自分という存在を組み上げている箍（たが）が外れそうになっていた。
後期試験が終われば、長い春休み。サークルとバイトとデートで、スケジュールはどんどん埋まる。
友人たちとダベって、冗談を言って、大声で笑い合って。お気楽な道化者の柏葉恒輝という存在を、いつもどおりに演じるのは簡単だ。
だが、少し歩調を緩めると二月の風はことのほか冷たく、大学の正門を出るときには、思わず立ち止まってコートの前を掻き合わせた。
「今日はあかん。勘弁してくれ」
並木道の上に垂れこめる冬空の低い雲を仰ぎながら、いったい誰に謝っているのか、さっぱりわからない。
惚れてた女が結婚するという知らせが、きのう外国から届いた。
阪急電車のつり革に捉まり、車窓を見ながら演歌を情感たっぷりに口ずさんでいると、目の前のシートに座っていたおばはんが、気色悪そうにじろりと睨んだ。
塚口で降り、古くからの商店街を抜けて十分ほど歩いたところにあるマンションが、俺の家だ。
母親と二人暮し。五歳年上の兄貴は去年結婚し、少し離れた三田（さんだ）で嫁さんと住んでいる。兄貴がいなくなってやはり寂しいのか、おふくろは以前より勤めから帰ってくるのが少し遅くなった。
途中のコンビニで買った夕食をぶらさげ、鍵を片手で捜しながら暗いエントランスホールに入ったとき、真直ぐこちらを見つめている若い女の視線にぶち当たった。
高そうな狐色のカシミヤのコート。こんなところで、逆ナンか？
「あれ」
待てよ。こいつの顔見たことある。
「柏葉くん」
「瑠璃子ちゃん？」
円香の高校の友人、高地瑠璃子だ。葺石の道場に稽古に行った日、何回かいっしょにしゃべった。円香の同級生たちと六人ぐらいの合コンで万博公園にも行ったときも、メンバーに入っていた。
「どないしたんや、俺んち知っとったんか？」
「円香に住所だけ教えてもろて、あとは捜しながら歩いた。１時間かかってしもうた」
柔らかい髪をふわりと指で梳いて、にっこりした。「ほんとは、塚口にパスポート取りに来るついでがあったから」
「パスポート？」
「私、円香の結婚式に出席することにしたから」
ああ、そういうわけか。
円香はドイツのケルンにディーターに会いに行って、そのまま式を挙げてしまうことになった。まあ、向こうでは親父さんが働いてるし、何かと都合がいいのだろう。
「柏葉くん、聞いてるんやろ？」
「ああ、きのう稽古に行ったら、その話で持ちきりやった」
「あのね」
瑠璃子は、背負っていたブランド物の黒のバッグパックを降ろし、中から一冊の大学ノートを取り出した。
「ケルンに出発する日の朝早く、円香が私の家まで来てん。ディーターとのこと書いた手記。説明するの大変やから、これ読んでって渡された」
「なんか、ごちょごちょ書いとる、言うとったな。俺のことも書くでって」
「でね。これ読んで、あんたのことが心配になったわけ。だからいっしょにケルンに行こう」
「はあっ？」
俺はすっとんきょうな声を上げた。「なんやねん。その論理の飛躍は。だいたいそんなこと言いに、わざわざうちまで来たんか」
「だから、パスポート取るついでや、て言うたやろ。人の話ちゃんと聞き」
「……」
「まあ、立ち話もなんやから、そこ座ろう」
彼女は、さっさとエントランスホールの隅に行き、長椅子に腰を下ろした。
なんだか、キツネにつままれたような気分だ。
瑠璃ちゃんは、今まで会った記憶では、もっとおとなしやかな感じだった。大勢の中ではあまり自分を出さない、その場の風景に溶け込んで見えなくなってしまう子――ある意味、円香の対極にいるような。
それが今日は、別人みたいにイメージが違う。
「こんな寒いとこで話すんか。何やったら俺んち来いや。茶くらい出したる」
「いやや。チャイム押したら、おうちの人留守みたいやもん。襲われたくない」
「……はいはい」
しかたなく、俺も彼女の横に座る。
「そう言や、大学は通ったんか」
「うん。W大文学部」
「すげえ、東京か。おうちの人、よく女の子を東京に出さはったなあ」
「うん。猛反対。そやから、受けた大学全部、わざとすべった。通ったのは、W大だけ」
思わず、彼女の横顔を見た。
白い透き通るような肌に小さなほくろが点々と浮かんでいる。色素の薄い細い髪。カールした睫毛。近くよりも遠くを見ているような瞳。
『ついこないだまで、重度の男性恐怖症やったんやで』
紹介のとき、本当か冗談かわからない茶化した調子で円香が言ってたっけ。
「意外と、度胸あるな」
「絶対W大の文芸専修科行きたかったから。私、ジャーナリストになりたいねん」
「ふうん」
瑠璃子は、円香の手記を膝の上で、ぎゅっと握り締めた。
「でね。この手記を読んで言わせてもらえば、今ジャーナリストの目から見て一番気になるんは、主役のふたりでなくて、脇役Ａのあんた」
「何やねん。それは」
「失恋したばかりの男の傷心につけこんだ告白や。神妙に受け取りなさい」
彼女は俺の背中を、丸めたノートでバシバシと二発叩いた。
「はあ」
俺は気力が萎えて、深々とため息をついた。
「それに何て書いてあるか知らんけどな、俺は今は別に円香のことは何とも思てへん。確かにちょっと前までは、軽くそういう気持ちもあったけど」
「ほんとに？」
「ケルンに行くつもりやって聞いたときから、遅かれ早かれこうなるのはわかってた。だってそうやろ。円香の家は浄土真宗やのに、あっさりと宗旨変えしてカトリックになってしもた。おそろしいと思たわ。あいつ、たとえ死んでもディーターを追いかけるつもりやで。あんな女に狙われたら、男は万事休すや。俺ははっきり言うて、そういうドロドロと辛気くさいのはごめんや。性に合わん」
「ふうん。じゃあ結婚式に出て、ふたりを祝福してあげられるんや」
「それは……無理」
「なんで？ 何とも思てないって、今言うたやん」
「何とも思てなくても、ふられた女の結婚式に出るなんて格好の悪いこと、男としてようせん」
「それってつまり、円香のこと、まだ未練があるってことやんか」
「そういう意味やない」
「じゃあ、どういう意味や」
「しつこい女やな。嫌われるで」
「意地っ張りな男より、百倍ましや」
俺は口をつぐんだ。瑠璃子も負けじと黙り込む。
先に折れた俺は、再びのため息とともに姿勢を崩し、背中を椅子に預けた。
「とにかく、俺は心配してもらうほど落ち込んでない。もともとが小さい頃からの腐れ縁や。幼馴染なんて聞こえはええけど、恋愛感情を手近なところで済ませた、いわば省エネ恋愛や」
「小さい頃ってどのくらい？」
「幼稚園かな。ガキどもでつるんで遊んでたときに、あいつも仲間に入ってきよって、こっちはずっと男の子と思いこんでたけどな」
「なるほどねえ。それだけ付き合い長いと、別に好きやって言わんでも気持ちは通じてる、って錯覚するもんなんや。それで鳶にアブラゲさらわれるケースが多いんや」
「……そういう身も蓋もない言い方するか」
「で、あんたはそれでいいの？ ディーターをぶん殴ってでも円香を奪い返すって、どうして思わへんの？」
「……落ち着け。なんで、おまえがそないに興奮する」
「あんたが自分の気持ちにウソをついてるからや」
「俺のどこが、自分に嘘をついてるんや」
「ついてるやんか。その証拠に、さっきから聞いてると、酸素欠乏で死にかけてる金魚みたいに、ため息ばっかり！」
「このため息は、おまえがギャーギャー言うからや！」
「人のせいにするな、この意気地なし。それでも男か？ 男なら、ケルンまで乗りこんで、結婚式から円香をさらうくらいの根性見せてみい！」
「あほっ。何にも知らんくせに、勝手なこと言うなっ！」
瑠璃子の肩が思わずすくんだのも、頭に血が昇った俺には見えない。
「そんなことできるか！ 円香の泣いてる姿見て。あいつはディーターやないと、あかんのや。昔のあいつは、あんな弱くなかった。あんなに綺麗やなかった。あいつはもう、俺の知ってる円香と別人なんや！」
マンションの管理人が訝しげに、小窓からチラッとこちらを覗いた。
二人は言葉を喪ったまま、並んで座っていた。
「ごめん、言いすぎた」
「俺こそ、すまん……」
しんしんと冷えてゆく足もとの日暮れの気配に、ごそごそと身じろぎする。
「……あのな。俺、ディーターの人格が変わるところを目の前で見たことあるんや」
打って変わった静かな調子に、瑠璃子もただ無言でうなずく。
「何て言うか、とにかくめちゃめちゃ恐かった。人間をあれだけ変えてしまえるほどの苦しみって俺には想像もつかん」
「……うん」
「俺はディーターのことは好きや。だけどあの苦しみをいっしょに背負ってやることはできひんと思った。円香はそれをやろうとしてる。俺はかなわん。あの二人の間に割って入るほどの気持ちの強さは、俺にはない」
「うん」
「何とも思てへんて言うたのは、嘘や。ほんまは、一回息を吸うたびに、俺は大丈夫やって言い聞かせながら吐いてる」
「ふうん。ちゃんと言えるやん。ほんまの気持ち」
「えげつない言葉の裏に心の奥底の悲哀を隠しとるのが、関西人ちゅうもんや。物書きになるんなら、それくらい覚えとけ」
「勉強になったわ。さんきゅ」
「人生って、ゲームみたいにリセットボタンは押されへんのかなあ」
天井を見上げて、俺はぼそぼそと呟く。
「はじめっから、何もかもやり直せたらいい。ディーターかて、親さえ殺されなければ、ひどい目に会わずにすんだ。円香のお母さんはあの日外に出なくて、交通事故にも遭わないで。俺の親父は震災の日、箪笥のない部屋に寝て。いったい何回リセットボタンを押せば、人間は最高に幸せになれるんやろう」
「リセットボタンは押したら、あかん」
瑠璃子が穴の開くほど真剣に俺の横顔を見つめているのが、目の端に見える。
「そんなことしたら、経験値がゼロになってしまう。私はそんなの嫌やから。どんな辛いことでもちゃんと自分の糧にして、レベルアップしたいから」
「ああ。そやな」
「だから、恒輝くん、私といっしょにケルンに行こう。リセットボタンは押されへんけど、ネクストステージに行くボタンを押そう」
「負けたよ、おまえには」
俺はくちゃくちゃに顔をしかめながら、それでも久しぶりに笑いたくなった。「根負けや。わかった。ついてったる」
「ほんまに？」
「ああ、けどケルンまでの旅費なんて、どうやって工面するかなあ」
「だいじょうぶ、私が立て替えたげる。うち、親戚だけはやたらに多いねん。みんなから入学祝せびったら、二人分の飛行機代くらい軽い」
「返す当てもないし」
「そんときは、身体で払ってもらう」
「ひえっ。おまえも、円香と同なしくらい恐い女やな」
瑠璃子は軽やかな笑い声を上げながら、立ち上がろうとして。
次の瞬間、床にへなへなと崩れ落ちた。
「ど、どないしたんや」
「ご、ごめん。私……」
思わず差し出した手が掴んだのは、こんなに寒い日なのにびっしょりと汗で濡れて、小刻みに震えている小さな掌だった。
「わたし、恐がりなんや。ほんまは男の子とふたりきりで、まともにしゃべったことなくて……」
最後は涙声になっている。
「でも、円香かて、あれだけがんばったんやから、私もがんばろうって。柏葉くんに三年間ずっと伝えられなかった気持ちを今日伝えようって」
「……」
「ごめん。円香そっくりの元気な子に、なれなくてごめん」
俺はそれに答えず、後ろから彼女の脇に手を差し込んで立たせた。
「これ、めっちゃ、肌触りのええ生地やな」
「……へへ。最高級のカシミヤやもん」
気がつくと、俺は彼女のコートの背中に、額をぎゅっと押しつけていた。瑠璃子はびくりとして、反射的に逃げ出しそうになった。
「悪い、ちょっと動かんといてな」
「……ん」
「すまん……」
俺はたぶん、円香の前ではこんなこと一生できなかった。どこまでいっても強がって、お気楽な道化者の柏葉恒輝を演じてしまうだろう。
なのに今の俺は、ろくに話したこともない相手に、こんなに弱い自分をさらけだせる。この立ち位置が心地良すぎて、しばらく離れられそうもない。
瑠璃子は言われたとおり微動だにしなかった。そして、そっと小声で囁いた。
「かまへんよ、少しくらい濡らしたかて。どうせ１万３千円のバーゲン品やから」
