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ベランダに出て、私は思わずため息を吐いた。 夜風が心地よい。肌寒いくらい。やっと秋が来た感じだ。 数日前までの暑さが嘘のよう。 「こないに暑くなったんは、ディーターがドイツから帰ってきた途端やで。ふたりでいちゃいちゃしとるから、いつまでも涼しくならへんのや」 と憎まれ口を叩く恒輝（つねき）に道場にいた門下生たちが一斉に同意してうなずくほど、お盆を過ぎてからの関西は、冷夏から一転して猛烈な残暑にみまわれた。 ようやくここ数日、季節が変わった気配がする。公園の木々の上にひっかかるように、くし型ゆでタマゴみたいな半月が浮かんでいた。 ほんとうは、ディーターといちゃいちゃしてるなんて、とんでもなかった。私は毎日モウロウとしながら、聖（ひじり）の世話に明け暮れていたのだ。 とにかく一日中おっぱいをやっていた。 さっきおっぱいを飲ませたと思ったら、またすぐ泣き始める。乳首を含ませると最初は勢いよく吸い出すのに、途中でふにゃあと気持ち良さそうに寝てしまう。 「こら、聖くん、ちゃんとおなかいっぱい飲んで」 ほっぺたをぷにぷにとつついても、だめ。あきらめてベビーベッドに寝かせると、一時間も経たずにまた泣き出す。 私のおっぱいの出が悪いんだろうか。ミルクに切り替えようか。私ってだめな母親なんだろうかと自問する日々が続く。 夜もそんな調子で寝られず、私は疲れ切ってしまった。永久にこんな日が続くような気がした。そののち数週間もたたず、信じられないくらいすーっと楽になることを、そのときの私は知らない。 今も聖をようやく寝かしつけて、そうっとベランダに出てきたのだ。 頭の芯に赤ちゃんの泣き声がこびりついて反響している。 隣の書斎の窓がカラと開いて、ディーターもベランダに現われた。 「寝・た？」 私のほうを見て、口の動きだけでそう問う。私はうなずいた。 そろそろと近づいて、並んで立った。ふたりとも家の中では物音を立てない癖がついてしまった。まるで、夫婦で忍者の修行をしているみたいだ。 ディーターは私の体を引き寄せる。彼の腕の中が、とてもあったかく感じる。 「だいじょうぶ？」 小さな声で彼がささやいた。 「うん」 私も小さな声で答えた。 彼だって眠たいはず。夜中に私が授乳している気配で、何度も目を覚ましているに違いない。 それでなくても、これから私がまた大学に行き始めたら、いっぱい迷惑をかけてしまうんだもの。弱音を吐かずにがんばらなくちゃ。 そう決意して、彼にもたれかかってゆっくりと力を抜いた。 それにしても、静か。 「あ、虫が鳴いてる……」 本当はずっと前から鳴いていたはずなのに、今ようやく気づいたのだ。 「こおろぎ」 「よく知ってるね。アイルランドやドイツにもいた？」 「円香が教えてくれたんだよ。『こおろぎの声を聞いて、何か感じる？』って」 ディーターは、意味ありげに微笑んだ。「覚えてない？」 「あ」 思い出した。 あれは2年前。結婚して迎えた最初の秋。 やっぱりこんなふうにベランダにふたりで出て、同じようにこおろぎの声が聞こえてきて。 私は、ディーターを問い詰めたのだ。 虫の音を聞いて、寂しいとかもの悲しいとか、感じる？ 首を横に振る彼に、私は「日本人はみんな、そう感じるんだよ」と憮然として言ったのだ。偉そうに、日本人全員にアンケートをしたわけでもないくせに。 「それを聞いたとき、日本人になるってむずかしいんだなあ、と思ったよ」 とディーターは続けた。 わああ。 思い出した。思い出した。 あのとき私は、何かの本で読んだのだ。心理学の授業だったかもしれない。 虫の音を日本人は言語野のある左脳で聞くが、外国人は雑音と同じく右脳で聞くのだと。 だから、日本人はことばを聞くのと同様に、虫の音にいろいろな情緒を感じるが、外国人は騒音として聞くためにそれを感じることができないのだと。 それを読んだとき、私はディーターとの結婚生活に不安を抱いてしまったのだ。 確かにいっしょに暮らすようになって数ヶ月経って、細かい感情の行き違いを感じていた。ことばが足りなかったり誤解したり、でもそれは、普通の夫婦だって誰でも経験する程度のささいなことなのだけれど。 でも、私にはそれは、国際結婚だから生じる問題だと思えてしまった。 「円香ってえらいよね。外国人と結婚するって」 大学の友だちのなにげないことばに棘を感じて、柄にもなく落ち込むこともあった。 だから、私はディーターにいちゃもんをつけたのだ。 外国人って虫の音を、工事のがりがりっていう騒音や車のエンジンの音と同じに、ただうるさいとしか思わないんだってね。 彼は困ったような顔をするだけだった。 やつあたりだった。自分の不安をそんな形で彼にぶつけてしまっていた。 きっとディーターもそれを聞いて、日本人の私との生活に大きな不安を感じてしまったと思う。 愛する人に自分のイヤな気持ちを押しつけて、そして溜飲を下げる。なんてバカで心の狭い私。 あやまりたかったけど、説明するのが面倒なので、やめた。 かわりに心の中でこっそり謝ることにした。２年前のあのときは、意地悪でごめんね。 「やっと最近になって、虫の音を聞くときの気持ちがわかるようになったよ」 しばらく黙ったあと、ディーターが私の頭の上で、そんなことを言う。 「どんなふうに？」 「虫の音が聞こえるときは、静かだってこと。静かで平和でほっとするってこと」 私たちは、すごく声をひそめたまま、くすくす笑った。 確かに、聖がおぎゃおぎゃ泣いているときは、虫の声なんて聞こえやしない。きっとこれから先何年もこの家はにぎやかこのうえなく、ふたりきりで虫の声に耳を傾ける静けさは、貴重な一瞬なのかもしれない。 私はもう一度、幸せな気持ちでため息をついた。 ふたりの上を同じ時間が流れている。 ディーターが、日本人が虫の音をどう感じるかを知らなかったように、私も、ディーターが聞いてきた銃声や人々の悲鳴や爆弾の音を知らない。 でも、これからはふたりでいろんな音を聞いて、ふたりでいろんなことを感じて、それを積み重ねていくのだと思った。 聖。もうすこしだけ静かに寝ていてね。 ファティとムッティをこのままでいさせて。 そう願いながら、もう一度彼のぬくもりを感じられるように、ぎゅっと体を押し付けた。 |