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ピエタ





-中編-







藤崎が来た次の日は、いよいよ空模様が怪しくなりはじめた。
昼間だというのに外は夕闇のように暗く、暴風で窓がガタガタいう。 いつ木の枝が窓ガラスを叩き割ってしまうかと、荒れ狂う様子をキャンパスに 写し取りながらヒヤヒヤしていた。
台風が接近しているらしい。
今日は日曜であるから、本来ならば地元のの主婦が週に一回家の手伝いをしに来てくれるのだが、 この天候では恐らく無理だろうと思い、窓の前に陣取って画材を広げている時だった。
最初は空耳だと思った。
次は、恐らく折れた木の枝が当たっているのだろうと思い、やがてどうも人為的なものらしいと いう結論に行きついた。
無視しようとも思ったが、相手はいっこうにあきらめる様子はない。風はますます 強くなって行く一方だから、このまま放っておくわけにもいかない。
舌打をしつつ、これが勧誘だったら蹴りの一発どころじゃ済まさないと心に決めて ドアを開けに行った所には、やけに人の良さそうな笑みを浮かべた若い男がいた。
「あ、どうも」
男はにへらと笑って、なんとも間抜けな挨拶をした。
「どうも。あんた誰?」
失礼と言われようとなんと言われようと、創作途中で抜け出して来てやったのだ。 構うことはない。
「篠塚です。母がこの風では来れないので代りに来ました」
篠塚とは、手伝いに来てもらっている人である。
昔ながらの日本の母といったような、何かと気のつく面倒見の良い人だ。
そう言えば大学にいっている息子がいると言っていた気がしないでもない。
「こんな日だから別にわざわざ良かったのに」
「でもそうすると、先生他のことはともかく食事が困るだろうからって」
地下の食糧庫に保存食一月分くらいはあるが、さすがに緊急時でもないのにそんな真似はしたくない。
そして、ほらこれ、と篠塚息子が掲げた水色の大きなケースの中には 一週間分の糧が詰まっているらしい。
「じゃあ、とりあえず上がって」
「お邪魔します」
適当に冷蔵庫に入れてから帰ってもらおうと思ったのだが。
「え? 先生料理できるんですか?」
・・・・・・なに?
「それ、もしかして生?」
「はい」
いや、そんな力いっぱい頷かなくても・・・。
「だから俺が作りにきたんですよ」
「・・・あんたが?」
「はい。大丈夫ですよ。俺東京で一人暮しだから、家事一通りはできるんです」
言いながらリビングにへ向かった篠塚息子は、入口で歓声を上げた。
「うわあ・・・すごい。アトリエみたいだ」
いや、みたいじゃなくてアトリエなんだって。
この山荘は藤崎のツテで手に入れたものである。
山の頂上近くに位置し、広さこそそれほど無いもののリビングの全面がガラス張りの広い窓からは 目の元にこの辺りの山脈が一望できる。
景色は超一級だ。
画材や描きかけの絵にひとしきり感激したあと、今度は窓にへばりついて歓声を上げた。
こいつ、幾つだよと思ったのも無理はないだろう。
まるで小学生だ。
「あんた本当に大学生?」
「え? いや、俺大学生じゃなくて研究生です。一応講義も持ってるから助手かな。 専攻はヨーロッパの中世史です」
訊かれてもいないことを嬉々として話すそいつに少し眩暈がした。
「あんたさ、今いくつ?」
「歳ですか? 先月二十六になりましたけど」
そっか、凄く若く見えるねというのは、この場合誉め言葉にはならないだろう。
ここ数分でひどく消耗したような気がして、私はソファーに座り込んだ。 大丈夫ですか、と心底心配していそうに覗き込んでくる顔に、油絵の具のベッタリと ついた筆で悪戯書きをしてやりたい衝動に駆られる。
「ああ、もういいよ。キッチンはあっちだからあとよろしく。ところであんた名前は?」
「あ、俺タケシっていうんです。威厳の威って書いて」
いい名前でしょ、と得意げに笑うこの顔のどこが二十六なのだろう。 ついでに言うなら思いっきり名前負けだ。
「はいはい。わかったから頑張ってください、家政夫さん。あ、それとさっきからその 先生っていうの、やめてくれない?」
「え、何でですか?」
「慣れないのよ」
「でも先生なのに・・・」
「いいから!!」
咽喉が痛い・・・。
この十分で一ヶ月分以上喋った気がする。
「えっと、じゃあ優希ちゃん?」
・・・・・・。
寒い沈黙だ・・・。
「なんでよりによってちゃん付けなのよ」
「いや、だって年下でしょ?」
もういいよ、好きにして。
溜息を了承ととったのか、タケシはウキウキとキッチンへ向かって行った。
まるで大型犬である。
真実の眼鏡などというものがあったら、きっと尻尾と耳がついているだろう。
その犬が黒いエプロンをつけてキッチン内を動き回る姿はなんとも滑稽である。



遅い昼食を一緒にとり、タケシは仕事の続きをしにキッチンへ、私は何をするでもなく ソファーに座って昼下がりを過ごしていた。
窓のそとではいよいよ雨が降り出したらしい。
風に乗せられて横凪ぎになっている様は、雨というよりは濁流だ。
「ああ、雨降ってきちゃったか」
「ん? そうね」
「これ以上激しくならないうちに帰らなきゃ」
「・・・は?」
いや、これ以上激しくなるも何も、激しくなりようがないと思うんだけど。
「何気にしてんの? 別に泊まってけばいいじゃん」
「え!? ゆ・・・優希ちゃんてば大胆っ!!」
しまいには殴るぞ、おい。
「安心しな。だれもあんたのこと男と思ってないから」
あ、ショック受けてる。いちいちおもしろいやつだ。
というより、今まで回りにいた男というのが藤崎だったから、 こんな打てば響くような反応はかなり新鮮かもしれない。
「とりあへず電話したら?」
と、言った矢先に電話がかかってきた。
渡された子機に出てみると、藤崎母からだった。
内容は至極簡単に、山道で崖崩れ発生と言うものだった。
この山荘にはテレビやラジオといったものが一切ないことをおもいだして、 わざわざ連絡してよこしたのだろう。
曰く、二次災害の可能性あり。
これで今夜はお泊り決定である。



「俺ってそんなにかっこいい?」
調子のいい声が突然耳元で聞こえ、びくりと肩をゆらした拍子に描いていた 線がぶれた。
「それ、俺でしょ?」
示された先の右手には2Bの鉛筆、左手にはスケッチブック。
その紙面では、目の前の男が屈託のない満面の笑みで佇んでいる。 我ながら大した出来だ。
「うーん、やっぱ巧いよねぇ。って、当たり前か。櫻井優希だもんね。 でも俺人を描いてるのって始めて見た。描かないと思っていたのに」
もしかして実は描いてる? と無邪気に覗き込んでくる。
どうでもいいから大の大人がそんな子供じみたことをするなよ。
「一枚だけ、描いたことある」
「一枚?」
部屋の隅で額に入れられているにも関わらず、壁にはかけられないで、 その上目から隠すように布のかけられた一枚の絵を顎をしゃくって示した。
意を汲み取ったタケシが歩み寄って立てかけてあったそれを起こした。
見てもいい? というようにこちらを見やったタケシにコクリと頷くと、 タケシは埃をたてないように細心の注意をはらって布を取り除いた。
「・・・綺麗で、優しそうな人だね。優希ちゃんに少し似てるな。お母さん?」
「そう。若いでしょ。私を産んだのがまだ十七で、三十五のときに死んじゃった」
「十七・・・」
「バカだよねぇ。実家が北海道で旅館やってて、そこに来た代議士の秘書にいいようにされて、 妊娠して。父親は誰だって訊かれても、あんな男庇って答え様としないで、 中絶しろと言われても産むの一点張りで。とうとう勘当されちゃって。 まだ一歳にもならない赤ん坊抱えて上京して」
正直、殺してしまいたいと思ったことが何度あっただろう。
都会の風当たりは冷たい。
自分一人が生きていくのすら、保証人もいない未成年者では雇ってくれるところなど ないだろうに。その上乳飲子まで抱えて、それでも生きていこうとしたのは何故だろう。
「何とか住みこみで働ける料亭で雇ってもらえて、これで母子二人、餓死することは ないだろうって。おかしいでしょ? この戦後の日本で餓死だよ? 周りは皆 高度経済成長期だっていって浮かれてるのに、その日の食べるものがやっと手に 入るって喜んでるの。狭い板張りの四畳くらいの、物置みたいな部屋で、二人で肩 寄せ合って。夏は暑いし、冬は寒くて一緒に一つの布団に寝てた。でも、その頃が 一番幸せだった。冷めたご飯を二人で食べて、一つの布団で寝て。母さんと一緒に いられるだけで幸せだった」
母は、偶に、ごく偶に思いつめたような眼をして私を見た。
幼い頃の私には、そんなときの母がとても恐ろしく見えた。
一度だけ。
母のいつもは温かい手がとても冷たくなって、私ののどに伸ばされたことがあった。
苦しくて、息が出来なくて。
無我夢中で暴れたのだろう。
突然その力が緩まり、代りに母の胸のなかに抱き込まれた。
「ごめんね、ごめんね」と、母が泣きながら謝っていた。
母さんは、そうして泣きつづけてきた。
それでも、いつもの母さんは優しかった。
仕事が忙しく二人でいられる時間など朝と晩しかなくても、いつも疲れた表情一つ 見せずに、偶の休みには近くの公園に連れていってくれた。
そんな生活が唐突に終わりを告げたのは、桜の蕾が綻びかけてきた、六歳の春先だった。
その日は大事なお得意様が来るということで、当時接客の副責任者となっていた母は 朝から慌しく店内を動き回っていた。部屋の掃除や、花や、料理をすべて整え、 迎えに出た母の前にいたのは、あの代議士の秘書だった。
秘書は当時の代議士の娘と結婚し、今では一議員になっていた。
母が一体どんな気持ちでその接客をしたのかはわからない。
だが、仕事を終えて部屋に戻ってきた母は、この七年の苦労をふっきたような顔をしていた。
嬉しそうに私の頭をなで、明日は仕事が休みだから、一緒に公園へ行こうといって、明かりを消した。
翌日、公園で思いっきり遊んで帰って、疲れのせいでぐっすりと眠っていた私は 夢の中で母に優しく頭をなでてもらってご機嫌だった。
そして朝。
目覚めた時に、隣に母の姿はなかった。
ふらふらと部屋の外へ出て行った私は、異様に店の中が浮き足立っていると思い、 近くにいた従業員に母を知らないかと訊いた。その従業員は目をうるませて、 わたしを近くの救急病院へと連れて行き。
そこで私が見たのは、躰に何本もの管を差し込まれ、眠っている母の姿だった。
『一命はとりとめた』らしい。
その後、母は違う病院へと移され、私は「父親」に引き取られた。
私を一目見たときの彼の、罪悪感に駆られた目は忘れない。
彼が私を引き取るのは、愛情からではなく自分の罪悪感から逃れ、楽になりたいためなのだ。










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