伯爵家の秘密


第10章「王都騒乱」


(2)

「陛下が?」
 口の中で呆然とつぶやいたエドゥアールは、馬上の使者に詰め寄って叫んだ。「どういうことなんだ。陛下が王宮に戻っておられないということなのか」
 使者は黙したまま、答えない。
「では、リンド侯は? あいつも行方知れずか?」
「わたしにはお答えしかねます。王命を拝し、すみやかに投降してください」
「何が王命だ。プレンヌ公の命令だろう」
 ぎりっと歯を噛みしめ、怒りに蒼ざめていたエドゥアールは、決然と顔を上げた。
「戻って、小隊長に伝えろ。その命令は拒否する。おとなしく捕縛されるつもりは、さらさらないとな」
 少尉は表情をさっと変えたが、何も言わず馬をひるがえして走り去った。
「マティユ、門を閉じろ」
 伯爵は、門番に命じた。どれほど固く閂をかけても、軍隊が相手では時間稼ぎにすぎないのはわかっている。だが、そのわずかな時間が、今の彼らには必要だった。
「ロジェ、アデライド、使用人を全部集めて礼拝堂へ。いざというときは、地下墓所へ逃げこめ。地下通路の見取り図は頭に入っているな」
「かしこまりました」
「外働きの男たちは、馬小屋に立て籠もれ。もし馬を奪われそうになったら、手綱を切って逃がすんだ」
「はい」
 踵を返し館の中に入ろうとしたとき、三人の騎士たちと目が合った。
「ジョルジュ、トマ。おまえたちは悪いが、俺といっしょにいてくれ」
「もちろんです!」
「光栄の極み」
「頼りにしてる」
 彼らの肩をぽん、ぽんと叩いた当主の手は、ユベールの力強い手にからめられた。彼はふだんの無表情が嘘のように、満足げにほほえんでいた。
「神に感謝しています。王都に出発せずに、ここに居合わせたことを」
「どこまでも腐れ縁だな」
 ふたりで笑みを交わすと、次に両腕を広げてエドゥアールの行く手をとどめたのは、家令のオリヴィエだった。
「わたくしも、そばにいろとお命じください」
「おまえは、だめだ」
 エドゥアールは、そっけない調子で返した。「マリオンとオルガを守ってやるのが、おまえの務めだろう」
「いえ、わたくしは、大恩ある伯爵家のために命を――」
「口応えは許さない。以上」
 玄関から続く広間には、マリオン母娘が寄り添ってソファに座っており、ミルドレッドが後ろからアルマ婆さんの肩を抱いている。その両側には、侍女のジルとソニアが、主人を守る護衛さながらに立っている。
 エドゥアールは首から細い鎖をはずすと、後ろにいた父親に渡した。「これを預けておく」
 鎖の先には、ラヴァレ家の当主の印である印璽(いんじ)とともに、『伯爵の部屋』の鍵がつなげられていた。
 灰色の髪の伯爵は、険しい形相で息子をにらんだ。「わたしに尻尾をまいて隠れていろという気か」
「プレンヌ公の狙いは、俺と親父のふたりだ。ふたりとも捕まれば、伯爵家は終わる。どちらかが逃げおおせれば、勝機はある」
「ならば、わたしが行く。公爵の心を縛っているのは、過去の憎悪だ。未来がその責を問われる必要はない」
「それなら、もう遅いよ」
 エドゥアールは、ひどく弱々しくつぶやいた。「プレンヌ公に憎まれているのは、俺もおなじだ。公にとって未来そのものであるセルジュとの仲を、引き裂いてしまったんだからな」
「……」
「オルガ」
 母親の胸で震えていた少女は、おびえた目を上げた。
「若伯爵さま。……恐い。わたしたちどうなるの? お父さまが怒って連れ戻しにいらっしゃるの?」
「だいじょうぶ」
 彼は少女の髪をなでながら、自信たっぷりに笑ってみせた。「お母上ときみが望まないかぎりは、無理矢理にこの谷から連れ出されることはない。そんなことは絶対にさせない」
「はい」
「二階に六枚の肖像画が架かっている部屋があるんだ。その絵の中に、きみが会った幽霊がきっといるよ。そこにじっと隠れていれば、伯爵家代々のご先祖が守ってくれる。わかったかい?」
「はい!」
 放浪民族の老婆は、落ちくぼんだ小さな黒い目で彼を見つめたきり何も言わなかった。何を言っても無駄なことがわかっている。それほどに彼女は、幼い頃からエドゥアールのことを知り尽くしているのだった。
 アルマの額に黙ってキスを落とし、かがめていた背を伸ばすと、
「ソニア。ジル」
 エドゥアールは今度は、ふたりの奥方付きの侍女に顔を向けた。「アデライドたちといっしょに礼拝堂に隠れていろ」
 ふたりは、必死に首を振る。「わたしたちは、ごいっしょにいて奥方さまのお世話を」
「貴族のもめごとに、きみたちを巻き込みたくない。俺たちから離れてさえいれば、使用人にまで危害が及ぶことはない」
「でも」
「命令が聞けないのか!」
 もはやエドゥアールにも説得する余裕がない。有無を言わせぬ激しい口調に、ふたりはびくりと肩をすくめ、お辞儀をすると顔を覆って走り去った。
「ミルドレッド」
 次のことばを悟って、彼女は後ずさりした。
「わたくしは、おそばにいさせてくださいますわね?」
「親父と、ここにいるご婦人がたを頼む」
「いやです。約束したではありませんか。わたくしたちはどんなときも、ずっとともにいると」
 ミルドレッドの唇はわななき、頬は透き通るように蒼白だったが、その目は強い決意の光にあふれていた。「わたくしは、絶対にあなたから離れないと誓いました! そうでなければ、わたくしは何のために、あなたの妻になったのでしょうか」
 エドゥアールは長いため息を吐いた。そうしないと、胸の中にふくれあがる熱い塊が、次に言おうとすることばの邪魔をする。
「鳥が空を自由に飛べるのは、ねぐらがあるとわかっているからだ。人間だって、帰る家があるから、どんなつらい一日の仕事でもがんばれる」
 手を握ろうとしたが、ミルドレッドが嗚咽を漏らさぬように唇を噛みしめているのに気づいて、その体ごと両腕で抱き取った。
「エドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵を殺すことができるのは、剣や弓じゃない。もしきみに万が一のことでもあれば、俺の心臓はすぐに鼓動を止める。もしきみが無事ならば、たとえ地の果てからだって帰ってこれる」
「絶対に……わたくしのもとに戻ってきてくださいますわね」
「戻る。約束する」
 そして、耳元でささやく。「秘密の地図をおぼえているだろう? みんなをあの通路に誘導して」
 ミルドレッドはうなずいた。そして涙で濡れた顔を上げて、雲間の太陽のように明るく微笑んでみせた。
「おまかせください」
「頼んだ」
 エルンストは敗残の兵をまとめる将のように、女たちを助けて立ち上がらせていた。今は息子を信じて行動するしかない。
 オリヴィエは、ランプを手に、ワインや食べものの入った袋を肩に、きびきびと一行を二階へと導いた。昨日の祝宴のご馳走の残りは、はからずも大人数の篭城のための糧食に役立てられているのだ。
 その後ろ姿を見届けると、エドゥアールはふたたび外に出た。
 たくさんのひづめの音が、間近まで迫っている。王立軍の軍服を着た数人の兵士が、縄ばしごを使って塀を乗り越えるのが見えた。
 小隊突入まで、さほど時間はない。


 それは、見知らぬ村の石造りの館の地下室だった。
 すでに昼か夜かも定かではなく、口を貝のように閉ざした男が、四度目の食事をテーブルに置き、出て行った。
 フレデリク三世は、肉とスープの皿をテーブルから払い落とし、水のコップを手に取って匂いを嗅ぎ、慎重に口に含んだ。
「おやおや。王都から連れてきた腕のいいコックの労作だったのに」
 セルジュが入ってきて、床の惨状を見て楽しげに笑った。
「毒が入っているとでも、お思いですか。とは言え、目の前でいちいち毒見をしてさしあげる余裕はないのですが」
 と言いながら、かろうじてテーブルの上に残っていたパンを手に取り、ふたつに割って差し出す。王が片方を取ると、彼は立ったまま、残った方のパンを無造作にほおばった。
「王宮はどうなっている」
「ご心配なさらずとも、元のままですよ。元どおりに父が、臨時の首席国務大臣として采配をふるっています。あなたの失踪も一部の人間にしか知らせていません。陛下が姿をお見せにならないと騒ぎ立てる者もおりません」
 貴公子は口をハンカチで拭うと、薄くほほえんだ。「一年前に時が戻ったのですよ。あなたは王宮の奥で、日がな一日寝椅子に横たわっておられた。傀儡の王として、政治などまるで関心を持たずに」
 国王は、二日ぶりのパンをほとんど噛まずに飲み込み、コップの水を飲み干し、がたんとテーブルの上に置いた。
「何をたくらんでおる」
「何をとは?」
 セルジュは肩をすくめた。「わたしも、元どおりです。父のあやつり人形に戻りました。リオニアとの同盟などという夢物語は捨てて、カルスタンとの【反共和主義同盟】の締結に奔走する毎日です」
「嘘だな」
 フレデリクは、猛禽のような鋭い目でにらみつけた。
「リオニアと本気で事を構える気なら、なぜポルタンスの港で、おおげさな砲台など持ち出した」
 事実、首相と密使を乗せたリオニア帆船は、港に着く前にさっさと川を下って逃げ去ってしまった。倉庫街の小屋で取り押さえられようとしていたフレデリクの目には、セルジュがわざと、相手にクライン王国の異変を伝えようとしたように映ったのだ。
「それにしても」
 セルジュも、そのときのことを思い出したのか、くつくつと喉の奥で笑った。「あなたおひとりを捕らえるのに、あれほど苦労するとは思いませんでしたよ。屈強の男ばかり四人そろえたのに、無傷で済んだ者は誰もいなかったのですからね」
 そして、同じく青あざが点々と残っているフレデリク国王の顔を愉快そうに見下ろした。相変わらず、シャツの下に鎖かたびらを着込んでいる王の体は、監禁生活にもかかわらず勇猛そのものだ。
「妃はどうしている」
「ご無事にてあられます。離宮から一歩も出られない状態を無事と呼べばの話ですが」
「エドゥアールは」
「さあ。今ごろラヴァレ領に追手が差し向けられている頃だと存じます。陛下の失踪は、彼のしわざということになっていますので」
 フレデリクは思わず椅子から立ち上がったが、また腰をおろした。
「セルジュ。なぜ余とラヴァレ伯を裏切った」
「あなたがたは、伯父と甥であられるそうですね」
 国王は、ひそめていた眉をわずかに上げ、平静を装った。
「初耳だな。まさか、そんな戯言(たわごと)を信じているのか」
「戯言ではなく、事実です。王位継承権を持っているのは、わたしではなく彼だということも」
「それが、父公のもとに寝返った理由か」
「それだけではありませんがね」
 金色の髪の侯爵は、手に持っていたパンの残りを床に落とし、それを乗馬用のブーツの先でぐいぐいと踏みにじった。
「父はすでに狂人です。ファイエンタール王朝への恨みだけで生きている。その復讐心を、武器商人ギルドに利用されたのです」
「武器商人ギルド?」
「父がカルスタンと手を結ぶように、そそのかした連中です」
 セルジュは笑いを含みながら、説明する。「カルスタンの国境紛争を背後で操っているのも、ギルドです。大陸に根を張り、絶えまない戦火を望む巨大な組織に、わが国のような弱国が敵うはずがないと、遅ればせながら悟りました」
「どうして、そのようなことを?」
「ルネという名の父の密偵が教えてくれました。奴は父親の代からギルドの一味だそうです。わたしにも服従せよと露骨なことばで脅してきました」
「なるほど」
「陛下。取引に応じなさいませ」
 セルジュは、芝居じみた仕草でブーツのかかとをそろえ、頭を下げた。
「今までどおり王宮の奥にひきこもり、王妃さまと睦まじくお過ごしください。カルスタンと軍事同盟を結び、かの国の言いなりにリオニア国境に派兵するのです。そうお約束くだされば、今すぐにでも王宮にお帰しいたしましょう」
「断る」
 即座に、王は噛みつくように答えた。「我ながら馬鹿げた性分だが、そう聞くとますます引っ込むわけにはいかなくなった」
「それは残念です」
 セルジュは肩をすくめた。凍てついた蒼い瞳の奥に、何の意図も読み取れない。「それでは、わたしが御身の代わりに玉座に就く日まで、ここで過ごしていただきましょう」


 整列した王立軍の騎兵たちの前にはだかったのは、白いシャツとジレ、ひざ丈のキュロットという簡素な服装の黒髪の若者だった。武器も携行していない。だが、その立ち姿だけで、兵は館の主が彼であることを悟った。
「おまえたちの前にいるのは、ラヴァレ伯爵家の正統なる継嗣、エドゥアール・ド・ラヴァレだ。それに騎乗の高みから対峙しようというのか。下馬せよ!」
 王家に仇なす犯罪人を捕らえようと息巻いてきた兵たちは、その凛然さに圧倒された。
 小隊長らしき壮年の将校がまず馬を下り、全員がそれにならった。
「ご無礼つかまつり、申し訳ありませぬ」
 と、型どおりに敬礼する。「わたくしは、王立陸軍第二騎兵隊、第八小隊の隊長、シャブラン少佐です。貴殿を王都にお連れすべく、遣わされてまいりました」
「すでに返答したとおり。俺は潔白だ。陛下の拉致誘拐などに関わっていない。したがって捕縛されるいわれはない」
「そのようなご弁明は、王宮裁判にて申し述べていただきます」
「断わる。その命令をくだしたプレンヌ公のほうこそ、誘拐の首謀者として調べるがいい」
「それでは、しかたありません。力づくで連行させていただきます」
 あらかじめ手順が定められていたものか、数名の兵が剣を抜いて、威嚇するように突き出した。さらにもう二名が前に進み出て、エドゥアールを両側から捕らえようとする。
 伯爵の背後にいた三人の騎士たちも、呼応して腰のものを鞘から放った。
 睨み合いの時が過ぎる。
 緊張のさなか、領館の左手の死角で何かが動く気配がした。
 ユベールは耳聡く物音を聞きつけ、「後を頼む」とジョルジュたちに言い残して、走り出した。
 唐突な敵の動きに、兵たちの視線は否応なしに引きつけられた。それをエドゥアールは見逃さなかった。
 ふたりの兵の間をすばやくすり抜け、瞬時に将校の腕をぐいとねじり上げて、背中に回りこむ。
「動くな」
 いつのまにか、その手には小隊長の腰にあったはずの短剣が握られている。
 小隊長も必死に反撃しようとしたが、ねじりあげられている腕はびくともしない。首筋にぴたりと鋭い刃を当てられるのを感じ、彼は抵抗をやめた。
「部隊をいったん引き上げるように命じろ」
 落ち着きはらって、伯爵は言った。「全員が谷から退却したのを確かめた後、あなたを解放する。王都には、いずれこちらから出向くとプレンヌ公に伝えよ。陛下の失踪についての真実は、必ず突き止めてみせる、とな」
「そ――そんな条件は飲めません」
「それじゃ、ずっとこの領館にとどまってもらう」
 エドゥアールは茶化したように付け加えた。「食事は美味いが、地下牢の寒さはこれからの季節、老体にこたえるぞ」


 ユベールは建物の向こうに回りこみ、静まりかえった木々のあいだを、剣を手に注意深く進んだ。人影は見当たらない。
(気のせいだったのか?)
 そう考え始めた矢先、思いがけぬ方向から攻撃が来た。
 間一髪でかわし、後ろに飛び退る。
「おまえか」
 白くのっぺりした顔が笑っていた。たしか名前は、ルネ。ユベールの父アンリと刺し違えた男と、瓜二つの息子だ。
「何をしている」
「わが主が、ラヴァレ伯爵父子の生命を所望しているので、受け取りに来た」
「そうはさせぬと、帰ってプレンヌ公爵に言え」
「そっちの主ではないのだが、まあ今は置いておこう」
 もって回った言い方に、不快なものが体内を駆け巡ったが、ユベールにそれを問いただす暇はなかった。
「貴様とは、いつか戦いたいと思っていた」
「同感だな」
 語尾と同時に閃光のように突き出された剣を、体をひねって難なくかわすと、ユベールは反撃に転じた。
 鋼がぶつかり合う音が木々に木霊する。激突はときおり斜めに反れ、背後の木をえぐって木っ端を飛ばした。
 ユベールは一瞬、自分が九年前のラトゥールの森にいるような錯覚を覚えた。
 彼は今、父アンリ・ド・カスティエの魂とひとつになって、あの男の息子と戦っているのだと、恍惚に似た錯覚に襲われる。
 父の死を悔い続けてきた年月がようやく終わる、この日を彼は待ち望んでいた。
 ふたたび叩き込まれた斬撃を、剣の腹で巻き込むようにして跳ね上げ、一気に相手のふところに飛び込んだ。
 剣先に確かな手ごたえがある。
 いったん後ろに下がり、相手の状態を確かめようとしたとき、背中に衝撃を感じた。
 木の陰に、伏兵がいたのだ。
「く……」
 視界がすっぽりと白い霞におおわれ、その向こうから、光る刃が彼の胸を目がけて迫ってくる。


「危ない!」
 ジョルジュの悲鳴に、エドゥアールは敏捷に反応した。
 だが、ふたりの体が地に伏せるには、とうてい間に合わない。彼の盾の位置にいた小隊長の肩口に、飛んできた矢が突き刺さった。
「ぐわっ」
 のけぞる小隊長の体をとっさに後ろから支え、そっと横たえると、エドゥアールは短剣を握ったまま、矢が飛んできた方角に走り出した。
 後を追おうとした兵たちの前に、ジョルジュとトマが抜き身の剣を持って立ちふさがった。
 矢を放った黒ずくめの男は、木々の合間を縫うように走り去る。明らかに、王立軍兵士ではない。
 恐ろしい考えが浮かんだ。
 王立軍は囮(おとり)で、別働隊がひそかに領内に侵入していた。そして、そいつらの目的は、伯爵父子をふたつに分断し、その一方を確実に仕留めること――。
 そこまで考えて、血が逆流する。
 エドゥアールは男に追いついて、背後から飛びついた。落ち葉の地面をころがりながら揉み合っているうちに、相手の肘を食わせられ、短剣が吹き飛んだ。
 落ちていた枝をとっさに拾って、相手の攻撃を受け止める。枝は難なく折れたが、うまく攻撃をそらし、さらに折れた先端が相手の目に当たった。
 悲鳴を挙げて顔を押さえた敵の腹に、とどめの拳を入れた。
 力なく地面に崩れ落ちた体を飛び越えて、エドゥアールは森の中から領館の裏手に回った。
 そこで見たのは、信じられない、信じたくない光景だった。
「ユベール」
 彼のそばには、ふたつの死体がころがっていた。
 ひとつは見知らぬ男。もうひとつは、王宮でプレンヌ公の後ろに影のように侍っていた密偵。すでに生気を亡くした目は、自らの死に驚いているように、かっと見開かれていた。
 そして、血塗れの剣を握りしめたまま、近侍の騎士は芝の上に座り込んでいた。その灰緑色の瞳は、はるか地平を仰ぐがごとくに焦点を失っている。
「ユベール!」
 抱きしめただけで、その黒衣がぐっしょりと血に染まっているのがわかる。
「若さま」
 彼は、ようやくエドゥアールに気づき、かすかに笑んだ。「ご無事で」
「ばか……そっちが無事じゃないだろう」
 嗚咽で、呼吸ができない。「……死ぬな」
「死にませんよ」
 主の腕に抱かれ、くぐもった声で騎士は答えた。「そんなことをしたら……あなたはまた父のときのように……ご自分を責めるでしょう」
「そうだ。わかってるなら、死ぬんじゃねえ!」
 だが、もう答えはなかった。
 そのとき、ひとりの少女が森を抜けて、ころがるように走ってきた。
 仲間の使用人たちの制止も聞かず、礼拝堂を飛び出した。男たちの怒号や剣が交わる音が外から聞こえ、ご主人さまが危ないのだと思ったとたん、もう自分が自分で止められなかった。
「若旦那さま!」
「……ソニア」
 エドゥアールは金髪の騎士を腕に抱きしめながら、頼りなげに揺れる水色の瞳を上げて、メイドを見た。
「ユベールを頼む……早く手当てを。決して……決して死なせないでくれ」
 ソニアは、惨劇の場にぐいとひざまずき、主の手に自分の手を添えた。
「はい。私の命に換えても、きっとお助けいたします」
 伯爵は、彼女の腕にユベールの体を残してゆっくりと立ち上がり、血で真っ赤に汚れたシャツの袖で涙を拭いた。
 そして、領館の正面玄関に向かって歩き出す。
「……若さま!」
 それまで王立軍を、絶妙の連携で食い止めていたジョルジュとトマは、当主の悲惨な姿に絶句した。
 エドゥアールは、王立軍の兵士たちの前に立ち止まり、うつろな声で言った。
「剣を引いてくれ。もう十分だ。――おまえたちに投降する」
             




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