インビジブル・ラブ


雑踏3


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Chapter 5-3



 年末は、あっという間に過ぎていった。
 連続強盗事件の犯人が捕まり、送検前の取調べに捜査一係は忙殺されていた。そのうえ、酒の席がらみの傷害事件がたんまり舞い込んできて、食事を摂る暇もないほどの、てんてこまいだった。
 刑事は気の休まる時がない職業だとは知っていたが、さすがに、こういう現場を見ると同情を禁じえない。家族持ちは、家庭サービスには相当苦労しているだろう。
 おまけに、家族持ちでもない愛海は、クリスマスイブも大晦日も当直に当たってしまった。
「淳平がいてくれて、今年は楽しかったよ」
 愛海は、しみじみと言った。
「去年のクリスマスは、ひとりでコンビニ弁当を食べて、泣けてくるほど寂しかった」
「今年もコンビニ弁当じゃないか」
「でも、ひとりじゃなかったもん」
 幽霊で体もない俺だが、朝から晩まで愛海のそばにぴったりといられる。愛海みたいな超多忙な女には、俺みたいな恋人が必要なのかもしれないな。

 正月二日と三日にやっと休みをもらった愛海は、実家に帰った。
 東京に近い埼玉県にありながら、俺と同居するようになってから愛海が帰省したのは初めてだ。
「うちの親は年食ってるんだよ。私は四十歳のときの子どもだから」
 とは聞かされていたが、どうしてどうして、声に張りのある、めちゃくちゃ元気な老夫婦だった。さすがに愛海の親だけある。
 フーちゃんにも初めて会った。年老いて寝てばかりいるが、堂々たる風格の三毛猫だ。
 三人の兄たち一家も集合して、子どもたちが走り回るたびに古い家が揺れ動くほどの賑やかさだ。
 愛海は七人の甥っ子、姪っ子たちからお年玉をせびられ、悲鳴を上げていた。
 笑い声の絶えない家の中、大勢の家族に囲まれて幸せそうな愛海を、俺は邪魔にならないように、ただじっと隅からながめる。
 俺も、もし親父が殺人犯として誤認逮捕されたりしなければ、今頃こんな新年を送っていたのだろうか。姉貴の子どもにお年玉をやるような、まっとうで平凡な人生が送れたのだろうか。
 そんな不毛な感慨にふけっていると、
「愛海。おまえ結婚とか考えてるのかい」
 こたつでテレビを見ていた愛海に、あらたまった調子で母親が話しかけた。
「捜査のことで頭がいっぱいで、全っ然考えてないよ」
「忙しいのはわかるけどね、そろそろ身を固めてくれないと、父さんも母さんも、もうあんまり長くないよ」
 母親は、きれいに剥いたみかんの房を愛海に差し出して、しんみりと言った。
「せめて、付き合ってる人とかは、いないのかい」
 愛海は受け取ったみかんを頬張ると、もごもごと答えた。
「……いるよ。好きな人なら」
 そして、チラリと俺のほうを見る。
「ほんと?」
「でも、結婚とか、あんま考えてない」
「まさか不倫とか、道ならぬ恋じゃないだろうね」
「こいつが、そんなことするものか」
 老いた父親が、母親の心配を一笑に付した。「そういうめんどくさいことに首を突っ込む子じゃないって」
「でも女ってのは恋をすると、めんどくさいことに平気で首を突っ込んじゃうものなのよ」
 愛海はその会話を聞いて、けらけら笑っていた。
 その夜、泊まっていけという親たちの勧めを振り切って、愛海は自宅に戻った。
「なんで、泊まらなかったんだ」
 帰りの夜道で、俺は訊ねた。
「だって、淳平が可哀そうなんだもん。部屋の隅できゅうくつそうで」
「俺は、大勢のガキに押しつぶされたって、平気だぞ」
「それに……私ばっかり楽しんでたら、なんだか悪いし」
 こいつ、俺が自分の家族を思い出していたことを、感づいていたのか。まったく、のほほんとしているくせに、妙なところで鋭いヤツだ。
 愛海は、そっと手を差し出してきた。俺はその手を霊指で握り返す。
「めんどくさいことに首を突っ込んでるね。私たち」
「まったくだ。幽霊と人間の組み合わせなんて、究極の道ならぬ恋だ」
「それでも……ダイスキ」
 最後のことばを消え入るように言って、愛海は照れてるのか、腕をぶんぶん振り回した。
 おいおい、せっかくのコクハクなんだから、感動の余韻を味わわせてくれよ。
「俺もだよ」
 思いっきり愛をこめて、愛海の耳にささやく。
 俺たちだけのこんな時間が、ずっと続けばいいのにな。


 オーディションが終わった直後は、なんの音沙汰もなかった区民ミュージカルだが、1月の後半から、動きが加速し始めた。
 上演は7月だから、まだ半年もあるのにと思うが、それでも時間は足りないらしい。出演者に超多忙な売れっ子がいるためか、スケジュールの調整は難航しているようで、事務局からは二回ほど日程の変更を連絡してきた。
 最初の集まりとして、出演者全員の顔合わせが行なわれたのは、2月の初めの日曜日だった。
 本番の会場となる区民ホールの広い会議室に入ると、まず台本が渡された。
 それから、集まった30人の合格者と8人のプロ俳優たち、そして十数人のスタッフがひとりずつ挨拶をする。
 小島というプロデューサーが、これからの練習について説明をした。
 全員が集まることはあまりなく、舞台での通しのリハーサルは、本番前日のゲネプロを合わせてたったの二回。あとは場面ごとの細切れの練習となる。だから、いつも全体の構成を考えながら演じてほしいという話だ。
 確かに、休日を中心とした素人の練習に、多忙なプロの俳優たちがいちいち付き合ってはいられない。つまり、それだけ工藤麻季と出会うチャンスは少ないということだ。
 それを聞いた愛海は、がっかりした顔をしていた。何のために、ここまで苦労してきたんだという気持だろう。
 そのとき、会議室のドアが開いた。
「遅れてすみません」
 にこやかな笑顔で入ってきたのは、工藤麻季だった。
 彼女を見たとたん、一瞬、息が止まった。もちろん幽霊の俺が息などしてるわけはないが。
 七年前、腕の下に組み敷かれて恥ずかしげに俺のキスを受けていた少女は、いまや咲き誇る大輪のバラだった。
 工藤麻季の後に、高見リカコが入ってきた。「私たちは別格だから遅れて当然」といわんばかりの微笑も、小気味よいほど堂に入っている。
 超有名人のふたりの登場で、しばらくざわついた会議も、いよいよ本題に入った。各出演者の配役発表だ。
 まず、だいたいのあらすじは、こうだ。
 小間物屋で働いている天涯孤独の少女フィオリーナは、店の女主人や金持ちの客たちにいじめられながらも、けなげに日々を過ごし、町の子どもたちにも慕われている。
 やがて、その地方を治める領主の息子が彼女を見初めるが、たくさんの邪魔が入る。だが妖精や町の子どもたちの応援を得て、最後はめでたく幸せな玉の輿に乗る。
 オーディションのときも審査員が話していたが、愛海は『妖精』役にばってきされた。
 台本を見て驚いたが、なんとひとつもセリフがない。領主の息子とフィオリーナにそれぞれ恋の魔法をかける場面は、動きだけで演じなければならないのだ。
 素人がやるにしては、かなりの難役だ。
 しかし、愛海は配役を見て喜んだ。工藤麻季演ずるフィオリーナとふたりきりの場面がある。ということは、必ず練習でいっしょになる。彼女に接触する大チャンスだ。
 顔合わせが終わったとき、驚いたことに、その工藤麻季が自分から愛海に近づいてきた。
「はじめまして。小潟さん」
 いつもテレビ画面で見ている女優がナマで目の前にいるという状況に、愛海は完全に固まっている。
「高見社長から聞きました。現役の警察官でいらっしゃるそうですね」
「は、は、はい」
「舞台でごいっしょできるのを楽しみにしています」
 それまでプロデューサーたちと雑談していた高見リカコが、即座に振り向いた。
「麻季。行くわよ」
「あ、はい」
 麻季は「それじゃ」と笑みを残して立ち去った。
 リカコは愛海を鋭くにらみつけると、麻季の後から部屋を出て行く。
 これで、ようやくはっきりした。
 麻季は愛海が警察官だと知って、接触を図ろうとしている。
 だが、リカコは彼女を絶対に警察に近づけたくない。だから、愛海を事あるごとに目の仇にしているのだ。
 高見社長はやはり何か後ろ暗いものを隠し持っている。これは同じ裏の世界の住んでいた者としての勘だった。

 3月に入ると、愛海は週末に呼び出された。行ってみると、レッスン場には振付師がひとりいるだけ。出演者は愛海ひとりだった。
 愛海の出番は、小間物屋の仕事場でフィオリーナに魔法をかける場面と、道端でうたたねをしている領主の息子に恋の魔法をかける場面だ。どちらも相手役の動きはほとんどなく、愛海がひとりで舞台を動き回ることになる。
 考えれば、これほど人目を引く役もない。
「小潟さん、楽しい気分を出してね。たとえばこんなふうに」
 レオタード姿の振付師(言っておくが、男だ)は、お手本を示しながら、くるくる踊り始めた。
「出だしはこんな感じで、シャッセ、シャッセ、アティテュード。それからピルエットを入れてみましょうか」
「え。ええ?」
 バレエのことなど何も知らない愛海は、ただ呆然とするばかりだ。
「それじゃあ、やってみて」
 愛海はコーチの後について、ドタバタと飛んだり跳ねたりし始めた。
「うーん、動きはコミカルでいいんだけど、もうちょっと美しく」
 振付師は平気で、次々にむずかしい注文をつけてくる。
「あ、そうそう。どうせコミカルに決めるなら、ここでピルエットをやめて、側転を入れるのもアイディアね」
「ひええ」
 で、数秒後。
 側転をしそこねた愛海は、つぶれたカエルみたいに床にべったりと伸びていた。
「あら、困った」
 振付師は眉をひそめて、愛海をじろじろ見る。
「セミプロ並みの人だから、気合を入れて振り付けをやってと頼まれているのに」
「せ、セミプロなんて。いったい誰がそんなことを言ったんです」
「高見プロダクションの社長さんよ。すごくあなたに期待なさってた」
 ――リカコのしわざか。
 むずかしい振り付けを要求して、愛海がそれに応えられければ、配役にケチをつけるつもりなのだろう。
 自分から音をあげるのを待っているのかもしれない。愛海のほうから辞退させるように仕向けるわけだ。
 それを聞いた愛海は、すっくと立ち上がった。
「私、猛練習しますから」
 いつもの負けん気魂に火がついたらしい。その剣幕に、振付師はたじたじとなった。
「あ、あまり無理をして、ケガしても」
「いいえ、体力には自信あります。次の練習日はいつですか」
「じ、じゃあ来週の同じ時間に」
「それまでに、絶対できるようになってきます」

 その日から、愛海のマンションの部屋は、ダンスのレッスン場と化した。
 ソファやテーブルを全部片付けて、なんとか側転ができるだけのスペースは確保した。
 どたんばたんが始まると、フー公は踏みつぶされないように、あわててベッドの下にもぐりこむ。賢明な判断だ。
 しかし、黙って立っていれば絶世の美女の小潟愛海が、これほどの運動オンチだとは思わなかった。
「ひどいよ、人が必死なのに」
 空中に浮かんで笑いこけている俺に、愛海はうらめしそうな視線を寄こす。
「私、これでも走るのは早いんだよ。でも、マット運動とか器械系はトラウマがあるの」
「なんだよ、そのトラウマって」
 思わず訊ねると、愛海は大きな目をうるうるさせ始めた。
「五年のとき、飛び箱の三段が飛べなくて、好きだった男の子に笑われた」
「おまえ、三段なんて、飛ぶなと言われても自然と飛んじまうもんだろう」
「できる人間には、この苦しみはわかんないよーっ」
 ちなみに、中学のときは鉄棒の逆上がりができなくて、放課後も居残りをさせられたらしい。今でも夕焼けを見ると、そのときを思い出して涙ぐんでしまうと言う。
 しかし、これでは、側転ができるようになるなど、夢のまた夢だな。
「わかったよ。俺がなんとかしてやる」
「ほんと?」
「いいから、両手をバンザイしてまっすぐ立ってろ」
「え、え……キャーッ」
 大騒ぎする愛海の腰を霊指の力でつかむと、グルリと回転させてやった。人間の補助者なら絶対にできないワザだが、体のない俺なら何でもできる。

「すばらしい!」
 次の週のレッスン日に、振付師の前で、愛海はみごとな側転を披露した。
 もちろん、幽霊の補助つきでだ。
 けれど、愛海本人も努力した。側転以外の、むずかしいステップや回転なんかは、暇さえあれば練習していたもんな。
「小潟さん、こないだとはまるで別人だわ。あのひどいのは、何かの冗談だったのかしら」
「あははは。調子が悪かっただけです」
 その日は、二通りの振り付けをもらって、練習してくることになった。領主の息子の場面とフィオリーナの場面では、微妙に振り付けが違うらしい。セリフを覚えなくてよい代わりに、こういうところで頭を使うわけだ。
「淳平がいれば、どんな振り付けでもラクラクだね」
 帰りの道すがら、愛海は上機嫌だった。
「私が小学校のときも、いてくれたらよかったのに。そしたら飛び箱だって、逆上がりだってへっちゃらだったのにな」
「馬鹿言え。そんな色気のないガキ、誰が助けるか」
 もし生きていれば、俺は愛海より六才上になる。
 愛海が飛び箱三段と格闘していた五年生のころと言えば、俺は親父が死んで高校を中退したあたりだ。
 部活に夢中になって、友だちと騒いで、デート費用を稼ぐためにバイトして。平凡だけど楽しかった高校生活を、あのとき俺は突然奪い去られた。
 警察だけではなく、世の中のすべてを怨んでいた。あの頃、もし小学生の愛海と道ですれ違っていたとしたら、彼女にもその憎悪の目を投げつけていたかもしれないな。

 三度目のレッスンで、愛海を待っていたのは振付師だけではなかった。
 なんと、フィオリーナ役の工藤麻季がディレクターズチェアに座って、微笑んでいたのだ。
「おはようございます」
「く、工藤さん」
 愛海は、予想もしない事態に、すっかりうろたえている。
「ロケ先がひどい吹雪で、飛行機が欠航してね。スケジュールがぽっかり開いたのよ。私も今日のお稽古に加えてもらえる?」
「も、も、も、もちろんです」
 高見リカコはいない。たぶん、麻季がここへ来たことは、社長も知らない突発事態なのだろう。
 これは、工藤麻季とじっくり話す、滅多にないチャンスだ。
 だが、肝心の愛海はそれどころじゃない。すっかり舞い上がっている。まるでアイドル歌手のサインをもらうファン状態だ。
「それじゃ、シーンの頭からお願いします」
 振付師は、愛海を部屋の左隅に立たせた。舞台の下手の袖、ということだ。麻季は椅子を部屋の中央に運ぶと、浅く腰をかけて、両手を膝の上に置いた。
 次の瞬間、麻季の表情が一変した。フィオリーナになりきったのだ。
 膝に置いていた両手をすっと持ち上げ、細かく動かし始めた。針で何かを縫っている演技だ。
「あーあ」
 しばらくして、その両手をぽんと前に突き出す仕草をする。そこには何もないはずなのに、それだけで、縫っていたものをテーブルに置いたことが、ちゃんとわかるのだ。
 両腕を上げて欠伸をし、目をこする。
「明日までにレースのポシェットを五枚だなんて、無理よ。そんなの無理」
 生き生きとした表情で話す麻季の顔は輝いて見えた。そこだけ、まるでスポットライトに当たっているようだ。
 こいつはやはり、天性の女優なんだ。
 フィオリーナは徹夜の疲れがたたって、居眠りを始めた。
 そこへやってきたのが、愛海扮する、いたずら好きの妖精だ。
 小間物屋の仕事場に入り込み、好き勝手に跳ね回っていたが、眠っているフィオリーナに気づく。
 そして彼女が縫っていたポシェットをしげしげと眺め、代わりに完成させてあげようと、持っていた魔法の棒をくるくると振り回し始める。
 ところが、どこをどう間違ったか、魔法はポシェットにではなく、フィオリーナの心臓に当たってしまう。
 あわてて妖精が逃げ出したあと、はっと目覚めたフィオリーナは、うっとりした表情で胸を押さえながら、恋の訪れを待ち焦がれる心を、情感たっぷりに歌い上げるのだ。
 愛海も一応は振り付けどおりの演技をしたが、やはり麻季の比ではなかった。
 目を閉じ、後ろにいる愛海の姿はまったく見えないはずなのに、麻季は愛海の動作に合わせて、体を動かしている。
 とても、初めての合わせ稽古とは思えなかった。
「すごいわ。麻季さん」
 振付師が、惜しみない拍手を送った。「まるで、小潟さんの振り付けを、最初からご存じだったように見えるわ」
「そんなことありません。小潟さんが上手に動いてくれたからです」
 麻季は微笑みながら、愛海を見た。
「それに、すばらしい側転。警察官は、運動神経が発達してらっしゃるのね」
「そ、そんなことありませんけど」
 そうだ。全然そんなことはないぞ。
「柔道や合気道も、有段者でいらっしゃるのでしょう?」
「いえ、警察学校で一応習いますけど、段を取るなんて夢のまた夢」
 麻季は巧みに警察の話題を持ち出し、愛海の反応を探っているようだった。




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