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七つの大罪  府立西野高校文芸部 (5)





(4) 怠惰 [acedia]    3年生・春


 木造二階の北向きの部室には、春が学校のどこよりも一番遅くやってくる。
 貫田耕治は部室奥のベンチに寒さに耐えて寝転がったまま、ひたすら天井を見つめていた。
「あれ、どないしたんや。みんなは?」
 扉の開閉の音と一緒にかかってきた声に、気だるげに返事する。「今日から二年が修学旅行で、部活は中止」
「なんや、掲示板見とけばよかった」
 上谷祐樹の金色の頭がにゅっと視界をさえぎった。「で、おまえは? ひとりで何しとんねん」
「なんだかなあ。このところ、何をする気も起きひん」
「早めの五月病か。コウともあろうもんが、今夜は嵐やな」
 祐樹は完全に冗談だと取っている。「どないしたんや。小遣いが無うなったんか」
「……アホ、そんなことでいちいち落ち込んでたら、俺の人生――」
 そこで口をつぐみ、大きな吐息をつく。「ああ、しゃべるのもしんどい」
「ほんまか。えらい重症やな」
「俺かて落ち込むことくらい、あるんや」
 耕治は眼鏡を額にずり上げて、友人をにらんだ。
「コウがそんなんやと俺、困るな」
 祐樹は折りたたみ机に腰かけると、意外なほど真面目くさった調子でつぶやいた。
「俺みたいないい加減なヤツが、こうやって、まがりなりにも文芸部員やって来れたんは、コウのおかげやもんな」
「どないしたんや、いきなり」
「いつかチャンスがあったら言おうと思とったんや、おまえにはすごく感謝してる」
「やめろよ、縁起でもない。ドラマでこういう、しんみりした会話をするやつらは、たいてい次回で死ぬんやで」
「あはは、ほんまやな」
 祐樹は楽しげな声で笑った。
「じゃ、俺行くわ。今晩彼女とデートやから、バイトの前にいったん着替えに帰らんと」
 彼が去ったあと、耕治はがっくりと腕を垂れて脱力した。
「おまえ、よくも最後に、後ろ足で蹴り入れてくれたな」
 少しすると、入れ替わるように井澤怜がやってきた。
「ミヤと今、渡り廊下のところですれちがった」
「ああ」
「コウが、柄にもなくウジウジしてる、言うてた」
 怜は彼が寝ているベンチに、おかまいなしに腰を下ろした。しかたなく、耕治はもぞもぞと脚を縮こめて、移動する。
「どうした」
「推進力がな。とうとう切れたみたいや」
「コウでも、そんなことあるんや。雹でも降るかな」
「俺かて、落ち込むことくらい……以下同文」
 しばらく無言で、あやうく互いの存在を忘れかけたとき、怜がぽつりと言った。
「俺、コウに感謝してる」
「……」
「俺みたいな自分勝手な人間が部長を務めてこれたんは、おまえのフォローのおかげやった」
「ひとつ、訊きたいねんけど」
 耕治は両手で目を覆って、うめいた。「俺、不治の病で余命三ヶ月の宣告を受けてるってことないやろな」
「なんや、それ」
「みんな急に優しくなってしもて、けったくそ悪い」
「おまえが、おまえらしくないからや」
 怜は立ち上がった。「そろそろ行く。四時半から二者面談や」
「志望校、どこに決めた?」
「さあ。俺んち仕送りは無理やから、家から通えるところに限られるな。とりあえず京大か阪大か」
 呟きを残して彼が去ったあと、耕治はエビのように体を折って悶絶した。
「なんでみんな、さりげなく俺にとどめを差すようなことを言うねん」
 加納亜季が入ってきた。
「本館の廊下で今、イサとすれちがったよ」
「はあ」
「コウが柄にもなく、ごろごろ怠けてるって」
 彼女はパイプ椅子を引っぱってきて、重病人の見舞い客のように神妙な顔つきで腰かけた。
「どないしたん」
「昨日の二者面談の結果、国公立は絶望的て言われた」
「ああ、そうなんや」
「おまけに、慰めてくれる彼女もおらへん。これが落ち込まずにいられるか」
 視界の端で、亜季が小首を傾げて笑うのが見えた。
「コウ、そうやって眼鏡はずして、しかめっ面してると、なかなかシブい」
「……」
「そんな憂うつな顔してるの初めてやから、意外な発見や」
「……あのなあ。二年間もいっしょにおったのに」
「そやかて、いつもしゃべったり笑ったり、なにかしら用事してる姿しか見たことないもん」
 亜季は立ち上がると、
「元気出しぃ。そのうち、ステキな彼女見つかるよ」
 ひらりとスカートの裾を翻して、「さよなら」と行ってしまった。
 ふたたび静けさが戻った部室で、耕治はようやく起き上がった。
「まったく、三人とも」
 慰めようとしてくれたわりには、よけいダメージを残していったような気がする。
 亜季の最後のひとことは、特に。
 外に出ると、夕方にしてはまぶしいほど明るい。
 空にだけは、もう夏が来ていた。高校生活最後の一年は、車窓の景色が飛ぶように過ぎていくのだろう。そのことに気づいてしまったから、彼は今こうして立ちすくんでいるのかもしれない。
 天をふり仰ぎながら耕治は、コンタクトを買おうと心中ひそかに決意していた。






(5) 強欲 [avaritia]    2年生・冬


 決して立ち聞きしようと思ったわけではない。部室の扉が開いていたのが悪いのだ。
 かと言って、平気なふりをして中に入るのもしらじらしく、回れ右をして立ち去ることなど、なおさらできない。
 亜季はスニーカーの靴ひもを結び直すことに決めて廊下にしゃがみこみ、里奈と怜の会話に耳をすませた。
「何も教えてくれないんですね」
 里奈のいつもの甘ったるい声が聞こえた。「だから、なんでもええんです。好きな食べ物とか、好きな音楽とか、好きな色とか。部長のことなら何でも」
「だから、さっきから言うてる。何もないって」
「無欲なんですか。部長って」
「無欲?」
 怜の顔に皮肉げな笑みが浮かぶのが、見なくても声色だけでわかる。
「俺ほど、強欲な人間はおらへんで」
「ウソ」
「努力しなくても手に入るものは、欲しくない。手に入らないとわかってるものしか、興味が湧かないんや。それって、この世で最高の強欲やと思う」
「……」
「だから言わせてもらえば、あんたが今してることは完全に逆効果や。俺はますます、あんたに興味を失う」
 パイプ椅子が、かたんと倒れる音がした。
 と思ったら、ものすごい勢いで里奈が部室から飛び出てきた。
「ひゃっ」
 あわてて身を翻して隠れようとしたが時すでに遅し。里奈は真っ赤な顔で亜季を睨むと、そのまま、廊下を走り去ってしまった。
 ぎしぎしと階段が鳴る音が聞こえなくなるまで、亜季はその場にじっと立ち尽くした。
 そして何度もマフラーに口を埋めて深呼吸したあと、勇気を奮い起こして部室に入った。
 怜は、部室奥の木のベンチの指定席で、オーバーを着たまま座っていた。彼女をちらりと見上げると、自分の手元の本に再び目を落とす。その平然とした様子は、まったくいつもと変わらない。
 すぐそばで横倒しになっているパイプ椅子を、亜季は黙って元に戻した。
「どこから聞いてた?」
 怜が言った。
「えと……『強欲』のあたり、かな」
 消え入りそうな声で、亜季が答える。
「ふうん」
 雲間から突如、早春の太陽が窓越しに射し込んで、部室の中をくっきりと照らし出した。
 空気中に浮かぶ埃が、歴代の部誌が収めてある壊れかけのガラス戸棚が、誰かが飲み残していったジュースの空き缶が、強い光にさらされて平板なモノクロ画となる。
 時間というものは止まるものなのだと、亜季はこのとき生まれて初めて知った。
「……大嫌いなんや」
「え?」
 怜は、項垂れたまま淡々と続ける。
「自分の強欲さが、ほとほと嫌になる。それならいっそ、何も望まへんほうが楽やと思う」
「……ん」
「だから、何も欲しがらないと決めた」
「何も?」
「そう、何も」
 亜季はからからに乾いた口の中を、小さな舌で湿した。
 好きな人は、目の前に座っているはずなのに、いつも遠い。そして、この距離を飛び越えるための時間は、あまりに少ない。
 放課後の二時間。
 週に五日。
 そして、卒業を迎えるまで、あと一年。
 いや、夏で退部するから、実質はもっと短い。それが彼といられる時間のすべて。
 何度もあきらめようとした。あきらめられると思ったこともあった。けれど、やっぱり無理だった。
 亜季は、ようやく口を開いた。止まった時間を動かすには、途方もない力が必要だ。
「でも、何かを欲しがらないと、人間は何も変わらへんよ」
「変わる必要なんかあるのか」
「わからへん。けど、小説というのは、人間が変わっていく物語やで」
 彼は、読んでいた本から目を離した。
「ハッピーエンドにしろバッドエンドにしろ、主人公たちは物語の中で変化していく。人はその変化を自分に投影するのが嬉しいから、本を読むんやと思う」
 少しの沈黙のあと、怒ったような声が返ってきた。
「でも俺は、変わるのはごめんや」
「それなら、今は、そのままでええんと違う?」
「……『今は』?」
「変わりたいと思える時が来るまで、じっと待つの。こんなふうに」
 古いベンチをキシと鳴らして、亜季は静かに怜の隣に座った。
 壁に頭を預けて目を閉じる。あるかなきかの微笑を唇に浮かべ、それはまるで何かに聞き入っているような仕草だった。
 怜は、膝の上でそろえられた彼女の両手をじっと見つめた。そして何かを握りつぶすように自分の拳を固めると、また文字に目を落とした。
 今日に限って他の部員はまだ誰も来ない。時間はふたたび、ゆっくりと音を立てて止まった。
 陽射しがさっきより少しやわらいでいる。午後の部室は、まるで春の光の紡ぐ繭のようだった。






(6) 暴食 [gula]    3年生・夏


「酒は絶対に飲まさへんからな」
 上谷のマスターは、私服の高校生たちに念を押した。色黒のヒゲ面で睨みつけると、かなりの凄みがある。
「あー。わかっとるてば」
 祐樹は彼の両手からコップをひったくるように受け取った。「俺かて、この店を営業停止にしとうない。それよか、食うもんジャカジャカ持ってきてや」
「ほいほい。バケツいっぱいのスパゲティに、金たらいのパエリアね」
 亜季が、真顔で祐樹の袖を引っぱった。「ほんまに、バケツや金たらい使うん?」
「あほ、冗談や」
 祐樹の義理の父親が経営している喫茶店は、いつもは夜の七時から酒を出す。だが八月も終わろうとする今夜、店の扉には貸切の札がかかり、四人の他に客はいない。余分な椅子やテーブルは片付けて、隅に寄せてある。
 祐樹がめいめいのコップに、手際よくジンジャーエールを注いで回った。
「そんじゃ、イサ『元』部長。乾杯のご発声を」
 怜の嫌そうな表情を承知の上で、茶化してカラオケ用のマイクを向ける。
「……乾杯」
「なんや、その覇気のない声は。ほら、コウ、代わりにやれ」
「今夜は、食って食って食いまくるぞー」
「おーっ」
「日頃のウサを、吹き飛ばすぞー」
「おーっ」
「かんぱーいっ」
 飢えきった獰猛な17歳たちに、マスターは不敵な笑みで近づくと、どんと大皿を置いた。
「さあ、勝負と行こうやないか」
 最初に運ばれてきたのは、揚げたてのジューシーなオニオンリング。一斉に四本の手が伸び、数十秒で皿は空っぽになった。
「くっ。さすがやな。足止めにもならんか」
 おろしたてチーズがたっぷりかかった特大ボウルのシーザース・サラダは、まるで満員のウサギ小屋に放り込まれたキャベツのようだった。
 固めに茹でられた山盛りのスパゲティ・ナポリタンも、フォーク同士の綱引きで、あえなく四散した。
「おまえら、まるでウワバミやな。ちゃんと噛んどるんか」
 マスターが宇宙人を見るような畏怖の目つきで、言った。
「噛む前に口の中で溶けてなくなっとるんや」
 ここまで来ると、さすがに人心地のついた顔になって、四人は野菜スティックやコーンチップスをばりばりと齧り始めた。
「こうして四人が揃うのは、久しぶりやね」
 亜季がサワーディップで汚れた指をしゃぶりながら、言った。
「七月の蒜山(ひるぜん)合宿以来かな」
「うそ、そんなになるか」
「イサがけっこう休んでたもんな。部長を辞めたとたん、受験モードに入りよって」
「そんなんと、違う」
 怜は、怒ったようにコーンチップスを激辛のサルサソースに浸して、何枚も頬張った。
「そやったら、なんで来なかった」
 耕治がガーリックトーストのバケットをまるごと口に押し込む。
「いつまでも元部長が顔出したら、新部長がやりにくいと思ただけや」
「反対やと思うけどな。並木たちにとって、今が一番いろいろ聞きたい時期とちゃうか?」
「あいつらなら、うまくやる。むしろ、俺のやり方なんか参考にしないほうがいい」
「ふうん、それがほんまの理由かな?」
 耕治の断定的な質問は、答えを求めていない。
 座の空気が微妙に淀み始めたところへ、満を持したエビフリッターとフライドチキンの盛り合わせが運ばれてきた。しかし、このボリュームたっぷりの一皿とて、野獣たちの血肉となり果てるには三分とかからなかった。
 それまで黙り込んでいた祐樹が、喉を鳴らしてコップを飲み干した。
「おまえら、三年間はたで見てて、おもろかったわ」
 人差し指をくいと突き出し、指された三人は口の動きを止める。
「夏の合宿へ行くたびに、互いの立ち位置というか、距離が変わるんや。一年のときは、合宿が終わったあと、なんとなくイサとアキが接近した気がした。けど、二年の合宿の後は、ふたりは限りなく離れ、今度はコウとアキが急接近した」
 亜季が居心地悪そうに座りなおした。頬にみるみる血の気がのぼってくる。
「三回目の今年は……ようわからん。わからんけど、何かが起こったことだけはわかる」
「ミヤ」
 不機嫌を含んだ一本調子の声で、怜が遮った。「おまえには関係ない」
「確かに、部外者が口出しすることやない」
 今夜の祐樹は、しつこかった。
「けど、俺にしか言われへんこともある。今のうちにおまえらは、きちんと決着をつけたほうがいい」
「もうやめろと言っているんや」
 一気にたちこめた険悪なムードを断ち切るように、耕治がすっとんきょうな笑い声を上げた。「すげえな、ミヤ。ジンジャーエールで酔っぱらって、からむ奴を初めて見たぞ」
「はいはい、お待たせ」
 さらに絶妙のタイミングで、マスターがシーフードが山と乗ったパエリアを運んできた。
「さ、祐樹。そこらへんの皿、片して」
 取り皿やコップが脇に寄せられると、鉄製のパエリア鍋がテーブルを揺らす勢いで、どすんと置かれた。
「すげえ」
 一同は目を見張った。イカ、エビ、ムール貝といったシーフードや色とりどりの野菜が、黄金色のサフランライスが見えなくなるほど敷きつめられている。
 燦然と輝く宝箱のような彩りは食欲をそそる。ましてや、怒りというのは絶好の消化促進剤だ。気まずさから来る沈黙は、さらにそれを助長する。
 金たらいと呼ぶのが誇張ではないほど大きな鉄製の平鍋は、それこそ早回しの映像のようにみるみると、黒い地肌をむき出しにした。
 マスターは、もう驚く気力もないという顔で、空っぽの鍋を取り下げる。
 その後はミートローフサンドイッチと、みそをつけた焼きおにぎりの皿が、おずおずとテーブルに出されたが、意外なことに、それには誰も手を出さなかった。
 店主はぱっと顔を輝かせた。とうとう満腹になったか。この勝負は、俺の料理の手腕に軍配が上がったのか?
 祐樹は両膝を手でつかむと、ぐいと顔を上げた。
「俺、夏休みの前に、彼女と別れたんや」
 え、と亜季が声にならない声を喉につまらせた。
「俺なりに、悩みぬいて決めた。発展的解消ってヤツ」
「発展的解消?」
「今のままやったら、何も変わらへん。変わらなければ、居心地はいい。けど、結局はそれだけや」
 流し台でごしごし鍋をこすっていたマスターが、息子の背中をちらりと盗み見、また顔を伏せた。
「俺からメールを送った。『お互いの気持がこれ以上進めないなら、ここで終わりにする』って。ある意味賭けのつもりやったけど、無謀な賭けやったんやろな。彼女からの返事は保留のままや」
 祐樹は、完全にふっきれた明るい声を出した。「だから、俺はおまえらにも前に進んでほしいんや。そしたら、最低ひとりは、俺と同じ不幸仲間を作れるし」
 笑いながら、視線を元通りテーブルの上に落とす。他の三人も、つられたようにテーブルの上を見る――初めてそこにあるものに気づいたというように。
 数分後、サンドイッチとおにぎりがあったはずの場所からは、すべてが消えていた。


 外へ出ると、むっと残暑の熱気がまとわりつく。
 喫茶店のマスターは、肩を落とし、敗北に打ちひしがれた様子で客を見送った。なにしろ、四人はあの後、アイスクリーム2パイントと特製バナナカスタードパイとコーヒーをぺろりと平らげたのだ。もちろん、店の収支は完全な赤字だった。
 心地よい満腹感も手伝って、眠さと気だるさで歩みも遅い。
「あーあ、とうとう引退か」
 二学期が始まる時に三年生は引退するのが、部の慣例だ。
 今夜は、四人の三年部員が自分たちだけで一足先に開いた、内輪の『追い出し会』だったのだ。
 耕治が後ろにのけぞりそうになるほど空を振り仰ぐ。つられて祐樹も、そして怜も頭を上げる。そうしていると、不思議に空気がひんやりと感じられた。
 晩夏の空は、すでに秋の星座が主役だった。カシオペヤのWや、東から昇ってきたペガススの四辺形が、街灯の明かりから遠ざかったときだけ、かろうじて見える。
 満たされた腹とは逆に、ぽっかりと胸に風穴が開いたのを、四人は感じている。
「あとは、受験勉強一筋の毎日か」
 静まりかえった深夜の街。男子たちは箍がはずれたように、口々に大声で吼え始めた。
「地獄へ突入する気分や」
「くそ、やってらんねえ」
「俺たちの青春を返せ」
 都会の夜は、無慈悲に彼らの叫びを吸い込んでいく。その余韻を締めくくる亜季の甲高い声は、星々に包まれて震えているように聞こえた。
「西野高校文芸部、楽しかったーっ」







(7) 色欲 [luxuria]    3年生・夏


 標高500メートルの蒜山(ひるぜん)高原は、高天原伝説の舞台となった場所と言われる。蒜山三座の山すそに広がる緑の放牧地では、褐色のジャージー牛がのどかに草を食んでいる。
 西野高校文芸部の夏の合宿は、毎年ここの研修センターで行なわれる。今年は予約が取れずに例年よりも一ヶ月早い七月になった。
 この合宿は三年生にとって、事実上最後の活動だ。
 三年間、毎年来るたびに同じように驚くのは、朝夕の涼しさ。空気のおいしさ。空の青さ。
 そして、降るような星のまたたき。
 夜が更けたころ、怜は宿舎を抜け出した。四角に切り取られた窓の明かりが、丈の長い芝生の上に等間隔で並んでいる。
 庭の隅の一本の松の木を選んで、幹にもたれた。
 今夜もたぶん眠れない。半分閉じた目で夜空を仰ぐと、地面が今にもふわりと浮き上がりそうだ。
「寝えへんのか」
 ぼりぼりと頭を掻きながら、耕治が近づいてきた。
 昼間はコンタクトをしているので、眼鏡の顔は久しぶりだ。
「女子部屋の前を通ってきたけど、えらい騒ぎやったで。あいつらも今晩は寝えへんつもりやな」
「毎年、初日の晩はそうやろ」
「ああいうノリは、男にはついてかれへんわ」
 今年の二年部員は四人、一年部員は三人。全員女子。
 それに三年の亜季も合わせた八人の女子部員は、例年どおり広い大部屋を使っている。
 対して、祐樹が欠席したため二人となってしまった男子部員は、これも例年どおり狭い和室に押し込められている。
 しかし、来年は和室を取る必要もなくなるだろう。
「来年の新入生に男子がおらへんかったら、文芸部は完全に女子部員オンリーになってしまうな」
「元に戻るだけや」
 怜が事もなげに言った。「男が三人もそろった俺たちの学年が、そもそも異常なんや」
「異常っていうか、偶然の必然っていうか」
 急激な夜の冷え込みに、耕治はTシャツの肩をすくめた。
「俺は男兄弟の末っ子やし、女だらけの文芸部にひとりで飛び込む勇気なんて、これっぽちもなかった。男子が入ったと聞いて、そんなら俺も入るかって気になったんや。ミヤはたまたま、幽霊部員になれる居心地のいい部を探してただけで、おまえが入らなければ、たぶん俺もミヤも文芸部員にはならへんかったと思う」
 そうすれば、たぶん亜季にも出会わなかった。
 耕治は眼鏡越しに目を細めて、空の闇を見上げた。彼女に会わなければ、俺の三年の高校生活はどうなっていたのだろう。
 これほど充実していなかっただろうか。それとも、もっと楽に生きられただろうか。
「おまえ、アキのこと、どうすんねん」
「どうって」
 怜は気だるそうに、抱えた膝に顎を乗せた。「別にどうもせん。今までどおりや」
「何もなかったことにするってことか」
「本当に何もなかったんやから、しかたない」
「そんなはず、ないやろ!」
 星々が震えた。
 田舎の夜に不似合いな声だと気づいて、耕治はあわてて音量を下げた。
「去年の合宿で、おまえはアキに面と向かって言うた。二度と俺のそばに近づかんといてくれ、迷惑やからと」
「迷惑やなんて、言うた覚えはない」
「同じことや」
「わかった。言い直す」
 怜は短く吐息をついた。「アキとは、一年の終わりに少しだけ付き合うて、すぐに別れた。けど、もう過去の話や」
「おまえにとって、か」
「アキにとって、や。人の気持が、いつまでも同じでいるほうがおかしい」
 幾重にも重なり合う虫の音が、思考を一瞬、遮断する。
 怜は底冷えのするような声で続けた。
「第一、おまえとアキはこの一年、隠れて会うてたんやろ」
「誰も、隠れて会うてたわけやない」
「俺には、わざわざ言う必要がなかっただけ、か」
「ふうん、さすがのおまえも、振った相手が別の男と付き合い始めると、やっぱり気に入らんか」
「付き合うてたと、認めるんやな」
「そういう意味やない、つまり、俺たちが会うてたんは……」
「男と女がふたりで会うて、他にどんな意味がある」
「そうやない言うてるやろ。アキは今でも、イサに惚れてるんや」
 自分の声のはずなのに、他の誰かが言っているような錯覚に耕治は囚われた。まるで何かに操られているようだ。たとえば、頭上に広がる大宇宙の魔力とやらに。
 言葉がジグゾーパズルのように、正しいところにすとんすとんと嵌まっていく。
(ああ、やっぱり俺とアキは、そういうことなんや)
 妙な具合に、気持のどこかが納得していた。いっそ爽快と呼べるほどに。
「アキは今でも、おまえに惚れてる」
 その言葉を聞いて、重い荷物を背負いこんだのは、怜のほうかもしれない。
「今さら、そんなことを聞いて、どうなる」
「だから、さっきから訊いとんねん。どうするって」
 怜は、自分の腕にぐっと爪をたてて抱えこんだ。
「アキは思い違いをしとる」
「え?」
「本当の俺を知らんくせに。うわべしか見てへんくせに。どうして、そんなに簡単に人を好きになれるんや」
「別に、簡単やないと思うけどな」
「俺の中にどんな怪物がいるかも知らずに――おまえたちがふたりでいたと思うと、妬ましくて眠れなくなる。おまえを殺してやりたいと思うことも、アキを組み敷いてめちゃめちゃにしてやりたいと思うことさえ……」
 醜いことばを吐き終えると、怜は自分の内側にめりこんでしまうくらい、頭を深く垂れた。
「本当の俺を知ったら、アキは傷つく。軽蔑して、きっと俺から離れていく。それくらいなら――」
「俺にアキを譲ったほうが、平和で綺麗な心でいられるってか」
 耕治は含み笑いながら、ゆっくりと芝生の上に片肘をついた。
「そう言えば、俺の中にも、おったわ」
「なにが?」
「怪物。多分、おまえと同じ種類のヤツや」
「……」
「うん、私にもおるよ」
 宿舎の四角い光の隙間から、亜季が出てきた。
「……コウがイサを捜しに行くって言うから、一緒についてきてしもた」
「黙ってて、すまん」
 耕治は、ぺろりと舌を出した。
「私の中にも、怪物がいてる。女やから、イサのと同じかどうかは知らんけど」
 涙を押し返すように、亜季はひとことずつ区切って話す。
「だから、私のことわかってへんのは、イサも同じ。これで、おあいこや」
 怜をじっと見つめる目には、夜の闇を写して暗い深淵が宿っていた。そこから、一筋の光がこぼれ落ちた。
 怜は、自分の中の怪物が、おどおどと背中を丸めるのを感じた。





(「七つの大罪」 了)
ご愛読ありがとうございました。
 


「七つの大罪」のお題は、霜花落処 さまからお借りしました。
Copyright (c) 2002-2009 BUTAPENN.
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