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どうしようもない気分だ。
たとえて言えば、子猫がコンクリートの塀の上から地面に飛び降りられず、戻るに戻れない、そんな状態。
つまり、俺は行き詰まっていたのだ。
その行き詰まりを打開すべく、ひとり用のサイホンに水を入れて、量ったコーヒーをミルで挽いて、アルコールランプに火をつける。
店の自動扉がしゃらんと音を立てて開いた。
暖かい風とともに、ふわりと桜の花びらが舞いこんできた。
窓の遮光ガラス越しには、寒々とした色の空を斜めに切り取るような高速道路しか見えない。こんな都会の、いったいどこに桜の木があるのだろう。
「いらっしゃいませ」
その花びらを運んできた美しい配達人は、いつもの笑みを浮かべて、カウンターのうしろの俺を見た。
「こんにちは。今日は祐樹くん、ひとりやの?」
「マスターは久宝寺町に、晩の仕入れに行ってる。……ちょうど今、コーヒー入ったところ。飲む?」
努めてさりげなく、偶然を装い。
「うわっ、ラッキー。いただくわ」
彼女はいそいそと、カウンター席の俺の正面からふたつ離れた定位置に腰かけた。
種明かしをすれば実は今日、彼女が来るまでに5杯のコーヒーをムダにした。そんな事実は潔く記憶からも、店の帳簿からも抹消する。
彼女の笑顔のためなら、ささいな出費だ。
カウンターの上に重ねたほっそりした手の前に、鼠志野焼のカップを置いた。湯気と芳香のたつ黒い液体がとろりと、天井のオレンジの灯りを映している。
昼は喫茶、夜はバーになるこの店に毎日のようにやってくる眼の前の女性こそが、俺の行き詰まりの成分の73%を占める、詩季子さん。
5ヶ月くらい前、今のような昼下がりの客のいない時間帯に、はじめてこの店に訪れた人。
そのとき詩季子さんはひそやかに泣いていた。隅のテーブルで壁に顔を向けるようにして泣きながら、マスターの淹れたコーヒーを口に含んでいた。
俺は昔から、泣いている女に弱いのだ。
4ヶ月前には、このカウンターの後ろで彼女の来るのを待ちわびる自分に気づき、3カ月前には、夜ごと彼女が俺の夢に現われるようになり、2ヶ月前には、ついにデートにこぎつけた。
それ以来、俺たちは付き合っている。
いや、付き合っていると思ってるのは、俺だけなのかも。
「おいしい」
熱いコーヒーをこくりと飲み込み、彼女はふっくらした唇をうれしそうにゆるませた。
「マスターの味に近づいたかな」
「さんきゅ」
「祐樹くん、そうしてるとマスターによく似てるわ。さすが親子やね」
白いシャツを腕まくりしてサイホンを洗っている俺を、詩季子さんは姉のような優しい目で見つめる。
「マスターと俺は、血つながってないで」
「え、だって同じ「上谷」って苗字……」
「うちのおふくろ、4回結婚してるんや。マスターは2番目の旦那。3歳から8歳までいっしょに暮らしとったから、俺はマスターに一番なついていて、マスターも俺を本当の子どもみたいにかわいがってくれて。
それでおふくろたちが離婚したあとも、俺だけは上谷姓を変えへんかった」
「そやったの……」
彼女は複雑な表情を入り混じらせる。
「そやから、祐樹くんて年の割りに大人びてるんやね」
俺はそれに答えず、真っ白なクロスの上にサイホンを逆さに立てて置くと、濡れた手をタオルでぬぐった。
大人びている。
俺の行き詰まっている原因はそれなのだ。
離婚のたびに修羅場を演じて、泣いているおふくろを見ながらいつも、子どもでいることは罪悪なのだと悟っていた。一秒でも早く大人になることを待ち焦がれた。
小さい頃からずっと、子どもらしくない子どもと言われて育った。
でも真実は、いまだに大人になりきれない、どうしようもないガキ。
髪の毛を金色に染めて、どんなに一人前の男ぶってふるまっても、所詮ただの16歳の高校生。
そして、詩季子さんは20歳の大学生。
これじゃあ、彼女をあんなふうに泣かせた男の幻影に、宣戦布告することすらできない。
たぶん詩季子さん自身も気づいていないのだ。彼女の心の中に住んでるのは、今でもそいつだけだということに。
毎日カウンターに座ってこうして他愛もないおしゃべりをし、時おりこっそりといたずらな視線を向けてくれるようになっても、彼女が俺を男と見てくれたことなど、本当は一度もない。
松任谷由美の曲が流れると、さみしそうな顔になる彼女に、俺は黙ってコーヒーを淹れる以外の何ができるだろう。
「何の本を読んでたの?」
詩季子さんは、黙り込んでしまった俺から視線をそらして、カウンターの隅に読みかけで置いてあった本を手に取った。
「『相対性理論』?」
「こんど文芸部の部誌に載せる小説の、参考にしようと思って」
「どんなお話を書くつもり?」
「まだ決めてへんけど、相対性理論とワームホールを利用して、数万年前の過去に行く話にしようかなと」
俺はSFと聞いただけでお手上げの詩季子さんに、まず「高速で運動する物体は静止している物体より時間がゆっくりと進む」ことを、なるべく簡単に説明した。
「電車みたいな長い乗り物に乗っている人がいるとするよ。
その人が懐中電灯を灯すと、その光は秒速30万キロメートルの速さで進んでいく。ところが、その電車をどこかの山の上から眺めていた人がいたとすると、 その光は乗り物の進行方向に、光速より乗り物の速さ分だけゆっくりした速度で進んでいくように見える。でもその同じ光は、乗り物の中にいる人には、ちゃんと光速で進んでいるように見えている。
つまり、乗り物の中の時間は、外の時間よりもゆっくり進んでいることになるってわけ」
彼女の目はこの時点ですでにクエスチョンマークになっている。
うーん、こりゃもっと噛み砕いた表現に書きなおさないと、文芸部の連中にこてんぱんに批評されることになりそうだ。
眉根をよせて考え込んでいる彼女に、さらにもっと具体的な例をひく。
「たとえば、光の速度に限りなく近いロケットで宇宙旅行をしてきた人が、数年後に地球に帰還すると、地球では数百年の年月がたっていた。……ちょうど、浦島太郎のおとぎ話と同じことが、相対性理論によると起こりうるんや」
「ふうん」
『異なる速度で移動する者は、異なる時間を持っている』
同じ高校生でも、たとえばイサと俺では時間の流れがまったく違うし、それはコウやアキにも言える。
彼ら三人はそれぞれの思いに囚われて前に進めず、傍観者の俺にはまったくもって焦れったいばかりなのだが、それでも羨ましいのは、彼らは同じ時を共有しているということだ。
俺と詩季子さんには、それがない。
いったい俺が、どこの宇宙でもたもたしている間に、彼女は大人になって、別の男に恋をしてしまったのだろう。
俺と彼女の間に横たわる隔たりは、どこまで行っても埋まらないのか。
店の外では、桜の花びらが砂時計の砂のように、柔らかい時を地面に降り積もらせているというのに。
「相対性理論はイマイチわからへんけど、祐樹くんが書いたらきっと素敵な話になるよ」
そう言って、無邪気に俺を見上げる黒い魅惑的な瞳。その瞳で見つめられると、いつも心臓が破裂しそうになる。
「詩季子さん」
唐突に呼びかけた。
そう。こんなところで行き詰まってる場合じゃない。
子猫だって、時が来れば高みへと跳躍する。
あなたの心がどんな重力場の歪んだ時空を漂っていても、俺はいつか、必ず追いかけて捕まえてみせる。
「もう少し、そのままで待ってて。俺、急いで大人になるから」
そう宣言して、カウンター越しに身を乗り出すと、呆気にとられている彼女の肩をぐいっと引き寄せた。
俺たちは万有引力の法則に逆らわず、熱いキスを交わした。
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