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EWEN

Episode 15
過去からの手紙


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§2

 数日後の雨の日、私たちは、嵐山のホテルのロビーで、鹿島さんと待ち合わせた。
「茜のやつ、お得意さんの宴会が入っとって、店に泊り込んどんのや。すまんな、マンションに来てもらえんで」
「かまへんよ。掃除にこきつかわれるのもイヤやし」
「それで、何やったかな。電話ではさっぱりラチあかん。『こりのなんたら』?」
 私は、コーヒーを脇に寄せて、例の便箋をテーブルに広げた。
「ふええ」
 鹿島さんは、両手を頭のうしろで組むと、遠くを見つめて考え込むポーズをした。
 そうそう。この遠くを見ているときの眼が、私はたまらなく好きだったんだっけ。
 鹿島康平が私の家に住みこみ始めたのは、私が小学校3年生のとき。
 36歳になった今でも、道行く人がはっと振り返るほどの容姿だが、ハリウッドから帰ったばかりの25歳当時は、本当に素敵だった。
 私はまるで女の子がスターに夢中になるように、彼に夢中になった。
 初恋かと問われれば、自信はないが多分そうなのだと思う。
 特に、父がドイツに行ってしまってからは、私は精神的にも鹿島さんに寄りかかっていた時期があった。
 中学に入って部活が忙しくなるまでは、よく鹿島さんに連れられて、京都の撮影所や観光名所を巡り歩いた。
 もしかして、『こりのよんき』は、そのとき行った場所のひとつではないか、と思いついたのだ。
「私を連れて行ってくれたところって、どこか覚えてる?」
「さあ、いろんなとこ行ったけど、これといって円香ちゃんが好きそうなところはなかったで。お寺巡りしても、いっつもつまんなそうにあくびしとったからな」
 そう言って、鹿島さんは優しい目で、私を見る。やんちゃな小さい妹を見るような目で。
 男ばかり3人兄弟の末っ子に生まれた鹿島さんは、昔から私をとてもかわいがってくれた。
 どんなに好きになっても、彼にとっては、私は妹のような存在でしかなかった。
 忘れていた甘酸っぱい味が、コーヒーの香りとともに、私の喉の奥に滑り落ちる。
「円香ちゃんの一番好きなところは、やっぱり撮影所の中やったな。ぎゅっと足をふんばって、目をきらきらさせて、師範や俺の殺陣を見とった。将来は絶対時代劇で立ち回りのできる女優になるんやって、言っとったな」
「えーっ。私、そんなことを? 全然覚えとらへん」
「おじいちゃん孝行の気持ちからやったと思うで。葺石流を誰も継ぐ人がいなくて、おじいちゃんが可哀相やって、円香ちゃんの口癖やったからな」
 次々と、私の知らない私が出てくる。
 何だか、いたたまれなくなってきた。
 鹿島さんと別れて、私とディーターは一本の傘で体を寄せ合うようにして、渡月橋の上に立って雨の吸い込まれる桂川の川面を眺めた。
 雨の音と小さな無数の重みが、傘をとおして彼の手と私の手に伝わってくる。
 ディーターはずっと黙っていた。少し恐い顔をしていると思った。
 私が昔鹿島さんを好きだったことを、彼は知っている。今のふたりの会話は不愉快だったかもしれない。
 考えてみれば、時差ぼけもまだ治りきらないうちに、私は彼を引っ張りまわしていた。自分の過去捜しに夢中になって、あまりに配慮が足りなかったのだ。
「ね、ディーター。私もう、「こりのよんき」探すの、今日で止める」
「どうして?」
「きっと、しょうもないことやと思う。思い出せないってことは、大切じゃない証拠だよ。どうせ、10年も経ったら、その場所も変わったに決まってる。もう諦めたほうがいい」
「円香は知りたくないのかい?」
「知りたく、なくはないけど……」
「俺は諦めないよ。思い出せない辛さを、俺自身いやというほど経験したから、ここで投げ出したくない」
「ディーター……」
「明日も京都中を捜して回るよ。いいね」
 透き通った山と空と水の色をした彼の瞳が、私を映すのがうれしくて、せつなくて、私は彼の上着をぎゅっとつかんで離さなかった。


 次の日も、私たちは「こりのよんき」を探して、京都の町を歩き回った。
 紅葉にはまだ少し早かったものの、秋の京都は風情があった。
 金閣寺。京都御所。八坂神社。祇園。
 高瀬舟の浮かぶ堀や、町屋の並ぶ裏路地。
 昔あくびを連発していたはずの観光地巡りも、何故か楽しい。
 私が大人になった証拠なのか、ディーターといっしょのものを並んで見られるからか。
 結果的に徒労だったとわかっても、満たされた思いになった一日だった。
 そのあと、手がかりのすべてをなくしたこともあって、10歳の私捜しはしばらく中断していた。
 それが再開したのは、5日くらいたった夜。
 ディーターがパソコンを打っている隣の自分の机で、研究発表の準備をしたあと眠くてたまらなくなったので、テキストを作りつけの棚に戻そうとしていたときだった。
「あ、思い出した」
 記憶というのは、何とやっかいなものだろう。思い出そうと努力しているときには思い出せず、こんな何でもない瞬間に涌き出てくる。
「思い出した? 『こりのよんき』が何処かって?」
「ううん。そこまでは。でも、あの手紙を書いたときのこと、思い出した」


 予鈴が鳴ったあとの騒がしい教室。未来ちゃんが近寄ってくる。
 おはよ。円香ちゃん。今日こそ持ってきた? 20歳の自分に出す手紙、今日が閉め切りやったよ。
 うわあ。忘れてた! どうしよう、未来ちゃん。
 今から書き。先生来るまでに書けるよ。
 私はあわてて手袋を脱ぎ、ランドセルから便箋を引っ張り出して、かじかんだ指でその場で思いついたことを殴り書きしたのだった。
「そうか。未来ちゃんやったら、これがどういう意味なのか知ってるんや」
 小学生のとき、一番長い時間をいっしょに過ごし、一番何でも相談し合えた友だちは、未来ちゃんだった。
 でも、未来ちゃんはもういない。
 5年の夏休みに転校し、6年のとき転校先の長田で、震災に会って亡くなってしまったのだ。


 未来ちゃんのお姉さんを訪ねた。
 JR長田駅前の高層マンションの一室にお父さんと一緒に暮らしている、24歳のほっそりした優しい人。
「ごめんなさい。来月結婚式っていう、とんでもないときにお邪魔しちゃって」
「ううん。いいのよ。会社辞めてかえって暇。どうぞ、入って。ちらかしてるけど」
 私たちを招じ入れると、彼女はディーターに向かって、にっこりと会釈した。
「はじめまして。高田夏海(なつみ)です」
「ディーター・グリュンヴァルトです。はじめまして」
 太秦という上下関係の厳しいところで鍛えられているおかげか、ディーターのお辞儀はぎこちなさがなくて、なまじっかの日本人よりも典雅で礼儀正しい。
「かっこいい旦那さまやね」
 夏海さんはこっそり廊下で耳打ちした。
「へへっ。まあね」
 仏壇の前で、未来ちゃん、未来ちゃんのお母さんとおばあさんの位牌に手を合わせた。
「いつも毎年お墓参りしてもろて、ありがとうね。オレンジ色のポピーの花束、円香ちゃんやって、ようわかるわ」
「未来ちゃんの一番好きな花やったから」
「覚えててくれたんやね」
 私は、仏壇の未来ちゃんの写真をじっと見た。
 私の記憶にある未来ちゃんそのまま。いつものおませな笑顔で笑いかけてくる。何年たっても彼女は年をとらない。
「私ももう、こうやって円香ちゃんに会えること、当分あらへんかもしれん」
「ご主人の職場、博多なんやてね。お父さん、寂しくなるね」
「うん。……でも、もうすぐ父、再婚するから」
「あ……」
「相手の女性、私が結婚するまで待っててくれてん。2年間」
「……」
「いろいろあったけど、やっとこれで区切りがついたような気する。父もすごく辛かったと思うから」
「そうだよね。父親のことって、娘にしたらやきもきするよね。何もできひんけど、やっぱり幸せになってほしい」
「そうか。円香ちゃんとこもやったね」
「……うん」
 私は持参した便箋と、財団の茶封筒をバッグから取り出した。
「電話で話したのは、これのこと」
 夏海さんはそれを読むと、悲しそうに首を振った。「わからへんわ」
 それから、すっと隣の部屋に行き、箪笥の一番上の引き出しを開けて、同じ茶封筒を持って戻ってきた。
「うちにも来たの。一週間くらい前かな。うち2回引越ししてるから、転送 に時間がかかったんやと思う」
 彼女は、中の便箋を渡してくれた。
「……読んでええの?」
「うん。円香ちゃんのこと、書いてあるよ」
 便箋いっぱいに、見覚えのある未来ちゃんの可愛い丸文字がびっしり並んでいた。


「はたちの未来へ、こんにちは。
お父さん、お母さん、おねえちゃんは、元気ですか。
今より10さい年とってるけど、病気はしてないですか。
10さいの未来はみんなのことが大好きです。
もうすぐ、長田のおばあちゃんのお家におひっこしするけれど、みんなでくらすから、さびしくありません。
でも、円香ちゃんや、さっちゃんや、由美ちゃんとわかれるのは、少しさびしいです。
とくに、円香ちゃんは、わたしの大しん友です。
男の子にいじめられて、わたしがないていたときも、助けてくれました。
はたちの未来におねがいです。
円香ちゃんとずっとずっとなかよくしてください。10月14日のおたんじょうびには、大好きなコスモスの花をプレゼントしてください。
円香ちゃんは、わたしのたんじょうびにオレンジのポピーをプレゼントするよ、ってやくそくしてくれたからです。
それではさようなら。 10さいの未来より」


 もう最後の文字を読むことができなかった。涙が拳を伝ってスカートの膝にぽとぽと落ちた。
「私こそ……、未来ちゃんにいっぱい助けてもろた……。お母さんが死んだときも、一緒にいてくれた……。それなのに……、私、未来ちゃんのことを手紙にひとことも書かへんかった。あほなことばっかり書いて」
「円香ちゃん。未来は、こっち来てからもよく円香ちゃんのこと話してたよ。円香ちゃんは元気で明るくって、気の弱かった未来にとっては、あこがれの存在やったみたい。 円香ちゃんが未来のことずっと覚えていてくれて、あの子の誕生日に毎年ポピーの花を手向けてくれるだけで、きっと未来は満足やと思う」
「……ごめんなさい」
 夏海さんの家を出たとき、高くまぶしい秋の空を、ぼんやりと見上げた。
 母と親友。最も身近にいたふたりをなくした私は、過去を思い出す術をも全く失ってしまったのだ。


 真っ暗な部屋のベッドの上で、私はディーターと抱き合って、彼の胸に頭を押しつけていた。
 これほど無条件に安らげる場所があるなんて、きっと10年前の私は知らなかった。
 10年間毎日、私は古い自分を脱ぎ捨てて、大きくなってきた。
 忘れてはならないことも忘れていいことも区別がつかない愚かな私は、いろんなものを過去に置いてきてしまった。
 でもそのすべてを失っても、今というこの瞬間、ディーターとともにいるだけで私は安らげる。
「私ね、こんな手紙を書いた10歳の自分に感謝してるよ。だって、そのおかげでいろいろなことを思い出せた。……ありがとう、ディーター。あちこち付き合ってくれて。いっしょに思い出の場所に行けて、すごく楽しかった」
「俺も」
 彼は、私たちをもっと近づけるために、両腕に力をこめた。
「ほんとうは、悔しかった。恒輝や鹿島さんが、俺の知らない子どもの頃の円香を知ってるのが、悔しかった。たぶん嫉妬してたんだと思う」
「……ディーター」
「誰よりも、あの手紙の意味を知りたかったのは俺だった。円香が大切に思っていたものが何なのか知れば、鹿島さんにも恒輝にも勝てると思ったんだ」
「私の一番大切なものは、もうディーターしかない。知ってるくせに」
 彼は照れたように笑うと、私にキスした。
「誕生日おめでとう。円香」
「え?」
「たった今、12時過ぎた」
「あっ! 今日14日やの?」
 私はふーっと大きな吐息をついた。
「とうとうハタチになってしもたか」
「日本では、20歳になるってどんな意味があるんだっけ?」
「ええと、選挙権がある。お酒とタバコが飲める。国民年金に加入する。パチンコができる……のは18からやったっけ。そんなとこかな」
「もう食事に行っても堂々と酒が飲めるんだ。いちいち証明書を見せないと、信じてもらえないだろうけど」
「しっつれいな男やな。ようし、今度はうんと胸のあいたドレス着て、ピンヒールはいて、真っ赤な口紅つけて、血のように赤いカクテルをぐびりと……」
 突然、何かが私の脳の中でパズルの合わさった音をたてた。
「あ―――っっっ!!」
 そのときの私の叫びはマンションの廊下まで聞こえたと、見まわりをしていた管理人さんがあとで教えてくれた。


「あった……。『こりのよんき』……」
 翌朝、夜が明けるとともに家を出た私たちは、数分歩いて、阪急電車の夙川・西宮北口間の高架下に着いた。
 高架下には、ずっと国道の方まで、市場や喫茶店やブティックなどの店が建ち並んでいる。
「震災で、高架がつぶれたとき、ほとんどの店が移転したと思てた……。まだあったんや」
 私たちの目の前にあったのは、一軒の和風居酒屋だった。
 はっきりと10年前の情景が私の脳裏に浮かんできた。


 父と母は夕食後、ふたりで出かけようとしていた。
 なんで、連れてってくれへんのん。円香も行きたい。
 おまえは二十歳になるまで行かれへんとこなんや。
 お酒飲むところやからね。おじいちゃんとお留守番しとってね。
 なんで外でお酒飲むん。家で飲んだらええやんか。
 お父さんとお母さんの結婚記念日やねん。毎年ふたりでデートしようって決めてあるの。
 円香がいるのに。どうして、ふたりきりでないといかんの。
 円香は邪魔。おまえも好きな男ができたら、そいつといっしょにデートしたらええんや。
 私は腹が立って、こっそりふたりの後をつけた。テレビの探偵の真似をして、店に入るまで見届けた。


 ようし、私も二十歳になったら、ここに来てやる。すてきな彼とデートして、いっぱいお酒飲んでやる。
 そう固く心に決めたのが、この店の前だった。
 早朝ゆえ、店の暖簾もしまわれて、少し古ぼけたスタンド式の看板だけが、小洒落た店の名を示していた。
「古里の四季」
 4年生の私は、何を血迷ったか、これを「こりのよんき」と読んでしまったらしい。
 ディーターはうずくまって、しばらく立てないほど笑い続けていた。
 私も急に力が抜けて、彼の隣にしゃがみこんだ。
「なんか、お騒がせしました。こんな結果に終わってしまい、言葉もありません」
 彼は私の顔をちらっと見ると、またひとしきり笑いの発作に襲われた。
 でもその夜、ちゃんと「古里の四季」に、飲みに連れて行ってくれたのだ。
 私の10年来の誓いは、ついに果たされた。
 私はしこたま食べ、しこたま飲み、帰り道のど真ん中で大きな声で歌い、挙句の果てにディーターにおんぶしてもらって家に帰った。
(私は、あまり酒癖が良いほうではないみたいだ。以後気をつけなければ)
 彼の背中、夢見心地のプールにたゆたいながら、私は10歳の私に話しかけていた。


「10歳の円香へ。あなたのおかげで、「こりのよんき」で二十歳を祝うことができた。
お父さんとお母さんがデートした思い出のその店で、愛する旦那さまと楽しいお酒を飲むことができた。
ほんとは、こうなることがわかってたの?
もしかすると、あなたって予言者だったのかもしれないね。
心から、ありがとう。 20歳の円香より」



     
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