人が浮気をしてなくて」
「ええ……」
「もしご不審なようなら、さらに調査を続行することも可能です。ただし規定の追加料金がかかりますが」
「いえ、それはもう。本当にありがとうございました」
 顧客が出て行ったあと、少女は不思議そうにつぶやいた。
「へんだね、先生。ご主人への疑いが晴れたのに、あの人ちっともうれしそうじゃないよ」
「死んだオヤジがよく言ってたよ。探偵をしてると、人間はいろんな思いの中で生きてることがわかるってさ。浮気であるとわかったほうが、いっそ心が楽、ってこともあるんだろう」
 そのとき、ジリリと目覚まし時計の音が鳴り響いた。
「あ、お昼の時間だ、先生。今日の「大正亭」の日替わりは、「ミンチカツ定食」だったよ」
「むひょっ。それじゃあ混まないうちに、さっそく出かけよう」

 浮気じゃなかった。
 香澄は途方に暮れた。それでは、いったい夫の私に対する態度はなんなのだろう。
 夫の勇作と結ばれて、ちょうど今年で20年になる。
 ドラマに出てくるような、運命的なひとめぼれだった。まだ大学生だった香澄にとって、7歳年上の社会人の勇作は、同い年の男など尻尾を巻いて逃げ出すほど大人で、男らしく見えた。短大卒業を待ちかねるように結婚。2年後に由香が生まれ、ずっと満ち足りた幸せな生活を送ってきたはずだった。
 それがどうだろう。
 今年47歳の夫は、会社で責任ある職についているせいか、毎晩帰りは深夜で、休日も接待ゴルフだと言って家によりつかない。特にここ数年はベッドで妻を抱くのも、まるで交差点の出会いがしらの事故、という頻度だった。
 まさか、と疑心暗鬼に駆られた香澄は、探偵に夫の浮気調査を依頼するという賭けに出た。もし事実なら、どうすればよいかわからない。でも、泣いたりわめいたりして取り乱すのだけはイヤ。それなりの冷静な行動を取ろうと覚悟を決めた。
 判明したのは、夫には不倫の事実はないこと。
 しかし香澄は、却って憤りの持って行き場がなくなってしまった。
 ますますモヤモヤした気持ちを抱えていたところに、夫からのとどめのひとことが降りかかる。
「ママぁ。ちょっと、それ」
 夫はその日曜、たまに家にいるかと思えば、朝からごろ寝を決めこんでいた。尻をポリポリかきながら、足のつま先でテレビのリモコンをチョイチョイと指す。
 すぐそこじゃん、自分で取れ。
 と、口に出したくなるのを我慢して、香澄は答えた。
「私は、いつからあなたのママになったの」
「じゃあ、奥さん」
「それじゃ、まるで新聞の勧誘員です!」
「だって、もうずっと昔からママ、パパって呼び合ってるじゃないか」
「それは由香が小さかったから。由香も一人前になって結婚してこの家を出たら、私たち、夫婦だけで向き合う生活に戻るのよ。結婚したときみたいに、男と女として」
 だから、ちゃんと名前を呼んでほしい。女として扱ってほしい。
「もう今さら、そういう気分になれないよなあ」
 夫はめんどくさそうに、あくびをしながら答える。
「もう、この歳になると夫婦って、男と女というより茶飲み友だちだろ」
「ちゃ、茶飲み友だち?」
「性別なんか関係なく、つかず離れずの仲。老後はそれぞれ、のんびり自分のしたいことをすればいいんじゃないか?」

 夫のホンネは、「もう妻は女ではない。恋愛の対象にすらならない」。そういうことだった。
 そのことにショックを受けた香澄は、それでもまだ数日は持ちこたえていたが、ある日ぷっつりとキレた。
 それは、由香のためにおやつのドーナツを手作りしていたときだった。真ん中をくりぬくドーナツ型を見つめているうちに、まるでそこから生産されるお菓子が、自分の心の鋳型のように思えたのだ。
 「奥さん」「○○ちゃんのお母さん」「オバサン」と呼ばれ、誰からも女と認められず、ぽっかりとした空洞を抱えたまま年老いていく、寂しい女。
 気がつくと、衝動的にハンマーを持ち出し、居間の窓ガラスを叩き割っていた。
 それを夫に知れないように迅速に処理してくれたのが、由香、そして同級生の下坂と高野だったというわけだ。

「まったくね、世話が焼けるったらありゃしない。学校から帰ってきたら、ガラスは粉々、ママはわんわん泣いてるし、気がふれたのかと思っちゃったわよ」
 由香はそのときのことを回想しながら、香澄の手作りのツイスト・ドーナツを齧った。ドーナツは由香の何よりの大好物だ。そういえば、あれからママは穴の開いたドーナツを作らなくなったな、とあらためて思い当たる。
 そしてそれからの半年というもの三人は、香澄がひとりの女性として再生するためのブレーンとして、アドバイスに当たってくれているのだ。香澄の趣味であるトールペイントを活かしての再就職から、恋愛のノウハウにいたるまで。
「それにしても、ひどい男に当たってしまいましたね、香澄さん。だいじょうぶですか」
「ごめんね。ふたりとも」
 香澄は年甲斐もなく子どものように泣いている自分に気づいて恥ずかしくなったのか、それとも、娘と同じ世代とは言え、まがりなりにも男性に慰められたことが嬉しかったのか、無理に微笑むと涙をぬぐった。
 そんな母親を、由香は頬杖をついてじっと見ている。
「ママはだいたい、いまだにシンデレラ願望から抜けきっていないのよ。幸せは誰かが運んでくれる、ってヤツ」
「僕はコレット・ダウリングの「シンデレラ・コンプレックス」より、それより時代は少しさかのぼりますが、エリカ・ジョングの「飛ぶのが怖い」の影響を、香澄さんの中に感じますね」
 どちらかというと小柄で童顔の高野は、とんでもない記憶力の持ち主だ。古今東西の雑学が、すべて頭に納められているのではないかと思うほどである。
「「シンデレラなんとか」とか、「飛ぶのが怖い」って、なんだよ?」
「「飛ぶのは怖い」はフェミニズム全盛の70年代中期に書かれ、「飛んでる女」という流行語まで作った当時の話題作ですよ。停滞した夫婦関係から奔放な男性との性的関係にのめりこみ、やがて夫のもとに帰るという、当時多くの女性の共感と反感を呼んだ自伝的小説です。
「シンデレラ・コンプレックス」は80年代初頭、それまでのフェミニズムの反動として、自立よりも男性への依存を選ぶ女性たちの心理を描いたものです」
「ときどき、あんたが17歳ってことマジ疑うわ。えなりかずきが、まだ十代だという事実に匹敵するくらい」
 真顔で、しみじみと由香が言う。
 天才策略家・高野と、合鍵を作ったりガラスを簡単にはずしたりできる下坂との三人でチームを組み、将来は、強きをくじき弱きを助ける義賊になるというのが、由香の公言してはばからない夢である。
「で、そのチームで、おまえの役割はなんなんだよ、牧村」
「私は、お色気担当よ」
 どこがお色気だとツッこみたいのを、一同ぐっとこらえる。
「でもオレ、香澄さんこそ若くて色気があって綺麗だと思うけどな。毎日ねじりはちまきで軽トラ運転して、真っ黒に日焼けしてるうちのおふくろに比べたら、天と地っすよ」
「非力ながら僕でよければ、いつでも喜んでデートのお誘いに応じさせていただきます」
 ふたりは、香澄の傷ついた自尊心をとことんくすぐる作戦だ。
「ありがとう、下坂くん、高野くん」
「くれぐれも男を見る目を養いなよ、ママ。やみくもに男とセックスすりゃ、いい女になれるって勘違いしちゃダメだよ」
「うん、……わかった」
「ママはもう十分いい女なんだから、自信を持って。もしまだ冒険したいのなら、私たちも続けて応援するからね」
「そうね、いつまでも落ち込んでないで、がんばらなきゃ」
 美辞麗句のシャワーを浴びてすっかり心地よくなった香澄は、力強くうなずくと、いきなり立ち上がった。
「え、どこ行くの?」
「日が落ちて涼しくなってきたし、ちょっと公園を走ってくる。今から一月でウェストをワンサイズ落としてみせるわ。いつどこで誰に見せても恥ずかしくないように」
「『誰に見せても』……か。懲りない人だねえ。まだ不倫願望は全然衰えてないみたい」
 ジョギングウェアに着替えてバタバタと出て行く香澄の後姿を見つめながら、由香は呆れたようにつぶやいた。
「とりあえず、当面の危機は脱した。あんたたちに話を聞いてもらって、かなり自信が回復したみたい。さんきゅ」
「香澄さんの世代の女性って、大変なんだと思います」
 高野が吐息をついて、言った。
「くだんのエリカ・ジョングが「五十が怖い」という本の中で、自分たちの世代の女にはお手本となるべき存在が身近にいない、という意味のことを言ってるんですけど、目指すべき目標も見つからず、抑圧と自由、自信と不安との間に絶えず振り子のように揺れているのが、今の中年女性たちなんじゃないでしょうか」
「けど、牧村」
 下坂が眉をひそめる。
「普通さ、自分の母親が浮気なんて目論んでたら、娘としては必死に止めるもんなんじゃねえか」
「ちっちっ。わかってないねえ。下坂」
 由香はソファの背にもたれて、ふんぞりかえる。
「反対なんかしてごらん、人間というのはかえって余計に燃えるもんなんだよ」
「そうか?」
「「道ならぬ恋」なんて、あの世代にとって最高のトキメキ・シチュエーションなんだから。不倫を煽るドラマや小説の世界に完全にのめりこんでるのよ、あの人は」
「香澄さんて、ある意味牧村よりずっと、夢見る少女のまんまですよね」
「ふっ。私くらいの女ともなると、もう男に夢なんて見てないからね。男は利用するだけ利用するものさ。
私は家庭が円満で居心地よければ、それでかまわないの。ママも大胆なようで、いざというときは怖気づく人だし、この調子でもう一度くらい痛い目に会えば、いずれ落ち着くわよ」
 まるで若手の魔女見習いのように、由香は妖しく微笑む。
「それに、ここぞとばかりに恩を売っとけば、私が今度カレ氏のところに泊り込んでも、何も言われずに、むしろフォローしてもらえるでしょ。母親と娘が、女としての共同戦線を張るわけよ。実際、最近は頼まなくても小遣いくれるし」
「ま、牧村、カレ氏がいるのか?」
「ふっふ。あんたたちには関係ないことよ。用事がすんだら、さっさとお帰り」
 ふたりは牧村家の玄関を追い出されてからも、しばらくの間ぼんやりと夕空を見つめて、たそがれていた。
「ショックです……」
「まあな……」

 香澄は、翌日にはもうすっかり元気を取り戻して、カルチャーセンターに出社した。まだ三雲の顔を見るのはつらいけれど、すんだことは一日も早く忘れよう。
 もっといい女になってやる。社会でばりばり働いて、教養を磨き、エステにも通って、男が振り向かずにはいられない女になってやる。

 意気揚々とセンターの玄関をくぐった香澄は、入り口の掲示板を見て、持っていたバッグをぽとりと落とした。
 教室の案内表示から、香澄の「トールペイント講座」の文字が消えていたのだ。



第3話につづく


企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN



写真素材: Anemos   師匠小屋