§8に戻る §9 時間はのろのろと過ぎていく。私は泣き続ける聖をあやし、汗びっしょりの服を着替えさせたりして、どうにか平静を保とうとしていた。 部屋の中では、ヒュバートとディーターがにらみ合ったまま、また長い沈黙が続く。 もう何も考えられなかった。思考能力がゼロだ。軟禁されてから、ちょうど24時間。永遠にこの状態が続くような気がしていた。私はこのまま、誰かに命令されたらそのとおりに動く、ロボットのような毎日を一生送るのかもしれない。 玄関のチャイムが聞こえ、ようやく正気に戻った。 「おおい、円香」 せっかちに、ドンドンと扉を叩く音が続く。 父だ。 そういえば、もう4時を回っている。私たちが葺石の実家へ行き、道場の掃除をする時間がとっくに過ぎているのだ。 『誰だ』 ヒュバートが訊く。 『私の父よ。私たち、いつも毎日夕方は私の実家に行くから、迎えに来たのだと思う』 『適当な理由をつけて、今日は行けないと言え。余計なことは言うな』 私は、聖を抱いたまま立ち上がった。 『子どもは置いていくんだ』 『父は自分の孫が大好きなの。毎日会わないと、気がすまない。この子を置いていけば、どんなに引き止めても、上がりこんで顔を見ようとするわよ。それでもいいの?』 ヒュバートはそれを聞いて、ハエを追い立てるように片手で行けと命じた。 私は行きかけて立ち止まり、振り向いた。 『ねえ、お願い』 懇願するように言う。 『聖を父に預けてはだめ? 私はここに残るわ。何も怪しまれるようなことは言わない。聖書に誓って約束する。この子は、あなたにとってもうるさいだけでしょう』 涙がまたあふれだす。 『この子には、何の罪もないのよ。……お願い』 『だめだ』 『お願い』 『言うとおりにしろ。俺はドアのすきまから見ている。もし子どもを逃がしたりすれば、足が玄関から離れる前にあんたの夫を射殺する』 私は思わず、ディーターを見た。 ディーターは私に振り向くと、口だけを動かした。 ニ・ゲ・ロ。 私と聖、ふたりで逃げろと。 私は、急いで玄関のドアを開けた。 「どうしたんや、出てくるのがえらい遅かったな」 「あ、ごめん。ちょっとバタバタしてて」 「お、ひっくん、どないした。めちゃくちゃ不機嫌な顔やな。泣いとったんか」 「うん。なんかお昼寝しそこねて、ずっとぐずぐず言うてんねん」 父は聖をあやすのに夢中で、私のひきつった顔には気づかなかった。 「散歩の帰りに通りかかったから、先に聖を連れて帰ろかと思て。おまえたちも、すぐにこっちに来るやろ?」 「うん……」 私の腕から、さっと聖を抱きとる。聖は泣きながら、父の首にむしゃぶりついた。よほど怖かったのだろう。幼心に今の状況が。 私は全身を震わせて、こう叫びたかった、「逃げて! すぐに逃げて」 父ならば、即座に行動に移してくれる。 そして、ディーターは殺されるだろう。彼はもう、ひとりで殺されることを覚悟している。聖を逃がしたら私はディーターのところに戻る。だって、彼が死んだら私も生きていけない。 聖は、父や藤江伯母さんが育ててくれるはず。私たちがいなくても、寂しくないよね。まだ1歳半だから、すぐに私たちのことを忘れてくれるよね。 そう考えていた私の頭の中に、まるで天啓のように恒輝の声がよみがえった。 「恨むなんて筋違いやけど、理屈に合わんけど、それでも憎たらしくてしゃあないねん。かっこよすぎるわ、ボケぇ。あんな満足そうな顔して死にやがって、そんな余裕あるなら、なんで、どないしても生き残ってくれなかったんや」 あふれる涙を、睫毛をしばたいて懸命に追いやった。 「それがね」 声が震えないように話すのに苦労した。 「今晩は、知り合いのドイツ人の家に急に招待を受けたの。三人で来てくれって。稽古は鹿島さんが仕切ってくれるはずやから、悪いけど、そう言うといて」 「三人? 聖も行くんか。夜のパーティにしては子連れとは珍しいな」 「どうしても、聖が見たいんやて」 「ふうん、そんなら、しゃあないな」 父はあからさまにがっかりしたような顔をして、むずかる聖を私に返した。 「今から、出かける準備に大忙しやねん。それじゃ、ね」 「ああ、また明日な」 ドアが閉まるのと、私が嗚咽を漏らすのは、ほぼ同時だった。 ごめんね。お父さん。ごめんね、聖。 私はやっぱり最後まで、家族三人でいたい。 死ぬためじゃない、生きるために最後の瞬間までぎりぎり頑張ってみたい。 涙をぐしぐしと拭い取ると、あの地獄のような部屋に戻った。 『よく戻ってきたな。逃げ出すかと思ったぞ』 からかうようなヒュバートの声。 その声を聞いたとき、悟った。彼はわざと私に選ばせようとしていたのだ。ディーターひとりを見殺しにするか、家族全員で死ぬかという残酷な二者択一を。 私と聖の姿をふたたび見たとき、ディーターは絶望したように目を閉じた。私たちふたりを安全に逃がす、最後の望みが断たれたのだ。 『ヒュバート、教えてほしい』 聖を脇に立たすと、私は床に正座して口を開いた。 『なぜ、私たちをそんなに憎むの? それは、あなたにしてみれば、自分の仲間を大勢殺された恨みがあるかもしれない』 彼は薄ら笑いを浮かべて聞いている。 『でも、あなたは世界中で静かに暮らしている元IRAの兵士を殺して回って、せっかく終わった悲しみをまた産み出している。彼らにも家族がいるのよ。あなたのしていることも同じくらい残酷で、違法なことだと思う。それこそ、あなたの憎んでいるテロと同じだわ』 『奥さん、あんたは何もわかっていない』 ヒュバートも、同じように穏やかな口調で返してきた。 『わたしたちにしてみれば、あんたたちがここで幸福に暮らしていることのほうが、残酷で違法なことだ。 こいつの殺したSASの兵士を直接は知らない。だが、たとえばその男にもし妻子がいたら、彼女たちはこう叫ぶだろう。私たちの幸せを奪っておいて、幸せに暮らす権利なんか、あなたたちにはないってね』 『でもあなたにだって、私たちの生活を壊す権利なんか、ない! 人間は誰だって、戦うよりも平和な生活を送りたいと思っているはずよ。あなただって……』 『わたしには、そんなものがあったことはないよ』 ヒュバートはどこも見ていないような目をした。 『たとえば、――そうだな、たとえばこういう話はどうだ。わたしたちは10歳だった。父親とふたりでデパートに来るなどめったにないことだったから、有頂天だったよ。そこに大爆発が起きた。建物をぐるりと支えていた回廊部分の円柱が倒れてきて、父はとっさにわたしをかばってその下敷きとなった』 私はがく然とした。ディーターからも息を飲む音がした。 1983年のデパート爆破事件。ヒュバートはその犠牲者のひとりだったのか。 『円柱と壁のせまい隙間に、わたしたちは18時間閉じ込められていたんだよ。黙ったままどんどんと冷たくなっていく父親を呼びながら』 私は目をぎゅっとつぶった。私の頭の中に描き出された光景は見知ったものだった。恒輝のお父さん。親友の未来ちゃん。阪神大震災のとき、多くの人が倒壊した建物に下敷きになり、同じ悲しみを味わった。 『ヒュバート、でも、そのときディーターは……』 『確かに、こいつは1983年にはまだIRAにはいなかった。だがIRAの名のもとで人間を殺したのは同じことだ。こいつは復讐を受けるべきなんだ! 幸福に暮らす権利など、微塵も持ってやしない!』 『ごめんなさい……』 私は目の前の現実に、圧倒されてしまった。人が人をどんなに深く憎めるものか。憎む相手がいなければ、その相手を無理矢理作り出してでも、憎しみ続けていく。その悲しい姿に圧倒されてしまったのだ。 私は床に両手をついて、ひれ伏した。 『……赦してください。ディーターのしたことを。私たちがあなたのことを何も知らずに、暮らしていたことを。あなたの受けた苦しみを何万分の一でさえ感じられない私のことを』 『謝るんじゃない、円香!』 ディーターは、血を吐くような叫びを上げた。 『謝る必要なんか、ない。こいつは、……こいつらは、俺の父親がイギリス体制派の過激派に射殺されたとき、まともな捜査さえしてくれなかったんだ。どうせ、テロリスト専門の医者なんて、殺されたほうがいいなと、警察といっしょになって嘲り笑った。母が何度訴えても、取り上げてももらえなかったんだ。 そのことを俺は後になって、パトリック叔父から聞かされた。……酒を喰らっては俺のことを叩いてばかりいる能無しだったが、そのことを怒りに燃えた目で話してくれるときだけ、叔父のことが大好きだったよ』 『ディーター……やめて』 やめて。あなたが憎むべきなのはヒュバートじゃない。ヒュバートが憎むべきなのはディーターじゃない。どうして、そんなふうに憎しみ合うの。間違った憎しみの連鎖を続けなきゃならないの。 『そのとおりだ。ナショナリストの豚どもは、みんな殺されればいいのさ』 ヒュバートは、せせら笑った。『それで、あんたは亭主の身代わりに死ぬって言うんだな』 ひんやりとした銃口が私に向く。死が、目の前にあった。 『あなたが、それで彼と息子を助けてくれると約束するなら』 自分が何を言ってるのかわからない。無我夢中だった。計算なんてする余裕はどこにもなかった。 『お願い、ディーターを赦して』 『ヒュバート、やめろ! 撃つなら俺を撃て!』 『愛してるの。過去にどんなに罪をおかしていたって。地獄に行けというなら、いっしょに行く。それでも、世界中で一番、彼を愛してるの』 ヒュバートは眼を剥いて、信じられないというように何度も首を振った。 『愛してるだと? この人殺しを……人間以下の鬼畜を愛してる、だと?』 銃を持つ手が、興奮のあまりぶるぶる震える。 『俺たちの父親を殺したこいつが、瓦礫の中に閉じ込めたこいつが、……愛される価値などあるものかっ!』 ヒュバートはことばにならない甲高い叫びを上げ、ディーターの胸倉をつかみ、銃口を眉間に押し当てようとした。 ディーターはその時を待っていたかのように、瞬時に反応した。左足を蹴り上げて、強烈なムエタイのキックをヒュバートに浴びせたのだ。ヒュバートは体の脇をしたたかに打たれ、1メートルも横に吹っ飛び、コンピュータデスクの脚に頭をぶつけて失神した。 わずか一秒に満たないできごとだった。ディーターは両足を縛られていたはずなのに、なぜ? 足元を見て、理由がわかった。彼は渾身の力で左足の義足をもぎとったのだ。 彼は家族や門下生以外の誰にも、自分が義足であることを明かしたことがなかった。 そして幸運にも、ヒュバートに渡された縄で両足を縛ったのは私。だから、ヒュバートは彼が義足であることをまったく知らなかった。ディーターは全神経をとぎすませて、彼が近づくこの一瞬のチャンスに賭けていたのだ。 それにしても、一体どうしてそんなことができたのか今でもわからない。少なくとも、義足を固定していたベルトや器具を力ずくで壊したのだ。普通の人では考えられないほどの瞬発力。そして、脚自体がもぎとられるような痛みだったろう。 ディーターは苦痛にあえいで、しばらくうずくまっていたが、まったく動かないヒュバートを慎重に観察しながら私に言った。 「手錠の鍵を……取ってくれ」 「あ、うん」 我に返ると、私はおそるおそる、壁にもたれかかるような格好のヒュバートに近づき服の内ポケットを探った。彼が私に手錠をかけるとき、そこから鍵を出し入れしていたのを見たのである。 手錠を解き、足の縄も取り除く。26時間ぶりに両手を解放されたため、しばらく関節を痛そうにさすっていたディーターは、やがて足元に落ちていた拳銃を拾い上げた。 片足と家具で身体を支えながら一歩ずつ近づく。ヒュバートの正面に立つと、彼は左手に銃を構えた。 「ディーター?」 冗談だと思った。 『殺しはしない。二度と歩けないように、両膝を撃ち抜いてやるだけだ』 ディーターの顔に、ぞっとするほど冷ややかな笑いが浮かんでいる。 強い殺気に意識を取り戻したのか、ヒュバートは薄目を開け、目の前の銃口を見て顔をひきつらせた。 「やめて、ディーターッ!」 私の叫びもむなしく、彼はトリガーを引いた。 §10につづく |