伯爵家の秘密


第10章「王都騒乱」


(6)

 ラガス島は、東の群島海域で最も大きい島だ。
 特に西の港は、異教徒との交易の中継地点として、ほとんどの船が水の補給や荷物の積み下ろしに立ち寄る。港のそばには、派手な看板の宿屋や酒場が立ち並び、すすけた山吹色の屋根の家屋が隙間なく町を埋める。高台には大商人の屋敷が点在し、豊かにふりそそぐ南国らしい陽の光が、白い壁をさながら灯台のように輝かせていた。
 春まで根雪の下にうずもれているラヴァレの谷とは、まるで別天地だ。
 エドゥアールも上半身裸になって、流れる汗を風で乾かしていた。さっきまで、大きな羊毛の荷を肩にかついで甲板の上を往復していたのだ。
 手首は、まだゆるい鎖で結ばれているが、足の枷は、とうの昔にはずれた。背中に幾筋かあった赤いみみず腫れの痕も、ほとんど消えかけている。
 航海のはじめの数日は、彼を蹴飛ばしたり棒で打った輩もいたが、エドゥアールは文句も言わず平然としていた。やがて船員たちは、そんないやがらせをするより、彼を自由にさせていたほうが、何倍も自分たちが居心地良くなることを悟った。
 味気ない食事は一流の料亭に負けぬものとなり、ロープの端のほつれは丁寧に巻き直され、タライの洗濯物は、知らない間にきれいに洗われて甲板にひるがえっているのだ。
 誰もが、この伯爵らしくない伯爵に一目置くようになり、船長でさえもが彼が奴隷として売られる捕虜であることを、ときどき忘れた。
 港に接岸すると、雇われ船員たちは先を争うように船を下り、なじみの娼婦のところや、安酒を飲ませる酒場に繰り出していった。代わりに船に乗り込んできたのは、荷役人夫たちだ。どこの港にも、必ず荷役人夫たちのギルドがあり、荷の陸揚げや積み込みを一手に引き受けている。
 甲板長と書記が降り口に陣取って、荷物の積み下ろしを指示しているので、さすがに隙をついて逃げ出すのはむずかしい。船べりにもたれて、ぼんやりと港の様子を眺めながら、エドゥアールは追憶に身をひたしていた。
 クラインを出港して半月あまり。頭の隅のどこかで、祖国に戻れなくなることを覚悟し始めた。
 正直に言えば、絶望して舌を噛み切ろうという誘惑に駆られたことも、一度や二度ではない。だが、そのたびに、たくさんのものが彼を押しとどめた。
 それは、愛するミルドレッドの面影であり、病身の父への思慕であり、ラヴァレの領民たちへの責任、そしてクライン王政に対する強い変革の思いだった。
 もし、これから向かう異国に自分の運命があるならば、甘んじて受けよう。しかし、彼のなすべきことが、まだあの美しい国にあるのなら。
(どんな苦難があっても、いつかきっと帰れる日は訪れる)
 力をこめて船べりをつかみながら、そう自分に言い聞かせる。
 荷役人夫たちの働きを見るともなく見ていると、運び込まれる木箱の中は、どうやら剣やボウガンなどの武器ばかりだ。
 大陸からは鉄製の安価な武器を大量に輸出し、異教徒の国からは高価な火薬や大砲を買い付けてくる。武器商人ギルドは世界各地に支部を持ち、その商いで巨万の富を得ているのだ。
 嫌悪に満ちた目で眺めていたエドゥアールは、ふと荷運びの人夫の顔を見て、「うわっ」と叫んだ。
 知った顔がある。イサドラの娼館に来ていた元船乗りだ。
(ま、まずい)
 囚われの身になって連れられてきた遠い異国で、同胞に会うのはかぎりない喜びだ。たとえそれが自分の大嫌いな人物だったとしても、この際それは水に流す。しかし、この相手だけは悪すぎた。
 イサドラの娼館で、ネネットの服をやぶり暴力で凌辱しようとしたヘンタイ男。エドゥアールは彼をぼこぼこに殴って、ポケットから金まで抜き取ったのだ。どんなに拝み倒そうと、力になってくれそうな気はしない。
 じろじろ見られていることに気づき、男はエドゥアールを胡散くさそうに見返した。
「ひ、久し振りだな。お客さん」
「あっ」
 荷役人夫はかっと目を吊り上げた。あのときの痛みと怒りを思い出したのだろう。
「き、き……」
「そう、奇遇だよね。こんなところで会うとは」
「きさまあっ!」
 エドゥアールは、つかみかかってくる男の手をすりぬけた。
「きさまのせいで、しばらく俺は船乗り仲間から、いい笑い者になったんだ」
「二年も前の話だろ。勘弁してくれよ」
 マスト台の回りを、ぐるぐる追いかけ回される。
「で、あんた、まだ船乗りなんだろ? こんなところで何をしてるんだ?」
「うるさい。きさまの知ったことか」
「ふーん。いつもの悪い遊びで娼婦に怪我でもさせて、娼館の主人にとっつかまって弁償しろと脅されて、しかたなく出航まで日銭を稼いでるとか」
 男は、ぴたりと足を止めた。どうやら図星だったようだ。そうでなければ、結束の固いギルドが余所者を雇うなど、普通はありえない。
「だけど、いいよな。あんたは、すぐにクラインへ帰れるんだから」
 エドゥアールは、ぺたんと甲板に腰をおろし、さめざめと泣きだした。「俺、あんたを殴ったバチが当たったんだ。こんな目に会うなんて」
 男はようやく、彼の腕にはめられている鎖に目を留めた。
「売られたのか」
「ああ。イサドラ女将のところを逃げ出して、遊び放題やってたら、とうとうバクチで莫大な借金作っちまった」
「ほお」
 男の口元に、人の不幸を喜ぶ、いやらしい笑みが浮かんだ。
「ああ、お願いだから、ポルタンスに帰っても、俺のことは街の連中に言わないでくれよな。特にミストレスには絶対に内緒だ。もし、商船【アンディス・ソレール】号で奴隷になってるって知れたら、恥ずかしくて死んじまうよ」
「ああ、わかった。内緒だな」
 男は実にうれしそうに答えた。親方に呼ばれて、あわてて下船していく男の背中を、エドゥアールは祈るように見つめた。


 王宮の門に立つ衛兵は槍を突き出して、近づいてきた男を誰何した。
「止まれ。何用だ」
 男は、じろりと威圧的な目で彼を見返した。
「おまえは、おのれの守っている王の顔も知らぬのか」
「へ、陛下!」
 衛兵が見間違えるのも、無理はなかった。フレデリク三世は、つば広の帽子をかぶり、粗末な外套を羽織り、まったく市場の行商という格好をしていたのだ。
 たちまち、王宮は大混乱に陥った。ふた月あまり行方不明だった国王が、ひょっこりと自分の足で歩いて帰ってきたのだ。
 フレデリクは、幽霊を見たかのようにおびえている侍従や貴族たちを尻目に平然と奥へ進み、行商の服装のまま玉座にどっかと座った。
 侍従たちが、わらわらと近寄ってきた。
「お帰りなさいませ、陛下。よくご無事で」
「ああ」
「二ヶ月ものあいだ、どこにおわしましたか」
「キツネ狩りに出かけて、道に迷っておった」
「は?」
 ぽかんとする侍従たちに、王はからかうような笑みを浮かべた。
「リンド侯爵を呼べ」
「もうすでに、おそばに」
 背後のうす暗がりから声がして、ぎょっとする。
 セルジュ・ダルフォンスは正面に回り込み、深々と拝礼した。「陛下ご不在のあいだ、やがてはわたしのものになる玉座を死守しておりました」
 国王は、ふんと鼻を鳴らした。
 しばらく見ぬ間に、若き侯爵は殺伐とした気をまとっていた。それまでは、切れ者ではあっても、どこか深窓で育ったゆとりのようなものが漂っていた。だが、今はまるで最前線に立たされた将校のようだ。微笑みを浮かべても、なお険の残る頬の硬さに、彼がこの二ヶ月味わってきた苦悩を見た思いがした。
 あの夜、セルジュの手配した馬車に乗って、エドゥアールは王牢から出され、王の隠れている地下室に無事に連れてこられるはずだった。
 もし彼が来れば三人でこれからの対策を練ることになっていた。農村のワイン貯蔵庫は若々しい活力にみなぎり、さながら臨時政府という趣になっていただろう。
 だが予想に反して、隠れ家にやってきたのは、セルジュひとり。
『先手を打たれました』
 ひとこと短く言って金髪の貴公子はかたくなに口を閉じ、次の日からふっつりと姿を見せなくなった。エドゥアールの行方を追って走り回っていたに違いなかったが、口が裂けても、そんなことを認めるはずはない。
 エドゥアールを連れ去っていったのは武器商人の一味であることを国王が知ったのは、その数日後にギルドからの脅迫状が届けられたからだった。
 さらに、エドゥアールのものと思われる血判がついた書状を受け取るに及んで、フレデリクの気力が折れた。もう降服するしかなかった。
 敵のすべての条件を呑むことを承諾すると、すぐにセルジュの従者の御する馬車で王都へ帰された。
「約束は果たしたぞ」
 王は玉座の背にもたれて、両腕を広げた。「余は王宮に帰ってきた。カルスタンとの軍事同盟にも署名しよう。そして王宮の奥に引きこもり、二度と政治には口を出さぬ。それでよいか。まだ何かほかにあるか」
「何も。あとは、わたしを直々に次の王にご指名くだされば」
 セルジュが膝をかがめながら答えた。「名ばかりの傀儡の王となって、立派にこの国を商人どもの手に売り渡してみせましょう」
 怒りと苛立ちに満ちた沈黙が、ふたりの上に降りた。
 何もできぬ歯がゆさ。エドゥアールを敵の手に取られている以上、打つ手はない。
 広間の大扉が開き、紅の礼装をまとったプレンヌ公、エルヴェ・ダルフォンスが入ってきた。
 フレデリク王は、かすかに片眉を持ち上げた。公爵の頭を彩っていたはずの豊かな金色は、わずかな間に白髪まじりとなっていた。すべての権力を掌中にし、わが世の春を謳歌しているかに思えたプレンヌ公は、避けられぬ老いに自分の体を明け渡していたのだ。
「おかえりなさいませ。陛下」
 張りを失った割れた声で挨拶しながら、この国の第一権力者は軽く頭を下げた。「ご壮健とお見受けしました。何よりのこと」
「そなたは顔色が悪いな。少し酒量が過ぎるのではないか?」
「ご慧眼いたみいります」
 言葉は慇懃ながら、情のこもらぬ会話は相変わらずだ。父の後ろでセルジュは、さながら彫像のように存在を消している。
「二ヶ月のお留守のあいだに、政(まつりごと)が滞っております。お疲れとは存じますが、さっそくご公務を」
「うむ」
「カルスタンの使者が控えの間におります。すみやかに謁見の儀を手配いたします」
「そのまえに」
 ささいな雑事とばかりに、素気なく言う。
「ラヴァレ伯爵のことだ。余は、自らの意志で姿を隠しておった。それゆえ伯の罪状は、拉致監禁にも国家反逆罪にもあたらぬ。そなたが余の名で出した死刑執行命令を今すぐ撤回し、伯の名誉を回復せよ」
「承知いたしました」
 プレンヌ公は、笑いを噛み殺すように口元をひきつらせた。
「しかしながら、やや遅うございました。かの男は一ヶ月前に看守を殴りつけて王牢を脱獄し、現在も逃亡中であると聞き及んでおります」
「しらじらしい」
「は、何か?」
 玉座の甥と下座の叔父は、互いに冷たく目をそらした。
「余は疲れておる。使者との謁見は、明日以降だ」
 有無を言わせず、玉座から立ち上がった。「今から、アメリア宮へ行く」
「おそれながら」
 プレンヌ公の表情を伺いながら、侍従のひとりが申し上げた。
「王妃さまは、先月にお風邪を召してからずっと体調がすぐれませず、伏せっておられます。医者の診立てでは、今はどなたともお会いになれぬと」
 フレデリクは、目を吊り上げて「はっ」と笑った。
「余には、妃に会う自由もないのか。王宮とは名ばかり、牢獄と変わらぬな」
 プレンヌ公は、「これはしたり」と驚いてみせた。「御身を案ずる家臣たちが、陛下には牢獄の看守とお見えになるらしい」
「もうよい。下がれ!」
 そのとき扉の外で、時ならぬざわめきがあった。
「なにごと」
 聞き咎めた侍従のひとりが兵を差し向けようとしたとき、扉は内側へ大きく押し広げられた。
 誰もが、「あっ」と叫んだ。
 侍従たちも、プレンヌ公もセルジュも、そしてフレデリク三世でさえも。
「お久しゅうございます。国王陛下」
 ステッキをつきながら、ゆっくり入ってきたのは、公爵の礼装を身に着けた長身の老人だった。「久しいな。エルヴェ」
「おまえは――」
 プレンヌ公は、あおざめた唇でつぶやいた。
 ユルバン・ド・ティボー公爵。
 王牢を隠れ家としていた元クライン王国陸軍元帥が、五年ぶりに王宮に現れたのだった。


「不思議ですわ」
 ミルドレッドはカップから口を離し、ほっと満足げな吐息を漏らした。
「どんな場所でいただくよりも、この暖炉の前で飲むメレンゲ入りチョコレートが一番おいしいのですもの。まるで魔法のよう」
「それは、ここがあなたの生まれ育った家だからですよ」
 母親が、いたわるように娘の肩を抱く。「ねえ、もう少しだけ滞在を延ばせないの」
 ミルドレッドは首を振った。
「もう王都でできることはなくなりました。領地の経営も、オリヴィエやロジェに任せきりなんですもの。早く戻らなければ」
「せめて雪解けまで、こちらにいらっしゃいな。……いいえ、これからもずっと私たちといっしょに」
 抑えきれない涙を流しながら、ダフニは訴えた。「昔どおり、親子三人でいっしょに暮らしましょう。そうしたって、誰もとがめませんよ。だって……あなたはエドゥアールさまと一夜さえ、ともにしていないのに……」
「お母さま」
 ミルドレッドは微笑みをたやさずに、母親の頬を伝う涙をぬぐった。「ありがとうございます。それほど気にかけてくださって。でも、それはできないわ。もし、たとえわずかでもエドゥアールさまを忘れるようなことがあれば、わたくしは一生、自分のことが赦せなくなります」
「ミルドレッド」
「わたくしは、希望をなくしてなどいません。絶対にエドゥアールさまは戻っていらっしゃいますから。カードゲームなら、全部のチップを賭けてもいいわ」
「ああ、おまえの気のすむようにすればよいよ」
 パルシヴァルは深くうなずき、安楽椅子から立ちあがった。「迎えの馬車が来たようだ。そこまで送ろう」
 ミルドレッドは両親にかわるがわる別れのキスをすると、侍女のジルが温めておいた毛皮の帽子をかぶり、ミトンを手にはめた。父は、旅立つ娘を見送るため、玄関の間まで先立った。
「娘よ」
 父は背中を見せたまま、低くやさしい声で言った。「おまえの決めた道を行きなさい。何があってもダフニとわたしは、おまえの味方だから」
 ミルドレッドは歯を食いしばって堪えていたが、虚勢を張るのはもう限界だった。
「お父さま」
 父の腕の中に飛び込み、大きくて少し葉巻臭いガウンに顔をこすりつけて、泣いた。


 フォアマストの見張り台に登っていた水夫が、悲痛な叫び声をあげた。
「海賊船だーっ」
「なんだと!」
 甲板にいた水夫たちも、船倉にいた水夫たちも、たちまちのうちに舵の回りに集まってくる。
「ばかやろ、なんでもっと早く見つけねえ」
「相手の船足が速すぎるんだ。四本マストだなんて反則だ!」
 島影にひそんでいたらしい黒塗りの船は、ぐんぐん迫ってくる。それまで、向かい風の中をジグザグに間切りながら走っていた【アンディス・ソレール】号は、あわてて反転しようとしたが、時すでに遅かった。
 商船にとって最もおそろしいのは、嵐と火事と海賊だ。
 嵐と火事は、積み荷も船もろとも持っていく。だが運がよければ、切り抜けて助かる場合もある。海賊は船は壊さぬが、積み荷と人の命を根こそぎ奪うのだ。命が助かっても、死ぬまで海賊船の漕ぎ手とされる。
 特に武器運搬船は、狙われることが多い。積み荷が高値で取引できるからだ。そのため雇われる水夫たちは皆、一流の戦士でもある。
 上甲板の武器庫が開かれ、手に手に大剣や弓が回された。船側の砲門がするすると口を開けた。
「絶対に、積み荷を奪われるな!」
「おおっ」
 船長は、操舵手に細かな指示を与えると、甲板にひとり取り残されていたエドゥアールをギロとにらんだ。
「捕虜を、閉じ込めておけ」
「はっ」
 ひとりの水夫が彼をせきたて、船倉へのはしごを降りさせた。
 船索がとぐろを巻く倉庫に引きずり込むと、水夫はエドゥアールの手の鎖を、天井からぶらさがる船具用のフックに鍵ごと結びつけた。
「お、おい。これじゃ船が沈んだら、俺はどうなるんだよ」
「いっしょに沈め!」
 言い残して、水夫は扉をばたんを閉めて出て行った。
 天井から半分ぶらさげられたバンザイの格好で、エドゥアールはひとり取り残された。
 やがて、商船、海賊船双方の砲門が開かれたらしく、轟音とともに、みしみしと船体が悲鳴を上げた。直撃でもあったのか、船体はほとんど横倒しにならんばかりだ。
「冗談じゃねえ」
 このままでは、ほんとうに海の藻屑になってしまう。
 エドゥアールは、両足をこすり合わせて、履いていたブーツを脱いだ。靴の中から、コトリと小さなナイフが落ちる。
 それは、チーズ用の小型ナイフだった。厨房の手伝いをしていたときに、隙を見てこっそり靴底に隠したものだ。それ以来、夜中に起きだしては何日もかけて、手錠の鎖を慎重に削ってきた。あと少しで鎖の継ぎ目が千切れるはずだった。
 船の揺れを警戒しながら、ナイフを足の指にはさんだ。宙返りの要領で足を上に伸ばし、手にナイフを渡す。
 船の沈没が早いか、それとも海賊との戦闘のどさくさにまぎれて、海に飛び込むのが早いか。
 必死の作業が功を奏して、ナイフが折れるのと、鎖がぽとりと床に落ちたのは、ほとんど同時だった。
 船倉をさぐり、積み荷の中から小ぶりの剣を一本抜き出すと、梯子を一気に駆け上がった。
 甲板から、もんどりうって人が転がり落ちてくるのを、とっさに避けた。
 もうすでに砲撃はやんでいる。海賊たちは次々と商船に乗り移ったらしく、あちこちで剣戟の火花が散っていた。
 状況もわからずに、その中に飛び出すという愚はおかせない。用心深く甲板に上がり、マストに張られた段索の太い結び目の影に隠れた。
 血しぶきに濡れた甲板には、すでに何人かの水夫が倒れている。すっかり戦意を喪失してうずくまってしまった者もおり、ほかの者も降伏して、武器を捨てて座り込んだ。船長もいた。
 勝負はあっけないほど、一方的に終わった。
 勝ち誇った海賊たちが、武器を高々と上げて勝ちどきを上げる。その背景で、海賊船のマストにするすると旗が揚がった。
 それを見た商船の水夫たちは、驚愕のうなり声を発した。
「ドクロに王冠の旗――」
「【海の帝王】だ!」
 長身の男がひとり、歓呼の声に迎えられて、船べりを飛び越えてきた。
 頭部を覆う真紅の絹のスカーフの下から、長い褐色の髪がなびいている。金ボタンをはずして前をはだけた上着からは、同じく真紅の帯だけを巻いた、たくましい上半身が覗く。
 エドゥアールは、姿を隠していたことも忘れて立ち上がり、彼に見惚れた。
 ほとんど同時に、男のほうもエドゥアールに鋭い一瞥をそそいだ。
「あんたは、クラインのラヴァレ伯爵か?」
 一海里先までも通るような、おおらかな声だった。エドゥアールは迷ったが、すぐに答えた。
「そうだ」
 それを聞いた海賊の長は、日に焼けた顔を笑み崩した。
「そりゃ運がいい。俺たちはずっと、あんたを探してたんだ」


 海賊船【ラフィユ・ノワール】号の船長室は、まるで玩具箱のようだ。狭い船室の中に、男の必要とするあらゆるものが詰め込まれている。作りつけのキャビネットには、あらゆる種類の酒、中央にはポーカーテーブル。そして大きな海図を背にして、女性を連れ込む用途を兼ねた特大のソファ。
 そのソファで、【海の帝王】がコニャックを舐めていた。さぞ美酒だろう。今日の獲物は、剣とボウガン合わせて売価十万ソルドはくだらない。
 彼の前に立たされ、両手首をさすりながら、捕虜だった伯爵は、おのれの手の自由さに戸惑っていた。手の枷をはずされたのは、王牢から数えて実に二ヶ月ぶりなのだ。
「礼を言う前に、ひとつ訊ねてもいいかな」
「なんだ」
「俺を助けたのは、誰の差し金?」
「さあ、誰だと思う」
 エドゥアールは、首をひねって考え込むふりをした。「ラウロ・マルディーニかな」
「ほう。なぜ」
「リオニア海軍は海賊と手を組んでいるって、本人が言ってたし」
 まっすぐに彼の目を見据えた。「それに、あんたはラウロに雰囲気が似てる」
 海賊の長は、いかにも不本意だという渋面になった。
「あいつは、俺の腹違いの兄だ」
「へえ。それで、リオニアの私掠船をしてるわけか」
「私掠船ではない。俺たちは、どこの国の船であっても自由に襲う」
 口の端を優雅に持ち上げる。「たまたま、それがリオニアの利害と一致しているだけさ」
「どちらでも構わない。助けてくれて恩にきる」
「礼には及ばぬ。あんたが幸運だっただけだ。俺の部下が、ラガス島の港でたまたま船上のあんたを見かけた。その髪を見て、探している男だと一目でわかった」
「髪?」
「自分で気づいていないのか?」
「ああ」
 エドゥアールは、頭頂に手をやった。「そうだろうな。もうそろそろヤバいと思ってた」
「次の寄港地で、クライン行きの船を見つけてやる。それがあんたにとって、いいことかどうかは別にしてな」
「クラインは、そんなにひどい状態なのか」
「今帰れば、まず殺されるぞ。王不在の王宮は、カルスタン派に完全に牛耳られているそうだ。ラウロは全面戦争を覚悟している」
 若き伯爵は、水色の瞳を凝らして考え込んだ。さすがの歴戦の海賊も、彼の表情に浮かんだ剣のような鋭さに息を飲む。
「ひとつだけ、頼みがある」
 ようやく顔を上げたエドゥアールは、決意を固め、元の快活な表情に戻っていた。
「なんだ」
「俺を、海賊の仲間に入れてくれ」




            第十章   終


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