伯爵家の秘密


第6章「生命の春」


(2)

「あれ?」
 馬丁見習いのダグは、今までおとなしかった牝馬が前肢をかくような動作をしたのに気づいた。
 外に出て、空を見上げる。山地の上空に小さな雲が湧いている。冷たい微風が西から東に向かって吹いてきた。
「ダグ」
 ラヴァレ家の若当主が、乗馬用の手袋を手に嵌めながら近づいてきた。「馬を二頭、出してくれないか」
「え、今からお乗りになるんですか?」
「ああ。新しい水車小屋を見に行く」
 エドゥアールの後ろでは、モンターニュ子爵令嬢が顔をそむけるようにして立っている。ドレスの上に身につけているのは、ウェストを絞り、裾の広がった上質のルダンゴト(乗馬用コート)だ。足にはブーツを履き、長い髪はひとまとめにして帽子に押し込んでいる。
 その勇ましい姿と怒りをこめた強い眼差しが、さらに彼女の美しさを際立たせていて、ダグさえも思わず身震いしそうになった。
「でも、若旦那さま。これから……」
 エドゥアールは、「しっ」と指を口に当て、いたずらっぽい目で笑った。「わかってる。だから行くんだ」
「はあ。そういうことなら……」
 釈然としない気分ながらも、ダグは馬たちを厩舎から引っ張り出した。いつもならレディ用には気性の穏やかな牝馬を選ぶのだが、今日は肝っ玉の据わった谷育ちの牡だ。主はその選択にすこぶる満足そうだった。
 ダグが横乗り用の鞍を置くと、若き伯爵は令嬢を助けて馬に押し上げ、自分は愛用の馬にすばやくまたがった。二頭の馬は、あっと言う間に領館の道を消えていった。
「だいじょうぶかなあ」
 馬丁の少年が頭を掻いていると、親方がやってきた。
「どうした」
「若旦那さまがミルドレッドさまと馬でお出かけになったんですけど」
 馬丁は「えっ」と目を剥く。「何でお止めしなかった。この空模様じゃ――」
「俺だってそう申し上げようとしたよ。だけど、『だから、行くんだ』とおっしゃって」
 親方は頭をひねった。「そりゃ、一体全体どういうことだ」


 領館から出てしばらく、ずっと下りの道を駆け降りながら、ミルドレッドは置いて行かれまいと必死に手綱を操った。景色を見る余裕もない。
 先をずんずん行く気配だったエドゥアールは、途中で歩調をゆるめると彼女の隣に並んだ。
「まだ怒ってるんだな」
「あたりまえですわ。行かないと言っているのに、むりやり連れ出すなんて」
 むくれている令嬢を見て、エドゥアールはしてやったりという笑みを浮かべた。
「こうでもしないと、ふたりきりになれないからな」
「え?」
「だって、そうだろう。昨日からろくに話もできない。どこにいても子爵夫妻や、あんたのメイドがそばでぴったり目を光らせてるし、うちの使用人たちは、あちこちの物陰から様子をうかがってる。おまけに、あんたは俺のことをまともに見ないし」
「それは、お互いさまです!」
 彼女が抗議すると、エドゥアールは、いかにも楽しそうに笑いだした。
「なぜ、笑うんです」
「やっと、あんたらしくなった」
「わたくしらしい?」
「さっきみたいにしょんぼりしてるのは、全然あんたらしくない。本当のあんたは、王宮舞踏会のど真ん中で、初めて聞く曲に合わせて踊る度胸がある。男を怒鳴りつけ、平気でぶん殴れる――俺が惚れたのは、そういう女だ」
「……」
 ミルドレッドは危うく姿勢を崩しそうになった。この方は、今さりげなく何を言ったの?
 エドゥアールは彼女の狼狽などよそに、ふたたび馬を走らせ始めた。そして、畑の畔道の途中で手綱を引いた。
「ここらへんかな」
 馬から飛び降り、ミルドレッドに手を差し出す。「さあ」
 おそるおそる腕を伸ばすと、軽々と抱き降ろされた。
「この谷を、ちゃんと見てほしいんだ」
「今朝、案内していただきましたわ」
「馬車の中からじゃ、額縁の絵を見たようなものだ。何も見たことにならない。ほら」
 指差す方向に目を上げると、山々のはざまに広がるのは、みずみずしく滴るような緑の田園風景だった。
 濃い草と水の香りの混じった風が吹き抜けて、ふわりとミルドレッドのうなじのおくれ毛を揺らす。谷を覆いつくさんばかりの小鳥のさえずりは、まるで王立歌劇場の舞台の両そでから聞こえる荘厳な大合唱のよう。馬車で回ったときは、車輪の音で全く聞こえなかった。
 五感で味わう神の創造の妙は、息が止まるほどに美しい。
「ここから見る谷の風景が一番きれいなんだ。ふたつの山も湖も川も、畑も村の教会の尖塔も、あらゆるものが全部見えるだろ」
「……ほんとうに」
「この谷の本当の良さを知らないまま、きみを帰したくなかった」
 その言葉の切羽つまった響きに、思わず振り返った。
 エドゥアールの空のように澄んだ眼が、間近で彼女を映していた。
「ミルドレッド」
 名前を呼ばれただけで、心臓が高鳴る。睫毛に触れそうなほど、彼の顔が近づいて――。
 さっと離れた。「あー。腹減ったな」
「え?」
「考えたら、昼飯がまだなんだ。ちょうどいいから、ここで食っちまおうぜ」
 エドゥアールは馬たちを草の食めるところに引き、籐のバスケットを鞍から降ろすと、畦道の斜面にさっさと腰を下ろした。
 すっかり拍子抜けしたミルドレッドは、彼の敷いてくれたハンカチーフの上におずおずと腰を下ろすと、差し出されたサンドイッチを小鳥のように上品にかじった。
「お――おいしい」
「だろ? シモンのスモークハムは絶品なんだ。こっちのハニーバターは、壺ごと抱えて舐めたいほど美味い」
 ふたりは並んで座ったまま、夢中になって昼食をたいらげた。
 ミルドレッドは、この谷へ来てはじめてお腹いっぱい食べ、くつろいだ気分になった。いつのまにか、服の汚れを気にすることも忘れて、ゆったりと足を伸ばしている。モンターニュ子爵令嬢ではなく、力を抜いた、ありのままの自分になっている。
 いつもそばに仕えている執事もメイドもいない。まわりにあるのは自然だけ。そしてエドゥアールだけ。
「イサドラは何と言って、あんたをここに来るように説得したんだ?」
「……いきなり怒鳴られましたわ。『いいかげんにおし!』って、さきほどのあなたそっくりの口調で」
「あはは。ミストレスらしいや」
「ご自分があなたを育てたようなものだとおっしゃっていた。だから、あなたの気持ちが手に取るようにわかるのだと」
「うわあ。さぞかし変なことを、いっぱい言ったんだろうな」
「そして、こうもおっしゃいましたわ」

『あたしは貴族と平民の壁は壊せるものだと思ってる。ラヴァレに行ってみないかい。そして、もう一度ふたりで試してほしいんだ。壁を壊せるかどうかをね』

 エドゥアールは真顔になり、しばらく目を伏せて考え込んでいた。
「それで、あんたは今はどう思ってる。壁は壊せそうか」
「……まだ、わかりませんわ」
 慎重にことばを選びながら、ミルドレッドは答える。「あのイサドラさんでさえも、とうとう壁は壊せなかったとおっしゃっておいででした。一時の感情が冷めたら……と思うと、とても恐いんです」
「恐い?」
「もし、いくら言葉を尽くしても、お互いの心が通じ合わないとわかったら、どうすればいいのでしょう。あなたに嫌われるのは恐いし、あなたを嫌いになることは、もっと恐ろしいの」
 ミルドレッドの頬から、滴がぽたりとドレスの膝に落ちる。
「わたくしとあなたは、初めから住む世界が違ったんです。わたくしが大切にしてきたことを、あなたはいとも簡単に切り捨てておしまいになる。反対に、あなたにとって大切なことを、わたくしは蔑ろにしてしまう。きっとわたくしたちは、結婚しても互いを理解できずに、ののしり合うわ」
 エドゥアールは、足元の草を引きちぎりながら聞いている。
「そんなふうに傷つけ合うくらいなら、はじめから何もなかったことにしてしまったほうがいいのかもしれません」
「傷つくのを恐れて、初めからあきらめてしまう?」
「走らなければ、ころぶこともない。それが、人生をしくじることのない一番賢いやり方だと教わってきましたわ」
「ころばなきゃ、見えない景色もあるのにな」
「わたくしには、きっと冒険家の素質がないんです」
 ハンカチを出して涙をぬぐっている彼女のドレスに、さらに水滴がばらばらと落ちた。
「しまった」
 エドゥアールは立ち上がった。「嵐が来そうだ」
 さっきまで、あれほど晴れていたはずの空が、急速に真っ黒な雲に覆われ始めている。雨交じりの強風が西から東へと吹きつけ、彼らの髪を狂ったようになぶった。
「谷の天候は急に変わるんだ。すぐに雷雨になる」
「急いで、お屋敷に戻りましょう!」
 しかし、彼は首を振った。「このぶんじゃ、領館に帰るまでもたない。馬が雷におびえて、言うことを聞かなくなる」
「そんな……。それじゃ、どうすれば」
 蒼ざめるミルドレッドを前にして、エドゥアールは突然思いついたかのようにポンと手を打った。
「ちょうど近くに水車小屋がある。そこに避難しよう」


「ミルドレッドはどこ?」
 領館では、滝のような大雨に打たれる窓のそばで、モンターニュ子爵夫人が雷すら切り裂くような金切り声を上げていた。
 ラヴァレ家の家令が、びしょぬれの燕尾服のまま、ひとりの外働きの少年を引きずってきた。
「お、おゆるしください。おれ、こんな大騒ぎになるとは知らなくて」
「ダグ。子爵さまご夫妻の前で、もう一度さきほどのことを説明申し上げるんだ!」
「わ、若旦那さまとお嬢さまは、昼ごろ馬で出かけられました」
「なんてこと!」
 ダフニは倒れそうになり、夫の腕の中に抱きかかえられる。
「どちらに行くと言っておられた?」
「えと……新しい水車小屋を見に行くって」
「水車小屋! 川の近くではないか」
 パルシヴァルは頭をかかえて、うめいた。
「ふたりは増水した川に阻まれて帰れなくなっているのでは。早く! 一刻も早く救助隊をさしむけてくだされ!」
「お待ちください」
 部屋の隅から凛とした声が響いた。それまで場を静観していた騎士のユベールだ。
「ユベールどの。近侍のそなたともあろうものが、主のおそばから離れるとは」
 興奮した子爵のなじる声を浴びても、彼は一向にひるむ様子はなかった。
「ご心配にはおよびません。若さまは谷の地理を知り尽くしておられ、さらには天候の変化も予測なさっておられたと存じます」
「そうです」
 ダグも必死に言い張った。「この谷に生まれ育った者なら、風の向きひとつで嵐が来るのがわかるんです。若旦那さまも水夫に風の読み方を教わったとおっしゃってたし、ちゃんと嵐が来るのをご存じでした。だから川の水が増える前に、早めに避難しておられるはずです」
「わざとね」
 ユベールのひとことを聞いて、ようやく事の次第を悟ったオリヴィエは、安堵に思わず頬がゆるむのを抑えながら、わざと悔しげに言った。
「また、あのお方にしてやられましたな」


 ごうごうと間近に濁流の音がした。だが水車小屋そのものは、川に平行した水路の上に建っているので、危険は感じない。今はその水路も堰で仕切られて、水はほとんどなかった。
 水車は小屋の床に半分埋まるように建っている。雪で覆われ川そのものが凍結してしまうことの珍しくないラヴァレの厳しい冬にも、屋根で水車を守るための工夫だ。
 新しい小屋の内部は木の香りに包まれている。かんなくずが床のそこここにまだ残っていて、隅につながれた二頭の馬が足踏みをするたびに、きしきしと柔らかい音を立てた。
 中央には、まだ麦を挽いたことのない大臼が収穫のときを待っている。
 エドゥアールとミルドレッドは、その臼に背中を預けるようにして座った。ときおり長い雷鳴が床を震わすたびに、ミルドレッドはぴくりと肩をこわばらせる。馬でさえ全く動じていないというのに。
「この時期の雨は、洪水になるほど長くは降らない」
 安心させるように、エドゥアールは説明した。「むしろ、恵みの雨だ。晴天続きで乾燥していた畑が潤えば、大麦の実入りがぐんと良くなる」
「そ――そうですの」
「さっきからずっと震えてるけど、寒いのか? もっとこっちに来れば、すきま風も当たらないのに」
「い、いいえ。だいじょうぶです」
 ミルドレッドはコートの襟を掻き合わせて、その陰に顔を隠した。メイド長が用意してくれた乗馬用コートは、しっかり裏打ちがしてあり、雨も寒さも寄せ付けない。
 呼んでも誰も来ないような場所で、男性とふたりきりになってしまった。おまけに、そばにいるのは娼館で育った方。女を押し倒すことなど何とも思っておられないはずだ。
 たぶん――たぶん、さっき庭で親しげに話していたメイドとも、この方はもう寝屋をともにされたのだろう。想像するだけで胸が痛み、彼女はぎゅっと目をつぶった。
 あたりはまるで早い黄昏が来たように、ますます暗くなってくる。大雨が激しく屋根を打つ音が体の底まで響く。
「ミルドレッド」
 エドゥアールは彼女をじっと見つめ、今にも手をさしのべようとしていた。暗がりで藍色に光るのは、知略を尽くして獲物を追いつめる猟師の目に見える。
「い、いや。近づかないで」
 ミルドレッドは思わず、体をよじって逃げ出そうとした。もし襲われそうになったら、貴族の子女として潔い態度を取らなければ。
 彼はそれを見て、困ったように微笑んだ。「ごめん。俺、あんたを恐がらせてるんだな」
「……」
「何もしないから、ただ話を聞いてほしい。そのために、わざと嵐に会うように仕組んだ」
「え?」
「騙して悪かった。本当は、嵐の来るのはわかってたんだ。あんたを逃がしたくなかった。嵐の力を借りてでも、あんたを閉じ込めて、俺の話を聞いてほしかった」
 ミルドレッドはゆっくりと向き直った。エドゥアールの低くささやくような声に、体の奥底が甘く痺れていくのがわかる。
「俺も、ハナから俺たちはうまく行くなんて思ってなかった。俺は港町の娼館で下働きをして暮らしてたし、あんたは自分で洗濯さえしたことのない生粋の貴族の令嬢だ。価値観も、ものの見方も全然違う。俺といっしょになっても、不幸になるだけだ。だから、王宮舞踏会でうんと嫌われるように仕向けた」
 エドゥアールは、苦しげに見える笑みを浮かべた。
「本当は、放浪民族の踊りだって、なんとかうまく場を取りつくろう一方で、あんたを呆然とさせたかったんだ。『こんな踊りしか踊れない男なんかには、二度と近づきたくない』と思わせるように。それなのに、あんたはすぐに踊りについてきた。そんな女が貴族の世界にいるなんて、想像もしてなかった。あのときから俺はあんたに……心を奪われてたんだと思う」
 自分のことばに恥じ赤らむように顔を伏せると、彼はようやく続けた。
「でも結局、あんたは俺の生まれを知って俺を避けるようになった。これでよかったはずなのに、体の半分がどこかにもぎとられたような心地がして、たまらなかった。いっそのこと真実を打ち明けようかと、ずいぶん迷ったよ」
(真実?)
 ミルドレッドは続きを待ったが、それに関して彼は口をつぐむことに決めたようだった。
「そんなとき、イサドラがポルタンスからやってきて、俺を叱り飛ばしたんだ。『やりたいことをやりな。ただひとつ恐がるべきは、後悔することだよ』って」
 そして自分を励ますように、拳を床に打ちつけた。
「後悔はしたくない。だから、俺はあんたに、きちんと自分の気持ちを伝えようと思った。ひとりじゃ心もとないから、谷の全部の力を借りて。我ながらずるいと思うけど、谷の美しい景色や、シモンのスモークハムや、領館のみんなの心配りや、嵐の力まで借りて――」
 そして彼女をまっすぐに見つめ、腹の底から絞り出すような決然とした声で言った。
「俺はあんたが好きだ。どうしようもなく惚れてる」
 言いきった余韻が消えたあと、エドゥアールは晴れ晴れとした笑顔で立ち上がり、天井を仰いで叫んだ。
「ああ、やった。とうとう言えた」
 いつのまにか、雨はやんでいた。代わりに太陽の光が、雲を透かして不思議な黄色のもやとなって小屋に注ぎ入り、若き伯爵を神々しいまでに明るく包んでいた。
 ミルドレッドは、涙を頬に伝うにまかせた。
「あなたは……どうして、そんなに正直でいらっしゃるの?」
「え?」
「わたくしは、だめ。自分に素直になんかなれない。打算で結婚するしかない貧乏子爵の娘だと、心の奥底にねじくれた劣等感を抱えて……。だからこそ余計に、娼館育ちのあなたとの結婚はうまく行くはずがないと、自分の心を押し殺して」
 エドゥアールは魅入られて目が離せない。泣きじゃくる令嬢は、雨に打たれるユリのようだった。
「そして、何度自分に言い聞かせたことか。どうせ政略結婚なのだから、あの方でなくても誰でもいいはずだ、と。私の理想の男性はもっと別なお方だ、と。生まれついての貴族で、優雅なクライン語を話し、一分の隙もない髪型と着こなしをなさり、ワルツがお上手で、宮廷の社交術に長けた方だったはず――あなたとは、まるで正反対の」
 ミルドレッドは聞きわけのない幼子のように、小さな手を握りしめて頭を振る。
「なのに……なのに、どうしても、あなたと踊ったときの楽しさが忘れられません。あなたの下町訛りも、靴磨き屋のような粗野なことばも、くしゃくしゃに乱れた御髪も、汗びっしょりになって体にはりついたシャツも……どうしても、忘れられなくて、こんなに泣いてばかりで、こんなに苦しいのは……いったい誰のせいだと」
「俺のせい?」
「そう、全部あなたのせいです!」
 ふわりと彼女の頭を温かい腕が包む。ミルドレッドは思わず離れようとしたが、彼がそうさせなかった。
「わかった。俺が責任を取る」
「せき……にん」
「ああ、一生かけて、取ってやる」
 エドゥアールは、彼女を離さないように片腕に捕らえたまま、ぐいと水車小屋の扉を開け放った。
 雷雲から勢力を取り戻した春の太陽が、地面のあちこちにできた水たまりをきらめかせている。堰の梯子を昇ると、上に立って見晴らした景色はあまりにも壮大で、ふたりはしばし言葉を忘れた。
 音をたてて勢いよく走る川、潤いを帯びてますます輝く緑。鳥たちが、雨宿りの木々から一斉にはじけるように飛び立つ。
 そして目を上げれば、嵐の置き土産の虹が、山から山へと渡るように架かっていた。
「ずるいですわ」
 エドゥアールの腕の中から空をまぶしげに見上げていたミルドレッドは、力なく抗議した。
「完璧に、この谷を味方につけておられるのね」
「どうも、そうらしい」
 彼女は、ぎゅっと両手で彼の袖をつかんだ。「どうしよう。こんな素敵な場所から、もう二度と逃がしてもらえそうにないわ」
 それに答えるように、手がそっと優しくミルドレッドの腰に回された。
 ラヴァレの谷の主(あるじ)は、その想い人である少女の唇に、静かで長い接吻を落とした。






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