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No. 24  たったひとつの命

「戦争がはじまってしまったわ」
 近所に住むモルモン教徒のアメリカ人女性が、私の家のドアで、泣きながらそう訴えた。
「私たちはなんて、バカなことを」
 湾岸戦争のはじまったとき、私はアメリカに住んでいた。
 車のカーラジオからは、ウェストコーストの小さな地方ラジオ局が、反戦のフォークソングをただ流していた。


 それから、10数年。
 奇しくも、そのときのアメリカ大統領の息子が、同じ国に最後通告を突きつけている。
 もう戦争が避けられない、緊迫した情勢になってきてしまった。
 今回ほど、世界中の人が拳をにぎりしめて見守った、しかし為すすべもなく突入していく戦争もめずらしいだろう。


 アメリカが唱えるのは、冷酷な「数の論理」だ。
 あの国を放っておけば、テロ行為で多くの世界中の人が殺される。だから、最小限の犠牲をもって、多数の命を救う。
 フセイン政権下で今まで数万人のクルド人が殺害されたという。多面体のかたちをしている正義の一面は、確かにそこにあるだろう。
 それでも。
 戦争を反対する者たちの心には、納得のできない怒りがうずまく。
 それでは、そのために殺されるであろう「少数」の命はどうなるのか。
 「あなたは、多数の命を救うために犠牲になるのです。がまんしてください」と、一体誰が言えるのだろう。
 人間は、そこまで人の命を量りにかけるという傲慢をおかしてよい存在なのか。


 考えれば、これはヒロシマとナガサキの論理であったことに気づく。
 太平洋戦争が長引けば、日本側・連合国側のさらに多くの血が流れる。それを防ぐため、早期戦争終結のため、原爆はしかたがなかった。
 多くのアメリカ人が今も信じている論理である。(それに、私たち日本人はどうしても同意することができない。原爆で殺された人々は、決して誰かの犠牲にされていい存在ではなかったのだ)
 その一方で、彼らは原爆の後遺症に苦しむ人々に手をさしのべてきた。


 アメリカの教会に通っていたとき、アメリカ人の牧師から「折鶴の折り方を、教会の子どもたちに教えてください」と頼まれたことがある。原爆症で命を落とした日本の女の子が折り続けた千羽鶴の話を、日本人の私はそのとき初めて聞いたのだ。
 クリスマス、カリフォルニアの木造の小さな教会で、緑のツリーは真っ白な千羽鶴で飾られた。
 いったいどうすれば同じ国民の中に、これほど独善的な正義と、ひとりの命をいつくしむ愛が共存できるのか。


 「もし、殺されるのが、あなたの夫なら。家族なら」
 そう問われると、誰もが戦争に対してノーと言うだろう。
 そのとき、私たちの心にあるのは、「数の論理」ではない。「たったひとりの、かけがえのない命」を救いたいという、「愛の論理」だ。
 しかし、その同じ「愛の論理」が、9月11日に貿易センタービルで散らされた尊い命の記憶とともに、アメリカ人を復讐に突き動かしているとも言えるのだ。「私たちの家族は、友は彼らに殺されたのだ」、と。
 その命と同じ尊い命が、あの砂漠の大地から奪われていくことに、彼らは目をつむらざるを得ない。
 戦争とは、人間からその想像力を奪うほど、「愛の論理」を「数の論理」にすり変えてしまうほど、むごい非人間的な作業なのである。


 戦争が終わったあと、世界中の人々がいっせいに戦地に遺された傷ついた人々に援助の手を差し伸べるだろう。もうすでにその準備がはじまっている。
 そして、「愛の論理」がまた世界を動かしてゆく。
 人間はいつまで、この愚行を繰り返したのちに、神の御前に立つのだろう。
   
  


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