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ギャラクシー・メイズ3
〜 Galaxy Maze 3 〜










 玄関のチャイムが鳴ったとき、ユナはソファから飛び上がった。徹夜の疲れでつい、まどろんでいたのだ。
 きのう夜勤をこなしたおかげで、今日は朝から家にいることができた。
 テーブルの花のアレンジは完璧。グラーシュを煮込む鍋が、台所でコトコトと穏やかな音を立てている。
 夫の好物である、真っ赤な色のシチュー。幼いとき宇宙での事故で両親をなくした彼を育ててくれたのは、母方のハンガリー人の祖母だった。
 ユナはゆっくりと玄関に向かいながら、半分目を閉じて夢想する。
 ――きっと扉の外にいるのは、レイではないのだ。
 彼の乗る火星定期貨物シップYX35便は、今朝クシロに着陸したものの未知の細菌に汚染されていることがわかって、クルー全員が隔離されているにちがいない。それとも、積荷搬出という段になって契約条件の手違いがわかって足止めを食らっているにちがいない。そしてチャイムを鳴らしたのは、そのことを知らせるメッセンジャーか、メンテナンス会社から派遣された、ただの管理ロボット。
 最悪の想像を延々ともてあそんで自分を苦しめることが、レイが帰ってくる日の習慣になっていた。そうでもしなければ、高まる期待に押しつぶされて一日何も手につかなくなってしまう。仕事どころか、普通に呼吸することさえできなくなってしまう。
 大きく息を吸って、わざと音声スイッチだけを押した。
「はい、どなたですか」
「ただいま。ユナ」
 もう忍耐の限界だった。彼女は弾かれたように素足で駆け出し、扉を開け放った。プルシアンブルーの航宙士の制服に身を包んだ夫。シップが操縦不能になるという大きな危険を乗り越えてきたにもかかわらず、レイはいつもと同じく、隣町に行って帰ってきたというような、くつろいだ笑みを浮かべて立っていた。
「レイ。おかえりなさい……」
 夫は何も言わずにユナを抱きすくめると、唇を求めた。
 二ヶ月ぶりの帰宅。
 レイが銀河の彼方で暗黒の宇宙と戦っているあいだ、ユナはひとりでは広すぎるベッドで、寂しさを隣り合わせに抱いている。何度も何度もレイの夢を見ては目を覚まし、彼女を優しく包むのは宵闇だけなのに気づく。
 でも、今はそうではない。今から2週間だけは。
 そっと妻の背中を壁に押しつけて覆いかぶさり、レイは自由になった手で彼女の首筋や胸を味わった。ユナも彼の愛撫に夢中で応えた。
 ほんとうは、話したいことがたくさんある。
 庭で育てていたピンクのリコリスがたくさんの花をつけたこと。
 近所の農家自慢の男爵芋で作った、今日のマッシュポテトのこと。
 聞きたかった宇宙の話は、それこそ山ほど。
 でも、今だけは言葉はいらなかった。身体は心よりも性急に、貪欲に、相手のすべてを欲している。
 ふたりは飢えを満たすかのように、互いの指をからみあわせ、唇や頬を重ね、吐息を交わらせた。


 レイが今日のピクニックを提案したのは、ベッドルームの窓の外で空がラベンダー色に白み始めた頃だった。


 クシロポートの周辺には、23世紀の今なお、釧路湿原と呼ばれる広大な自然が広がる。
 エアカーを路肩に止め、ふたりはハンノキの林のそばで、大きなバスケットを開けた。
 蒼穹は澄みわたり、白い鳥の影がゆったりと横切っていく。ツルコケモモやハナシノブが若緑の大地で可憐に咲き誇っている。
「きょうのランチは、さんざんだわ」
 口をちょっとへの字に曲げ、顎に手を当ててユナはつぶやいた。
「サラダの野菜は水分が出て萎れていたし、ローストビーフのサンドイッチは切り口がぼろぼろ、ポットのコーヒーは苦いだけなんですもの」
「そんなことない。旨かったよ」
「宇宙での食事に比べれば、地球ではどんなヘタクソな料理でも旨い、でしょ」
「まさに、一言一句その通り」
 ユナの控えめな抗議の声に大笑いしながら、レイは両手を枕にしてピクニックシートの上に寝転んだ。
「本当に旨かった。地球には、宇宙から帰ってきたと実感させてくれるものが、4つある。――いや、5つかな。肌に柔らかく触れるそよ風と、草木のみずみずしい香り。どっしりと身体を支えてくれる大地。旨い家庭料理。それから……」
 大空をたゆたっていた気だるげな視線を、横にいたユナに定めると、そっと身体ごと引き寄せる。
「もうひとつは、愛する妻の柔らかさを自分の指で確かめるとき――」
 横たわったまま彼女を自分の身体の上に抱き上げ、その背中に腕を回し、サマードレスのファスナーを器用な指先で降ろす。
「レイ、こんなところで……」
「なんのために、道路から見えないように、わざわざ木の陰に陣取ったと思ってるんだ?」
「でも……空からは見えてる。人工衛星の画像に映るわ」
「かまわないさ。天もご照覧あれ、だ」
 レイは楽しげに言うと、ユナの長い髪に指を差し入れて、キスをする。
 そして、有無を言わせぬ激しさと周到さで、昨晩から何度も訪れたあの高みへと彼女をいざなっていく。


 蕩けて思考力をなくしたユナの頭の奥では、スポイド一滴ほどのかすかな不安が幸福を脅かすように広がっていた。昨日からの夫は、どこかがいつもと違う。
 強引な行動はまるで何かを忘れたくて、わざとはしゃいでいるよう。迎えなければならないときを、一秒でも延ばしたいと願っているよう。
 それは、もしかすると、火星から送信されたあのことばと関係があるのだろうか?
『地球に帰ったら、大事な話があるんだ。できたら一日だけでも休暇を取ってほしい』
 聞くのが怖い。
 この1ヶ月恐れていた。もしかすると、レイには私に隠していた秘密があるのではないかと。
 往復2ヶ月にも及ぶ火星定期航路の男性乗組員たちにとって、火星に恋人を持つことはむしろ常識であるとさえ聞く。
 もしかして、夫にもずっと前からそういう女性がいて、そのことを言えずに悩んでいるのではないだろうか。もしそうだとしても、ユナには彼を責めることはできない。


 22世紀の終わり、人類が地球という惑星から解き放たれ、月や火星に新天地を見出して旅立つようになったとき、銀河連邦は婚姻制度を有限の契約制度へと移行させた。自分の居住する星を離れれば、ほかの異性と交わって子どもを設けることには、もはや何の制限もない。火星のような植民地では、人口増加のためにむしろフリーセックスが奨励されているほどだ。
 子孫の予期せぬ近親婚の弊害を防ぐという意味で、個人ごとの詳細な遺伝情報が連邦遺伝子センターで管理される時代の到来。一歩地球を離れれば、結婚は法的拘束力を持たなくなった。
 だが、どんなに時代遅れと言われようと、いや、こんな時代だからこそ、あえて抗うように結婚の神聖さを信じている者は多い。それはユナも、そしてレイも同様だった。
 プロポーズされ返事を迷っていたとき、彼は言った。
「絶対にきみ以外の女性を愛することはない。火星でも地球でも、1年後も50年後も、永遠にその気持ちは変わらない」
 そのことばを、信じたいと思う。嘘なら、つき通してほしいと思う。
 目が眩むほど満ち足りた時を過ごしたあと、火照った身体を寄り添わせ、ユナは彼が口を開くのを待った。
 春の微風が若草の香りを運びながら、温かく心地よく、そよいでいる。地球にだけやさしく降り注ぐ、黄金色の恒星の光。
 待って、待って、ついに耐え切れなくなって、ユナは上半身を起こした。
「ねえ、レイ。大事な話があると言っていたわ。あれは何のことなの?」
 夫は、わずかに身じろいだように見えた。


 しばらくの間、レイは薄茶色の目を細めて、抜けるような高い蒼空のかなたを見つめていた。言うべきかどうか迷っている表情。
 そして、起き上がる。
 はらりと額にかかる前髪を指で押し上げ、ようやく口を開いたとき、彼はもういつもの確信に満ちた態度を取り戻していた。
「実は、クシロの航宙大学の教授にならないかという話が以前からあった」
 「え」と驚きの声をあげたユナに、優しく微笑みかける。
「航宙理論と実地訓練を受け持つ。訓練は宇宙ステーションまでの日帰りが主となる。年に2回、月までの試験フライトがあるが、それ以外は毎日家に帰る生活を送ることができる」
「それはつまり……」
 今まで、自分を脅かしていた夫の裏切りに対する疑惑などすっかり吹き飛んでしまい、ユナはかろうじて、かすれた喉の奥からことばを紡いだ。
「そのオファーを引き受けるということなの?」
「そうするつもりだ」
「YX35便を降りるっていうことなの?」
「それしかないだろうね」
 あらかじめ想定問答集を用意していたとでもいうように、彼は滑らかに答える。
「今度の事故で思い知らされたよ。もう僕は航宙士としてのピークを過ぎているんだなと。体力、瞬発力、判断力、すべてにおいて20代の頃より劣っている。まだ元気なうちに現役を退いて、後進に道を譲り、新人の育成に力を注いだほうがいいんじゃないかと思ったんだ」
「でも、事故の後処理は完璧だったって聞いたわ。あの状況から船を無事帰還させるとは、さすがにキャプテン・ミカミだってみんな口をきわめて……」
「事故というのは、起きる前に防がなければならないんだ。万が一の事故を起こしてしまったことだけで、僕はキャプテン失格なんだよ」
「そんな……」
「ユナ。きみは」
 レイは首を傾げ、悲しそうな目をした。
「きみは僕に、地球にいてほしくないのかい? 毎晩家で、きみの手料理が食べられるようになる。きみが夜勤のときは僕が台所に立って腕をふるうよ。週末はピクニックや観劇や、ふたりでやりたくてできなかったことを、いっぱいしよう。子どもだって……」
 彼は彼女の両肩をいたわるように撫でた。
「きみが望むなら、何人でも子どもを育てよう。父親と母親がいつもいる暖かい家庭を与えてあげよう。二ヶ月ごとにたった二週間しか父親がいられない家庭などではなくて」
「ええ、私だって、そんな日が来るのをずっと夢見ていたわ」
 ユナは夫の大きな手を取って、自分の手と重ねる。その上にぽとりと熱い滴が落ちた。
「あなたが宇宙に旅立っているとき、どれだけ毎日不安でたまらないか……あなたにはきっと想像もできない。
このあいだ管制任務中に、遭難したシップと交信したの。本当に奇跡のような状況でその人は一命をとりとめたけど……たったひとりで死んでいこうとする彼とことばを交わしたとき、もうたまらなかった。まるであなたがいつか、そうなってしまうような気がして。それから何日も、あなたが死ぬ夢にうなされて、そのたびに泣きながら目を覚ましたわ」
「ユナ」
「あなたが地球にいてくれるなら、私こんなにうれしいことはない」
 彼は、妻のかぼそい身体を壊れんばかりに抱きしめた。
「僕は、ずっときみのそばにいる。もうどこへも行かない」
「レイ」
 ユナは、そっと彼の胸を押して抱擁から逃れた。きらきらと光る涙をふりはらうように、何度も長い睫毛が揺れた。
「でもね。レイ」
 艶やかな唇から漏れ出たのは、ありったけの自制心と勇気を秘めた静かなことば。
「その決断をさせたのは……ほんとうに、『レイ・三神』なの?」
 雷に打たれたように、彼は目を大きく見開いた。
「どういう……意味だ」
「私には、今のあなたがどうしても本心からそう言っているとは思えないの。なぜそんなふうに思うのかしら。聞かれてもきっと答えられないわ。でも、感じるの。2年間ずっとあなたを見てきたから。あなたは心の底では、シップを降りたいなんて思っていないのじゃないかしらって」
 ハンノキの梢がざわざわと風に鳴る。
 長い沈黙があった。
 顔を伏せ、かすかに肩を震わせながら、レイがつぶやく。
「なぜ、もう楽にしてくれないんだ……」
「え?」
「もう十分に、頑張っただろう。やるだけのことをやってきただろう。何度も何度もフライトを成功させた。積荷とクルーを安全に運んできた。どうしてそれじゃ赦してくれないんだ。なぜ地球でのきみとの生活を楽しむ自由が俺にはない?
……なぜ、いつまでも、みんなでよってたかって俺を宇宙に駆り立てるんだ!」
 片手で両眼を被い、彼は必死で嗚咽をこらえていた。
「怖いんだ。操縦レバーを握るたびに、怖くてたまらない。22人のクルーの命が俺の肩にかかってる。誰もあの暗闇から助けてくれないのに。気がつくと、いつもあそこに戻ってしまう。俺の人生はその繰り返しだ」
「レイ」
 ユナは夫の広い背中を包むように抱きしめる。
「それは、あなたが宇宙を好きだからだと思うわ」
「馬鹿な。嫌いに決まってるだろう!」
「もしあなたが、本当に宇宙を嫌いになったのなら、私反対なんかしないわ。YX35便を降りて、あの制服を脱いで、ずっとずっと私のそばにいて。……でも、今のあなたは自分に嘘をついてる。自分を納得させる口実に、ただ私を使っているだけなの」
 ゆっくりと手を降ろし、レイは振り向いて、決然と微笑む妻を見つめた。
「レイ、私は」
 ユナは彼の頬にそっとキスした。
「いつも置いてきぼりにされた子どもみたいに、悲しそうに空を見上げる人生を、あなたに送ってほしくないのよ」


 整備工場のハンガー(格納庫)には、データをチェックする少数のメンテナンス要員のほかに人影はなかった。
「いつも不思議に思うわ。こんなに滑らかな肌をしたスマートでたおやかな女神さまが、1億キロの大旅行から帰ってきたばかりだなんて。とても信じられない」
 デッキからYX35便の静かな威容を見下ろしながら、ユナが言った。
「真実は、あちこちにガタが来ているオンボロシップだよ。もうあと5年もすれば耐用年数が来て、廃棄処分になる」
 レイは慈愛に似たまなざしを、機体に注いでいる。
「でも僕はやはり、この船が好きなんだろうな。まだ駆け出しの航宙士の頃から10年近く、乗り組んできた。こいつのことなら誰よりも知りぬいている。気心の知れた相棒――それ以上の存在かもしれない」
 ユナはそれを聞いて、さぐるように隣の夫を見つめた。「それじゃ……」
「ああ、YX35便からはまだ降りられない。僕にはひとつやり残したことがあることを、今気づいた。
……それに、きみに言われて身に染みたよ。僕は宇宙が好きだ。どんなに嫌いになろうとしても、好きで好きでたまらないんだ。もう少し未練がましく、あがいてみることにした」
「それでこそ、私の知っている『キャプテン・レイ・三神』だわ」
 安心しきったように力を抜いて、レイの肩に頭を凭せる。
「私との時間は後回しにしても、シップのことをまず優先させて。ときどきは、銀色の女神さまにちょっぴりヤキモチを焼くかもしれないけど」
「すまない」
「でも……、生身の女性にヤキモチを焼くよりは、ずっとましよね」
「え?」
「ふふっ。ひとりごと」
 デッキからホールに戻ろうとしたとき、そこに一群の人々が待ち受けるように立っていた。
「キャプテン」
 レイは息を飲む。それはYX35便のクルー22名だった。
「やっぱり、ここにおったのか」
 機関長のタオが、満足げに白いあごヒゲをしごいていた。
「シップを降りたときのおまえさんが、なんとなくいつもと違う感じがしてな。もしかして、もう二度と戻ってこないつもりなのではないかと。クルー同士でメールを交わしてあれこれ言い合っているあいだに、自然とおまえさんのやって来そうなこの場所に、全員が集まっておったのじゃよ」
「キャプテン、すいません」
 メカニックのスギタがおおげさなほど深々とお辞儀した。
「俺たちのミスで、こいつをヤバい目に会わせちまいました。もう二度とこんなポカはしませんから。これからは、クシロの整備士たちにまとわりついて、ネチネチと注文をつけてやりますから、勘弁してください!」
「キャプテン。うちの嫁さんが一週間前に赤ん坊を産んだんです」
 集団のうしろから、ひとりが大声を張り上げた。
「背中のたくましい男の子でした。キャプテンがいなきゃ、私は地球に戻ってこの子に会えなかったかと思うと、涙が出てとまりませんでした。
キャプテンといっしょにYX35便に乗り組めることを誇りに思います。息子に『レイ』という名前をいただきたいとお願いにまいりました。許可していただけますか」
 レイはユナと顔を見合わせ、そしてはにかんだように俯いた。
「僕の名前なんかでいいのか? おそろしく縁起の悪い名だぞ」
「将来ユナさんみたいな綺麗な女性といっしょになれる名前なら、縁起悪いはずがありません」
 どっと笑いが起きた。
「ありがとう、みんな……」
 レイは笑顔を浮かべようとして、このクルーたちを黙って裏切るつもりだったことを思い出し、苦渋に唇をゆがめた。
「すまない。本当のことを言うと、僕はさっきまで……」
「わかっておるよ。何も言うな。どんな心の迷路を通っていたかは知らんが、おまえさんは決して自分との戦いのステージから、逃げ出したりはせんわい」
 そのとき、年若い操縦士エーディクが一歩前に進み出てデッキに立つと、芝居じみた仕草で片腕をひらりと動かし、背後の銀色の機体を指し示した。
「ようこそ、キャプテン。もう一度YX35便へ」
 








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