インビジブル・ラブ


ピアノ


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Chapter 7-4



 俺は一晩中、涼香の体を抱きしめた。
 ときおり口づけし、髪の毛をやさしく梳いてやった。
「愛してる、涼香」
 とささやきながら。
 ああ、これが愛海だったら、どんなに幸せだろう。だけど、俺は涼香のもとにいると決めた。
 結婚詐欺師の誇りにかけて、俺は涼香を騙しぬく。心から愛しているふりをし続ける。
 それが、俺にできる、たったひとつの罪のつぐないだ。
 涼香は気だるそうに目を開け、「もう、朝?」とぼんやりした声で言った。
「ピアノの練習しなきゃ」
「ダメだ」
 俺はぎゅっと、彼女の体を逃がさないように捕まえた。
「今日一日はオフにして、俺のことだけ考えろ。ピアノのことは忘れて、思い切り羽根を伸ばすんだ」
 彼女は素直に言われたとおりにした。
 ルームサービスを頼み、ゆっくりとカプチーノを飲む。時間をかけて風呂に入り、新聞を読みながら俺と他愛もない昔話に花を咲かせた。
 だが、そのあいだも涼香は、ときどきピアノのほうをチラと見る。何か大事なことを忘れているという、あいまいな表情を浮かべながら。
 いくら禁止しても、涼香の心は決してピアノから離れられないのだ。
 ついに俺は折れた。
「バラード1番を弾いてくれないか」
 俺は彼女の肩を抱きながら、ピアノの前に座らせた。
「聴衆なんか忘れるんだ。俺だけに聞かせると思って弾いてくれ」
 涼香は、最初のユニゾンを弾き始めた。ひどく苦しそうに。まるで、おずおずとためらいながら舞台に上がるバレリーナのように。
 そして、四分の六拍子の第一主題に入ると、彼女の手はなめらかに動き始めた。悲しくせつない旋律だ。昔の恋を思い出しては溜め息をついている女のように。
『ピアノが私を愛してくれないの』
 と泣いていた涼香の震える肩を思い出す。
 続く第二主題は、雲間からのぞく青空を見上げるような、古い悩みから解放されたような、すがすがしいメロディ。
 この二つの主題はドラマチックに形を変えて、何度も出てくる。人間の心はこんなふうに絶えず、悩みと喜びの間を逡巡するものなんだろうな。
 後半は徐々に激しくなり、最後のコーダ部分は、Presto con fuoco(火のように速く)という指示どおり、絢爛豪華だ。
 涼香の両手が、時にはクロスし、時にはたたきつけ、縦横無尽に鍵盤の上を動く。
 まるで、魔法で創られた小動物だ。
 涼香は、このコーダ部分で何度か止まった。技術的な問題というより、何かが自分で納得できないのだろう。
「アルペジオ……五連符……」
 弾きながら、ひとりでぶつぶつ言っている。たぶんこの瞬間、俺のことなど完全に忘れているだろう。
 音楽で作り上げられた神殿。他人はその中に立ち入ることはできない。涼香は、その神殿の巫女なのだ。

 宵闇が濃くなったころ、ようやく涼香はピアノから離れた。
「疲れたあ……」
 精魂尽き果てたように俺の腕の中に倒れこむ。
「よくやったな。えらいぞ」
 正直言って、俺の耳では今の演奏が巧いのか下手なのかもわからない。それを決めるのはピアニスト自身なのだ。
 気持を逆なでするような変なお世辞は言えない。だから、ひたすら頭をなでて、甘やかしてやる。
「がんばったな。ルームサービスを取っておいた。風呂も入れてあるぞ。どっちにする」
「うーん、お風呂」
 愛海のところで長年修行したのが役に立つ。俺はバスタブにラベンダーのオイルを数滴落とした。
 愛海は、今晩も自分で風呂の湯を入れているのだろうか。
 俺がいないと、風呂にも入らないでソファで伸びてるんじゃないだろうな。テーブルの上に、コンビニ弁当の空き箱やビールの空き缶をてんこもりに盛り上げて。
 あのぐーたら女は、幽霊の俺がそばにいないと何もできないんだ。
 俺は、じわりと涙が出てくるのを感じて、ごしごし手の甲でこすろうとした。馬鹿みたいだ。霊体だから、そんな必要ないのに。
 愛海に会いたい。
 会いたくて、たまらない。俺はいつのまに、こんなに弱い男になっちまったんだろう。
 涼香は風呂に入って簡単な食事をすますと、いつものようにベッドの上で俺の胸にもたれる。俺たちは、とりとめのない話を始めた。
「イタリア人のご主人とは、なぜ別れたんだ?」
「だって、はじめっから全然好きじゃなかったんだもの」
「全然?」
「そう。好きなふりをしたの。偽装結婚。そしてヨーロッパに滞在するビザを手に入れたわけ。ピアノを弾くために」
「驚いたな。なんて悪い女だ」
「そう。本当は、あなたより私のほうが……もっと性質の悪い詐欺師かも……」
 言い終える前に、涼香はぐっすり寝入ってしまった。
 好きでもない男と結婚するほどに、彼女は人生をすべてピアノにささげてきたのだ。もう自分のためには一滴の力も残ってないんだろう。
 そっと上掛けをかけてやり、照明を落としてから、俺は窓のそばに立った。キラキラと輝く東京の夜景を見降ろし、愛海のマンションのある方角を一晩中見つめているのが、俺の唯一の娯楽になってしまっている。
 突然、涼香の携帯が鳴った。
 ディスプレイを見ると、愛海のナンバーだった。
 寝入りばなの涼香は身じろぎする気配もない。俺はあわてて携帯を取った。
「もしもし」
「ああ」
「淳平。……涼香さんは?」
「今寝たところだ」
「あ、ごめん。じゃあ、すぐ切るよ」
「そうだな」
「えっと、涼香さんのピアノは順調?」
「まあな。毎日すごい時間がんばって練習してる」
「よかった。スランプは脱したんだね」
「ああ……そっちは?」
「うん、相変わらず。忙しくて泊り込んだり、暇だったり、いろいろだよ」
「そうか」
「……リサイタル、あと10日だね」
 リサイタルが終われば、俺は帰ってくると愛海はまだ思い込んでるだろうか。いや、きっと不審なものを感じ取っているはずだ。
 なんと説明すればよいのだろう。
 俺の霊体は、涼香の邪念に取り込まれちまった。もう二度と涼香から離れられない。
 それが、自分の犯した罪に対するつぐないだ。
 だから、愛海。おまえのもとには永久に戻れないんだと――そんな残酷なことを言えるものか。
 何度も言葉を飲み込んで、俺はそっけなく言った。「じゃあな」
「うん、おやすみ」
「あ……待て」
「え、なに?」
 ――愛してる。愛海、おまえを心から愛してる。
「……何でもねえ。元気でな」
「うん、淳平も。……おやすみ」
 最後は涙声だった。携帯を切った愛海が、床に崩れ落ちて泣いてるのを感じる。
 すまない、愛海。俺は――サイアクの男だ。
 ベッドの中で、涼香がかすかに動いた。目を覚まして俺たちの会話を聞いていたのだろう。だが、何も言わなかった。

 涼香はそれからも、朝から晩までピアノにかじりついていた。
 ショパンのバラード1番以外にも数曲の演目があって、その練習も怠るわけにはいかない。だが、涼香が最大の努力を注いだのは、やはりバラード1番だった。
 練習を重ねれば重ねるほど、途中で止まることがほとんどなくなった。
「すげえな。なんだか聞いてて、あんまり綺麗なフレーズで途中で泣きそうになる」
「そうでしょ。そうなのよ、ショパンは」
 涼香は興奮して、両掌を上に広げた。「弾いててときどき、ぱーっと天が開けて、雲の上に突き抜けそうになるの。生きる悩みが深いほど天に近づくって言ってるみたい」
「今のおまえは、きっとショパンと心がひとつになれたんだな」
「ああ、うれしい。幸せよ。ピアノを弾いててよかった」
 満足のいく仕上がりを見せるにつれ、涼香の心は、どんどん高揚してくるようだった。
 もちろん、その反動も来る。当日のことを考え始めると、いても立ってもいられない不安の発作に襲われる。そんなときは、ひたすら抱きしめてやるしかない。
 本番二日前のリハーサル。会場となるホールで、照明や音響と合わせながら、涼香は演目どおりの順番で弾いた。もちろん舞台に花はないし、涼香はセーターとジーンズというラフな服装だ。
 まだ本番前の緊張はない。彼女はリラックスして弾いた。特にミスもなく、演奏を終えて立ち上がったときの彼女の表情は、晴れやかだった。
 俺は邪魔にならないよう、会場の座席のひとつを選んで座っていたが、壇上から降りてくる涼香のもとに、すっと近寄った。
「お疲れ」
 ところが、涼香は何も答えない。きょろきょろと不安げに客席を見渡している。
「中杉くん? どこにいるの」
「え?」
 俺は首を傾げた。すぐ目の前に立っているのが見えないのか?
「涼香、ここだよ」
「あ、いたんだ」
 涼香は振り向き、ぺろりとおどけて舌を出した。「舞台の照明が明るかったから」
「ふうん、そうか」
 一度は納得した俺だったが、それからも涼香は俺がよく見えていないようだった。何も言わないが、目が泳ぐように俺の姿を捜し求めている。
(まさか、涼香の霊力が落ちて、俺が見えなくなってるのか?)
 ホテルに戻ったとき、玄関前でタクシーを降りたとき、やはり涼香はきょろきょろと落ち着かない。
 そのせいだろう、足元のわずかな段差につまずいた。
「あっ」
 俺はあわてて受け止めようとした。だが、涼香の体は俺の霊体をすりぬけて、通り過ぎていった。
 涼香を抱きとめられない?
「だいじょうぶですか」
 タクシーの扉を開けたドアマンが、とっさに手を差し伸べたので、地面に倒れる前に事なきを得た。
 ようやく俺は悟った。涼香の霊力が落ちたのではない。
 俺の霊指の力のほうが弱くなっているんだ。

 「はざまの世界」に戻った俺を見て、太公望はぎゅっと眉根を寄せてしまった。
「こういうことになっておったか」
「どうしたんだ。俺の霊指の力が、どんどんなくなっていくぞ」
「のう、淳平。霊指の力どころじゃない。おまえさんの現世における存在そのものが消えかけておる」
「俺の……存在そのもの?」
「死んでから最初の一年間を覚えておるの。意識もほとんどなく、水の中をたゆたっているようだったと言っておったろう」
「ああ」
「あの状態にふたたび戻っていこうとしているのだ」
「霊体もなくなり、無意識の状態に戻るってことか?」
「おまえさんは、自分を現世につなぎとめてくれる存在を手離してしもうた。今のおまえさんは生きる屍、いや、死んじゃった屍なのだ」
 ああ、そうか。
 俺は愛海のそばにいられないと、存在すら失ってしまうのか。
「……それでいいのかもしれねえ」
「なんだって?」
「別にいい。騙した女に最後に少しでも詫びができた。やることはやった。これで本望だ」
「ま、待たんか。もう少し、わしとふたりで知恵をしぼって、ギリギリまで足掻いてだな……」
「このまま、消えさせてくれ」
 どうせ、愛海にはもう会えない。たぶん今の俺は、見たいものも聞きたいものも、触りたいものもないんだろう。
 愛海以外に、俺の存在する理由はない。
 静かな気持で俺は太公望と別れ、現世に戻ってきた。
 涼香はまだよく寝ていた。俺はじっと彼女の顔を見守り続けた。もうすぐ夜が明ける。リサイタル前日だ。あと一日。
 何としても、リサイタルを成功させる。そうすれば、涼香は自信を取り戻し、元通りに『世界のピオッティ涼香』に戻れるだろう。俺はもう必要ない。
 気づかれないように、こっそり消えていけばいい。

 その日は朝から、テレビや新聞のインタビューが忙しかった。
 涼香はにこやかに答えていた。
(きれいになったな。涼香)
 自信にあふれ、輝いている。ピアノに愛されているピアニスト。
 俺は過去の罪をつぐなえたと、彼女の助けになったと、少しはうぬぼれていいのだろうか。
 涼香は、ますます俺の姿を見失うことが多くなってきた。それどころか、かなり力を集中させないと、俺の声も届かなくなっている。
 俺の意識自体が遠のいてきたのかもしれない。気がつけば、時計の針が大きく進んでいることすらあった。
 もうあまり時間がないな。
 俺は前もって、涼香に話しておくことにした。そうでないと、本番直前にパニックになっちまったら、それこそ取り返しがつかない。
「涼香、聞いてくれ」
 ありったけの霊力を掻き集めて、彼女の手を取る。
「俺は、もうすぐ消えてしまうらしい」
「なんですって?」
「ああ、心配しなくていい。おまえに対して罪滅ぼしをしたおかげで、成仏できることになったんだ。極楽か天国かわからねえが、そんなところに行けるらしい」
 もちろん、嘘に決まってる。そんなことくらいで成仏できるほど、俺の犯した罪は軽くない。
「でも、中杉くん。自分を殺した犯人を捜すんだって言ってたじゃない」
「ああ、もうどうでもいいんだ。あきらめた」
「でも……」
「ずっとおまえのそばにいると約束したのに、すまねえな。だけど、おまえは素晴らしいピアノを弾けるようになった。もう俺なんかいなくても、大丈夫だよな」
「中杉くん……」
「リサイタルまでは絶対に消えないから、安心しろ。目には見えなくても、必ずそばにいるから」
「成仏なんて、嘘ね?」
 涼香は、きゅっと唇を噛みしめた。
「え?」
「嘘ついてる。小潟刑事が原因なんでしょ?」
 忘れていた。こいつは生まれつき霊感が強くて、人には見えないものが見えてしまうんだ。霊体である俺のつく嘘なんて、お見通しなんだ。
 「愛してる」と心を偽ってささやき続けたことも――きっと、バレバレだったんだろうな。
「本当は、わかっていたの。小潟刑事と私では全然違うんだって。あれほどのやさしい笑顔、とうとう私には一度も向けてくれなかったね」
「そんなことない、おまえの勘ぐりだ」
「ううん。どんなにやさしくしてくれても、やっぱり違ったの。それくらいわかる。悔しいけど、認めるしかなかったわ。中杉くんの愛してるのは、あの刑事さんだって」
「涼香……」
 涼香の頬をきらきらと宝石のような涙が伝った。
「私のそばに無理して居続けてくれて、うれしかった。でも、ずいぶん前から、だんだん姿が薄くなってくるのがわかったのよ。ほんとに正直なんだから」
「正直な結婚詐欺師なんて、完全に詐欺師失格だな」
 俺はがっくりと座り込んだ。ほんとに情けねえ。
「中杉くんが消えていくのは、私のせいだって思った。でも認めたくなかった。だって、本当にあなたといる毎日は楽しかったから」
 涼香は大きく息を吸い込むと、ピアノの前に立った。
「ショパンのバラードを弾きながら、自分の気持のありったけを鍵盤にぶつけたわ。あなたへの熱情。嫉妬や憎しみ。あなたのくれた安らぎや喜び」
 涼香の指がなめらかに鍵盤の上をすべった。
「そしてある日、何もかもがひとつになったの。悲しいのに、幸せなの。苦しくてしかたがないのに、私はその瞬間、天国に届いた」
 俺たちは長い間、互いを見つめ合った。
「小潟刑事のもとに戻って」
 俺は首を横に振った。
「いいや、戻れない。俺はおまえのそばにいると自分に誓った」
「だって、どんどん消えていってしまうのよ!」
「リサイタルまでは消えない。おまえのピアノを、この耳で聴きたいんだ」

 リサイタルの当日になった。
 超一流ホールは、三階席までぎっしり満員だった。みんな、ピオッティ涼香の久しぶりの日本公演を心待ちにしていたのだろう。
 舞台から客席を覗くと、驚いたことに前列のほうに愛海がいた。
 S席のチケットなんて相当高かっただろうに。コンビニ弁当一ヶ月分じゃきかないぞ。
 涼香はラメ入りの濃紺のロングドレスに身を包んだ。スポットライトに照らされて、まるで宇宙そのものをまとっているように見える。
 俺はピアノの蓋のかげに、まるで臆病なソリストみたいに立った。これだけの聴衆がいたら、ひとりくらい俺の霊体が見えるだろうか。
 いや、今の俺は夏の日のかげろうよりもまだ薄くなっていた。この照明の中では、涼香にも、会場の愛海にも、ほとんど見えていないだろう。
 意識もどんどん遠くなってくる。俺は自分を叱咤して霊指の力を集中した。
「俺はここにいる。思い切り弾け。思いのたけをピアノにぶつけてやれ」
 涼香はゆっくりうなずくと、ピアノに向かった。
 その日の涼香は本当にすばらしかった。一曲終わるたびに、コンサートホールが割れんばかりの拍手に包まれた。
 そして、いよいよショパンのバラード第1番ト短調Op.23。
 お辞儀をして、椅子に腰を落ち着けると、涼香は俺のほうを向いて、にっこり笑った。
「中杉くん、聴いて。これが私の、あなたに対する想いよ」
 そして向き直ると、両手を鍵盤の上に置いた。
 まず、最初のユニゾン。
「ええっ」
 度肝を抜かれた。すごいフォルティシモだ。練習のときはもっと弱く弾いていたのに。
 これは怒りだ。俺に裏切られ、金をだまし取られたと知ったときの彼女の怒り。
 続いて、第一主題。ときおり襲ってくる慟哭と孤独。異国の地でいつしか憎しみを忘れて、昔をなつかしく思い出していたこと。
 第二主題。幽霊の俺と再会した驚き。ふたりで懸命にピアノと向き合った、激しいけれど穏やかな日々。
 コーダ。嫉妬に苦しみながら、それでも昔の恋を捨てようと決意した。その激情をすべてピアノの鍵盤にぶつけながら、涼香が上を仰ぐ。天に登りつめる。
 最後の音が消え去ったとき、満場の客は総立ちとなった。
 汗びっしょりの髪を首に張り付かせて、涼香は晴れがましくピアノの前から立ち上がり、万雷の拍手がうずまく会場に微笑みかけた。
「おめでとう。涼香」
 薄らいでいく意識の片隅で思った。おまえは本当に、本当のピアニストなんだな。女でいることより、ピアノを選んで生きていくんだな。
 おまえなら、できる。俺はたとえ地獄に堕ちたとしても、ピオッティ涼香の音楽がよみがえる場に立ち会えたことを誇りにするよ。
 涼香は何度も何度も膝をかがめてお辞儀をしたあと、俺のいるあたりに見当をつけて、満面の笑顔で呼びかけた。
「中杉くん……いいえ、水主淳平さん」
「え?」
「今すぐ、小潟刑事のところに戻って。今なら、笑顔でお別れできる」
「涼香……」
「もう、私にはあなたは必要ないの。声も聞こえない、姿も見えない幽霊の恋人なんて、お払い箱よ」
 花束を受け取るふりをして、涼香は会場の座席を指差した。「ほら、あそこ。見えるでしょう。私がちゃんとチケットを送って招待しといたから」
 俺はいつのまにか、霊体を取り戻して浮いていた。情けないことに、全身が震えてやがる。
 俺は、涼香の呪縛から解き放たれ、愛海のもとに戻れるんだ。
「涼香……ありがとう。すまない」
「さあ、何をぐずぐずしてるの! 行って!」
 涼香の高らかな叫びに、全身を押されたような衝撃があった。
 気がつくと、愛海のびっくりした顔が目の前にある。
 真ん丸に見開いた大きな目。先っぽがちょっと上を向いた鼻。ピンク色のふっくらと柔らかい唇。
「淳平」
「愛海!」
「お疲れさま。すばらしかったよ」
「愛海……愛海」
 俺は嗚咽にむせび、ただ愛海の名を何度も呼ぶことしかできなかった。

 熱演の余韻の残るコンサートホール。
 スタンディング・オベーションに湧いている聴衆のただ中で、
 ひとりの女と
 ひとりの幽霊が
 しっかりと抱きしめ合ってキスをしているなんて、いったい誰が想像するだろうか。


  chapter 7 終





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