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EWEN

Episode 10
長い夜


§1

 思えば最初の年、私たちの結婚生活はとてもエキサイティングだった。
 最初に驚いたのは、ある日大学から戻ると、洗面所の床や洗面台に、真っ赤な血のしみが点々とついていたこと。
 見たら、ディーターの首筋には絆創膏が貼ってある。
 最初は髭の剃りそこないかとも思ったが、位置が不自然すぎる。あと1センチずれたら、頚動脈という位置。
 さすがに今に至るまで、恐ろしくて真相は聞けない。
 またあるときは、台所のお皿やコップが10こくらい、いっぺんに割れていた。
 きれいに破片も掃除してあったから、「あれ、割れちゃったの」と軽い気持ちで聞いたけど、返事はなかった。
 薬の飲みすぎというのもあった。抗不安薬を、いっぺんに3日分くらい飲んでしまう。
 それ以来、通っていた精神科のお医者さんからは、飲みにくい粉薬しかもらえなくなった。
 今の彼は、嘘みたいに元気だ。
 薬も完全にやめ、エキサイティングな毎日はどうにか終わりを告げた。
 「エキサイティング」とはなにごとだ、と怒らないで欲しい。
 こんな軽い口調でもなければ、私はあのときのことが振りかえれない。
 恐かった。毎日彼から目を離すのが、死ぬほど恐かった。寝ることさえできなかった。
 精神の病は、本人だけではなく、家族の心をも少しずつむしばむものだということを知った。
 最高にひどかった時期は、期間にすればわずか4日ほど。
 でもこの4日間が、逆に彼を癒したのかもしれない。
 まるで、長い夢から覚めた人が、光にあふれる朝を迎えるように。


 父には、釘をさされていた。
 良くなったと、油断するな。時には、来た道を逆戻りしたかのような、長い曲がり道が待ってる場合もある。
「ディーターは、基本的にまじめで内罰的な性格なんや。人のせいにばっかりするおまえと違うてな。だから、自分は辛くてもしんどくても、人の気持ちを優先しようとする。そして自分を見失っていく」
 確かにそうだ。彼はいつだって人を困らせるくらいなら、自分が苦しむ方を選ぶ。
「自分でもそれがわかって、変わろうとしてるんや。でも、持って生まれた性格はそう変わるもんやない」
 だから、妻であるおまえが、気いつけなあかんのや。
 彼が無理をしないように。
 自分を大切にするように。
 でも、あまりにも楽しい毎日に、いつのまにかその忠告を忘れていた。
 ディーターにとって、日本での生活は楽しいとばかり言えるものではなかったのかもしれない。
 ふたりが暮らしていけるだけの、収入を得るための仕事も必要だった。
 今の時代、フリーのプログラマーとして生きていくのは、並大抵の苦労ではなかっただろう。
 例のアメリカでの同時多発テロ事件も、アフガニスタンへの空爆もあった。
 毎日なにげなく見ていたニュース映像が、元テロリストである彼にとってどれだけ辛いものであったかを、私は気づこうとしなかった。
 加えて、私の家族や近所や、仕事のクライアントとの日本語だけでのやりとり。
 いくら語学が堪能な彼でも、自分の母国語ではない言葉のみの生活は、目に見えない小さな緊張がかかり続けることを、私は知るべきだった。
 (今はケーブルテレビを契約して、ドイツ語のニュースや、字幕つきの映画を二人で見るようにしている。受信料は高いけれど、ぜいたくだとは思わない)
 ディーターは少しずつ少しずつ、水が岩をうがつように疲れていったのだ。


 私はそのときまで、彼の解離性同一性障害は完全に治ったと思いこんでいた。
 確かに、人格は統合された。
 でも、長いあいだ分離していた人格が完全にひとつになるには、まだ多くのときが必要だったのだ。
 そうした、かっての解離人格の名残(ディーターはそれを「かけら」と呼んでいる)が、彼を動かすこともあった。
 きっとお皿を割ったときも、首を切ったときも、彼はそれを見ていながら、やめることができなかったのだろう。
 確かに意識はあるのに、自分がそこにいる実感が湧かない、いわゆる離人症が頻繁に現われたのも、この時期だ。
 11月になると彼は、暇さえあればベッドで眠っていることが多くなった。
 うつ病で言えば、過眠期と呼ばれる状態。
 食欲も落ち疲れやすくなる。生命反応の全てが、弱くなる。
 それでもなおディーターは、表面は元気にふるまおうとした。
 葺石流の稽古も一日も休まなかった。私も祖父も藤江伯母さんたちも何も気づかなかった。
 けれど、ある日いきなり、すべての辻褄が合わなくなる日が来た。
 11月の第2週の月曜日だったと思う。
 私は、大学から帰ってきて、家の中の異様な雰囲気に驚いた。
 すべてのカーテンが引いてある。
 机の上に朝、彼のために用意しておいた食事には、全く手がつけられていない。
「ディーター。もしかして、朝も昼もなんにも食べてへんの?」
 そう大声で問いながら、奥の左の部屋(書斎と私たちは呼んでいる、私の机と彼のコンピューターがある部屋)に入って、息を呑んだ。
 紙やものが散乱している。
 CDプレーヤーが見事にひっくり返っている。
 カーテンは、やはり閉じられて薄暗い。
 そして、部屋の隅で、ディーターがうずくまっている。
 うつろな目つきと言ったなら、あまりに言い足りない。
 それは、まるで見ている私の生気まで奪うような、絶望と混沌に満ちた瞳。
「ディーター……」
 私はようやく、彼に摺りよって声をかけた。
「どうしたん」
「円香……」
 彼は私を見ようともせず、ぼんやりとした機械のような声で呟いた。「今、何時……」
「今、3時すぎたところ。遅くなってごめんね」
「ここ、どこ……」
「ここは、私たちの家だよ」
 なるべく明るい何気ない声を出そうと努めた。
「気分、悪いの? 頭、痛い?」
「……うん」
「じゃあ、ベッドに行こう。立てる?」
 隣の寝室のベッドに彼を寝かせると、台所で水を汲み、強い精神安定薬を選び出して彼のもとに戻った。
「薬、飲んで。ごはん食べてへんから、まだ何にも飲んでないよね」
 彼は、ゆっくりと上体を起こして、ゆっくりと薬を水で流し込んだ。
「ごめんなさい……」
「え?」
「嘘をついて、ごめんなさい」
「……?」
 彼は悲しそうに目を伏せて、そのまま気を失うように眠りについた。


 実家に電話をすると、藤江伯母さんが出た。
「ディーターが、具合悪いの。風邪で熱があるみたい。おじいちゃんに、稽古休むって言ってくれる?」
「だいじょうぶやの? 病院は行った?」
「うん……。これから行く。だから今日は、ご飯も食べにいけへんから」
 夕方伯母さんは、よいしょと大きな風呂敷包みを抱えて、うちの家に来た。
 おかゆの入ったひとり用の土鍋と、タッパーに煮物のおかずとごはん。
「なんや、あんたも顔色悪いな。風邪、うつったんとちゃうか」
「ううん。私は平気や」
「ディーター、どない? 苦しそうなん?」
「今、寝てる。きっと薬が効いたんやと思う」
「急に寒くなったからな。相変わらずパンツ一丁で寝てるんやろ。気いつけたげな、あかんで」
「うん」
「ほな、な。要るもんあったら、買うてきてあげるから、いつでも電話しいや」
 伯母さんが帰ったあと、持ってきてくれたものを見て、涙が出た。
 でも伯母さんにも祖父にも、何も知らせないと決めていた。
 ふたりを心配させたくなかった。
 寝室に戻ると、ディーターが起きていて、物問いたげな目で私を見た。
「藤江伯母さん。おかゆ持ってきてくれた。少し、食べる?」
「……今は、いい」
「退屈? テレビか音楽か、つける?」
「いらない」
 それだけしゃべっただけで、彼は精魂尽き果てたように、ぐったりとまた目をつぶってしまった。
 夕焼けが、寝室の南側の窓ガラスをオレンジ色に染めていた。
 窓の下では、公園の小学生たちが、家に帰るのを惜しむように声を交わし合っている。
 私は、その声を聞くと、寂しくてせつなくなってしまう。
 母を突然失った小学4年生のとき、家に帰るのが悲しくて、死ぬのが恐かったことを思い出してしまう。
 そんな気持ち、ずっと忘れていたのに。
 ディーターと結婚して、彼のそばにいつもいて、もう寂しいと思うことなんか絶対ないはずだったのに。
 私は、そのとき孤独だった。
 目を閉じて横たわっている彼の横顔を見つめながら、恐くて寂しくてたまらなかった。
 長い夜、私はほとんど一睡もできなかった。
 彼は時折、苦しそうにうめいた。
 そして、うわごとを言った。
 ドイツ語で。日本語で。あるときは英語で。
 繰り返し、繰り返し、「嘘をついて、ごめんなさい」と。
 いったい、彼は何をずっと謝り続けているのだろう。
 私にか。それとも他の誰かに、なのか。
 人間には、それほど謝らなければならないほどの罪が存在するのだろうか。


 ディーターは、明け方のまだ暗いうちに目を覚ました。
 額に手を当て、しばらく天井を見つめていたが、
「何時?」
 と、ベッドの隣にいた私に聞いた。
 彼は、普段からよくこの質問をする。
 人格交替のため記憶が途切れてばかりいた頃の悲しい習慣が、まだ残っているのだろう。
「5時10分。もうすぐ朝になる。ディーターは、昨日の4時前から寝てたんだよ。もう13時間以上寝てる」
「ほんと?」
 驚いたように出した声は、まだ弱々しい。
 ほどいていると肩甲骨の下のあたりまである彼の長い髪を手櫛で梳きながら、私は、瞼や鼻の先やほっぺたに何回もキスした。
「愛してるよ。ディーター。私がずっといっしょにいるから。何にも心配せんでええよ」
「うん……」
 彼は、すこし微笑んだ。
「おなかすいた? なにか、欲しい?」
「食べたくない」
「じゃ、お薬だけ飲もう」
 私は、夜が明けると元気に働き始めた。
 彼の服を着替えさせ、洗濯と、散らかっていた書斎から始めて家中の掃除をした。
「私、今日大学休むことにしたからね。一日、ディーターのそばにいる」
「でも……」
「たいしたことないて。今日の講義は代返効くし、テストはなくてレポートだけ。それも、10年同じテーマ」
 それに、なんか、レポートの採点方法も変わってるんやて。
 扇風機でプーッと、レポート飛ばすの。近くに落ちたのから、いい点つけて、一番遠くのが零点。
 だから、学生はみんな色鉛筆で塗りたくって、ホッチキスの芯も一番大きなの使って、重くして提出するんやて。
「あ、嘘やと思ってるやろ。ディーター。これほんまに、先輩から聞いたんやからね」
 なんとかして彼の気分が晴れるようにと、明るくふるまった。
 あまり成功したとは言えなかったけれど。
 その日いちにち、薬が効いているのだろう、彼は、うとうとと眠っていた。
 私は彼を抱きしめるように寄り添いながら、しつこいハエのように襲ってくる不安を、頭から懸命に追い払おうとしていた。
 私たちの結婚は、早すぎたのだろうか。
 彼はまだケルンで、私の父のもとで治療を受け続けるべきだったのだろうか。
 日本人の私と結婚して、日本に来て、かえって彼の病気は悪化してしまったのではないだろうか。


 また夕暮れになった。
 私の一番嫌いな時間。
 藤江伯母さんが、また食べ物を持って訪ねてくれた。
「まだ、良くならへんの? ディーター」
「うん。まだしんどそう……」
 私は、きれいに洗った昨日の土鍋とタッパーを伯母さんに返した。
 中身を別の容器に移して、すっかりたいらげてしまったようなふりをして。
「あのときのあんたの顔、ほんま、埴輪みたいやったで。パリンパリンにこわばってて、一刻も早く、あたしを追い返したいて気持ちがありありで」
 今でも私は伯母さんに、そのときのことをからかわれる。
 伯母さんが帰ったあと、震えがとまらなかった。
 胸が苦しくて焼けそうで、泣き喚いて、めちゃくちゃに走り出したかった。
 その日もほとんど食事が喉をとおらなかった。
 ディーターも、もう丸2日何も食べていない。
 薬と、それを飲むための水だけ。
 その夜、私はうつらうつらと居眠りしては、何度もびくんと目を覚ました。
 1度、恐ろしい夢を見てしまった。
 ディーターがどこにもいない夢。5階のベランダへの窓が開け放たれたまま。
 その夢を見て飛び起きてからは、朝までもう一睡だってできなかった。
 1秒も彼から目を離してはいけない。
 でもさすがに、空がしらじらと明け染めるころ、数分か数十分意識を手放した。
 はっと気がつくと、彼はベッドのへりに腰かけて、私を見下ろして微笑んでいた。
「円香」
「ディーター。もう、気分いいの?」
「うん。心配かけて、ごめん」
 いつもの彼の声だった。
 脱力感でしばらく起きあがれないほど安堵した。
 私たちはシャワーを浴びて、身づくろいした。
 缶詰と、冷蔵庫にあったヨーグルトで、ふたりが大好きなヨーグルトフルーツサラダを作った。
 何もかも、普段の朝と同じだった。
「大学、もう一日だけ休む」
「行っていいよ。俺はだいじょうぶだから」
「だって……」
「今日はドイツ語のある日だろ。せめて、出席『だけ』でもしておかないと」
「何よ、それ」
 冗談の言えるようになった彼がすっかり良くなったのだと、私は信じきってしまった。
 後で考えれば、本当は、気を失いそうなほど苦しかったはずなのに。
 自分のせいで私が2日も大学を休むことに、彼は耐えられなかったのだ。
 ディーターのしつこいまでの勧めに応じて、じゃあと後ろ髪を引かれるような心地で、大学に行った。
 だが昼頃、私は吐きそうなくらいの悪寒に襲われた。
 本当に不思議だ。テレパシーのようなものだったと思う。ディーターと私はそれくらい強く結ばれているのだと、少し自慢したい気持ちになる。
 残りの講義を放り出して、あわてて家に駆け戻った。


 マンションの玄関を入ったとたん、奇妙な匂いがした。
 そのよく知った匂いを嗅いだとたんにすくみ上がった身体をやっと動かして、奥の寝室に入ると、私の目に信じられない光景が飛び込んできた。
 ベッドのシーツは真っ赤だった。
 ディーターはその真中に座りこんで、ナイフを右手に持ち、左腕をゆっくりと切り刻んでいる。
 幾筋も、幾筋も。
 彼の金色の長い髪は、血でべっとりと顔に貼りつき、翡翠色の瞳は、何かに取り憑かれたみたいに、自分の左腕の赤い線に注がれている。
 まるで、プラモデルか何かに熱中している子供のように、淡々とナイフを動かす。
「わああっっっ!」
 私はことばにならない叫びを上げると突進し、彼からナイフを取り上げて、彼の頬をぶった。
「何してんの、ディーターッ! その腕は、五十嵐のおじちゃんが何時間も手術して、縫合してくれたもんやんか。それを、どうしてめちゃくちゃにするのっ!」
「でも、痛くないんだ」
 ディーターは、私を見上げて訴えた。「なにも、感じない」
 私は、力の抜けた両足でふわふわと走ると、電話台の薬の入った引き出しごと抜いてきて、ガーゼと包帯で彼の傷を手当てした。
 血の量の割に、傷は深くはなかった。ずっと前に手首を切ったときの傷は今でも残っているが、このときの傷は、今年の春、半そでになる頃にはすっかり消えてしまった。
 シーツを取り替え、血で汚れた部分を洗面所で洗っているとき、私は嗚咽を止めることができなかった。
 どうして私を、心臓が止まるくらい脅かすの。
 しんどいなら、しんどいって、言うてくれたらいいやん。秘密にすることないやん。
 何で私にまで、具合が悪いことを隠すの。
 錯乱した私は、ディーターのことを本気で憎いとさえ思った。
 下洗いのすんだシーツを洗濯機に突っ込んで、足音荒く、寝室に戻った。
「ディーター。来て。洗面所で頭洗おう。服も着替えんと」
 でも彼は、手足を縮こめて背を向けたままだった。
 全身で、私を拒否していた。
 彼は敏感に感じ取ったのだ。
 一瞬にせよ、彼に憎しみを抱いた私の心を。
「……ディーター」
 もう、だめだ。
 私たちは、終わりだ。
 私では、彼の心を治すことはできない。
 一生彼のそばにいると、彼を守ると約束したのに、私はその誓いを果たせなかった。
 玄関のベルが鳴った。
 よろめきながらドアに向かった。
「円香。あの子の具合はどうや」
 白い髪をダンディーに撫でつけて、目じりの皺を深くして、祖父が微笑んでいた。
「どないしたんや。円香」
「おじいちゃんっ!」
 私は、祖父の肩にすがりついて、大声で泣き出した。


§2につづく


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