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  今回の予告は……

    人を好きになること。
    誰かを愛するということ。
    世代ごとにリセットされるヒトの人生は、
    変わりゆく歴史の中で何を学ぼうとしているのか。
    穴の開いた心を持つ主人公は、
    衝撃的な事実を知る……!



Side DOUGHNUT   第5話 「エンゼルクリーム・ドーナツ」

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 正直言えば、その男のことはそれきり忘れていた。
 夜更けに、香澄の家の近所で寝転んでいたホームレス。行き倒れかと心配して声をかけたら、「星を見ている」だけだという。「ここは街灯がないから、星が見やすいんだ」とも。
 呆れたというか、ばかばかしいというか。
「道の真ん中に寝てたら、ふいに車が来て轢かれるわよ。どこかへ行ってください。もし動かないっていうんなら、警察を呼ぶから」
 警察ということばが効いたのか、男はのそのそと近くの林の中に分け入ってしまった。
 ホームレスがこのあたりをうろつくようになったなんて、由香にも注意するように言わなきゃ、などと考えながら帰宅して、そのまますっかりと彼のことは頭の中から消えてしまった。
 それがふと思い出したのは、次の日。朝の一仕事を終えて、ニスが乾くまでのあいだにと、ドーナツを作り始めたときだ。
 ふいに、「あの人は、ちゃんと食べているのだろうか」という思いが記憶の底から沸きあがってきた。
 着ているものも、ぼろぼろのシャツとジーンズ。この季節では凍えてしまうにちがいない。
 歩くとき、ふらふらしてた。うざったげに私の視線を振り払うように動かした腕も、痩せて骨ばって。
 でも指は驚くほど長くて綺麗だった。ホームレスの人が糧を得るために働くという日銭仕事などには、携わったこともないという手。
 若いのに、なぜあんな生活をしているのだろう。
 今の時代は、働くことに対する意識がまったく変わった。フリーターとかニートとか呼び習わされる若者がどんどん増えている。馬車馬のように働いて日本を支えていた団塊の世代の時代が終わり、そのジュニアたちが父親たちの生き方に疑問を持ち、人生の意味を仕事以外に見出そうとしているのだという。でも、所詮は不安定な身分、ちょっとバランスが崩れただけで、ああやって職も家も失ってしまうのかもしれない。
 心配してくれる家族はいないのだろうか。まだ何も知らないかもしれないな。だってもし、由香があんな姿になってしまっていたら、親である私は死ぬほど悲しい。知ればすぐ助けに飛んでいくと思う。
 誰かが代わりに、手を差し伸べなければいけない。
 香澄は、出来上がったばかりの熱々のドーナツをひとつ紙袋に入れ、ショッピングバッグの底にしのばせた。
「お節介にもほどがあるわよね」
 由香がここにいたら絶対言われそうなことばを自分に呟くと、香澄は木枯らしの吹き始めた戸外に出かけた。


 畑のあいだの狭い舗装道路を歩いて、昨晩と同じところで立ち止まり、キョロキョロと見回した。
 路上、いない。道端、いない。畑とビニールハウス、いない。雑木林――。
「い、いるっ」
 昨晩入っていった林の木に背をもたれて、座りながら眠っている。「やはり」と「まさか」が綯い交ぜになった驚きに身をこわばらせたあと、香澄はおそるおそる近づいた。
「あのう。あなた、行く当てはないの?」
 答えは返ってこない。
「もしよかったら、誰かに連絡を取りましょうか。家族がイヤなら友だちでもいいし、それもダメなら市の福祉課が相談に乗ってく……」
 ぴくりとも動く気配がない。胸も……上下してない。
「ひーっ。し、し、死んでるぅぅ!」
 香澄は絶叫し、そのままペタンと腰をぬかしてしまった。
 そのとき、男の瞼がゆっくりと上がった。
「は?」
 彼の目と、香澄の目が吸いつけられるように、ぴたりと会う。
「冗談じゃないわ! もうちょっと動くとか、寝息を立てるとか、生きてるなら生きてる反応を示してよ!」
 一方的にまくし立てる彼女を、男は何か煙たい物のように見つめた。
「あんた、誰」
「誰って、ゆうべ会ったでしょ。こんなところで星なんか見てたら、警察呼ぶわよって」
「ああ……」
「あれからずっとここにいたの?」
「……」
「おなか、すかないの?」
 ふたたび目を閉じようとしていた男は、香澄のことばを聞いて、またうっすらと目を開けた。
「別に……」
「でも、なんにも食べてないんでしょ。偶然というかラッキーというか、ちょうどたまたまドーナツ持ってる」
 香澄はバッグの中から、紙袋を取り出して、男の膝の上に乗せた。
「熱い」
「揚げたてなの。早く食べて」
 彼の袖をぐいと引き、紙袋の縁を握らせる。
「穴が開いてない」
 袋の中をのぞきながら、子どもじみた感想を漏らす男に、香澄は思わず笑った。
「クリームドーナツだもの。中にクリームが入ってるから、穴が開いてないのよ」
 彼はようやく、おそるおそる手に取って、口に運ぶ。一口かじったとき、表面の砂糖がぱらぱらと落ちた。
 だが、その直後に、菓子は男の手から離れて落ちた。
「あ……」
 手が震えている。寒さのため凍えているのだろう。落ちたドーナツを、彼はただじっと見つめている。
 香澄は、ふいに胸をえぐられたような気がした。そして思わず言ってしまった。
「うちに来て! ドーナツ、まだたくさんあるから」


「まずお風呂に入って、身体を温めて」
 お湯を張りながら、香澄は旅館によくある使い捨てのひげそりと、捨てようかと思っていた古いバスタオルを用意した。
 年末の大掃除にはちょっと早いけど、彼の使ったあとのお風呂は全部カビキ○ーで消毒すればいい。
 彼が風呂場に入ったのを見計らうと、鳥肌の立ちそうなのを我慢して、脱衣場の彼の脱ぎ捨てたボロ以下の服をつまみあげて、黒いゴミ袋に全部放り込んでギューッと口を縛る。彼の歩いた跡は全部ウェットモップで拭いてまわった。
 ホームレスをうちに連れ込むなんて、後先を考えない行動だってことはわかっている。
 でも、落ちたドーナツを見つめていたときの、彼の静かな瞳。もしも死がふいに訪れても、あんな目をして穏やかに運命を受容して死んでいくのだろう。そう思うと、たまらなかった。
 服を全部捨ててしまった代わりに、夫が若い頃着ていたトレーナーの上下と、買い置きの下着を出して、脱衣場に置いた。
 台所に戻って、カブとキャベツとトマトとベーコンをざく切りにして、さっと煮てインスタントのコンソメの素を加える。牛乳をあたため、クリームドーナツをトースターでカリッと焼く。
 ふと背後に気配を感じた。
 振り向くと、髭を剃り、汚れを落とした男が立っていた。香澄は目を見張った。
 頬がこけ、虚無的な目つきはそのままだが、髭面のときとは別人と思えるほど整った面立ちをしている。しかし、驚いたのはそのことではない。
 夫の服を着ているせいか、彼は若い頃の勇作によく似ていた。20歳の香澄が心を焦がすようにして恋をした勇作に。
「か、簡単なスープを作ったの」
 頬が熱くなるのを顔をそむけて誤魔化しながら、せかしてテーブルに座らせた。「食べて」
 言われたとおり従順に、だが特に喜んでいる気配もなく、ゆっくりとスプーンをあやつり始めた彼を前にして、香澄も腰をおろした。話しかけようとしたが、何も話すことがなく、自然と尋問みたいになってしまう。
「あの、私、牧村香澄っていうの。あなたの名前は?」
「……リョウ」
「歳は?」
「27」
「27歳?」
 勇作とはじめて会ったのが彼が27歳のときだった。なんという偶然だろう。だからよけいに似て見えるのだろうか。
「生まれはどこ? 家族の人は今どこに住んでいらっしゃるの?」
 あとはいくら聞いても、何も答えようとしない。やはり、家とは連絡の取れない事情があるに違いない。
「あのね。リョウくん。これからのことだけど」
 いったいどうするつもりなの。尋ねようとした香澄は、唐突に遮られた。
「これも穴が開いてない」
 話し始めた彼が見ている先には、頼りなげに指で支えられた半分かじりかけのドーナツがあった。
「俺、ドーナツは穴が開いてるものだと、ずっと子どもの頃から思ってた」
「そ、そう」
 いきなり饒舌になった彼にとまどいながら、香澄は訊いてみた。
「でも、クリームドーナツも、アンドーナツも今まで食べたことなかったの?」
「キライだった。ドーナツと名のつくものすべて、見るのもイヤだった」
「どうして?」
「自分のことを見てるみたいで」
「え……?」
「俺の中心にはドーナツみたいな穴が開いてる。だから、何もいらない。ほしくない。望むものもない」
 リョウは喉の奥をこするような音で笑った。それは背筋がぞっとするほど悲しい微笑だった。


 そのとき、「ただいまあぁっ」という大声が聞こえてきた。
「由香?」
 玄関に走ると、果たして娘の由香が靴を脱いでいるところだった。
「どうしたの、こんなに早く」
「先生の教科研究発表会とかで、全校早帰りになったんだよーん。
……げ、何。このきちゃない靴。誰か来てるの?」
「あ、そ、それがその……」
 香澄の説明の声が追いかけるより早くリビングに入った由香は、テーブルについていた闖入者をぽかんとして見た。
「誰、この人。なんでうちでごはん食べてんの」
 あからさまな品定めの視線を感じたからだろう、彼はすっと立ち上がると、ふたりの横をすり抜けた。
「あ、あの、待って」
 制止の声にも振り向かず、リョウは扉を出て行った。
「なんだよ、あれ。「お邪魔しました」や「ごちそうさま」のひとこともなく」
 憤慨する由香に、香澄は事の次第を説明するハメになった。
「ホームレス? まったくママったらお節介にもほどがあるよ」
 と、想像通りのセリフを言ってくれる。
「世の中善意を逆手に取る連中が多いんだからね。もし、いいカモだと思われて金でもせびられたら、どうするつもり?」
「だって。ひとにぎりの悪人を警戒して、大勢の困っている人を見過ごして放っておくのも良くないと思うのよ」
「まったくぅ……。まあ、そこがママのいいところでもあるんだけどね。
あ、こんなこと言ってる場合じゃない。実は今日、ママに会ってほしい人を連れてきてるんだ」
「え。どこに?」
「外で待ってもらってる。ていうか。会う前にすっごく心の準備をしてほしいんだけど。いきなり会うと、ママ卒倒するかもしれないからね」
 香澄はその男性に会ったとたん、口をあんぐり開けた。由香が連れて入ってきた男性は掛け値なしに、まるで鬼瓦のような顔をしていたのだ。
「はじめまして。お母様。緑川翔太郎と申します」
 窮屈そうな背広に身を包み、上品な菓子折りを差し出してぺこりと挨拶する巨体はまるで、京都の「お食べ人形」を凶悪キャラに仕立てたような違和感だった。
「実はわたくし、作曲家というまことに不安定な職業に就いておりまして」
「でも、この頃売れてきて、あの、平綾まりのプロデュースもしてるんだよ」
「サラリーマンと違って、仕事も不規則で付き合いも派手ではありますが」
「でも、タバコも酒もバクチも、いっさいやらないの」
「この面相で、おまけに実家は、ヤのつく家業でして」
「ちょっとぉ、翔太郎くん、そんなにマイナス面ばっかり強調したら、フォロー不可能だよ」
「でも、由香さんのことはとても大切に思ってお付き合いさせていただいてます。由香さんが高校を卒業なさったあかつきには、然るべきときに結婚させていただきたいと、今は粉骨砕身、ふたりの明るい未来に向かって精進をしていく所存であります」
「お、いいぞいいぞ。横綱の昇進挨拶みたいで、ダサいけど、イカす」
 ソファに並んで、寄り添っている若いカップル。そんな調子でふざけあいながらも、しっかりとお互いの手を取り、ときおりじっと見つめ合っている。由香は今まで見たどんな由香よりも、ずっと綺麗だった。香澄は胸がぎゅっと熱くなるのを覚えた。
「いい人だね」
 翔太郎が帰ったあと、素直な感想を言った。
「そうでしょ、そうでしょ」
「涼子にやたら連絡取ってると思ったら、彼のこと相談してたのね」
「そういうわけ。涼子さんの旦那さんは緑川組の幹部だし、家出中とは言え、翔太郎は緑川家の長男だしね」
「でも、びっくりした。由香は私に似てメンクイだと思ってたけど」
「何言ってんのよ、翔太郎はかっこいいじゃないの。男の顔の良さは、パーツの造作じゃないのよ。内からあふれ出るもんなんだよ」
「そうだね。きっとあれくらいしっかりした人なら、パパも文句のつけようがないね。つーか怖くて文句言えないと思う」
「パパ、泣くかなあ。一人娘の結婚式」
「私もきっと泣いちゃう。寂しくなるね」
 由香の肩をぎゅっと抱き寄せると、もう涙がにじんでくる。
「卒業まであと1年もあるじゃん。まだまだこの家で、親孝行するわよ。ママもパパも仲良くしてね。私がいなくなったあとの何十年、夫婦ふたりきりなんだから」
 いつのまにか母親よりはるかにしっかりして、大人びている娘に、香澄は喜びと同時に喪失感を味わっていた。
 こうやって17年間いつくしんで育てた娘は、人を恋し、愛して、新しい人生に旅立っていく。後姿を見送る父親と母親は年老い、やがて静かに朽ちていく。人間の歴史はそうやって紡がれていくものなのだ。
 由香を輝かせているあの光の中に、私も立ちたいと思うのは、わがままなのだろうか。もう一度あんなふうに心を共鳴させて誰かと見つめ合いたいと願うのは。
 一度封印したはずの願望が、また頭をもたげる。
 香澄は知らず知らずのうちに、リョウを思い出していた。若い頃の夫に似た人。
 由香や翔太郎とそう年も変わらないのに、生きることから切り離されたような目をして、「望むものはない」とくぐもった声でつぶやく人。


 センターのトールペイント講座から帰ってきた香澄は、門の前にうずくまっているリョウを見つけた。
「あ……」
 彼はのっそりと立ち上がると、
「このあいだは、お世話になりました」
 以前よりもはっきりとした声で言った。
「あの……俺の服はどこ?」
「ああ、あれ。ごめん、破れてたから捨てちゃったの」
 リョウは当惑したように、地面に視線を落とした。「この服、返しに来たんだけど」
「あ、でもそれは元からあげるつもりだったし、返さなくていいの」
 自分のことばが妙に恩着せがましく響いて、香澄はあわてた。
「恵んであげるとか、そういう意味じゃなくて、あなたに着ていてほしいの。どうせ捨てちゃうものだったし……ああっ。じゃなくて、どうしてこう余計なことばかり言っちゃうんだろ」
「どうして俺なんかに気をつかうの? あなたは、いいことをしてるのに」
「え?」
「恵んでくれたのは本当だし、遠慮せずにそう言えばいいのに。可哀想な人の心を傷つけるのが怖いから? それとも、そんな気の使い方をするほうが、もっと麗しくて、自分が引き立つことがわかっているから?」
 彼は顔を伏せたまま、皮肉気に口の端をゆがめた。
 その表情を見て、香澄はなぜか悲しいと思った。口調は悪意に満ちているのに、その悪意は彼女にではなく、言っている彼自身に向けられていると感じたのだ。
「ご好意はありがたく頂戴します。それじゃ」
「待って!」
 背を向けて歩き出そうとするリョウを、このまま行かせたくないと咄嗟に思った。
「今朝またドーナツを作ったの。食べていって。……今度のも、穴は開いてないから!」


 庭に張り出したデッキの陽だまりは初冬とは思えないほど、暖かだった。
 ドーナツと聞いて、驚くほど素直に香澄の誘いを受けたリョウを、丸太でできた木の長椅子に座らせると、台所から磁器のティーセットを運んだ。
「これ、何?」
 香澄がセンターから持ち帰ったマガジンラックを見て、リョウはたずねた。
「トールペイントって言って、木工製品に絵の具で絵を描く教室をやっているの」
「ふうん」
 フリルのついた帽子をかぶった真っ白なガチョウの絵を、華奢な指で撫でている。
「やってて、楽しい?」
「仕事だから、大変なときもある。やりたくないなと思うときも。でも手で物を作るってやっぱり楽しいことだと思うわ」
 同じく、大輪のバラやマーガレットを描いた木のトレイをテーブルに置くと、香澄はドーナツが大盛りになった皿を差し出した。
「こっちは、荒挽きソーセージを入れて揚げたの。こっちはチュロス。スペインのドーナツで、シナモンと砂糖がまぶしてある。ね、どっちも穴が開いてないでしょ」
 彼は、その中のひとつを手にとって、食べようとせずに眺めていた。
「どうして?」
「え」
「穴の開いたドーナツ作らないのは、どうして?」
 香澄は、にっこりと微笑む。
「私もあなたと同じ。ある日突然、自分の心の中が、ドーナツの穴みたいに空っぽだと感じたの」
「…・・・」
「それ以来、もう穴が開いたドーナツは作れなくなっちゃった」
 リョウは顔を上げ、まるで今はじめて会ったというように、じっと香澄の顔を見つめた。香澄が恥らって視線をそらすほどに。
 風が吹いてきて、地面の落葉をカサカサと舞わせ、紅茶の表面にも小さなさざなみを立てた。
「冷めないうちに、早く飲んで」
 彼はそれには応ぜず、手の届かない遠くのものに思いを馳せているような表情で押し黙っていた。
「俺、子どものときから腹がすいたって思うことがなかった」
「ええっ?」
「いつも腹がすく前に誰かが食べ物を持ってきたから。おいしいとかまずいとか、好きも嫌いも関係ない。俺は食べろって言われたとおりに、それを食べさせられるだけ。
じゃあ、何日も何も食べないで暮らしてみたらどうなるんだろう。腹がすいたと感じられるんだろうか」
「それ……やってみたの?」
 彼はこっくりとうなずいた。
「苦しいとは思ったけど、それでも何かを食べたいという気持ちは湧いてこなかった。たぶん俺には、何かをほしいと思う心がもともとないんだ。何かをしたいと思ったこともない。身体の中心がドーナツみたいに穴が開いたまま、何をするときも命令されてる。でも、それに対応するバッテリーが奪われて枯渇させられてるんだ。犯人はわかってるんだけど、そいつはもうずっと何ヶ月も話しかけてこないから、今はいないはずなのに」
 香澄は首をかしげた。彼の言っている意味がだんだんわからなくなってくる。
「もういないって誰が?」
 しかし、その答えは返ってこなかった。リョウはいきなり立ち上がると、目を見開いて門のほうを見ていたのだ。
 そこには、スーツを着た2人の男たちが立っていた。ふたりとも30代くらいか。屈強な身体をしていて、目つきが鋭い。
「はい。どなたですか」
 香澄はリョウの様子をいぶかしく思いながらも、門に近寄ろうとした。
「だめだ。開けないで!」
 彼が悲痛な声で叫ぶのと、男たちのひとりが鉄扉の上から腕を中に延ばして、掛け金を外すのは同時だった。
「何するの!」
 香澄は思わず、侵入してきた男たちに駆け寄って、両手を広げた。
「リョウ。裏から逃げて!」
 彼は言われたとおり、よろけながらも家の脇から裏手へと走り出す。彼女は死に物狂いで、ひとりにむしゃぶりつき、両足をバタバタと振って、もうひとりの向こう脛を蹴飛ばした。
 あとはもう、何がなんだかわからなかった。


 次の日、弁護士と名乗る中年男性が訪ねてきた。
「わたくし、日羽(ひわ)物産の顧問弁護士をしております、崎原と申します」
 名刺を受け取る。日羽物産と言えば、誰でも知っている大企業だ。驚きのあまり身体をすくめている香澄に、弁護士は幼稚園の子どもに対するように、平明な口調で話す。
「きのう、あなたがおもてなしになっていた方は、日羽遼二さま。日羽物産創業者のご令孫でいらっしゃいます」
「リョウが……まさか」
「ご存知なかったのは無理もないでしょう、あのようなお姿では。事情があって行方がわからなくなっていたところを、わたくしどもも必死に探しておりました。
調査の結果、こちらのお宅でたびたびお世話を受けていらっしゃることを、ようやくつきとめまして、昨日はあのようにお迎えにあがった次第です。ですがそのとき不手際があり、牧村さまには多大なご迷惑をおかけしましたこと、深く反省しております」
 彼はお辞儀をし、絶妙なタイミングでテーブルに封筒をすっと差し出した。金縁の眼鏡が意味ありげに光る。
「十分ではありませんが、わたくしどもの心からの感謝とお詫びの気持ちをこめさせていただきました。これで、私どもの無礼をすべて水に流してくだされば幸いです。そして万が一、遼二さまの現在の居所をご存知ならば、ぜひお教え願いたいと――」
「受け取れません、こんなお金」
 香澄は色をなして、答えた。
「だいたい、リョウ……遼二くんは嫌がっていたじゃないですか。どうして追いかけて、無理矢理連れ戻すようなことをするんです」
「それは、今申しましたように、数々の事情がありまして」
「彼はもう大人ですよ。ご家族とのあいだにどういう経緯があったか知りませんが、彼の意志を尊重して話し合うべきじゃないでしょうか」
「それは、失礼ながら、牧村さまには関係のないことでございます」
「大いに関係あります。あなたの部下はうちの家に無断で入り込んだじゃないですか。誘拐未遂とか暴行とか、住居不法侵入で警察に訴えることだってできるんですからね」
「…・・・しかたありません」
 それまで低頭していた弁護士は、軽いため息を吐いて、両手を膝に置いた。
「おわかりいただけないようでしたら、すべてをお話しましょう。ただし今から申し上げることは、くれぐれも内密に願います」
「……事の次第によります」
「遼二さまは、日羽家のご次男で、日羽物産の将来を担う方です。お小さい頃よりそのように教育を受けてお育ちになられ、大学もお父上や兄上と同じ名門K大を首席でご卒業になりました。
ところが卒業を間近に控えたとき、突然ヨーロッパに留学したいと望まれたのです。ご一族はこぞって反対なさいましたが、遼二さまの固いご決心を尊重し、最後は留学をお許しになられました」
「それじゃ、どうして今、日本でホームレスなんかに……」
「留学先のブリュッセルで発病されたのです。帰国後も幾度となく問題を起こされました。
牧村さま。遼二さまのご意志を尊重するようにとおっしゃいましたね。でも、今はご本人の意志よりも、一刻も早くお身柄を保護申し上げるほうが先決です」
 弁護士の低く脅すような口調に、香澄の脳裡にすっと冷たい予感が走った。
「遼二さまは三ヶ月前に、精神科病棟を逃げ出しておられるのです」        


第6話につづく


企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN



写真素材: Anemos   師匠小屋