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EWEN

Episode 1
凍えた太陽


 バンコクの雨季は10月が終わりだ。
 雨季といっても、日本の梅雨とは違う。朝から時雨れることはまれだ。
 青空に雷が鳴ったかと思えば、みるみるあたりが夜になり、10分後には滝のような雨が降り出す。傘をさしても無駄だ。
 ざあっと降って、からっと上がる。それがバンコクの雨。
 ディーターは暗い室内から外に出て、思わず目を細めた。
 空が白く見えるほど眩しい太陽が中天から矢のように大地を射る。
 いつも悔しく思うのだが、自分の薄い色の目も肌も、この国の太陽には全く合っていない。こんな早朝でさえ、彼が真直ぐと周りを見渡すことができるまでにかなりの時間を要する。
 バナナとココナツ椰子の木の茂みに、母屋といくつかの棟が点在する広い庭。近くの鶏小屋から甲高い鳴き声が聞こえるだけで動くものはない。
 寝坊した。同じ棟に住む2人の兄弟子、シリチャイとプラマーンは、もうとっくにロードワークに出てしまったようだ。
 彼はもう一度あくびをすると、軒先に干してあった破れたシャツを頭からかぶった。
 朝は弱い。早くから床に入っているはずなのに、全然寝ていないような疲れを覚えることがよくある。眠りが極端に浅いらしい。
 確か睡眠薬を切らしていたはずだ。また医者にもらいに行かなければ。
 そう考えながら、門を飛び出し、走り始めた。


 朝の微かな冷気が首筋にあたる。そして、それを打ち消すように、チャオプラヤ川からの湿気が全身にまとわりつく。
 川沿いの路上に、そろそろ人々が集まり始めた。
 人々の行き先は、ずらりと並ぶ屋台。商店の店員たちに混じって、近くのビジネス街に出勤する途中のネクタイ姿のサラリーマンや、細身のスーツを身にまとうOLが朝食を買っている。
 山吹色の法衣を着た僧侶たちの一団が向こうからやってくる。
 屋台の女たちは商いを止め、僧侶の足元で恭しく拝礼してから、手に持っていた飯や惣菜を、僧侶の托鉢用の壷に入れる。
 この国の人たちは信仰熱心だ。男は一生に一度必ず仏門に入り、女は僧侶に寄進することで功徳を積む。
 街角に必ずある、飾り立てられた白い社は、ピーと呼ばれるバラモンの神々だ。
 近所の見知った顔がふたり3人と、そばを走り過ぎるディーターに微笑み、『サワディー、カッ』と声をかけてくれる。
 この町で暮らすようになって半年。ただの気まぐれなコン・ファラン(西洋人)から、彼らの一員として見てもらうまでには時間がかかった。
 自分でもこんなに長くひとところにいられるとは、不思議だった。
 長くて3ヶ月。ムエタイのチャンピオンを幾人も輩出したことで知られている師のもとにころがりこんだときは、内心そう思っていた。
 師は、このやせた長身のドイツ人の若者をかわいがってくれた。
 彼の足腰のばねと敏捷さを誉め、タイの国技であるムエタイの試合にも出ないかとまで言ってくれた。
 だが、ディーターにはその気はなかった。ジムの下働きとセコンド係と、たまに兄弟子たちのスパーリングの相手でもできれば十分だと思っていた。
 闘うことが、怖い。
 拳闘を学びながら、矛盾していると自分でも思う。
 自分の中でときどき、何かが叫ぶのだ。戦え。そして殺せ、と。
 だから、闘えない。
 足元の大きな水溜りを避けそこねて、びしゃっと身体中に泥水をはねあげた。
 昨夜相当な雨が降ったようだ。道のあちこちにくるぶしまでつかるほどの水溜り。
 大通りに出ると、浸水でエンストを起こした車が何台も道路の片隅に放置されている。家々の塀に黒く、洪水の最高位の跡が線となって残っている。
 少しの雨であっというまに洪水を起こすバンコクでも、これほどのは見たことがない。
 そんな大雨に気づかないほど、自分は眠りこけていたのだろうかと驚いた。


 決まったロードワークのコースを走り終えると、また屋台の一画に戻ってきた。
 この時間は、朝の一働きを終えたメイドや運転手たちでごったがえしている。
『おはよう、ディーター。いつもの作る?』
 馴染みのソムタム屋のおばさんが、彼を見て相好を崩す。
『うん。いつもの』
 彼女はニヤニヤ笑いながら、ソムタムを作り始めた。
 ディーターは一度、ソムタムに入っている沢ガニにあたって、ひどい目に会ったことがある。それ以来カニを入れないように頼んでいる。おばさんにしてみれば、カニのないソムタムなんて、という笑いだろう。
 大きなすり鉢に、青パパイヤの細切り、マナオ、唐辛子、ピーナツと入れて、トントンとリズミカルにすりこぎで叩く。甘酸っぱい匂いが漂ってくる。
 出来上がったソムタムともち米の蒸したのをビニール袋に入れてもらい、15バーツを払う。
 これが、今日の彼の朝食だ。
 立ち去りかけたとき、後ろから彼を呼ぶ声が聞こえた。
 振り向くと、小柄なナンが立っていた。
 華僑特有の白い肌をしている、近所の印刷屋の娘。  レモン色のTシャツに、紫に金糸を織り交ぜた、この国の素朴な巻きスカートをはいている。
 2ヶ月ほど前、デートに誘った。いっしょに映画を見て、屋台でバーミーナムを食べてコーラを飲んで、それで終わり。
 そのときは、この国に一生住んでもいいかなと思っていた。何か仕事を見つけて、タイ人の女の子と結婚して静かに暮らす。それも悪くないな、と。
 でも、兄弟子のプラマーンがナンを好いていることを知って、それきりになった。
 わかっていた。自分は人を愛してはいけないのだ。
 精神の病を持ち、子どもの頃の記憶が全くなく、今でもときどき意識が途切れることがある。
 そんな自分が誰かとともに生きていけるはずはなかった。
 ひとところに長く住めるはずはなかった。
『……おはよう、ナン』
『おはよう、ディーター。……汗びっしょりね。走ってたの?』
『うん……』
 彼女は視線を地面に落としてから、おずおずと彼を見上げた。
『また、会えない?先週みたいに』
『え?』
『もうあんなに高級でなくていいから。……普通のところで』
 何を言ってるんだろう、ナンは。先週って。
 少なくとも彼女が話しているのは、2ヶ月前のことではない。
 頭の中にチカチカと火花に似た痛みが走る。
『……ディーター?』
『ごめん……、もう行かなくちゃ』
 逃げるように、彼女から離れて歩き始めた。
 先週。先週僕はナンに何をした?
 そういえば、プラマーンが彼に理解できない言葉を吐き捨てていったのも先週だった。
『コン・ファランは嘘つきだ!』と。
 それ以来、彼に避けられている。話もできなくなった。
 鋭い頭痛と息苦しさに、思わず道端で立ち止まる。
 あたりには、屋台のおこぼれを当てにした、痩せて毛のない野良犬の群れがたむろしていた。
 野犬たちは、彼がそばに近づくと明らかに恐怖に怯え、尻尾を垂れて隠れ始める。
 今日に始まったことではない。まるで彼の中に潜む何かを、彼らだけが知っているかのように。


 ようやく師の家に戻ると、軒先にケースごと積んであった水のペットボトルを一本掴み、息もつかず飲み干した。
 少し気分が良くなった。
 庭にしつらえられた、ビニールシートの覆いをかけただけのシャワールームで水を浴びた。
 タイ人はこうやって1日に何回も、簡単な水浴びをする。暑い国の知恵なのだろう。
 干してあったもう1枚のシャツを着て、家に入る。
 家の中には兄弟子のシリチャイがいた。床に胡座をかいて、蓮華を器用に操って皿の食べ物を口に運んでいる。
 暗がりに馴れた目にはプラマーンの姿は写らなかった。ほっとした。
 『ピーチャイ』 と呼びかけ、胸の前で両手を合わせて挨拶する。
 『ピーチャイ』 はお兄さんという意味である。背は150センチでディーターからすると子どものような体格だが、25歳の今に至るまでに2回チャンピオンになっている。
『おまえも食事、今からか』
『はい』
『いっしょに食べようぜ』
 ディーターは棚から自分の皿を取り出すと、その上に買ってきた朝食を袋から空けた。
『でもピーチャイ、今晩試合だったんじゃありませんか?』
 返事がないのを訝って振り向くと、兄弟子は奇妙な表情を浮かべて彼を見上げていた。
『……試合はおとといの夜だ』
 身体から血の気がすっと引いていくのがわかる。
『今日は……、今日はいったい何日?』
『28日だ。おまえは3日前の晩からゆうべの夜中まで、ここには一度も戻ってこなかったな』
『……』
 何かで身体を支えないと、立っていられない。
『先生には用事があると言っておいた。何があったかは知らんが、先生に連絡だけは入れておいたほうがいいぞ』
 やっとのことで頷く。
『……すみません』
 ふらふらと自分のベッドのある奥の部屋に入った。
 頭痛薬はまだ残っていたはず。
 震える手で、籐の引出しを引っ掻き回す。探すうちに今まで開けた記憶のない一番下の引き出しに目が行った。
 いっぱいに押し込まれた、睡眠薬の束。
 そんな。
 こんなものは知らない。いつもの医者の出す薬ではない。
 いったい誰が。
 口の中がカラカラに渇き、ディーターは薬の束を引っ掴むと、ごみ箱に投げ捨てようとした。
「だめだよ」
 頭の中で声がした。
「せっかく、苦労してここまで貯めたんだから。捨てちゃだめだよ」
 クスクスと笑う子どもの声。
「きみだって、いつか使いたくなるよ。ほんとはすごくすごーく眠りたいだろ? どうせ何もかもイヤになっちゃうんだろ?」
 狂気の哄笑が頭の中にこだまする。
 彼は薬を元通り引出しにしまうと、夢遊病のように入り口に向かった。
『ディーター?』 と兄弟子の声がする。
 今なにをしていたんだっけ。何を考えていたっけ。
 わからない。何も思い出せない。思い出しては、いけない。
 扉からぼんやりと、青い空高く照りつける太陽を見上げた。
 その強烈な光も熱も、彼のうつろな瞳に漂う氷を溶かすことはできなかった。




   
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