インビジブル・ラブ


和風


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Chapter 3-1



 幽霊の朝は早い。

 ……笑い話じみているが、本当のことだ。
 六時ちょっと前になると、俺はネコ缶を開けて、でっぷりとした三毛猫の皿に入れてやる。
 少しでも遅れたら、こいつがまたカリカリカリカリ、ソファの背板をひっかいて、うるさいのなんのって。
 エサの準備が整うと、ふんぞりかえって待っていたフー公は、のしのしと近づいてきて食べ始める。そのふてぶてしさはハンパじゃない。
 俺のことをライバルか何かと思っているらしい。それもそのはず、こいつは三毛猫のくせにオスなのだ。
 愛海の膝を独り占めしたときは、さも勝ったという顔をして俺を見ていやがる。
 腹が立って、しっぽや鼻を思い切りつまんでやると、世にも恐ろしい叫びを上げて俺に飛びかかってきて、すかっと壁に衝突している。
 まあ、なんだかんだ言って、俺もけっこう楽しんでやっているのかもしれない。

 出勤か非番かにもよるが、だいたいは六時半になると、愛海のためにコーヒーを沸かしてやる。
 この頃は、俺の『霊指』の能力も向上してきて、コーヒーの粉や水も自分でセットできるようになった。一度だけ、水をカーペットの上にぶちまけて、思い切り愛海に叱られるという失敗もあったが。
 何も知らないヤツが愛海の部屋に入ってきたら、さぞたまげるはずだ。ネコ缶やコーヒーカップが、ふわふわと宙に浮いているのだから。
 幽霊が朝から、かいがいしく住人の世話をしているなんて、まさか誰ひとり想像もしないだろう。

 俺の名は、水主淳平。ケチな結婚詐欺師。
 たくさんの女をだまし、挙句の果てに路上で刺されて、みじめな一生を終えた。
 おまけに、死者のリストにも載っていないため、天国にも地獄にも行く場所がないという。
 そんなワルが、死んでからひとりの女に恋した。それが南原署捜査一係の刑事の小潟愛海だった。
 正直、自分がこれほど女のために尽くせる男だとは、思っていなかった。
 金を騙し取るために女にやさしくすることはあっても、何の見返りもなしに、そうしようと思ったことは一度もないからだ。
 だが、いくら恋焦がれても、生きている人間が、幽霊相手に本気になるはずがない。
 いつか、愛海は生身の男を愛するようになるだろう。そして、それを幽霊は、なすすべなく見つめることになるのだ。
 それが、俺の運命。
 愛海を真剣に愛して、そして報われないことが、俺が生きている間に犯した罪に対する、天が与えた罰なのかもしれない。

 目覚ましが鳴り、愛海が眉をひそめる。長い睫毛がかすかに震える。
 今日も、寝ぼすけの彼女を起こすための、楽しい戦いが始まる。
 さあ、今日は彼女の体のどこを触って、目を覚まさせてやろう。
「愛海。起きろ」
 まず手始めに、俺は彼女の唇に、とびきり熱いキスをした。
 報われなくてもいい。今は、愛海のそばにいられるだけで十分だ。

「おやまあ、愛海。おはよう」
 南原署に出勤すると、愛海の同期で少年課勤務の石崎由香利が、廊下で走りよってきた。
「おっどろいた。近ごろ、全く遅刻しないじゃない。いったいどうしたの?」
 ……俺がいなかったとき、こいつがどれほど遅刻ばかりの毎日だったか、想像がつく。
「ふふん。少し本気を出せば、そんなもんよ」
「しかもばっちりメイクまでキメて、キレイ度、当社比180%――さては、いい男ができた?」
「仕事よ、仕事。仕事に燃えると、女は美しくなるの」
「あんたの海綿アタマから、そんな答えが出てくるとは思わなかった」
 由香利はぼうぜんとしている。
「絶対に、この頃のあんた、人間が変わったわ」
 彼女と別れて、二階への階段を上がるとちゅう、俺は冷たく言った。
「ほう。無遅刻なのは、俺サマのおかげじゃないのか」
「ごめん」
 愛海はぺろりと舌を出した。
「だって、まさか、幽霊のおかげだなんて言えないもん」
 やれやれ。毎朝あれだけ苦労してやっているのに、俺はその程度の存在か。
 幽霊ってのは、まさしく日陰の身だ。
 ますます不機嫌になった俺は、霊指の力を最大限に発揮して、愛海の身体を後ろからぎゅっと抱え込み、急所を触ってやった。
「ひゃん!」
「毎朝、こうやって起こしてもらってるのは、誰だ?」
「や、やめ……、ああん、淳ぺ、い、か、かん、感謝してます。ほんとだってば」
 階段の踊り場で、ひとりで身体をよじっている愛海を、一階と二階の男性職員たちが目をむいて見ている。

 刑事課の部屋に入ると、めずらしく大勢の刑事たちが、たむろしていた。
 このところ、目だった事件がないと見える。
 南原署は、刑事課、交通課、警備課、少年課など、いくつかの部署に分かれている。
 愛海が属する刑事課は、捜査一係から三係、鑑識係などに分かれているが、分かれているといっても、南原署くらいの中小の署では、同じ部屋を机で分けているだけ、ということが多い。
 捜査一係は殺人・強盗・放火などの強行犯の諸捜査。捜査二係は、主に知能犯関係。そして、捜査三係は、こそどろや万引き、ひったくりなどの窃盗犯を扱っている。
 俺が起こした詐欺事件は、本来ならば捜査二係が扱うのが通例だ。ただ俺の場合は殺人事件に発展したので、愛海のいる捜査一係が担当しているわけだ。
 もちろん捜査では、一係・二係の垣根を越えて、互いに協力し合うことになる。
 刑事と言っても、ドラマみたいに、いつも捜査に出ているわけではなく、一日机にへばりついて延々と事務をやっていることも多い。
 だが、このところ大がかりな捜査を必要とする犯罪が続き、愛海たちは席を暖める暇もなかった。それらもひと段落して、ようやく息がつける日々が始まったところだった。
「小潟くん」
 木下警部補が、禿げかけた頭をなでながら、愛海を呼んだ。
「そろそろ、俺たちの専従事件に戻るとしようか」
「はい!」
 愛海はうれしそうに、席から跳ね上がった。
 木下と愛海の専従事件とは、もちろん、『水主淳平殺害事件』のことだ。

 発生から一年半経って、今や俺の殺害事件の捜査は、まったくの暗礁に乗り上げてしまった。専従捜査員は、木下と愛海のたったふたりになり、予算も去年に比べれば大きく削られた。
 愛海は、このことにひどく責任を感じているらしい。
 被害者である俺自身は、犯人の逮捕など望んでいないのにな。事件が解決すれば、俺と愛海のつながりが切れてしまうじゃないか。
「まだ、事情聴取に至ってない被害者が三人いるな」
 木下警部補は、愛海をジロリとにらみ、責める口調で言った。ねちねちとイヤミったらしい。
 冗談じゃない。この半年間に、彼女の手柄で、いったい何人の事情聴取が実現したと思ってるんだ。
 ヤツの禿げ頭を、『霊指』の力でピンとはじいてやりたかったが、我慢した。万が一にでも、俺の存在がバレて騒ぎになったら、やっかいなことになる。
「ええと、その三人のうち、この人とは連絡が取れてます」
 それでも愛海は、律儀に説明を始めた。
「説得はしてるんですけど、こちらまで出てくるのが、どうしても無理みたいで」
「三橋さゆり、か」
「実家が秋田県にある老舗の温泉旅館で、家族の手前もあって、警察の事情聴取には行きづらいらしいんです。ただ、こちらから行くなら、なんでも話すとは言ってくれています」
 三橋さゆりの名前を最初に愛海から聞いたとき、俺は驚いた。あいつが故郷に帰っているとは、信じられなかった。
 さゆりは、実家の温泉旅館を継ぐのがイヤさに、都会へと逃げ出してきた女だったからだ。

 三橋さゆりは、俺の詐欺師歴の中で、一番後味の悪い思いをした獲物だった。
 彼女のもとを去ってからしばらく、俺は良心の呵責にさいなまれた。
 本気で詐欺師をやめようと思ったくらいだ。だが、実際にはやめなかったところを見ると、心底から悔いたわけではなかったのだろう。
 さゆりは、老舗旅館のひとり娘として生まれ、親の後を継いで女将になるようにと期待されていた。
 だが、彼女はその運命に抗い、親と大ゲンカの末、大学入学を理由に、強引に都会に出てきてしまった。
 俺と知り合ったのは、大学三年のときだ。
 俺の腕の中で、さゆりはしょっちゅう、こぼしていた。旅館の女将は大変な仕事だ。親を見ていて、よくわかる。私は、旅館の跡継ぎになんかなりたくないと。
 俺はそんな彼女に向かって、株の損失を補填するために、すぐにまとまった金がいると嘘八百を並べ立てた。
 さゆりは俺のために、実家の親に金を借りてくれた。ケンカした親に頭を下げるのは、つらいことだったろう。もちろん、そうなることを俺は計算していた。
 そして、その金を持ってすぐさま、彼女の前から行方をくらましたのだ。
 気立てのいいウブな田舎娘のさゆりにとって、俺ははじめて身体を交わした男だった。
 俺の裏切りに、彼女がどれほどショックを受けたか想像もつかない。大学を卒業してすぐ、あれほど嫌がっていた実家の家業を継ぐことにしたというのだから。
 おそらく、親から莫大な借金をしたせいで、これ以上のわがままが言えなくなってしまったのだろう。
 俺はどうしても、さゆりに謝らなければならなかった。
 俺が騙し取った二百万円のせいで、あいつの人生は大きく狂わされてしまったんだ。

「家族の手前があるので、客のふりをして来てくれたら、時間を取って何もかも話すと言ってくれています」
 愛海は必死に、上司を説得していた。
「なんとか、こちらから秋田県に出向くわけには行きませんか」
「老舗の高級旅館なんだろ。二人分の宿泊費だけで、いくらかかると思ってるんだ。総務のあの鬼課長から、そんな出張費が取れるはずないだろう」
「じゃあ、ひとりなら?」
 初老のベテラン警部補と新米の女刑事との間に、その瞬間、見えない火花が散った。
「そりゃあ、年功から言っても、俺が行くしかないだろうな」
「何言ってるんですか、心打ちとけて話しやすいのは、絶対に女性同士です」
「じ、自分だけ高級旅館に泊まって、ハモづくし料理に舌鼓、だなんて思ってないか」
「き、木下さんこそ。定年前の思い出作りに、のんびりラジウム温泉、なんて言うんじゃないでしょうね」
 どうやら双方、絶対にゆずれないバトルに突入したようだ。まあ、俺はゆっくり高みの見物でもするか。
 二時間後。
 あみだくじにジャンケンにババぬき。数々のバトルを制して、秋田県出張をモノにしたのは、もちろん愛海のほうだった。
 翌日、さっそく出発が決まる。
 結局、木下警部補もいっしょに行くことになった。刑事の出張は、ふたり一組で行くことが慣例らしい。とは言え、しみったれた予算の関係で、バトルに負けた警部補の宿泊先は、ひとりだけ駅前の安旅館ということになった。
 もちろん俺は高級旅館のほうに同行だ。幽霊には、旅費も宿泊費も要らないしな。

 愛海はその夜、鼻歌を歌いながら旅支度を始めた。
「しゅっちょう、しゅっちょう、うれしいな」
 まるで、小学生の遠足だ。
 着替えや化粧ポーチを、大きめのワンデイバッグに次々と詰めていく。
「私ね。子どものとき、刑事って温泉や観光名所に、いつも出張に行ける職業なんだと思ってた」
 それって、どう考えても二時間ドラマの見すぎだろう。
「まさか、それで刑事になったというんじゃないだろうな」
「あれ、なんでわかったの」
 ……どうせ、そんなこったろうと思った。こいつが刑事になる動機なんて。
「あ、そうだ。肝心なことを忘れてた!」
 突然、ブラジャーやパンティをまき散らして、愛海は飛び上がった。
「留守中のフニちゃんのエサ、どうしよう」
「ネコなんて、外に放り出しといたら、自分でなんとかするだろう」
「ひどい、そんなの可哀そうだよ」
 ウルウル目になって、俺をにらむ。
「やっぱ、いっしょに連れていく」
「ばかっ。出張に、こんなデブネコを連れていく刑事がどこにいる」
 ドライフードと水を多めに置いていくことで、ようやく納得させた。
 フー公のヤツ、置いてきぼりにされることがわかるのだろう。心なしか、しょんぼりと元気がない。
 ざまあみろ。日ごろ俺と愛海の仲をじゃまする報いだ。

 次の日、南原署に出勤して、総務で出張費を受け取ってから、愛海はさっそうと新幹線の駅に向かった。
 木下警部補とは別行動。現地で落ち合うことになっている。
 新幹線の駅に着くと、愛海はさっそくキオスクで弁当とお茶、それに冷凍みかんを買い込んだ。
「冷凍みかんか。なつかしいな」
「小学校の給食で、これ大好きだったの」
「俺は、旅ばかりだったからな。夏は、必ずこれを食べてた」
 女たちから金をせしめて、別の土地へ逃げる途中。俺にとって、冷凍みかんの冷たさと酸っぱさは、勝利の余韻と、ほんの一滴の罪悪感が、ないまぜになった味だった。
 東北新幹線の車中で、愛海はずっと食べていた。車内販売が通るたびに呼び止め、名産のお菓子を買い込んでは、ぼりぼり食べる。車窓の景色を見ながら、「森がきれい〜」とおおはしゃぎする。
 これだけ出張を満喫する刑事もいないだろう。

 秋田県に着いて、新幹線から在来線に乗り換えて、一時間あまり。
 小さな駅舎を出ると、ヒグラシの鳴き声に四方から包みこまれた。
 よろずやや、自転車屋などの店が何軒か。そして小さな旅館がある。人通りはまばらだ。
 少し待つと、旅館からの送迎ワゴンがやってきた。
 ワゴン車は、うねうねと蛇行する渓谷ぞいの道を走った。窓から見えるのは、ただひたすら、したたるような濃い緑だ。
「すごい」
 愛海は口をぽかんと開けて、迫ってくる手つかずの自然に、ただただ圧倒されている。
「愛海も、都会生まれなのか」
「うん、埼玉県。車がびゅんびゅん走る国道のそばで育ったの。だから、こういう自然がいっぱいの場所に来ると、鳥肌がたっちゃう」
 幽霊になってからの俺にとって、自然は「恐ろしい」ものになった。
 体というものを持たないから、境界がなくなって、どんどん自分というものがぼやけ、自然の中に溶け出してしまいそうになるのだ。
 よほど強い念を持たないと、ひとりではやっていけない。
 都会なら、よくも悪くも、大勢の人間の念がうずまいている。それに寄りかかっていれば、なんとか自分を保てる。
 幽霊は人の集まるにぎやかな場所を好むと言うが、その気持がよくわかる。
 要するに、俺たち幽霊はみんな寂しがり屋なのだ。
「お客様は、小説家でいらっしゃるそうですね」
 後部座席でひとりでブツブツしゃべっている愛海のことが気味悪くなったのか、運転をしている旅館の番頭らしき男が、わざと明るく話しかけてきた。
「あ、はい、そうです。執筆と取材のために、こちらに滞在しようと」
 愛海は調子を合わせる。刑事という正体を隠すために、三橋さゆりと前もって打ち合わせて、そういうことにしてあるのだ。
「そのように、うかがっておりましたので、離れの一番静かな部屋をお取りしましたから」
「ありがとうございます。あ、それから、出版社の担当者がときどき出入りすると思いますが、よろしくお願いします」
 出版社の担当者とは、もちろん、木下警部補のことだ。
 百歩ゆずっても、出版関係どころかヤクザにしか見えない男だが、まあしかたないだろう。

 風情のある日本庭園に入ったかと思うと、送迎車は古めかしい立派な玄関の前で停まった。
 車寄せで愛海が降りると、迎えに出てきた仲居たちとともに、ひとりの上品な女が丁寧に頭を下げた。
 三年ぶりに見る、三橋さゆりだった。





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