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EWEN

Last Chapter

 あとのことは、1年経った今では、もう霞がかかったようにしか思い出せない。
 それほど私は、気が動転していた。
 救急車ではディーターの横に座り、左腕の入ったアイスボックスをしっかりと膝の上で抱きかかえていた。
 彼の呼吸と心拍数は、もうほとんど臨終の患者のものだった。
 K大病院に着くと玄関の前に五十嵐博士が立っていて、私はよろけるように駆け寄ると、葺石惣一郎の娘です。彼の腕の縫合をお願い。と言って発砲スチロールの箱を渡すと、そのまま床に倒れたらしい。
 次に目を覚ましたときは病院のベッドの上で、背中の火傷やら打ち身やらで、包帯だらけになっていた。
 枕元には、祖父がいた。ディーターには、鹿島さんと父が付き添っているという。
「ディーターは、助かったんやね」
 祖父は、深く頷いた。
 腕の縫合手術は、蘇生措置が終わったあと、すぐ始められた。
 私の止血や腕に関する処置は素人にしては上出来だったこと、それにもまして、切り口がかまいたちのようにすっぱりと鋭く切れていたことが、幸いした。
 5時間にも及ぶ大手術だったものの、神経と血管の全ての縫合は最高の出来だったよと、後に酒を飲みながら、五十嵐教授は父に語ったという。
「だが左脚は、だめやった」
 と、祖父は肩を落とした。
 倒れた箱の中で破裂した手榴弾が、彼の脚の内部に無数の破片を残したため、膝から下は切断せざるを得なかったそうだ。それでも外科チームの懸命の努力で、膝までは破片を取り除き、保存することができた。
 私は、泣かなかった。
 脚を差し出して魂を救うことができるなら、その方がいい、そんな聖書の箇所がなかったっけ。高校の礼拝で、あくびばかりして聞いていなかったことが悔やまれる。
 ディーターは、まだ麻酔から覚めとらんそうや。
 それなら、ちょうどいい。お父さん、呼んできてくれる? 話したいことがあるの。
「ユーウェンは、私の目の前で消えた。ディーターは勝ったよ」
 私は父に、あったこと全てを克明に話した。
 特に、彼の中の人格に関することは、一言一句洩らさず報告したつもりだ。
 グリュンヴァルト博士の死の真相に触れたとき、父は男泣きにおいおい泣いていた。
 ディーターが目を覚ましたのは、それから2日後だった。
 彼は意識が混濁していた。
 暴れることはなかったが、わけのわからないことを口走ったり(そのうわ言たるや、すごい数の言語だったという)、また誰が話しかけてもぼうっとしていたりした。
 身体的な病状が安定すると、父は五十嵐教授の許可を取り、K大病院の施設や医薬品を借りて、精神面の治療にとりかかった。


 一方私は、怪我も治ってめでたく退院すると、警察の事情聴取という、うんざりするようなものが待っていた。
 私は、とにかく何も知りません、で通した。
 一番緊張したのは、ジャニスの死の状況について聞かれたときだった。
 飽くまでもディーターの発砲は、仲間割れで撃たれそうになったことによる正当防衛。そして、彼の前に突然彼女が飛び出したのは、予測不可能だったと念入りに強調した。
 嘘をついているわけではない。それに、そう言わなくては、彼は殺人容疑で逮捕されてしまうだろう。
 あの2人の中東人は、あのまま行方不明になっていて、彼らのほうは国際指名手配されたらしい。
 警察からは、それ以外にもいろいろな情報が得られた。
 あの武器の木箱の残骸からは、確かに時限爆弾の破片が発見された。10時にセットされていたらしい。
 そして、警察にはあの日の朝、少年の声で、武器の密輸が10時頃行なわれるとの密告があったというのだ。
 しかも、英語で。
「ダニエルだろう」
 と、父は言った。
 ダニエルはIRAの少年兵時代に、時限爆弾の作り方を教わっていた。彼の人格は12歳で止まっているから、かって茜さんの小料理屋に泊まったときに鹿島さんが聞いたのと同じ、少年の声だったに違いない。
 しかも、もっと不思議な報告が、今度はケルンからもたらされた。
 なんと5ヶ月ぶりに、しかも事件発生からは有に10ヶ月ぶりに、グリュンヴァルト博士の行方不明の頭部が発見されたというのだ。それとともに、布にくるまれていた凶器のレターナイフも。
 ナイフには、博士のもの以外はジャニスの指紋しかついていなかった。そしてその形状は、博士の死因となった胸の傷口と一致した。
 すべて、私がジャニス当人から直接聞いた内容と、同じだったのである。
 ディーター(もちろんこの場合はユーウェンだったのだが)の、養父殺しの容疑は晴れた。
 しかし、このタイミングで、そのことがわかるとは。
「グリュンヴァルト教授のディーターを思う心が、そうさせたんやろうなあ」
 無神論者で、死後の魂の存在を今まで信じなかった父が、しみじみとこう洩らしたくらいだ。
 それに私たちが驚いたのは、彼の中で最も影が薄く、このとき一度きりしか登場しなかった人格「死体処理屋」が、凶器のナイフをきちんとくるんで、頭部とともに保存しておいたことである。いずれ、ディーターの無実を証明する必要ができたときのためにそうしておいた、とすれば、一番賢明で狡猾だったのは、この「死体処理屋」ではなかったのかと私は思っている。
 ユーウェンを除く全人格が、ディーターのために協力していたのだ。なんだか感動的だった。


 ひとつの容疑は晴れたが、もうひとつの方、つまり国際テロリストとしての彼の処分については、かなり厄介な難題が残っていた。
 すなわち、武器密輸、銃刀不法所持、不法出入国、略取誘拐、および大量破壊行動予備罪である。
 これには、父と、ドイツの精神医学界・法曹界が、タグを組んだ。祖父のタイ時代の同期である検事や、鹿島さんのアメリカ時代の知人という人脈も加わり、大論戦が展開されそうな気運が高まった。
 多重人格(正式な病名は解離性同一性障害)のひとつの人格が犯した罪によって、他の人格を裁けるかという、かって日本では聞いたこともないような法律上の大問題である。
 これについては、同じく多重人格者として有名なビリー・ミリガンについての報告が、ダニエル・キイスによって書かれている。
 とにかく結論から言うと、日本の検察は、逃げた。
 いや、これは失礼な言い方だった。譲歩してくれた。
 武器密輸とテロ行為を阻止してくれたのも彼だったのだからと、司法取引に似た扱いをしてくれたのだ。
 心身喪失を理由とする、不起訴処分であった。
 しかし、喜びもつかのまだった。
 ディーターのビザは4月でちょうど1年の期限を迎える。更新の望みはない。
 彼はもはや日本に留まることはできなかった。


 1ヶ月もする頃、ディーターは精神的にもすっかり落ちついてきた。
 身体のほうは、もうすでに縫合された左腕のリハビリが本格的に始まっていた。
 どんなに完璧な手術といえど、一度切られた腕を自分の意思で自由に動かせるようになるには、実はかなりのリハビリが必要なのである。
 彼は忍耐強く、この単調な作業に取り組んだ。
 義足はドイツで作ることになった。これからケルンへ帰らねばならない彼にとって、長い時間をかけての調整が不可欠な義足づくりは、向こうの職人にまかせたほうが良いということになったのだ。
 3月半ばの退院、帰国が決まった。
 ディーターと私は、このあいだほとんど話をしなかった。
 父や祖父、鹿島さん、それに見舞いに来た恒輝なんかとは、けっこうポツポツとでも話すようになったのに、私が行くと悲しそうに俯いてしまうのだ。
 余談だが(余談じゃねえだろう、と恒輝に怒られそうだ)、恒輝は後期日程でO大人間科学部を受験し、なんと、ディーターの帰国する前日、合格通知を手にしたのだ。幼なじみが国立大に入る頭があったとは私は全然知らなかった。
 父が、私に言った。
 彼の人格は、もう統合されている。
 ほんとやの。お父さん。
 今度こそ、確かや。
 だが、円香、人格が統合されたということは、主人格に他の人格が吸収された、ということだ。
「だから、彼はもうディーターではない。正式には、ダニエル・デュガルなんや」
「そ、そんな……。じゃあ、ディーターは……」
 厳密に言えば、もうこの世にはいない。
 私は、ユーウェンが最後に言い捨てたことばを思い出していた。
『ディーターも、俺とともに消えるんだ』
 あれは、こういう意味だったのか。
 ふらふらと立ち上がって、病院の廊下の窓辺に呆然とたたずむ私の後ろ姿に、父は静かに言った。
 もちろん、おまえとのことを忘れたわけやあらへん。ディーターとしての記憶は全部残ってる。
 だから、彼は苦しんでいるんや。
 人格が統合された、ということは、他の人格が持っていたすべての記憶も引き受けるということだ。
 ユーウェンが犯した罪に対する罪責感も、ダニエルが受けた幼少期の悲しみも、ケヴィンが負った幼児虐待の記憶も、すべて彼は引き受けなければならん。
 彼は、混乱している。自分がどんなに罪深い、愛されずに育った人間かを知って、おののいている。
 今は、そっとしておいてやってほしい。辛いやろうが。
 父に背を向けたまま、黙って頷いた。
 私はそれでも毎日、彼の病床を訪れた。
 何もしゃべらなかった。
 ベッドに上半身を起こして、顔をそむけて窓を見ている彼のそばにただ座って、りんごを剥いたり、花瓶の水を取り替えたり、左腕の血行をよくするためにさすったりした。
 彼は、ときどきそっと私を見つめていた。
 私はそれに気づかないふりをした。


 やがて、父と松葉杖をついた彼が、関西国際空港からケルンに旅立つ日が来た。
 私は空港のロビーで、彼とふたりきりで向き合った。
「さよなら、元気でね。ディーター」
 精いっぱい明るい声で、彼に別れを告げた。
 サヨナラ、円香。
 聞き取れないくらいの小さな声で、彼は答えた。翡翠のように美しい瞳に、空虚な悲しみの色をいっぱいに湛えて。
 彼を乗せた飛行機は、春の訪れを告げる淡い霞の空に、吸い込まれて消えていった。


 私は、高校3年になった。
 九州・沖縄サミットは7月に滞りなく開かれた。心配していたテロ行為は、少なくとも私たちの知らされている限りでは、なかった。
 アメリカの景気は減速し、日本もふたたびの不況に沈んだ。
 北アイルランドではいまだに紛争が続き、和平を見ることができない。
 しかし私に関して言えば、受験勉強が本格的に始まったのと、部活を夏休み前に引退したことを除けば、平穏無事な、単調な毎日が続いた。
 恒輝は、大学生になっても相変わらず、うちの道場に稽古に来ていた。
 噂ではなんと、O大生になってから女の子にモテまくっているという。
 うちには鹿島さんとかディーターみたいな、とんでもない反則ものの美貌の持ち主がいたため目立っていなかったのだが、恒輝はなかなかに見栄えが良いほうなのだ。
 一重まぶたの、一昔前で言う「しょうゆ顔」系美少年、というやつだろう。
 ハナタレ小僧の頃から知っている幼なじみがモテるというのも、うれしいような、あほくさいような、複雑な気分だ。
 キープしときゃよかったのに、と瑠璃子はからかうが。
 祖父は、74歳になった今も健康そのものだ。
 毎朝5時前に起きて、乾布摩擦や朝稽古を実践している。
 だが実のところ、ディーターがいなくなって一番がっかりしているのは、うちの祖父であるらしい。
 ひとり息子が流派を継がず、その子どもであるたった一人の内孫が女だった、という二重のショックを舐めてきた祖父は、私の婿になる男にひそかに期待していたらしいのだ。それでなくても最初から気が合っていた彼のことを、まるで実の孫のように思っていたに違いない。
「おじいちゃん。もう彼、ムエタイできひんやろうね」
 ときどき私たちは、茶飲み話で彼のことを話題にする。
「ああ、片脚がのうなっては、無理やろな」
「葺石流は、どう? 片方だけでも、やれる?」
「普通は、あかんな。踏み込みができんからな」
「義足をつけたら? 一所懸命稽古して、もう片方の足だけで踏み込めるようにしたら?」
 そうやな、ディーターなら、やりよるかもしれんな。
 祖父はそう言って、ほころんだ口元をごまかすために、お茶をすする。
 鹿島さんは、京都や東京の撮影所を飛びまわっている。
 祖父がこのところ殺陣師の仕事を引退宣言したため、ひとりでけっこう忙しそうだ。
 だから茜さんとのことも、ちっとも進展しない。
 暇になったらいろいろと考えるとは言っているが、鹿島さんに暇になられたら、我が家の経済は立ち行かない。
 鬼のような話だが、わが葺石流の安泰のためにはもう少し、長い春を過ごしてもらうしかない。
「ディーターがいてくれたら、殺陣の相手になってくれたやろうに、な」
 去年の夏、彼と無人の撮影所で考えた殺陣は、すごく評判が良かった。
 もしかすると、あいつ、ものすごい殺陣師の才能があるかもしれん。
 鹿島さんも、ディーターに戻ってきてほしそうだ。
 藤江伯母さんも例によって、ご主人をほっぽりだして、元気にうちの家事を手伝いに来てくれている。
「円香ちゃん。男女の仲は切れそうで切れんもんや。あきらめたらあかんで。どこまでも追っかけるんやで」
「だから、受験生にそんなこと言わんといて」


 そして、私は。
 彼のことは、しばらく忘れることにした。春の大学入試が終わるまで。
 私は、兵庫県のとある私立の、文学部・教育心理学科を受験することに決めた。
 文系の私は父のように医者になる頭はないが、臨床心理士なら手が届くかもしれない。
 ディーターのように幼児期の虐待がもとで、多重人格やその他の精神障害を患う人は、この日本でも、これからますます増えていくものと思われる。
 もし私がそういう人たちの、少しでも支えになれれば。
 彼も、きっと喜んでくれるに違いない。
 かなりの難関校なので、私は夏から予備校に通って必死に勉強した。
 初めのうちは毎月、ケルンの聖ヘリベルト大の精神科付属病院にいる彼に、英語で手紙を送っていた。
 彼からは何の返事もなかったが、父からは読んでいるらしいことを聞かされていた。
 そのうち、受験勉強が忙しくなったのと、一計を案じた私は、手紙にひとこと、
"Dear Dieter, Ich liebe dich.  Madoka. "(ディーターへ。愛してる。円香)
 と書いて、送りつけることにした。
 一通目は、普通の便箋だった。そのうちA3判の紙になり、薄手の画用紙になり、最後には模造紙を4枚貼り合わせて書いてやった。
 これは、インパクトがあったでしょう。
 父の同僚の医師は、彼からその手紙を取り上げて、病院のカフェテリアの壁に貼り出したそうな。
 彼は真っ赤になっていたらしい。
 でもそれも含めて、大切にとっておいてくれている、という。


 父の話によると、義足を作る腕のよい工房を、大学の外科形成科の紹介で見つけることができた。
 マイスター制度の確立したドイツでは、伝統的にこの分野、つまりひとりひとりの脚に合わせて義足を作る技術が発達している。(もちろん、日本にも優秀な工房はある。)
 一度作っても、脚に合うまで何回も調整の必要な、根気のいる仕事だ。
 ぴったり合った義足が出来ても、その後は、かなり辛い歩行訓練が待っている。
 だがディーターの、類まれな強靭さを持つ大腿部の筋肉と、絶え間ない努力のおかげで、わずか1ヶ月後には、もうちょっと見にはわからないほど自然に歩けるようになったと、父はうれしそうに電話で報告してきた。
 縫合された左腕もリハビリの結果、もう不自由なく動かせるようになった。ただ、もとの握力には戻っていない。重いものはまだ持てないのだ。これからも訓練が必要だそうだ。
 自由に外出できるようになると、彼は同じ大学構内の、いろいろな講座を聴講し始めた。特に、興味を持ったというか、はまったのはコンピューターで、3ヶ月後にはもうプログラムを作り始め、そのプログラムは今ケルンの図書館で採用されていると聞く。
 彼の天才的な語学能力は、コンピューター言語にまで及んでいるのだろう。


 彼は今も、ディーター・グリュンヴァルトを名乗っている。
 本当ならばダニエルと呼ぶべきなのだろうが、法的に今の彼はドイツ国籍であることと、彼の統合された人格がディーターを基本に形成されつつあることが要因している。
 主人格ダニエルは、ディーターとして生きることを望んだのだ。
 一番周囲の皆に愛され、幸せだったディーターの人生を、これからも彼は送りたかったのだろう。
 でも、彼は少し変わったぞ、と父は言う。
 自分を主張することを覚えた。頭のいい駆け引きや、損をしないためにうまく立ちまわることを覚えた。
 以前彼のことを天使のようだと評した女性職員は、今は、天使が人間の足で歩き始めた、と言っているという。
 だが、それでいいんだ、と父は満足らしかった。
 今までの優しいだけの彼なら、世の中の人間関係の中で、いつか押しつぶされてしまっただろう。
 放浪者としてではなく、社会に適応して生きていくには、こういう変化も必要なんや。
「すげえ、男っぽくなったぞ」
 と父は、息子を自慢でもするように、悦に入っていた。
 だが今でも彼は、円香とは結婚できない、と言っている。
 多くの人を殺した自分は、幸せになってはいけない、と言っている。
 ユーウェンの罪を背負って生きる自分は、円香を幸せにできない、と思いこんでいる。
 なにを言ってんのよ、ディーター。
 私は、あなたに幸せにしてもらうつもりなんか、ない。
 私たちは、幸せになる必要はない。
 私は、あなたと生きたい。
 いっしょに生きて、あなたの罪をともに背負いたい。
 それが私にとって、幸せということなんだから。
 ちゃんと伝えてよ。お父さん。こんなことは、手紙では書けないんやからね。
 私の伝言を父から聞いたディーターは、涙を浮かべていたという。


 私はカトリック教会の門を叩いた。
 秋には、洗礼も受けた。
 ひとつにはただ単純に、ディーターが信じるのと同じ神さまを信じて生きたいと思ったこと。
 もうひとつには、人間の罪ということを解決したかったからである。
 ディーターの身体の中には、ユーウェンという悪魔がいた。
 人間の中には誰にでも悪魔がいる。私も例外ではない。
 その、悪魔。罪という存在。
 ひょっとして人間には絶対に解決できないこの問題を、神が解決してくれるかもしれないと思ったのだ。


 21世紀になった。
 私は明日、ケルンに飛ぶ。
 おととい、第一志望の大学の合格通知を得た。
 入学手続きを急いですますと、後は祖父に任せて、4月の入学式までケルンから帰らないつもりだ。
 きのう取った飛行機のチケットも、前々から用意していたパスポートも、目の前にある。
 私はケルンで、ディーターに会う。
 会って大声で、「結婚しよう」と叫んでやる。
 もうそれしか、模造紙4枚のラブレターより、インパクトのある方法はない。
 たとえ彼が悲しそうに首を振っても、私はあきらめない。何度でも挑戦する。
 私たちふたりのあいだに必要なのは、時間だけだ。
 あの、私たちを引き離そうとする悪鬼は、永久に去ったのだから。


 ユーウェンは、もういないのだ。

The End


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