YOU MADE MY DAY
Chapter 1. 自分の今置かれた状況を把握するのに、とんでもない時間が必要なときがある。 今がちょうど、それだ。 気がつけば彼女はニューヨークの裏町を、見知らぬ男の肩に担がれて進んでいた。 「ちょ、ちょっと何これ! おろしてよ」 「おお、気がつきよった。やれやれ」 若い男の声がすると、彼女の身体は、すとんと地面に降ろされた。 「気い失った物体は、2倍重いっつうのはほんまやな。えらい目に会うた。ま、そのかわり、ねーちゃんのええケツ撫でさせてもろたけどな」 定まらない視線で、眼の前にいる背の高い細身の男をながめる。 なぜ、日本人? なぜ、関西弁? なぜ、マンハッタンの真ん中で、男の肩にかつがれて、ケツまで撫でられなきゃならないの? 「お、おいっ」 彼女はあまりの不条理な現実に、ふたたび意識が遠くなって、男の腕の中に崩れ落ちた。 「まったく、頼むわ。ええ加減にしてえな」 グロサリーストアから買ってきた蓋つき紙コップ入りのペプシを、路肩にぼんやりと坐っている彼女に渡すと、男は街灯にもたれ、顔をしかめながらあたりを見回した。 ここは、ユダヤ人街の古い町並み。 頭に黒い帽子を乗せた髭のユダヤ教徒たちのかわりに、今はプエルトリコ系をはじめ、さまざまな人種の住民が通りを行きかっている。 「ご、ごめんなさい」 「重たい物体を2回も運ばされるこっちの身にもなってえや。……まあ、一度目は俺のせいやから、文句は言われへんけど」 「あ、あの一度目って……」 「まだ思い出されへんか。俺、ハウストン通りの裏路地を走ってた途中、歩いてたあんたにぶつかったやろ? 当たり所が悪かったんか、倒れたまま気い失ってしもた。 俺も急いでたもんやから、あわててあんたを担いでここまで来たんや。そのときは、俺と同じ日本人かどうかは半信半疑やったけど」 「そう言えば思い出した……。あのときは」 彼女は物憂げにつぶやいたあと、みるみる顔を般若のようにひきつらせた。 「ああああっっ! ちょっと、私の持ってた紙袋知らない?」 「とっさにあんたが肩にぶらさげてた小型バッグひとつだけ引っつかんだ。あとのちらばってた紙袋は、よう持ってこんかった」 「グッチのジャッキーバッグとフェラガモのドレス! ああん、買ったばっかりだったのに」 「わかった、わーった。弁償する。10年後に出世払いってことでどうや」 「いいわけないでしょ。今すぐ弁償して!」 「言いとうないけどな。あんたも悪いんやで」 男はしゃがみこみ、少し首を傾げて彼女の顔をのぞきこむ。 「5番街でショッピングしてきましたって格好丸出しで、きょろきょろよそ見しながらロウアーイーストサイドをうろつきやがって。 ……どうせオーチャード通りの中古衣類かなんかが目当てで、裏通りにふらふらと迷いこんだんやろうけどな。 俺にぶつからんでも、どっかでホールドアップに会うてるわ」 「……」 「どうせ、『ときめきのパーソナルニューヨーク8日間』かなんかの、安い滞在型のフリープランで観光に来たんやろうけどな。英語もろくにしゃべられへん。 現地採用で働いてる昔の大学の友だちかなんかに泣きつこうと思てたんが、向こうさんも仕事で忙しいよって、相手にしてくれへん。 しかたなくガイドブック片手に、ひとりで危ない地域をうろうろしよって、それで『ああ、私ってニューヨーカーライフを満喫してるんだわ』なんて、大勘違いしてる。近頃多いんや。 たかが1回やそこらのパック旅行の経験で、旅慣れた女を気取るやつが」 「な、な、なんでわかったの……?」 「図星、やろ? 神奈川県の越木江梨さん、23歳」 くすりと笑った。 「気絶してるあいだ、バッグの中見せてもろたんや。旅行会社のネームタグと、 「やさしいトラベル英会話」と「すてきなニューヨーク暮らし」の本、パスポートの裏に友だちの住所のメモ。 これだけ見れば、いやでもわかるわな」 「ひ、ひ、ひどい! 勝手に人のバッグをのぞくなんて」 「泊まってるホテルの名前が、早く知りたかったんや。自分、ここからホテルへの帰り道もろくにわからへんやろ?」 「……ここ、どこ?」 男はため息をついた。 「やっぱりな。送ってったるわ。地下鉄の駅まで」 「け、けっこうです。ひとりで帰れます」 「あほ言うな。どうせ西も東もわからんくせに。通り一本間違うて、また危険区域に入ってしまうで」 男はほとんど飲んでいない紙コップを江梨の手から取り上げて舗道に置くと、彼女を助け起こし、さっさとグレーのコートの裾をひるがえして行ってしまった。 彼女はためらった挙句、おぼつかない足取りで、そのあとを追う。 唇を噛んだ。 何なのだ、いったい。よそ見をしていた彼女も不注意とは言え、悪いのはぶつかってきた彼の方ではないか。 なぜ、こんなにぽんぽんと一方的に叱られなければならないのだ。しかも立て板に水を流すような関西弁で。 叱られてばかり。 ゆうべ電話で香織にも叱られた。あなたは考えが甘いって。 私はこの国で、毎日必死に働いて生きているのだから、軽い気持ちで頼って来ないでって。 大学で親しい友人だったから、訪ねていけばいつでも助けてくれるだろうと思っていた。 卒業して1年半。香織とのあいだには、もうこんなに差がついていたのだ。 それに比べてわたしは。 早口の英語のニューヨーカーたちとのちっとも通じないやりとり。お湯が出ないホテルの風呂。乗り方がわからない地下鉄。 着いたときからずっと、へこむことばかりの毎日なのに、変な日本人の男にぶつかったかと思うと、買ったばかりのブランドものを失くされ、 お尻を撫でられ、よく見ればストッキングまでほつれている。 自分を変えようとして来たはずのニューヨーク。結局、通りのショーウインドウの中に写るのは、少し背をかがめて、人の言いなりになるいつもの自分だった。 「あの、……あの、あのうっ!」 江梨は、ほとんど小走りになって、男の横に並ぶ。 「なんや」 男は振り返った。「お、やっと歩き方が元気になってきたな」 「あの、お名前をまだ聞いてませんが」 「あ、そうやったか。俺、神園修悟。大阪府出身。24歳。よろしくな」 「神園さんは、なぜあんなにあわてて走っていたんですか?」 「え?」 「それに普通だったら、いくら急いでいる途中でも、ぶつかって気を失った私を担いで歩いたりしません。その場で介抱するか、 ほっとくのがせいぜいだと思う」 「きみがあんまり美人でええお尻しとったから」 「……」 「ああ、そこでつっこみが欲しかったな。『あほかいな!』てスパーンと言うてくれたら、関西人のハートを揺さぶるのにな」 「そ、そんなもの揺さぶりたくないわ!」 「なんや、関西人の男は情が深うて、ええで。なんなら、俺とつきあうか?」 「けっっっこうです!」 「旅行先で、女は恋に落ちやすい。セロトニンとドーパミンの過剰分泌による、一種の興奮状態に襲われてるからや。 そこにもってきて、見知らぬ土地にいる不安。すべてが新鮮で、新しく生まれ変わった感覚。 それまでの人生が抑圧されてればされてるほど、恋にのめりこむ確率は高い。 どうや、心当たりは?」 「いいかげんにしてください!」 嫌な男。なんて嫌な男。 彼はけたけた笑うと、通りの向こうを指差した。 「そこを降りると地下鉄の駅。あんたの泊まってるホテルに帰るなら、なんーも考えんと、来たアップタウン行きに乗って、ロックフェラーセンター駅で降りればいいから」 「……」 「階段踏み外したらあかんで。ほな、気をつけて。バイバイ」 「あの、待って」 しゃべるだけしゃべりまくって、さっさと行ってしまおうとする関西男に、突然マグマのように憤怒が湧き上がった。 「なんや。なんで行かへんのや」 「なんていうか、そんな一方的な話ないんじゃない? ごめんなさいのひとことくらいあったってバチは当たらないでしょ。そりゃよそ見をしてた私も悪い。悪いから、買い物をなくしたことはあきらめるけど、すごい勢いでぶつかってきたのはそっちなのよ。 もしかすると頭を打った後遺症が出てくるかもしれないし、連絡先くらい教えてくれてもいいんじゃないの?」 男はそれまでの笑顔を消して、じっと正面から彼女を見つめた。 「……少しでも早く俺から離れたほうが安全やと思たんや」 「え?」 「お願いやから、はよ行ってくれ。俺のそばにいつまでもおらんほうがええ」 「……」 「俺は……」 修悟の肩がぴくりと動き、切れ長の瞳が険しい色を帯びた。 「遅かったか……」 彼は江梨の手をぐいと引いた。 「いっしょに地下鉄乗るで」 彼の持っていたメトロカードで、銀色の改札機をくぐる。 地下鉄のホームを奥へ、奥へと歩いていく。 何気なさを装っているが、そのくせ痛いくらい江梨を引っぱり続ける。 何が何だかわからない。 やがて電車がホームに入り、ふたりは乗り込んだ。 「後ろを振り返るな」 うつむきがちで低く命じる修悟の声は、さっきまでの快活さのある響きとは別人のようだ。冗談を言っているのではない。 江梨は、振り向きたい衝動と必死で戦っていた。背中から巨大な影が今にも襲いかかってくるような錯覚に足がすくむ。 しかたなく目を落として、いまだにぎゅっとつながれたままの彼の手に意識を集中させた。指が長く爪の形のよい、きれいな手だった。 地下鉄は次の駅の手前でスピードを落とし始めた。 かたりと音を立てて車両が傾くような感覚がしたとき、彼は物も言わず、江梨を胸に抱き寄せた。 その拍子にふわりと彼の匂いがした。樹木系のコロンと、幼い頃、父親の背広を吊った箪笥を開けたときのような懐かしい香り。 心臓がとくんと打つ。 車両が駅に着き、すぐそばのドアが空気を吐き出しながら開いても、彼はそのまま誰にもはばからず、江梨をきつく抱きしめる。 ドアが閉まりかけたとき、いきなり彼女を横抱きにして、車外に飛び出した。 「きゃあっ」 閉まったドアに、江梨のショルダーバッグが挟まる。修悟は、それをありったけの力で引きずり出した。 ドアのガラスの内側では、数人の東洋人らしい男たちが、すごい形相で何か叫んでいる。 「走れっ!」 電車が動き出したホームを後に、ふたりは脱兎のごとく走り出した。 長いエスカレーターも駆け上がると、明るい光あふれる地上だった。 「はあ……、はあ……」 彼らは自動車が無秩序に流れる広いアベニューの舗道で、新聞販売スタンドによりかかって荒い息を静めた。 「あんた、何をしたの?」 江梨は、紐のちぎれかけたバッグを胸に抱えて、後ずさった。 「あの男たちに追いかけられてたんだ。だから、私とぶつかったときも、あんなに走ってたのね。……いったいあなたは誰なの?」 「弱ったなあ」 彼女の険悪な表情に、彼は頭を掻いた。 「とりあえず、ここから歩きながら話さへんか。奴らがまた引き返してきよる」 「いやっ。人殺しか誰だか正体のわからない人といっしょに行きたくない!」 「……」 「いったい何をしたの?」 「……人を殺した」 「……うそ……」 「うん、嘘」 修悟は、汗で額にかかった長い前髪をかきあげて、にんまりした。 「……からかわないでよ!」 「あのな。落ち着け。説明してる時間がないんや。ここからすぐ脱出する。江梨ちゃんが俺を信用できひん気持ちはわかる。でも、信じてくれ。俺は何も悪いことはしてへん。 今、俺が人を殺したと言ったとき、きみは嘘と言った。もし君の直感が俺がそんな人間やないと判断したのなら、そのまま俺を信じてくれ。信じられへんのやったら、ここで別れよう。 ……どうするかは君にまかせる」 彼の真剣なまなざしを、江梨はおずおずと見つめ返した。 人を信じるかどうかなんて選択肢には、一度も出会ったことがなかった。 直感だなんて、そんな曖昧なものに頼ったことは今まで一度もなかった。 経験と常識がいつも教えてくれた。安全で確実な道を選べと。 そのとき、江梨の脳裏に、あの映像が浮かんだ。工場のベルトコンベアの上で加工された革製品がゆっくりと運ばれていく。 私はあの規格品ではない。 耳の内側でさやさやと怒りが音を立て、酸っぱい味が舌の付け根にこみあげる。 逆走のレバーが押し倒されたのを感じる。 彼女はうなずいた。 「わかった。こうなったら、事情がわかるまで、とことん付き合ってあげる」 (2)につづく |
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