§1 前に「ユーウェン」という手記を書いてから、半年が経つ。 実は、読者からあの手記の結末について抗議が来た。 と言っても今のところ、あの手記の読者は私の親友の高地瑠璃子ただひとりだから、抗議をしてきたのは彼女だということになる。 あの終わり方では、あんたとディーターはいったいどうなったのか、さっぱりわからへん。 きちんと最後まで書く義務が、私にはあるという。 私たちがどうなったかなんて、言わなくても知ってるくせに。 作家志望で、4月から東京の名門私立大の文学部に通っている彼女は、今度この手記をベースに、中世風ファンタジーを書きたいのだという。 小説のエピローグを構想するためにも、ぜひ続きを書いて欲しいらしい。 いったいどこをどういじれば、これがファンタジー小説になるのやら。 なんでも、魔族に身体を売り渡した放浪剣士と、その恋人のラブロマンスだそうな。 どんな話になるか、読んでみたい気もするが。 とりあえず、大学の講義の合間を見て少しずつ書いてみる、ということで返事をした。 こんなに忙しい毎日でありながら、自分の首を絞めているなあと今、多少後悔はしている。 でも、実は私も、ハッピーエンドの物語は好きなのだ。 2月の中旬、私は関空を飛び立ち、まずフランクフルトに向かった。朝の9時ごろに出て、着いたのは午後2時。時差が冬は8時間あるから、13時間乗っていたことになる。 空港でケルン・ボン行きのトランジット便を待ち、ふたたび機上の人となったのは、午後5時。もっとも、40分で着いたから、ちょうど羽田・伊丹間の距離というところだろう。 空港から、バスでケルン中央駅に行く。ここは大きなかまぼこ型の駅で、ヨーロッパらしい旅情を感じる。トラムと呼ばれる地下鉄に乗り換えて、「ノイマルクト」ステーションまで数分。 え? 「地球の歩き方」じゃないんだから、詳しい説明はいいって? ほっといてくれ。 何を隠そう、これが私の18年の人生で最初の海外旅行だったのだ。 少しくらい薀蓄を傾けたくなるのは、勘弁してほしい。 ウニヴェルジテート駅に降り立ち、地上に出たのは、もう冬の陽がとっぷりと暮れる頃だった。 北の国ドイツだから、さぞ日本より寒かろうと思っていたが、そうでもなかった。 それでも薄暮に、息は白く濁っている。 周囲は、街灯に照らされた通りから見える限りでは、思ったより近代的な建築物の立ち並ぶ広大な空間だった。 急に、不安に囚われた。 幸い、女性も含めたここの学生らしい一団が歩いてきたので、英語で道を尋ねた。 彼らは親切に、わざわざ私のスーツケースまで持ってそこまで連れて行ってくれた。 私がよほど可愛かったのだろう。美人という意味ではなく、幼いという意味、でだ。 私は背丈こそ162センチあるが、実はかなりの童顔だ。 日本でもたいてい中学生くらいに間違われる。外国では、小学生だろう。 ちっ。大学生になったからと、せっかく化粧してきたのに。 大学の構内の、一番東端まで案内された。 そこに、『聖ヘリベルト大学精神医学・精神療法学部付属病院』と掲げられた、巨大なバウムクーヘンを半分に断ち切ったような半円形の建物があった。 親切な学生たちに、丁重にお礼を言って別れると、私は玄関の前に立った。 いざ入るとなると、くるくると前庭を回ったりして心を整え、とにかく深呼吸する。 受付の看護婦さんに、ドクトル・フキの娘です、と名乗った。 照明を少し落とした玄関ホールを落ちつかなく見回していると、父が奥から白衣を着て出てきた。 私は小さい頃から、白衣を着た父がなぜか近寄りがたくて大嫌いだったのだが、今は逆にほっとするような頼もしさを感じる。 夜勤中だったのだろう。 「よお。円香」 「おう。来ちゃったよ」 「おめでとう。さすがに、K学院大に受かるとは思てへんかったぞ」 「へへへ、勉強したもんね。4年間、学費の仕送りよろしく!」 「ちぇっ。恒輝みたいに国公立に入る子どもの親は、幸せやなあ。高校から私学に入った子を持つと、親は脛がやせ細る思いやで」 「自分こそ、私立の医大に行って、うちの財産食いつぶしてるくせに、何言うてんのん」 奥のナースステーションから出てきた、父と同じユニフォームを着た30歳くらいの女性が、父に笑顔で何か話しかけてきた。そして、にこやかに、 " Hi, Madoka. Guten Abend. " 「グーテン・アーベント」 私たちは、挨拶を交わした。 「なんであの人、私の名前知ってたんかなあ。受付の人も、すぐ私の名前でお父さん呼んでくれたし」 彼女が去ったあと、私は首をひねった。 「そりゃもう、このクリニークの医者と看護婦全員が、おまえのことは知っとるで」 ディーター、イッヒ リーベ ディッヒ。フロム マドカ。 「げっ!」 「みんな、楽しみにしてるぜ。なんせ、楽しみのないところやからな、病院は」 お父さん。ほんとに、私が今日来ること、ディーターには内緒やろね。 「ああ、内緒にしてくれ、て言われてたから、な」 「彼は?」 「さあ。この時間やったらコンピュータールームかな。消灯までたいていあそこにいる」 「どこ?」 場所を聞くと、私はでっかいスーツケースを父に預けて、エレベーターに向かいかけた。 「お父さん」 「あ?」 「ディーターは、ほんとうにディーターやの?」 父は私の言いたいことを察して、いたずらっぽく笑った。 それは、おまえが自分で確かめることやないんか? 「あ、それと円香、俺は12時まで勤務やから、適当にまた受付で呼んでくれ。寮まで案内するから」 エレベーターを3階で降りると、私は、左に折れて突き当たりの右側の、教えられた部屋を覗いた。 会計用と思われる部屋の隣に数台のコンピューターが並んでいた。薄暗いその部屋は、1台の機械のほの明るいスクリーンセイバー画面が動画を映しているだけで、誰もいない。 ディーターは、きっとあそこに座っていたはずだ。いったい、どこに行ったのだろう。 私は、また不安がこみあげてきた。 ディーターは解離性同一性障害という病気で1年間、この精神科に入院していた。 彼の中には5人の人格があった。 主人格のダニエル、口の聞けない幼いケヴィン。1度だけしか出てこなかった死体処理屋。私と結婚の約束をしたディーター。 そして、悪魔のようなテロリストのユーウェン。 1年前のあの武器密輸事件のとき、彼は左腕と左脚と引き換えに、人格を統合させることに成功した。 今の彼はドイツ国籍を持ち、ディーター・グリュンヴァルトと名乗っているが、本来の人格であるダニエル・デュガルなのだと、父は言う。 私は1年間彼に焦がれ続けて、とうとうドイツまで追いかけてきた。結婚しようと言うつもりだった。 でも、わからない。 彼は本当に私の愛したディーターなのか。 それともそれは、消え去った過去の一人格に過ぎず、もう全く別の人間なのだろうか。 廊下をもう一度、エレベーターホールまで戻り、今度は、右に向かう。 建物全体が半円形なので、廊下も弓なりに曲がっている。 ぼんやりと歩きながら私は、このまま永久に彼とすれ違ってしまうような、わけのわからない絶望さえ感じた。 消灯時間が近いのか、あたり一体薄暗く、ナースステーションの奥の看護婦以外、誰一人姿を見ない。 途中に、観用植物がジャングルのように生い茂る休憩コーナーがあった。 私の内臓は、痺れた。 ディーターが座っているのが、ポトスの葉のあいだから見える。 こちらに背をむけて、ひとりで紙コップに入ったコーヒーを飲んでいる。 私は胸がふさがれるような気がして、声をかけることができなかった。 どうしよう。 父にあれほど内緒にしてほしいと頼んだのは、いざとなると、彼に会う勇気がない自分がわかっているからだ。 このまま走って、逃げてしまいたい。 明日ケルン市内の観光でもして、ああ楽しかったと日本に帰ってしまいたい。 馬鹿だよ、それじゃ。お年玉貯金をはたいて、20万円もかけてここに来たのに。 彼に拒絶されたら、どうしよう。 忘れられていたら、どうしよう。 君のことは覚えてる。でも今の僕には君を愛せない。そう言われたらどうしよう。 拳で涙をぬぐって、下っ腹に力を入れた。 円香。しっかりしろ。 私は、あなたが好き。それだけ、ちゃんと言うんだ。 手紙でなく、自分の口で伝えるんだ。 たとえ、彼が答えてくれなくても、それでいい。 私は、剣道の試合で叫ぶときのような大声で叫んだ。 「ディーター!」 彼は、びっくりして振り向いた。 ああ、何にも変わってない。 金色の弓のような眉も。翡翠色のきれいな目も。すっと整った鼻も。薄い、形の良い唇も。 1年前と、そのまま。 私の好きな、ディーター。 「わたし、やっと来たよ」 精いっぱいの笑顔を浮かべた。 「結婚しよう。ねえ、ディーター」 §2. 彼は立ち上がって、紙コップを落とし、口をぽかんと開けた。 私がここにいるなど、想像もしていなかったのであろう。 たっぷり10秒は、口を開けたままだったと思う。 お父さん、いくら内緒にしてくれと言ったって、少しはほのめかすとか、独り言で呟くとか。 ここまでびっくりさせなくてもいい方法が、あったでしょう。 私は、この間の悪い状況をすっかり父の責任にして、心の中で恨んでいた。 「円香……?」 「そ、そうです、はい」 「円香!」 彼は駆け寄るが早いか、私をその長い腕で、ぎゅっと力いっぱい抱きしめた。 だいじょうぶ、これだけ握力があれば、縫合した左腕、問題ないよ。 麻痺した頭の中で、脈絡のないことを考える。 彼は、私に唇を押し付けた。 冷たい、気持ちのいいキス。昔のまま。 ディーターは、私のことを覚えていてくれたんだ。 幸福な恍惚が全身を満たし、私の目から、ひとすじ涙が流れる。 ディーターは私を絶対に放さなかった。 廊下を歩くあいだも、苦しいほど私の頭を自分の胸に押し付けて、何度も何度も髪の毛に口づけした。 ようやく離れなかった身体をほどいたのは、薄暗いコンピュータールームのスクリーンセイバー画面の明かりの前で、椅子に腰掛けたとき。 「ここで、何してたの?」 「会計の人に頼まれて、新しいプログラムを作ってる」 私をじっと見つめながら、彼は微笑んだ。 薄明かりの中で淡く光る美しい青緑色の瞳。 軽い違和感。 気が遠くなりそうなのを堪えながら、私は心の奥に黒くひんやりとした疑いのかたまりを抱いた。 その瞳の奥から覗いているのは、ほんとうにディーター? それとも、ダニエルやケヴィンやユーウェンも、そこから私を見ているの? 言葉なく見つめ返す私に、彼はマウスのロールキーを触って画面を見せてくれる。見ただけで目がちかちかするような文字や数字が、ぎっしり並んで流れる。 そうか。大学の講座で、コンピューターのプログラムを勉強したって言ってたっけ。 「お父さんから、聞いてる? 私の大学のこと」 「聞いたよ。合格したって。おめでとう」 「うん、ありがと……。え?」 あれ。あれれ? 「ディーター! すごく、日本語うまくなってる」 彼のことばは、去年まであった少し不自然なイントネーションもすっかり消え、カタカナ表記で記す必要もないほど、なめらかな日本語になっていた。 まさか、違和感ってこれのことだったのだろうか。 「ドクトル・フキと、ずっと日本語で話してたんだ。診察のときも、普段も」 「お父さんと?」 「俺がいつ日本に行ってもいいように、って」 「じ、じゃあ、ディーターは、に、日本に来るつもりで、いてたの?」 しどろもどろの私のことばに、彼は少し恥ずかしそうに、歯を見せて笑った。 「そ、それじゃ、日本に来て、あの、わ、私……」 「円香」 「は、はい」 ディーターは私の手を取った。 「円香の友だちのお墓の前で約束した。覚えてる?」 「はい」 「結婚しよう。そしていっしょに日本で暮らそう」 「……あ」 あのときのプロポーズのことば。 私の周りの空気が、その瞬間燃え上がった。 カッと顔が熱くなり、同時に信じられないほど一気に大量の水が、目と鼻の奥にあふれだす。 「ディーター! ディーター! ディーター!」 彼にむしゃぶりついて、大声で泣いた。もう止められない。 彼はディーターだ。 そう魂が叫んだ。体が感じた。 間違いない。彼は私が捜し求めてきた、たったひとりの人。 もう他にどんな人格がひそんでいようと、かまわない。 泣きじゃくる私を、彼はもう一度抱きしめて言った。 「愛してる。円香」 私たちは彼の部屋に行って、そのまま長い夜をともに過ごした。 1年ぶり。 あのときは寒さと不安の中で無我夢中だったけれど、今は幸福な感覚だけが、潮のように私の内部を突き上げては、洗い去ってゆく。 女性としてこれほどの喜びを感ずることができるのだと、彼の腕の中で初めて悟った。 男に生まれたかったと、悔やんでばかりいた少女時代だったけれど、今は女に生まれてきて嬉しいと心から思う。 カーテンを通して日が射し込むのを感じ、目を覚ました。 ベッドの隣ではディーターがまだ、深い眠りをむさぼっている。 彼からは、かすかな汗の匂いがした。 以前は、体臭を感じることなどなかったのに。 人格が統合され、体質も変わったのだろうか。 でも悪い気持ちはしない。むしろ、心地よい匂いだ。 少しワルぶった乳首のピアスも、腕のバラの刺青も、昔のまま。 私はうっとりと横にいる彼の体を見つめて、朝のまどろみとの境界線をたゆたっていた。 突然、ノックがして、ドアが開いた。 太った看護婦が、何やら聞き取れないことばで呼びかけながら、すたすた入ってくる。 「きゃあっ!」 私は、大きな悲鳴を上げた。 一番大事なところはシーツで隠していたけれど、上半身はもろに丸見えだった。 あわててシーツを掻き寄せても、もう遅い。 トルコ系らしい看護婦は、はじけそうなほど目をまんまるにして何にも言わず、くるりと踝を返して、ドアから逃げ去った。 ひええ。おっぱい見られちゃった。 悲鳴で飛び起きたディーターに、私は青ざめて訴えた。 うわ、もうこんな時間。彼は時計を見て、ため息をついた。 「なんで入ってきちゃうの。ディーター、鍵閉めへんかったの?」 「病院だから、内側から鍵は、閉まらない」 あ、そうか。 ここは病室で、ディーターは患者なんだ。 プライベートとか、そんなことは二の次の、病院なんだ。 健康そうな彼の様子に、すっかりそんなことまで忘れていた。 「まあ、いっか。見られて減るもんやなし、相手は女の人やし、ね」 私はうーんと伸びをすると、ベッドから降りて、カーテンを開けた。 射し込むまぶしい陽光に照らされて、あらためて病室の中を見ると、専用の個室とは言え、私物らしきものはほとんど見当たらない。 壁のポスターや、棚の上の小物や写真立てなど、普通の部屋なら当然ありそうなものも、ない。 作りつけのデスクの上に、書籍類が何冊かあるだけ。 こんな部屋で何年も過ごしてきたから、ものを欲しいと思う気持ちが彼にはなかったのだろう。 「あれ、私のスーツケースは?」 着替えを捜しかけて、はっと思い出した。 そうだ。お父さんに預けたまま。 ゆうべは父の寮に泊まるように言われてたのに。いきなりすっぽかして、彼の部屋にしけこんでたわけだ。 まずい。ひたすら、まずい。 ああ。でも、もうどうしようもないよね。 失態の数々に、私はいさぎよく開き直っていた。 昨日着ていたものをそのまま身につけると、まだ目をこすっているディーターを後ろから見下ろした。 「きゃあっ」 また、私の悲鳴。 「ディーター。どないしたん。その頭」 ゆうべは、後ろでまとめていたからわからなかったが、ゴムをはずすと背中まで達する彼の髪は、細かいワッフルパーマが前髪以外の全体にかかっている。 「今ごろ、気づいてる。何で昨日の夜、わからなかった?」 「暗かったんやもん。それに、顔とか、べ、別のとこ見てたから……」 こらこら、円香さん。別のとこって、一体どこのことや。 「近くの床屋から、ただで練習台になってくれって、頼まれた」 と彼は弁解した。 「とにかく結婚するまでに元に戻してね。私、レゲエのあんちゃんと結婚するの、いややからね」 「結構、気に入ってるのにな」 ディーターは不服そうに、後ろ手で髪を縛った。後頭部の真中できつくまとめ、ちょうど月代のない沖田総司の髪型みたいだ。さざ波のようなウェーブが光を乱反射して煙りながら、きれいな項に流れ落ちている。 色っぽい。これはこれでいいかも、などと内心思ってしまう。 下着とシャツを着た後、彼はシーツをめくった。 昨晩ベッドに入る前に義足を外していたため、膝からわずか10センチ下のところで切断された左脚が、剥き出しになる。 再手術を経て今は皮膚に蔽われている断端面に、サポーターをはめ、シリコン製のソケットをはめ、さらにストッキングをはめ、そばに立てかけてあった下腿用の肌色の義足に、足をすっぽり嵌め入れて、ベルトで固定する。 「すごいね。ターミネーターみたいやね。これで、走れるの?」 「走れるよ。ジョギングも、テニスも、できる」 「痛くない?」 「痛いときもある。それに、足の先が痛かったりする」 「足の先、もうあらへんのに?」 「うん。痛いのはがまんできるけど、かゆいときは、どうしようもない。かけないから」 と、装着作業をしながら彼は笑った。 そのあと、ジーンズをはいて、靴をはいて、全部で5分くらいかかったろうか。 私たちは、ようやく身支度を整え終わると、病室を出て、朝食のためカフェテリアに向かった。 「そうや。ディーター。自分のこと、俺っていうでしょ。やめたほうがいいよ」 「どうして? ドクトルが、関西では「僕」と言うのは、小さな男の子だけだって」 また親父は、よけいなこと教えて。 「そんなこと、ないって。俺っていうのは、下品なことばやねんで」 「師範代も、恒輝も、俺って言ってた」 「そ、そやったっけ……」 「小さな男の子のことばを使うのは、いやだから」 私は少し驚いて、彼を見上げた。 やっぱり今までのディーターと、どこかが違う。 自分を主張するようになったと父に聞いていたけれど、その意味がやっとわかった。 今までの彼なら、私が頼んだらすぐ髪型だって変えてくれたろう。俺と言うのも、やめてくれたろう。 優しくて何でも私の言うことを聞いてくれた、以前の彼。 でも、ここにいるのは違う。 自分に自信を持って生きているひとりの男。 私はそんな彼が眩しくて、彼の隣を歩けるのが照れくさくて、余所見をするふりをしながら、瞼をほっこり持ち上げる温かい涙を押し戻していた。 カフェテリアでは、朝の巡回が終わって一休みしている医師や看護婦や、昼からの交替組、それに軽症の患者らが三々五々、食事やお茶を楽しんでいた。 入ったとたん、私たちは彼らの一斉の注目を浴びることになった。 ニコニコと親しげに笑いかける笑顔と、意味ありげなひそひそ声と、はやしたてる口笛。 あのトルコ移民の看護婦さんが、目撃したことを病院中に触れ回ってくれたことは明らか。 ああ、穴があったら入りたいというのは、このことだ。 トレイに朝食を取って、すごすごと席に着くと、もっと恐ろしいものがやってきた。 |