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毎年8月になると、日本人は戦時中を振り返りながら、複雑な思いにとらわれる。
「もう、忘れたい」とつぶやく声。
「絶対に忘れてはいけない」と呼びかける声。
ふたつの声が交錯し、私たちは混乱する。
私たちは、アジアの国々、特に韓国と中国に対して、大きな罪をおかした。
だから、アジアの人々の前に立つとき、若い世代さえある種の後ろめたさを感じている。
罪の記憶が、彼らとのさらなる友好をはばんでいる時すらあるのだ。
しかし、それと同時にヒロシマとナガサキの原爆に関しては、日本は被害者でもある。
「唯一の被爆国」として、日本は長年、世界中に原爆の悲惨さを訴えてきた。
だが、昨年のテロ事件とその報復行動以来、
この悲劇が二度と繰り返されないという保障は、残念ながら、なくなる一方である。
忘れることも、罪悪感を持ち続けることも、平和にはつながらない。
いったい平和を作り出すために、私たちはどうすればよいのか。
この日曜の礼拝で、私の属する教会の牧師のメッセージはこう語っていた。
「私たちに必要なのは、『ともに赦されたもの』である、という視点だ。
感情的な憤り、責任を追及しなければ納得しない心は、報復のくりかえしを生む。
そして、それは暴力の歴史となって、永遠に循環する。」
「日本人は、アジアの人々に赦されなければならない多くの負債を負っている。
しかし、同時にアジアの人々は、赦さなければならないという責任を負っているのだ」
と牧師は続けた。
歴史の中で、負債を負っていない民はいない。
そして人生の中で、人に赦されなければならないものを背負っていない人はいない。
人生の体験から、私はこう学んだ。
人生の天秤の上では常に、赦すことより、赦されなければならないことのほうが多かった。
そして、クリスチャンとしてはこう学んだ。
真に赦されたことがあるから、人は真に赦すことができる。
最近読んだ、キリスト教の月刊誌に、こういう一文があった。
赦すとは、何も起こらなかったかのように振舞うことではない。また、傷つかなかったかのように見せかけることでもない。さらに、全く忘れてしまう
ことでも、元に戻って再びやり直すことでもない。
では、赦すとはどういうことか。
それは、お互いの関係が破壊されるのを拒否することである。
ひとりひとりが、お互いの関係が壊れるのを拒否すること。
家族から隣人に、隣人から隣国に、そして隣国から敵国へと、赦す心をつなぐこと。
それが遠回りなようでも、真の平和への第一歩であると信ずる。
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上記の引用は、
ハーベストタイムミニストリーズ出版の月刊誌「クレイ」8月号のコラム「きょうの霊想」(8月2日)Kenneth Chafin, Christianity Today, Preaching Today.com より、許可をいただいて転載しました。
こころよく許可を下さった中川健一先生とスタッフの皆様に心からお礼申し上げます。
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