伯爵家の秘密


第7章「変革」


(1)

「今度はいったい何用だ」
 ラヴァレ伯爵家の居館の廊下を急ぎながら、執事のナタンは舌打ちした。
 この館の主である伯爵が、ある日いきなり地方の領地から上京して、思わぬ長逗留をしているのだ。まったく予想外のことで、調子が狂う。
 先代が病に倒れてからというもの、誰も訪れない歳月のあいだに、ナタンはこの居館の管理者として安逸と放縦をむさぼっていた。跡目を継いだ十八歳の伯爵も、叙爵式前後の数ヶ月の滞在を除けば、ほとんど王都には姿を現さなかった。多くても、月に一泊程度だ。
 それなのに今回の訪問は、すでに二週間にも及ぶ。おまけに伯爵は何のかのと用事を言いつけてナタンを使いに走らせるので、席を暖める暇もないのだ。
 夕餐の後片付けがすみ、やっと自室に引き取ったかと思えば、また呼び出しを受けた。
 伯爵家の居館は、隣国アルバキアでよく見られる開放的な南国様式の建築だ。中央に広い庭園があり、その四方を、軒回りまで細かな装飾を施した瀟洒な建物が取り囲んでいる。食堂や大広間から中庭に直接出入りができ、二階の各室も中庭に面して大きな窓を切っているため、明るく風通しがよい。
 外側の回廊を渡り、らせん階段を昇って、ナタンは二階突き当たりの主人居室の扉をノックした。
 宵闇時の部屋は暗く、灯されたランプはひとつだけだった。そのそばにエドゥアールが頬杖をつき、手持ちぶさたそうに座っていた。背後に控えているのは、近侍の騎士ユベールだ。
「遅れて申し訳ありませぬ。お呼びでございますか」
 慇懃におじぎをして頭を上げたとたん、ナタンはぎょっとした。離れたところに立っていたはずの騎士が、いつのまにか彼のかたわらに移動していた。しかも、今にも剣の柄に手をかけんばかりに身構えている。
「な、なにを」
「ちょいと暇だったもんで、調べたんだよ」
 年若い主人は、テーブルの上から紙を一枚つまみあげて、戯れるようにはらりと落とした。「あんたの書いた出納記録、どうもいろいろと大事な項目が抜けてるみたいだな」
「そ、そのようなこと、決して! この居館の執事として、わたくしは誠心誠意――」
「誠心誠意、ないしょの蓄財に努めてきたんだろ。たとえば、これなんかどうだ」
 紙がまた一枚、床にはらりと落ちる。
「出入りの肉屋に行って、店の帳簿と請求書を見比べてみれば、数千ソルドの金額の違いがある。その差額は誰のポケットに入ったんだろうな」
(この取り調べのために、わたしを使いに出し、館から遠ざけていたのか)
 ナタンは、膝から下の力がすっと抜けていくのを感じた。
 また、はらり。
「この下の【戦勝広場】の端の金物屋から【ラルメ通り】の薬屋まで歩いてみて、ぶったまげたぜ。谷ユリの紋章がずらりと入口の鴨居に貼ってあった。去年一年でおよそ二万三千ソルドがラヴァレ伯爵の名のもとに、店々から集められていた。古い店の店主は、少なくとも、もう十年は続いていると証言してくれた」
 エドゥアールは、口の端を持ち上げて笑った。「つまり、親父とこの俺の名のもとに、強奪さながらの横暴な徴税行為が十年間もまかりとおっていたわけだ。当人たちには何の報告もないまま」
 ナタンはぱくぱくと口を開けて、弁明を試みる。だが、声が出てこない。
 それほどに、この目の前の若者の笑顔は恐ろしかった。
「お、お待ちください」
「あわてなくても、弁明なら聞いてやるぜ」
「恐れながら、王都のしきたりを若旦那さまはご存じないのです。昔からどの爵家でもやっていることです。モ、モンターニュ子爵さまにお聞きになってくださいませ。王宮との付き合いには、目に見えない金がかかります。帳簿に載せることのできない裏金は、こうして集めるしかないのです。それが王都の居館を預かる執事の力量というもの……」
「だまれ」
 ナタンのそばに立っていた騎士は、怒気を含んだ声でさえぎった。「そのような聞き苦しい言い訳、まかりとおると思っているのか」
 シャリと氷を擦るような音とともに、腰の剣が鞘から払われた。
「うわっ」
「絨毯を血で汚すなよ、ユベール。洗濯代がかかる」
 伯爵は椅子から立ち上がり、ゆっくりと近づいてきた。
「王宮との付き合い? 特定の公爵さまとのお付き合いなんじゃねえのか」
「お、お、お赦しを」
 ナタンは泡を吹かんばかりに、おびえきって叫んだ。
「ああ、赦してやるよ。あんたは王宮の事情にくわしい有能な執事らしいからな」
 執事の尖った顎がぐいと手で持ち上げられた。暗がりの中で、強い意志を放つ藍色の瞳が彼を真正面から見据えている。
「その代わり、伯爵家の執事らしく、伯爵家のために働くんだ」
「わ、わたくしに何をせよと」
「簡単なことさ。まず、どんな名目であれ、民衆から金銭を徴収して、自分の懐に入れることを禁ずる」
「承知……いたしました」
 エドゥアールは、くるりと背を向け、元どおり肘掛け椅子に腰かけた。
「あとは、今までどおりだ。プレンヌ公爵に取り入り、さんざんラヴァレ伯に関する情報を流せばいい。ただしその中に、ほんの時たま、俺が命じる嘘の情報も織り交ぜるんだ」
「……嘘の情報?」
「ああ、簡単だろ。もし嘘だとバレたときは、噂を真に受けましたと弁解すればいい。奴を動揺させるのがこっちの狙いなんだから」
「こ、心得ました」
 エドゥアールはとたんに、人懐っこい笑みを浮かべた。
「仲良くやろうぜ。そうすればお互いに気持ちよく過ごせる。親父の代から十五年来仕えてくれるあんたの首を、無碍に切りたくはないからな」
「ありがたき仰せでございます」
 伯爵は、用がすんだとばかりに居室を出て行った。
 あとに残ったユベールは冷たい灰緑色の目で見下ろしながら、細い剣先を指でしならせた。次の瞬間、ナタンの鼻のてっぺんがチクリと痛んだ。
「おれは無骨な武人だ。もし若さまがおまえの首を切ると仰せになれば、間違って文字通りにしてしまうかもしれぬぞ」
「ひいい」
「わかっていような。裏切らぬことだ」
 鼻を押さえて腰を抜かしている執事を後に残して、ユベールは剣を腰に戻し、部屋を出た。
 エドゥアールは階段の手すりにもたれて、黒い髪を風になぶらせていた。中庭はすでに夏の装いで、煉瓦の壁はツタの新葉で覆い尽くされ、リラの甘い香りが夕闇をぼんやりと染めている。
「ナタンめは、素直に命令を聞きましょうか」
「無理だろうな」
 エドゥアールは疲れた声で答えた。「欺くことが本性になった男だ、そう簡単には治らないだろうよ」
「それを承知で、放っておくのですか」
 ユベールは、背中にこつんと主の額が当たるのを感じた。くぐもった声が体を直接伝わってくる。
「王宮に上がる毎日が始まれば、たぶん俺もそうなる。人の言葉の裏を読み、欺き、疑い、やがて誰も信じられなくなる」
「若さまに限って、そんなことは起こり得ません」
 ユベールは背筋を伸ばし、心をこめて答えた。「たとえ地獄にいらしても、あなたはご自分の言葉どおりに行動し、周囲の人を信じ続けるお方です」
「それは、俺の力じゃない。おまえたちが助けてくれるからだ」
「あなただから、誰もが進んでお助けするのですよ」
 だからこそ、とユベールは心の中でつぶやいた。
 ――だからこそ、今の王宮はエドゥアールを必要としているのだと。


 【王の庭】は、魔法を使ってすべての種類をいちどきに咲かせたのではないかと思われるほど、花が咲き乱れていた。
 小道の両側では、動物をかたどったトピアリが衛兵のように並んで出迎える。
 そして、美しく飾りつけたあずまやでは、国王フレデリク三世とテレーズ王妃が並んで座っていた。
 王はマントを脱ぎ、飾り房のついた絹のシャツに乗馬ズボンだけ。
 王妃は襟元に真珠をちりばめた、落ち着いたワイン色のドレスを身につけていた。豊かな金の髪にはティアラの代わりに、やはり真珠をあしらっている。
 アルバキアから嫁して六年。公の儀式以外の場所で、彼女が夫と同席するのは初めてだった。
「両陛下におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」
 まず黒髪の若き伯爵がふたりの前で拝跪した。今日はコートなしのシャツとジレ、キュロットの略装だった。
 ついでその婚約者が進み出て、深く膝を屈める。
 ミルドレッドのドレスは、淡いサンゴ色だった。胸にも控えめな真珠のブローチ。まるで王妃と申し合わせたように、美しい配色の取り合わせだった。
「陛下。王妃さま。本日はお招きにあずかり、ありがとう存じます」
 17歳の令嬢は、鈴のころがるような澄んだ声で感謝を述べた。とは言え、さすがに国王に対面するのは初めてとあって、かすかに震えている。
「ミルドレッド」
 エドゥアールは、非の打ちどころのない笑みを国王夫妻に向けながら、恋人にささやいた。「王妃さまはともかく、その隣のお方に礼を申し上げることはないぞ。あの仏頂面を見れば、歓迎してるはずはないからな」
 その仏頂面の持ち主は「ふん」と顔をそむけた。「よく言う。招かれてもいないのに、図々しくも招待状の返事など寄こしおって」
「へん。本当はミルドレッドの顔が一目見たくて、うずうずしてたくせに」
「エ、エドゥアールさま」
 どんどん、宮廷作法からかけ離れていくエドゥアールに、ミルドレッドはおろおろしている。国王陛下の前でこんな無礼な態度を取れば、普通は王牢入りになっても不思議ではない。
 とうとう、王妃がくすくすと笑いだした。
「やはり、お話は本当でしたのね」
 と、扇の陰で肩を震わせている。「陛下とラヴァレ伯爵は、兄弟のように仲むつまじくていらっしゃると」
 そして、扇を畳んで膝に置くと、ふたりに顔を向けて微笑んだ。
「今日は、よく来てくださいました。またお会いできて、ほんとうに嬉しいわ」
 客人たちが下座に導かれると、侍従たちがテーブルに食器を並べ始めた。
 皿やカップにほどこされた金と青の目のくらむような細かい彩色は、アルバキアに古くから伝わる異教徒渡来の紋様だ。
「わたくしの国独特の、コーヒーの飲み方ですのよ」
 手にすっぽり収まる玩具のようなカップに黒い液体がそそがれ、冷たいミルクが添えられる。
「陛下も、はじめてでいらっしゃいましたね。どうぞ」
 カップを口に運んだ王の不機嫌な顔が、ますます不機嫌そうになる。
「申し訳ありません。陛下は苦いものがお嫌いでしたわね」
 王妃は自然な仕草で傍らから手を差し伸べ、王のカップにミルクをたっぷりと注ぐ。「これで大丈夫。さあどうぞ」
 二口目を飲んだフレデリクの眉のしわが、ほどけたかと思うと、また深く刻まれた。
「……なぜ、そのことを知っておる」
「厨房長にいつも聞いております。陛下の食べ物のお好みや、その日召しあがられたものは、逐一」
 テレーズは口を押さえ、つつましやかに目を伏せた。「申し訳ありません。出すぎたことでしたでしょうか」
「……いや」
 目を合わさずに言葉を交わす国王夫妻の前で、若い許婚たちは口を半開きにし、その一挙一動を見守っている。
「いやあ、いいものを見せてもらった」
 エドゥアールは、人をからかうような笑みを浮かべた。
「な、ミルドレッド。これからの人生、どんなに辛いことが起きたとしても、今日の陛下の顔を思い出すだけで、絶対に腹をかかえて笑えるよな」
「は、はい。いえ、その」
「余の顔?」
 フレデリクは、じろりとにらんだ。
「初恋の相手の前で、素知らぬふりをしてるガキみたいな顔だよ」
 と、エドゥアールは黒いままのコーヒーを優雅に口に運ぶ。「そんなことくらい、とっくにわかってるだろうに」
 みるみる気まずくなった場の雰囲気を察して、ミルドレッドは巧みに会話を引き取った。
「わたくしも王妃さまに倣って、エドゥアールさまの食べ物のお好みを研究しなければなりませんわ」
「だいじょうぶだって。俺はなんでも食うから。焦げた木の根だって食える」
「うそ。コック長のシモンは、いつも若旦那さまに不味いと怒られると、こぼしていたわ」
 王妃は、ふたりの会話を、ほほえみながら見つめている。
「よかったわ。お幸せそうで。噂を聞くにつけ、一時はどうなるかと案じておりました」
 それを聞いたふたりの若者は、あわてて居住まいを正した。
「ご心配をおかけしました。すべては、王妃さまのお心づかいのおかげです」
「宮廷舞踏会で優しいお声をかけてくださったこと、一生忘れませんわ」
 そのかたわらで国王は、ぼそりと拗ねたように呟いた。「ほう、王妃の前では別人のように、かしこまった物言いをするのだな」
「【民の母】と国歌で歌われるにふさわしい、慈愛に満ちた御方の前だからな。誰かさんと違って」
「ねえ、陛下。ラヴァレ伯爵は宮廷舞踏会で、放浪民族の求婚の踊りを踊られたのですよ」
 王妃は、周囲が思わず驚くほど明るい、少女のような声を上げた。
「求婚?」
 今まで秘されていた事実に、ミルドレッドも目を丸くしている。「エドゥアールさま、あの踊りにはそんな意味が?」
「ああ、きみにだけは知られたくなかったのに」
 とエドゥアールは一生の不覚とばかりに頭をかかえた。
「ほう、放浪民族の求婚の踊りとな」
 ここぞとばかりに国王は片眉を上げ、意地悪な笑みを見せた。「見たいものだな。雄鶏が羽根を飛ばしながら走り回るような、けたたましい踊りだろう」
「朝から寝てばかりのどこかの王には、絶対に踊れないような踊りだよ!」
 我慢できなくなったテレーズ王妃は、とうとう体を折って笑いだした。


 午後遅くから始まった王庭での茶会は、天蓋が茜色に染まっても、まだ終わる気配はなかった。
 機転を利かせた侍従長のギョームが冷えた食前酒をグラスに注いで回り、燭台が運び込まれ、室内楽団が芝生に場所を移して、心地よい虫の音のように静かに弦楽器を弾き始めると、あずまやはそのまま晩餐の席へと変わった。
「さすが王宮だ。おそろしくいいもん食ってるな」
 下卑たことばを除けば、ラヴァレ伯爵のテーブルマナーは完璧だ。
 国王はさして感激したふうもなく料理を口に運ぶ。「ただの鴨料理だと思うが」
「最低四時間は塩パンで包み焼きにしたローストだ。ソースから、かすかに黒トリュフとへーゼルナッツの香りがする。添えてあるリンゴのコンフィも、作るのに十日はかかってる」
「ほう。娼館で育ったにしては、鼻がいいな」
「娼館の女将が、変わり者でね。腕のいい料理人を雇ってた」
「おまえの周囲には、いささか偶然に市井の変わり者が集まりすぎるようだな。法律学者、経済学者、一流の料理人……王宮の中であらゆる英才教育を施しても、そうは行くまい」
 金の巻き髪の下から、鋭い水色の瞳がエドゥアールを捕らえた。
 エドゥアールは臆することなく、微笑みを返す。
 フレデリクはその微笑を見て、今までと何かが違うことを感じ取った。
 この若造は、いったい何をたくらんでいる?
「今回は、王都での滞在が長いようだな」
「ああ。いろいろと根回しをしている」
「根回し?」
 料理が終わり、食後の冷菓が食卓に出される頃だった。
「秋に開かれる貴族会議で、王国法補則の改正を提案しようかと思ってる」
「ほう。何のために?」
「【私的徴税特権】について」
「私的……徴税特権?」
 ミルドレッドが隣で首をかしげた。生まれてはじめて聞く言葉だったのだ。
「クライン国内を移動する積み荷は、貴族の領地を通過するたびに、税金を徴収される。果物ひと箱20ソルド、羊毛ひと束100ソルドという具合だ。王都に着くまでそれが何度となく続く。王都の門をくぐれば、また課税。市場や商店に運び込まれてからも、それぞれの縄張りに応じて、また貴族に税金が納められる仕組みになってる」
「まあ、それじゃ」
 子爵令嬢は、澄んだ薄茶色の瞳を驚きに見開いた。「王都で売られている品物は、それだけたくさんの税金が上乗せされているのですね」
「そういうことになる」
 エドゥアールは困ったように答えた。ミルドレッドは無邪気に事実を言い当てたが、つまりは彼女の父モンターニュ子爵も、その恩恵を受けていた当事者であることに、彼女はまだ思い至っていない。
「つまりは王都に居館を持つすべての貴族に、さらに交通の要所に領地を持つ公侯爵のもとに、それだけ多くの税金が行く仕組みなんだ」
「わたくしの育ったアルバキアでも、似たような制度がありましたわ」
 王妃が考え深い口調で言った。「【死刑執行人の特権】と呼ばれ、民衆を苦しめた制度でした」
「廃止されたのですか」
「ええ。もう五十年も前に。国民を疲弊させるだけの、百害あって一利もない悪法でしたから」
 ぴしゃりと決めつけるテレーズに、王は奇妙なものを見るような表情を向けた。このように強い口調で政治に対する自分の考えを述べる妻を、まだ彼は見たことがなかったのだ。
 エドゥアールは、その一部始終を目の端に収めてから、先を続けた。
「俺は次の貴族会議で、【私的徴税特権】をすぐに廃止すべきだという動議を出すつもりだ」
「無理だな」
 フレデリク三世は肩をすくめ、年若い伯爵に向かって嘲るような口調で言った。「おのれの特権が奪い取られるのだぞ。万にひとつも、貴族会議でその動議が可決される可能性はない」
「やってみないとわからない」
「やるだけ無駄だ」
 国王はわずかに語気を強めた。「国政などに口を出さず、田舎に引っ込んでいろ。なぜ好き好んで火の粉を浴びたがる」
「さあ、なぜかな」
 エドゥアールは楽しげに答えた。「ミルドレッドがいてくれるから」
 間近で許婚の信頼に満ちたまなざしを浴びて、ミルドレッドは頬を染めた。
「彼女がずっと隣にいてくれるとわかったから、もう何かを恐れるのはやめにしたんだ」
 フレデリクの喉が、まるで大きな異物が通り過ぎたときのように上下した。
「逆ではないのか。愛する者を得れば、人はますます命を惜しむであろうに」
「自分でも不思議だと思うよ」
 エドゥアールは静かに答えた。「たぶん、あんたも今にわかる、フレデリク。――【正しい願いなら、おのずと天から力は与えられる】」
 王は引きつった叫びで喉をふるわせながら、寝椅子から立ち上がろうとした。
「さあ。ミルドレッド」
 エドゥアールは機先を制してすっくと立ち上がり、隣の少女に手を差し伸べた。「そろそろ、おいとまする時間だ」


 客が去ったあとのあずまやは、片付けに動き回っていた侍従たちも下がり、国王夫妻だけが残された。
 フレデリクは妻に目もくれず、いつもどおり寝椅子にごろりと横になる。テレーズは傍らに座し、そんな夫をいつまでも飽かず眺めている。
「陛下。わたくしの我がままを叶えて、お茶会を開いてくださり、ありがとう存じます」
 国王は天井を仰ぎ見たまま、口の中で「む」と答えた。
「ラヴァレ伯爵は誰の心をも惹きつける天性の才をお持ちですのね。そしてやさしく愛らしいミルドレッド。あのふたりに、王宮の未来を見る思いでした」
 深いため息が聞こえる。
「はじめてでしたわ。この王宮に嫁いでから、これほど楽しい時を過ごしたのは――」
 あとは袖を動かす衣擦れの音がするのみ。
「……妃よ」
「はい、陛下」
 王は、腹の底がひどく泡立つのを感じている。喉の奥で、何かが飛び出そうとせめぎ合っている。
「余は――」
 何度もことばを飲み込むと、フレデリク三世は目を閉じた。「なんでもない」


 王の庭を辞したとき、ミルドレッドは待ちかねたように、婚約者の腕を取った。
「教えてくださいな。最後のことばは、どういう意味でしたの?」
「最後のことば?」
「【正しい願いならば】というところです」
「ああ、あれね」
 エドゥアールは、回廊から夜空を見上げて、愉快そうに笑った。「あれは、陛下がこの世で一番嫌いなヤツのセリフ」
「どなた?」
「うちの親父さ」
 侍従に導かれて、王宮の玄関に向かう途中だった。
 人気のないはずの夜のギャラリー・ホールに、高窓にもたれるようにして、ひとりの長身の男が立っていた。
 月明かりを映す蒼い瞳は、獲物を待ち構えている獅子のごとくに見える。
「エドゥアール。待ちかねたぞ」
 セルジュ・ダルフォンスの口から親しげに名前が呼ばれ、次いで隣のミルドレッドに向かって金色の髪が揺れた。「これは、モンターニュ子爵令嬢。こんな場所で挨拶する失礼をおゆるしください」
「お、お目にかかれて光栄です。リンド侯爵さま」
 あわてて膝を屈め、不安げに振り返ったミルドレッドに、エドゥアールはにっこりと笑った。
「悪いな。このまま、ひとりで帰ってくれないか。入口でユベールが待っているから、家まで送ってもらってくれ」
「でも、あなたは?」
 彼は答えの代わりに、セルジュに顔を向ける。
 少女の見ている前で、淡い月光の中に立つふたりの高貴な若者は、敵意とも友情ともつかぬ視線をからませた。
「俺たちは、今から貴族会議に向けての戦略を練る」






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