インビジブル・ラブ


雑踏


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Chapter 8-3



 次の日から愛海は、木下警部補とまたコンビを組んで、別の事件の捜査を始めた。
 父親を殺してあちこち逃げ回った挙句、自首したフリーターの足取りを追うのが目的だ。
 自供どおりなら、犯人は電車で逃走する際に自転車を乗り捨てたはずだった。それが見つからないのだ。
 しかも、犯人は気が動転していて、どこで乗り捨てたかわからないという。
 ということで、ふたりは犯人の自宅から半径五キロ以内で、放置自転車を一台一台調べ、自供どおりか裏付けしようと回っているのだ。
 犯人が罪を認めてるんだから、それでいいんじゃないのかと思う。裏付け捜査なんて、砂浜からひとつの砂粒を見つけるような、本当に報われない仕事だ。
 一時は身も世もなく落ち込んでいた愛海だったが、歯を食いしばって懸命にがんばっている。
 足を棒にして歩きまわり、くたくたになって南原署に戻ってきた愛海に、ある夜、玄関で待ち構えていたように、縁なし眼鏡をかけたひとりの刑事が近づいた。
 警視庁の捜査一課の都築警部だ。南原署にOL暴行殺人事件の本部が設置されたとき、本庁から派遣されてきた捜査官だ。
 俺の勘では、こいつはいまだに愛海に惚れている。
「こっちへ来る用事があってね。どうしてるかと思って」
 彼のいたわるような表情を見れば、愛海を襲った一連のできごとについては聞き及んでいることは確実だ。
「ご心配を、おかけしました」
 愛海はぺこりと頭を下げた。
「何か力になれることはないかと思ってね。困ったことがあったら、なんでも相談してくれ」
「ありがとうございます。でも、だいじょうぶですから」
 愛海は、にっこりと明るく笑った。かなり無理をしている。
「与えられた任務をがんばります。仕事で失敗したら、仕事で名誉を回復するしかありませんから」
「うん、そうだね」
 都築警部はやさしい笑顔を返した。「そのとおりだ、がんばれよ」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあ、おやすみ」
 都築は後ろも振り返らずに去って行った。
 本当は、めそめそと弱音を吐く愛海を慰めたかったんだろうな。恋する男の純真な下心ってやつだ。
 だが、おあいにくさま。愛海はそんな柔(やわ)な女じゃない。
 俺が惚れた小潟愛海は、底なしに根性のある、すごい女なんだ。

「きょうもがんばったな」
 ハードな一日の捜査が終わり、コンビニの新商品、フライドチキン・トムヤム風味に舌鼓を打っている愛海のコップに、俺はなみなみとビールを注いでやる。
 毎晩恒例のご苦労さん会だ。今でも愛海は刑事課で冷やかな視線を浴びている。相棒の木下警部補もほとんど口を利いてくれない。さぞ、ひどいストレスだろう。こうやって毎晩激励してやらなきゃ、ぽきっと芯から折れてしまいそうだ。
「すごい手柄を立てて、すぐに淳平の事件の捜査に戻してもらうよ」
「期待してるぜ」
 と、ぽんぽん彼女の頭をなでた。
「俺はそのあいだ俺なりに、いろいろと手がかりを探して回る。黒田の事件も、何か捜査に進展があるたびに報告してやる」
「でも」
 愛海は不安そうだ。悪人や悪霊といった存在に長く触れると、俺の霊体がどんどん悪に染まってしまうと心配しているのだ。
「だいじょうぶ、気をつけるって。それに」
 俺は、自分の隣の空間をつんつんと指差した。「こいつが、べったりくっついてやがる。こんなお人よしのオカマ幽霊がついてたら、悪霊だって裸足で逃げてくぜ」
 幽霊の黒田はあれから、俺にまとわりついて離れない。その姿が、まるでデブ猫のフー公そっくりなのだ。
 そして、フー公はと言えば、自分のそっくりさんに対抗意識を燃やし始めたのか、やたらと俺のそばに寄ってくる。おい、黒田に影響されて、オカマ猫になっちまったんじゃないだろうな。
「愛海さん、心配しなくても、あたしが水主さんをちゃんと守ってあげる」
「……と言ってる。こいつに守ってもらうほど落ちぶれるつもりはないけどな」
「ユカリさん、よろしくね」
「まかしといて。こんないい男のそばに四六時中くっついていられるんだもの。あたし死んで幸せよお」
 黒田はしみじみと、大きなため息をひとつつく。
「水主さん、あんた、本当にいい男になったわ。生きているときもカッコよかったけど、今はまぶしいくらい輝いてる。悔しいけど、愛海ちゃんの愛の力なのねえ」
 俺が変な顔をしたので、愛海は「ねえねえ、今何て言ったの」と身を乗り出してきた。照れくさくって、こんなことば、通訳なんかできるか。

 愛海がとろとろと眠たそうになってきたので、俺は黒田とフー公をつまみあげた。
「な、なにするの?」
「ぶみゃーっ」
「おまえら、邪魔。ここからは愛海と俺だけの時間なんだ」
 幽霊一匹と猫一匹をベランダに追いだして、カーテンを閉めた。
 幽霊はその気になればガラスをすり抜けて入ってこれるはずだが、新米の黒田は、まだそんなことは知らない。
 生身のフー公のためには毛布つきの温かい寝床も用意しておいたし、さあ準備万端だ。
「さあ、愛海。蜂蜜パックの時間だぞ」
「きゃあ。いい気もち」
 一日戸外で初冬の寒風にさらされている愛海の肌に、美容パックをたっぷり塗ってやる。
 それと手足にたっぷりとマッサージ。同時に、愛海の弱点のうなじに、たっぷりとキス。
 こんな手品みたいな三点攻撃ができるのも、幽霊の特権だ。
 このところ心身の疲れが限界にきている愛海は、うっとりと身をゆだねる。
「愛海。無理するなよ」
「淳平こそ……」
 俺たちは思い切りキスにふけったあと、そのまま肉体と霊体をぴったりとひとつに重ね合わせて眠りについた。
 現世では絶対に結ばれるはずのない幽霊と人間同士。せめて、こうして愛を交わす気分にだけでも浸っていたい。

 その翌日が、黒田智也の葬式だった。
 検死が済み、親族の立ち会いのもとに密葬が行われたあと、水商売仲間たちが集まって、教会で盛大な葬式を催してくれたのだ。
「あたし、バーのママに死んだ時はくれぐれもよろしく、って頼んでたの」
 礼拝堂の片隅の長椅子に腰かけて、自分の葬式を見つめながら、黒田はしみじみと言った。
 その費用にと、まとまったお金を預けていたらしい。祭壇に飾る写真も自分で選んでおいたそうで、詐欺だと叫びたいほど若く細いときの写真だった。
「ほら、男の体に生まれちゃって、教会で結婚式を挙げることなんて一生できないでしょう。だから、せめて死んだら、きれいなウェディングドレスを着せて、お棺に入れてほしいって」
 そして、鼻をずるずるとすすった。「それなのに、お骨になっちゃったら、ウェディングドレスなんか着られないじゃない」
 葬式には、黒田の死を悼む水商売仲間や、店の常連たちが詰めかけた。昔千葉県で働いていた頃の同僚たちも、連絡を受けて駆けつけた。本人の幽霊がそばにいるとも知らず、出席者たちは故人の思い出話をしながら、目をぬぐっている。
 世話好きで、誰にでも好かれる黒田の一生が、この葬式に凝縮されていた。
 こんないい奴を、俺は見殺しにしてしまったかと思うと、胸が痛んでたまらなかった。
「さ、これで、この世の未練とも、きっぱりおさらば」
 黒田は、せいせいしたという顔で、礼拝堂の椅子からふわりと浮きあがった。
「行きましょう。あとは、水主さんとあたしを殺した犯人を捕まえるの」

 その日から、愛海と俺は別行動することになった。
 黒田をお伴に、思いつく手がかりを片っぱしから当たり始めたのだ。
「黒田。おまえは自分のアパートの部屋で、真正面から刺されているんだぞ」
 俺は自分の推測を話してみた。
「相手がおまえを狙う暴力団なら、そんなに簡単に部屋に上げたりはしないだろう。逃げようとしたり、抵抗した痕が残っているはずだ。だがおまえは、相手と向き合ったまま、いきなり刺された。……もしかして犯人は、おまえのよく知っている顔なじみなんじゃねえか?」
「そんなこと……」
「とにかく、おまえが家に招き入れそうな知り合いを、思いつくだけ挙げてみてくれ」
 俺は必死だった。
 自分を殺した犯人など別に知りたくないと思ってきた。けれど、今は違う。
 こんなに善良な黒田を無慈悲に殺した犯人が、俺は赦せないのだ。
 絶対に、黒田の殺害犯を捕まえる。そして三年前、俺を殺した犯人もつきとめてやる――愛海のためにも。
 だが、黒田の身辺を洗っても、それらしき影はまったく浮かび上がってこない。
 茨城県警の捜査本部のほうでも,捜査は暗礁に乗り上げているようだった。
 最初のうちは、黒田の口封じのために暴力団が動いたと考えていたらしいが、無抵抗で刺された死体の状況から見て、「それはおかしい」という声も捜査員の中から上がり始めている。
 とにかく、どんなに調べても、殺人現場近辺での目撃証言が皆無なのだ。
 現場の鑑識でも、犯人につながる証拠品はまるで発見できなかった。この周到さは、プロの殺し屋に匹敵する芸当だ。
 そして、それは俺の事件との関連をますます匂わせる。俺が殺されたときも、目撃証言はおろか、現場の証拠品は何ひとつとして出てこなかったのだ。
「お店のママ、同僚のハルミちゃん、サキちゃん、カナヨちゃん。店の常連だと、ゲンちゃんにシマさん……」
 黒田は必死になって、自分のアパートの住所を知っている人間を思い出し、指折り数え上げている。
「その中で、少しでも暴力団に関係してそうな奴は?」
「いるわけないわ。水商売の誇りにかけて、自信を持って言える」
 と、特大パット製の巨乳(霊体にもついてるらしい)をそびやかす。「これでも、人を見る目は確かなのよ」
「その割には、あっさりと殺人犯を部屋に招き入れたじゃねえか」
「そうなんだけど……あ、そうそう。私のアパートを教えた人がもうひとりいたわ」
「誰だ」
「愛海ちゃん」
「……なんだと?」
「ごめん、ごめん。ムキにならないで。ただの冗談よ」
「そうじゃない。愛海はおまえの携帯の番号しか知らないはずだ。住所までは教えなかっただろう」
「教えたわよ」
 黒田は怪訝な顔をして、答えた。「あの日、愛海ちゃんがうちの店に来た夜、電話をくれたもの。『小潟ですが、念のため住所を教えてもらっていいですか』って」
「うそだ。そんな電話、愛海はしてない。本当に愛海の声だったのか」
「そ、そう言えば、女性の声だったけど、確かに愛海ちゃんかと言われると……」
 体じゅうが泡立つような感覚に襲われた。誰かが、愛海の名を騙って、黒田の住所を聞き出した?
 愛海がその日黒田を訪れたことも、南原署に来る約束を取り付けたことも知っている奴がいる?
 いったい、どういうことなんだ。愛海の周囲の誰かが、犯人一味と通じているとでもいうのか。

 俺は黒田といっしょに茨城県警にもぐりこみ、さんざん苦労して、鑑識の保管庫にあった黒田のアパートからの押収品を探し当てた。
「ああっ。私の大切なネックレスがぐちゃぐちゃ。弁償してよーっ」
 などとわめきながら、黒田は証拠品をよりわける。霊指の力のない彼の代わりに、俺が携帯電話を取り上げ、着信履歴を開けた。
「おかしいわ。愛海ちゃんの着信記録が見当たらない」
「確かか」
 たぶん、黒田を殺したあと、その場で犯人が消したのだろう。なんという抜け目のない、用心深い奴だ。
 俺の頭で、犯人像が次第にできあがりつつあった。
 素人ではない。暴力団の下っ端構成員でもない。
 緻密な計画を立て、警察の捜査をあざ笑うかのように、すべての証拠を隠滅して回れる奴。
 やはり俺たちの相手は、殺しのプロだ。

 すっかり煮詰まってしまった俺と黒田は、久しぶりに太公望の爺さんに会いに『はざまの世界』に帰ることにした。
 黒田にとっては、初めての場所だ。
 最初は恐がって、俺にぴったりくっついて離れなかったが、やがて太公望の背中の駕籠から薬桃を見つけると、「まあっ。なんて美味しい桃なの」と、片っぱしからむしゃむしゃ食べ始めた。
「こりゃまた、おもしろい奴に懐かれたもんじゃのう」
 爺さんは、新しい訪問客が増えて楽しそうだ。
「だが、淳平よ。こいつはおまえさんと違って、本物の死人じゃぞ」
「同じように殺されても、あの世に行けるやつと行けないやつがいるのか」
「まあな。早く天界に送ってやらんと、霊体がだんだんと弱ってしまうぞ」
「もう少しだけ待ってくれ。犯人を捕まえてやらなきゃ、黒田も安らかにあの世に行けないと思うんだ」
「だが本人は、犯人逮捕などには頓着しておらぬように見えるがの」
 太公望は、珍しく険しい表情で俺に向き直った。「むしろ、度を越して執着しているのは、おまえさんのほうじゃないのか」
「俺? 俺は別に」
 とっさのことに口ごもった。「俺はただ、黒田の仇を取ってやりたいだけだ。それ以上は考えていない」
「それならよいが、その霊泉から覗いていると、どうもおまえさんの霊指の力が、日増しに大きくなっているように思えて、心配でな」
 そう言われると、心当たりはあった。
 このところ、俺が少し感情を高ぶらせるたびに、地鳴りが起こったり、揺れてものが落ちたりしている。愛海のマグカップを壊してさんざん怒られて以来、コントロールするようにはしているのだが。
「それって、ヤバいのか」
「いったん悪に傾けば、ヤバいどころではないぞ」
 太公望の仲間である草薙にも、以前注意されたことがある。霊体とは剥き出しの胎児のような存在。すぐに悪の影響を受けて、夜叉や悪霊に変化してしまうのだと。
「わかってる。気をつけるよ」
 太公望は、神妙にうなずいた俺に満足したように、また釣り糸を垂れた。
 水面はゆらゆらとさざ波を立て、再び鏡のようにとろりとした静かな藍色に戻っていく。
「爺さん。あんたは、その霊泉からいつも地上を覗いてるんだろう。黒田を殺した犯人が見えたりはしないのか」
「ふん。わしとて忙しいのだ。いつも地上を覗き見してるわけにはいかんわい」
「俺が殺されたときだって、目撃しててくれたら、愛海も俺もこんなに苦労せずにすんだのに」
 太公望は、口をつぐんだきりだった。

 『はざまの世界』から、俺はいつものように愛海のもとに戻った。
 愛海はそのときは、ちょうど昼の休憩だったらしく、ぽかぽか暖かい日溜まりの公園ベンチで食後のデザートを食べていた。
 その日のコンビニ新商品は、「ズッキーニ・パンナコッタ」。確かにイタリアンな取り合わせだが、本当にうまいのか?
「今日も、朝から歩きまわって、くたくただよ」
 いまだに容疑者が乗り捨てた自転車を探しているらしく、同タイプの自転車の写真をいつも持ち歩いている。
 俺は、その写真を見て、ふと思いついた。
「そう言えば、愛海。俺の写真はまだ持ってるか」
「そりゃあ、もちろん」
 専従捜査員をはずれてからも、愛海の警察手帳には、俺の写真がきちんとはさんであった。
 結婚詐欺師になってから、俺は自分が写真に撮られないように、細心の注意をはらって生きてきた。
 だました女たちは、関係が深まるにつれてプリクラや携帯で記念写真を撮りたがったが、俺は何のかのと理由をつけて、断った。
 写真が一枚でも警察の手に入れば、俺の顔は全国に指名手配され、仕事がやりにくくなってしまう。
 愛海が捜査資料として持っている写真は、偽造した身分証明書に貼っていた唯一の一枚で、俺の死体が身につけていたものだ。
 だから三年前、俺を捜し回っていた暴力団風の男たちが黒田に見せた写真は、防犯カメラの映像と、高校のときの部活の写真だけだったというのも当然だ。
 だが、妙にひっかかる話だ。普通の人間が、防犯カメラの映像など手に入れられるだろうか。

 次の日、俺と黒田は、これといった当てもなく千葉県をうろついた。俺がはじめて黒田と知り合ったおかまバーのある場所だ。
「『キャデラック』がつぶれたって聞いて、ショックだったわ」
 しみじみと黒田が言った。
 黒田の葬式に参列した昔の仲間たちが、そう話していたのだ。店はほかの経営者の手に移り、店名をしるした看板もすっかり別のものに変わっていた。
「ほんと、久しぶり。このあたりには、もうあたしのことを覚えている人なんて住んでいないでしょうね」
 彼はなつかしいというより、とまどったような顔で、昔なじんだ繁華街をぶらついた。
「死ぬって寂しいわ。こうやって、いつのまにか忘れられていくのね」
「何言ってる。仲間うちであれだけ盛大な葬式をしてもらって」
 俺はからかうように答えた。なぐさめ半分、やっかみ半分だ。
「俺なんか、葬式すらしてもらえなかったんだぞ。火葬場で、立ち会いは遠い親戚と警察のやつらだけだ」
「まあ、それに比べたらマシかしら」
「そのかわり、愛海に会えたんだからな。死んでから後は、おまえよりマシだ」
「まあ、悔しい」
 そんな冗談口を叩きながら、ふよふよとあちこちを飛んで回っていると、黒田は「あ」という声を上げた。
「ここらあたりは、昔のまんまね。クリーニング屋があって、その一軒おいて隣が焼き鳥屋で。ほら、アキちゃんが働いてた焼き鳥屋」
「アキちゃん?」
「あら、忘れちゃった? いっしょに食べにこなかったっけ」
「いや、ここには来たことがない」
「でも、親戚の伯母さんが亡くなって、遺産がころがりこんだって話をしたわよね」
 そのことばで俺の霊体は、まるで石になったように動かなくなった。思い出したのだ。
 佐田亜希子。
 俺が殺されたときに、待ち合わせていた女の名前だった。





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