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Episode 17
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§1 「ヘルプ ミー。キル バイ ゼム」 清涼な11月の空気の向こうに佇む紅葉の甲山。 その見なれた風景を背にだらだら坂を少し下り、葺石家への道を曲がったところで、ディーターはいきなり、駆け寄ってきた子どもに袖をつかまれた。 びっくりして振り向くと、中学の黒い詰襟を着た、背は140センチくらいの男の子が、青ざめた必死に訴えかけるような表情で彼を見上げている。 彼は先ほどと同じ言葉を、一音ごとに母音が混じる日本語式の発音で繰り返した。 助けて。奴らに殺される、と言っているのだろうな。ディーターは考えた。奴らとは? 少年の視線の先は、家とは反対のコンビニに行く道の途中。やはり帰宅中らしい3人の男子生徒がじっとこちらを見ている。そのうちひとりは手にこれみよがしにスポーツシューズをぶら下げている。 そして、もう一度、彼のそばの少年を見下ろすと、靴をはいていない。今朝履いたときは白かったであろうソックスは、道路の汚れで茶色に染まっている。 ディーターの陰に隠れながら、おびえてきょときょとした視線をただよわせている少年の目をじっと見つめたあと、彼は、3人に向かって歩き出した。 そして、少年に片袖をつかまれたまま、もう一方の左手を彼らに広げた。 “ Give those shoes back to him. --- Please. “ 男の子を拾ってきた。 彼の第一声に、台所にいた藤江伯母さんは、両手を水で濡らしたまま玄関に飛び出した。 「どないしたん?」 かいつまんでディーターが事情を説明した。 「いじめってヤツ? 靴を盗られて待ち伏せされてたらしい。ひとりだったらひどい目に会ってたと思う」 「それで、靴は取り返したの?」 「うん。頼んだらすぐ返してくれた。すごい勢いで逃げてったけどね」 「睨みつけたんやろ。あんたが真顔で睨むと、めっちゃ怖いもんな」 「そのあとも、ずっと俺の服をつかんで離さないんだ。きっと奴らの仕返しを恐れてるんだと思う。しかたなく、そのまま連れて帰ってきた」 玄関に立ちんぼになっていた少年は、関西弁の伯母さんと、流暢に日本語を操るディーターのふたりの会話をあっけに取られたように見つめている。 「あの子に合う靴下、何かあるかな。このままじゃ、中に上がってもらえない」 「ああ。お父さんの買い置きの白いのがあるわ。ちょっと待っとき」 汚れてもう擦り切れたソックスを脱ぎ、藤江伯母さんが渡したのを代わりに履くと、少年はディーターの後ろにぴったりついて、おずおずと廊下を歩いた。 伯母さんがぷっと吹き出した。 「電信柱の陰に隠れてる犬ころみたいやねえ」 居間に入ると、ディーターが訊ねた。「ジュースとコーヒー、どっちがいい?」 「え、いえ、あのどっち……でも、けっこう……です」 「どっちか決めてくれないと、困る」 「あ、じゃ、じゃあ、ジュースで……」 台所からオレンジジュースのコップを持って戻ってくると、それを座っている少年の前に置いた。 少年は小さかった。さっき外で出会った3人の級友たちに比べても小さい。猫背で、顔はぼさぼさの前髪の中に半分隠れ、誰とも目を合わさない習慣ができているのだろう、視線はずっと伏せたままだ。 ディーターは自分用のマグカップを持ったまま、少年の向かいに胡座をかいて、黙ってコーヒーを口に含んだ。 しばらく居心地悪そうにしていた少年は、ふと気づくと居住まいを正して、頭を下げた。 「今日は……、あの、助けてくださって、あの、ありがとう……ございました」 「俺の名前は、ディーター。君は?」 「僕、山岸……。山岸慎也……」 「家はこの近く?」 「N町……です」 「慎也君、あんなこと、しょっちゅうあるの?」 「? あ、あんなことって……」 「靴を隠されたり、待ち伏せされること」 「は、はい……」 「あの3人だけに?」 「いえ、あの、クラスのほとんど、全部に……。僕、チビやから……」 「学校の先生や家の人に、助けてもらった?」 「い、いえ。あの、強くなればいじめられないと……」 「え? 聞こえない」 「あ、あの、強く、なれば、いじめ、られない、と、お父さんがいつも、……」 「ふうん」 ディーターは、また黙り込んだ。 慎也は、その沈黙に耐え切れなくなって、黒光りのする古い天井や梁や柱を見回し始めた。 「あの……、ここはお寺ですか?」 「違う。古武道の道場だよ」 「古武道?」 「剣道みたいなもの。近所に住んでるのに知らなかった?」 「は、はい。ずっと何するとこかなと、思ってました」 「宣伝不足かなあ」 「そ、それで、ディーターさん……は、ここで何をしてるんですか?」 初めて目が合った。ずっと羞恥に顔をそむけていた彼の内側で、ようやく好奇心がまさったらしい。 そりゃそうだろう。お寺と見まごう日本的建築の中で、しかも古武道などという超古典的家業を営んでいる家に、長髪で片耳にピアスをした、ガラスのような色の目の西洋人がいるのだから。 ディーターは、くすりと笑った。「留守番、かな」 「はあ」 「何言うてんの。師範代のくせして」 台所から、藤江伯母さんが大声で茶々を入れた。 「師範代?」 「そ。師範の次が師範代。ここの爺さんが長いこと師範やったんやけどな。こないだ引退して、師範代に跡を譲ったんや。で、この子が師範代に出世した。ま、正確に言うと、3週間後の跡目披露で、師範代になるんやけどな」 「すごい」 「ああ、もう。藤江さん」 彼は、照れて頭に手をやった。「会う人ごとに、言って回らないでくれよ」 「強い、んですね」 慎也の瞳に、あこがれの色がにじみ始めた。 ディーターは吐息をついて、カップを机に置くと、 「悪い、俺は5時から稽古に行かなくちゃならない。ひとりで家に帰れないなら、誰かに送らせるけど、どうする?」 「お稽古、見ていたらだめ、ですか」 「いいけど、7時までかかる。帰らなくて、だいじょうぶ?」 「今日は塾の日だから、家族は行ってると、思ってる。塾は、……休むって電話するから」 「好きにするといい」 「はいっ」 大学の学祭の準備で遅くなり、騒動の一部始終を見損ねた私が道場を覗いたのは、稽古が佳境に入ってからだった。 お茶の盆をそっと隅に置くと、はじで足を投げ出して見ている少年のそばに近づいた。 「こんばんは。慎也くん」 「あ……。こんばんは……」 「伯母さんから、慎也君のこと聞いたよ。私、葺石円香。この家の娘。よろしくね」 「はあ……」 「見てて、おもしろい?」 「はい……。まあまあ……」 「あはは。そうやね。見てるだけやったら、つまんない。やってみなきゃね」 ちょっとそこの竹刀取って。 私は座ったまま、彼に手の握りを教えた。 彼は子どもじみた熱心さで、何度も握ったりほどいたり、当たり構わず振りまわそうとしたりし始めた。 「お、重い」 「初めは無理だよ。何度も素振り練習しないと」 「どれくらいで、うまくなれます?」 「さあ。どうやろね。4年か、5年かかるかなあ。ディーターは2年でここまで来たけど、あれは特別」 「かっこいいですよね。ディーターさん」 「うーん。その点異論はないぞ」 「足があんななのに、全然見ててもわからないです」 「その分苦労したんやと思うよ。人の3倍稽古してるからね」 「僕も、あんなふうに、強くなりたい」 「なれる。なれるよ。がんばって」 中休みの時間になって、道場から竹刀の音が止んだ。 私はあわてて、用意していたお茶を湯のみに注いだ。 11月ともなると、古い木造の道場はそこはかとなく寒かったが、ディ−ターと3人の門下生は、お茶同様、湯気がたつほど上気していた。 お疲れ様。近づいてくる彼らに声をかけようとしたら、がばと立ち上がった慎也に先制された。 「ディーターさん」 今までの彼とは思えないほど、大きな声だった。 「お願いです。僕をこの道場に弟子入りさせてください。僕、あなたみたいになりたいんです」 ディーターは固まってしまった。3人の門下生たちもぽかんとしている。 そして私は。 無責任に彼をけしかけた私の行為が、すべての元凶であることを、しみじみと悟っていた。 「まだ、小さすぎるんやないですか。いや、け、決して背の意味やなくて、若すぎるって意味でだよ」 車座になってお茶をすすりながら、門下生のひとり奥野くんが助け舟を出してくれた。 奥野くんは26歳の警察官。交通課を経て、今は高架下の派出所勤務になっている。警官とは思えないくらい気弱でおっとりした好青年。今日の門下生の中では一番年少で、一番「まとも」な人だ。 「あら、でも恒輝くんは、中2で入門したって聞いたわよ」 と、フォローをだいなしにしたのがジュリーさん。宮下くんという名前を誰も呼ばず、勤め先のクラブのあざなで呼ぶ。おねえ言葉を使うがれっきとした男の人。10年以上葺石流にいる古参で、みかけによらず腕もなかなか立つ。 「あ、ぼ、僕も中2です。おんなじです」 「まあ、それにしては小さいのねえ。あそこの毛生えてる? うぷっ」 「『少年老い易く学成り難し』。今はまだ勉学に励むべきではないかな」 と言い放ったもうひとりは、60過ぎの大学講師の村主(すぐる)さん。中国史が専門で、立会い稽古の最中でも、思いついたら故事成語を引用して、周囲を煙に巻いている。葺石流を極めることが目的ではなく、その精神が好きなのだそうだ。 「周の武王の故事に『牛を桃林(とうりん)の野に放つ』、というのがある。人間必要がなければ武装を解き、学問に力を注ぐべき、という意味だ」 ひええ。それじゃ、葺石流の存在意義なんかないじゃないの。村主さん。 もちろん、葺石流の門下生が全て変人てわけじゃない。木曜の生徒は特別。でも、個性の強い人が多いのは確かかもしれない。祖父がそんな人に限って気に入り、入門させてしまうのが原因だ。 「今必要、なんです。今強くなりたいんです、ディーターさんみたいに。 ……中学に入って、身体が小さいって、ずっといじめられて、きたから、クラスの奴らに、いじめられても、負けない力をつけたいんです」 「とにかく、俺の一存ではどうにもできない。入門を許可するのは、師範だから」 ディーターは、逃げに入った。 「師範はどこにいるんですか。会わせてください」 「ええと・・・…」 彼は困った顔で私を見る。私も困って天井を見る。村主さんたちはニヤニヤしている。 言えるだろうか。仮にも葺石流第13代師範が、社交ダンスクラブの旅行に行ってるなんて。 祖父は、夏に鹿島さんを次の師範に選び、11月末の跡目披露の段取りだけ言い置くと、さっさとわが世の春を謳歌し始めた。西宮北口駅前のカルチャースクールで、社交ダンスを習いだしたのだ。 無口できまじめで、いかにも古武道の師範然としていた祖父が、いきなりタンゴだ、ルンバだと始めたものだから、家族はそのあまりの変わりようにぶったまげた。運動神経抜群なうえ、体つきも締まってせいぜい50歳代くらいにしか見えないから、中年のおばさまたち相手にモテモテぶりを発揮しているそうだ。 師範の重圧に数十年耐え、自分を殺してきたが、本来こういう性格だったということだろうか。そう考えてみれば、この祖父にしてあの父が生まれてきたというのも頷ける。 ……わが葺石の血筋が恐ろしい。 「師範は、用事で日曜しか帰ってこない。でも、ある程度の体格がないと、入門は許されないと思う」 「そうですか……」 しょんぼりと俯いてしまった慎也の肩を、私はぽんぽんと叩いた。 「元気出して。お茶片付けるの、手伝ってくれる?」 私と彼が道場を出ていったのを見届けて、ディーターはハアと大きなためいきをついた。 「どうしたらいいだろう」 「あ、ああいう子、今までにも来たことありますよ。僕が知ってるだけでも2回。ねえ、村主さん」 奥野くんの問いかけに、大学講師は頷いた。 「いじめに会うてるので強くなりたいと訪ねてくる親子はしょっちゅうおる。たいていは親が無理やり引きずってくるけどな。本人が直接来たのを見たのは、初めてや」 「思いつめてるような雰囲気やったから、ほ、本気かもしれないですね」 「わたしの経験から言わせてもらえば、ああいう子はしつこいわよう」とジュリーさん。「うちのクラブでも気の弱そうなお客ほど、しつこく店の子を追いかけてくるもんなのよ」 「師範は、どうやって断ってたんですか」 「ここの稽古を見てもろて、葺石流の理念を丁寧に説明して、納得してもらう。誠意をこめて応対する。『七縦七擒(しちしょうしちきん)』の心や。ディーター」 「はあ……」 休憩時間も終わり、彼らは後半のさらに激しい立ち切り稽古に向かうために立ち上がる。ひとりの元立ちに残りの者が入れ替わり立ち替わり対戦する稽古法だ。 「案外とすぐ諦めることも多い。気にするな」 「ああら。ああいうお尻をした子は、磨けばいい男になるタイプなのに、残念だわ」 「ジュリーさんっ。稽古中に他の生徒のお尻を触ったら、今度こそ破門しますよ!」 「ふん。ディーターが触らせてくれないからいけないのよ。けちっ」 彼らの会話を聞きながら、奥野くんは同情して呟いた。 「師範や師範代って、本当に大変なお仕事なんですねえ」 その夜は、私とディーターが家まで送っていく間も、慎也はしょげた様子で口をきかなかった。 可哀相だけど、もう諦めただろうと思っていたら、次の日の夕方、明るい顔で道場に走りこんできた。 「今日は全然いじめられなかったです」と嬉しそうに報告する。 「昼休み、きのうの3人に取り囲まれたんで、つい、あの道場に入門したと言ってしまって。だから、僕をいじめたら、師範や師範代たちが仕返ししてくれるんやって。そしたら、すごく驚いたふうでした。ここのこと、よく知ってるみたいでした。そのあと、何もせずに行ってしまったんです」 「……」 ディーターはしばらく絶句していた。 「なんか、すごく気分いいです。ディーターさんのおかげです」 「入門していいと、言った覚えはないよ」 「でも、そしたら、僕はうそつきになってしまいます。よけいいじめられてしまう。お願いだから剣を教えてください」 「なんやなんや。おっ。どこのチビや。こいつ」 準備運動と素振りをしていた恒輝が、おもしろそうな匂いを嗅ぎつけてやって来た。それにつられて他の4人も集まってくる。 「うわあ」と慎也は上を見上げた。 金曜の門下生は長身が多い。180センチの恒輝。元プロレスラーの矢島さんは192センチ。太秦の大部屋俳優の中武さんは175センチと、慎也にとっては針葉樹林に囲まれたように感じただろう。 葺石流に入門したら、背が高くなれる、と間違って思いこんでしまったかもしれない。 今までの経緯を聞くと、恒輝はさもおかしそうに笑った。 「無理無理。おめえみたいな体力なさそうな奴、どないして竹刀振るんや。百年早いって」 ぽんぽんと頭を叩く恒輝から、慎也はあわてて逃げ出して、ディーターの背後に隠れた。 恒輝のいじめっ子体質を、敏感に感じ取ったらしい。 ディーターはしゃがみこんで、慎也の目をまっすぐに見た。 「正直、俺はきみみたいな子どもを教える自信がない。怪我をさせてしまうかもしれない」 「いい、です。覚悟、してます」 「最初は素振りだけでええんやないか」 「なんなら、俺たちで面倒見るよ」 葺石流の最古参、宝塚の公立中学の数学教諭、小畑先生と、自衛隊伊丹基地に勤務する折原二佐が申し出てくれたので、慎也は門下生たちが交代で世話をすることになった。 私がお茶を持っていったとき、彼はふらふらになりながらも、身に余る竹刀を一所懸命振りまわしていた。 なんだか、すごくけなげだった。昨日初めて会ったときよりも目が生き生きと輝いている。 「そうや。私が中学のとき使ってた短い竹刀を貸してあげれば、もっと楽に扱えるね」 母性本能をくすぐられた私は、休憩のとき、そう慎也に提案した。 「ほんとですか」 「おまえさ。いっそのこと、円香に剣道習えよ」 と、恒輝がまたいい加減な発言で、場を引っ掻き回す。 「えっ」 「こいつ、剣道三段やで。剣道なら防具もあるし、危なくないやろ」 「でも……。僕は……ディーターさんに」 「だいじょうぶ、やて。強さは保証付きや。この家では、こいつが最強の存在やからな」 「……」 「ある意味、ディーターかて、こいつにはかなわん。……いてっ」 私の鉄拳を頭に浴びて、恒輝は大げさに倒れた。 「ほうら。凶暴このうえないやろ」 慎也は目を見開いて、畏敬のまなざしで私を見た。 「こらっ、慎也くん、本気にしちゃだめだよ。私は……」 「あの、失礼します。」 突然、道場の外の庭から、太い男の声が響き渡った。 「わたくし、山岸と申します。息子がこちらでお世話になっていると伺ったのですが」 §2につづく
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