伯爵家の秘密/番外編


6. 下働きの休日



(3)

 父が置いた見張りの男が、部屋の入り口をふさぐように立っている。
 コレットは吐息をついて、刺繍の枠を膝の上に投げ出した。これでは、玄関までも行けそうにない。
 敷地の外でも、州兵の持つ槍先に赤い飾り帯が揺れているのが見える。
 正体不明の暴漢がコレットを襲おうとしてから三日。父が神経質になるのも無理はないが、外出はおろか部屋を出ることすら禁じられてしまった。
 このまま、屋敷を出る日まで閉じこもっていなければならないのだろうか。
 まだ、あの人に別れすら告げていないのに。
 自分がまた涙ぐんでいるのを感じ、たった今刺繍し終えたばかりのハンカチでそっと目をぬぐう。
 上流階級の令嬢が、嫁入り道具に自分で刺繍したハンカチを持って行くという習わしの意味がようやくわかった。
「嫁ぎ先で涙を拭きなさいという意味なのだわ」
 ことばが苦い薬のように舌先をころがり、あわてて口を閉じた。こんな言葉が漏れ聞こえたら、父はどんなに悲しむだろう。
「ああ、また泣いてる」
 突然の声に、コレットは飛び上がるほど驚いた。自分のそばに、誰かいる。
「ああ、ごめんなさい。驚かせて」
 天窓の細いすきまを潜り抜けて部屋に入ってきたのは、しなやかな細身の体をした少年。縫い目のほつれたシャツを着て、ぼさぼさの黒髪は無造作に結んでいる。いかにも薄汚れた下層階級の身なりなのに、いたずらっぽい笑顔は少女のように綺麗で、中でも瞳の深い青色は、得がたい貴重な宝石のようだ。
「あなたは――確か、エディ」
「覚えててくれたんだ」
 どこで習ったのか、まるで貴族の求婚者のように優雅に彼女の手を取り、口づけする。
 彼の手が離れたあと、コレットの手のひらには、白い飴がひとつ乗っていた。
「牛乳飴、おいしいですよ。涙でひりつく喉を癒してくれます」
「でも、いったいどうやって、ここへ?」
 屋敷の周囲には、厳重な警備が敷かれていたはずだ。
「そりゃもう、ちょちょいと見張りの目をくらませて、その隙に」
「え?」
「……と言うのは冗談です。お父上と俺の仲ですよ。許可をくれたに決まっているじゃないですか」
「そうだったの、ごめんなさい」
 コレットはソファを指差し、座るように勧める。
「訪ねてくださってうれしいわ。誰ともお話できなくて、退屈していました」
「閉じ込められているんですね。宝物倉に大切に収められた純金の女神像みたいに」
 少年は笑顔を消して、眉を寄せた。
「おととい、お父上が娼館に来て、いろいろ話してくれました。あなたは、さる男爵家からギルマン家に養女に入ったんですってね」
 コレットは肩先でゆるくまとめた真っ直ぐな髪を揺らして、うなずいた。
「父には、本当に感謝しております。行き場のなかった幼い私を、十七になる今まで何不自由なく育ててくれましたもの」
「その恩に報いるために、望まぬ結婚を承諾したんですね」
「望まぬだなんて!」
 令嬢は、懸命に首を振った。「父がそう申しましたの?」
「だって、どう見たって、全然幸せそうには見えないもの。いつも泣いているし」
「それは……住み慣れた家から離れるのは、やはり寂しいのです。望まぬなどとは、とんでもないことですわ。私には、もったいないような玉の輿なのです」
「それならいいけどさ」
 エディはテーブルの上の、ガラス蓋つきの鉢に盛られたマカロンを口いっぱいに放り入れると、ソファにどっかりと背を預けた。
「で、あの暴漢たちの正体に心当たりは?」
「いえ……」
「お父さんも出し惜しみして、ちっとも教えてくれないんだよね。花嫁を襲って幸せな結婚を邪魔しようだなんて、世界一罪深いやつらなのに」
 コレットは居心地悪そうに目を伏せる。その目を縁取る金色の睫毛を、少年はうっとりと見つめる。
「あの……」
「なに?」
「いえ、あの、お強いのね。あの騎士さまといっしょに暴漢をあっという間に撃退なさって」
「そりゃね。毎日井戸の水をバケツに十杯汲んだり、重い石炭箱や、安物の磁器の皿を三十枚いっぺんに運んだりしてりゃ、自然と腕力も強くなるってもんです」
「まだ子どもなのに、そんな重労働を?」
「貴族には貴族の、下働きには下働きの生きる術があるんですよ。どっちが大変だなんて、誰にもわかりゃしません」
「そうね」
「少なくとも、こんなふうに閉じ込められる生活は俺の性に合いません。生命のない彫像は宝物倉に閉じ込められても、生命のある花は外に出して太陽に当ててあげなきゃ」
 令嬢は椅子から立ち上がって窓辺に立った。
「あの、あずまやのまわりに咲いている花は、全部私が植えましたのよ。リムナンテスもスベリヒユもビオラも」
「お嬢さんが?」
「ええ、私が土を梳いて、種を蒔いて、肥料を入れたの」
 花作りが趣味と標榜する貴族の令嬢は多いが、たいてい自分の手は汚さない。パラソルの下で、あれこれ侍女を指図しているだけだ。
「爪の隙間に土が入ったり、日に焼けるなんて、もってのほかじゃないんですか」
「ええ、だから父には内緒。手袋をはめて、日焼けしないように朝の五時から起きて」
「そりゃすごいや。下働きに負けねえくらいの早起きだ」
「でも、本当は、内緒なのは花の手入れだけじゃないんです」
 コレットは思いつめた目をして、年下の少年を見た。なぜ、これほど彼を信頼しているのか自分でもわからない。三日前に会ったばかりの娼館の下働きだという少年を。
 でも、彼のおおらかな笑顔と思慮深い目を見ていると、不思議に全幅の信頼を寄せてもよい気がするのだ。
「私どうしても、ある人と会って話をしなければならないの」
「俺でよければ、お手伝いしますよ」
「お願いします。私を外に連れ出してください」


 ユベールが見張りの目を逸らしている間に、エドゥアールはすばやく生垣をくぐって外に出た。
 坂を下り始めると、金髪の騎士が音もなく後ろにつき従った。
「で、何かわかったか」
「ブノワ侯について少々」
 コレットの本当の父親である、ブノワ侯爵のことだ。ユベールは三日をかけて、王都であらゆる情報網を駆使して、侯爵の周辺を調べ上げていた。
「多額の金品が、侯とその周辺に流れていました」
「誰からのワイロ?」
「ネアザン造船会社からです。この秋就航するアルバキア王国との定期航路は、三隻ともネアザン造船が建造することが決まっています」
「ふうん。そりゃ莫大な利益だろうな」
「アルバキアとの間に立って契約の仲立ちをしたのは、国際的な大商人のアロンゾです。その嫡男とコレットさまの縁談が着々と進んでいる」
「妾腹とは言え、侯爵令嬢と縁を結べば、アロンゾ家も貴族の仲間入りだ。将来は王宮に入ることも夢じゃない」
「アロンゾからも、侯爵家にかなりの支度金が支払われるでしょう。それだけ経済的基盤が強固になれば、誰も逆らえない。コレットさまの出自に関する醜聞も力でねじ伏せられます」
「どちらにしても、ブノワ侯に損はないか。ひどい話だ」
 エドゥアールは吐き出すようにつぶやいた。「子どものときは知らんぷりで州長官に育てさせておいて、勝手なときだけ政治のコマに仕立て上げるなんて」
 彼が暮らしている娼館には、ときおり、食いつめた小作農や破産した商人の娘が売られてくる。売春は決して正しいことではないが、放っておけば悲惨な人生をたどるしかない少女たちをひとりでも救うために、イサドラはあえて自分もいっしょに汚れる道を選んだ。
 だから、自分自身の過ちを、素知らぬ顔をして誰かに尻拭いさせる侯爵のような輩が、エドゥアールは何よりも嫌いだ。
「しかし、よく調べたな。これだけの情報を得るために、何人の女性をたぶらかした」
「ほんのふたり……何を言わせるのですか」
「たまには、俺みたいに心の中をさらけ出したほうが、体のためにいいんだぜ?」
「若さまのように、思ったことを片っ端から口になさる方は、何人の敵と何人の恋人を作ることになるでしょう」
 他愛のない無駄話をしながら、並んで歩く。こういう心安らぐ時間は久しぶりだ。
 小さいころ一緒にころげまわって遊んでいた彼の近侍は、長じるにつれて言葉数が減り、今では自分から口を開くことがほとんどなくなった。
 父アンリが殺されてからというもの、悔恨と己への怒りが、彼の周囲に見えない薄布をかけている。
 一度も会ったことのない母の死が、これほどの悲しみをもたらすものならば、自分の目標であった父が目の前で死ぬことは、どれほど大きな痛みなのか、エドゥアールには想像もつかない。
 市街地に入り、人や馬の往来が増えてきたのを見て、物思いから引き戻される。
「で、その縁談を邪魔しようという連中がいるわけだ」
「はい。あの四人組の行方は突き止めて、あとを尾行させております。ですが、背後の黒幕に接触する気配がなく、もう少し時間がかかるかと」
「そのあいだに、もうひとつ頼まれてくれるかな」
 馬車が行き交う大通りの四つ角で、ふたりは立ち止まった。
「ギルマン家の執事見習いだったシモンという若い男を捜してほしい」
「その男が、コレットさまの想い人というわけでしょうか」
「らしいな。ギルマンがふたりの仲に気づいて、半年前あわててクビにしたらしい。けど、想いは消えなかった」
 ミルク飴を口に放り込み、不機嫌そうにカリッと噛んだ主の様子を見て、近侍の騎士は口元をゆるめた。
 ということは、この利発すぎる主が、たとえあの美しい女性に淡い思いを抱いていたとしても、渓流にかかる虹のように形を取る前に消えてしまったわけだ。
 だが、多分そういうことではないだろう。この方は無意識のうちに、彼女をご自分の亡き母上と重ねて見ておられるのだ。
「侯爵令嬢と執事見習い。前途は多難ですね」
 エドゥアールは、まぶしげに目を細めて、青空を振り仰いだ。
「王女と伯爵が愛し合うのと、いったいどちらが大変だろうな」


 華やかな喧騒が潮のように引いていき、裏町が静けさを取り戻す時刻。
 玄関の灯りを消すために外に出た下働きの少年は、マントの男がじっと店の前に立っているのに気づいた。
「あれ、ギルマンさん。今ごろどうして?」
「貴様、よくも」
 つかつかと近寄ったギルマンは、エドゥアールの耳を思い切り引っ張った。
「いて、いてて、やめてくださいよ」
「いいから、ついて来い!」
 表通りに待たせていた馬車の駕籠に彼を押し込み、自分もその向かいの席に座ると、憤然とした調子でまくしたてる。
「屋敷に忍び込んで、娘と話をしたそうだな」
「だってギルマンさん、肝心のことちっとも話してくれねえし。それに、娘さんのほうが、いっしょにいて楽しいんですもん」
「このっ」
「あーっ、ごめんなさい」
「で、何を話した」
 州長官は、政談のテーブルに着いているときのように身を乗り出した。
 相手はわずか十四歳の少年だ。母親はイサドラの店で働いていた娼婦のひとりで、今は身寄りもなく、ろくな教育も受けてこなかったと聞く。
 だが、とても信じられない。
 目上の者相手に動じない態度。広い見識。巧みな駆け引き。
 そして何よりも、長年彼が隠し続けてきた秘密を、いともたやすく暴くことのできる力量。
「おまえは、いったい誰なんだ」
「娼館の下働きに決まってるでしょう」
 彼は楽しげに答える。「それより、こないだの返事は? 真実を話してくれる気なら、助力は惜しみませんよ」
 ギルマンは、「ううむ」とうなった。御者に「馬車を出せ」と命じると、ひづめが広場の敷石を叩く音とともに、心地よい揺れが始まった。
 動く馬車の中は、内密の話には都合がよい。
「わかった。おまえの調べたとおりだ。コレットはブノワ侯爵のご息女だ」
「それまで何の音沙汰もなかったのに、いきなり侯爵家に返せと言ってきたんですね」
「半年前のことだ。あの子は泣いて嫌がったが、わしが説得した」
「で、あの暴漢たちは?」
「わしには見当もつかん。本当だ。どこかで、今度の縁組をこわそうとする勢力が動いているのかもしれん」
 エドゥアールは片手を顎に当てて、考え込むような仕草をした。
「そんな不穏な情勢の中で結婚して、コレットさんは本当に幸せになると思いますか?」
「相手は、あの大商人アロンゾの一族だぞ。想像もつかない富を持っている。願ってもない縁組だ」
「でもコレットさんには、好きな人がいるみたいだけど」
 ギルマンは、小さな落ちくぼんだ目を、かっと見開いた。
「世間知らずの小娘に何がわかる! 一時の熱に目がくらんでいるだけだ。シモンのごとき階級の男と結婚すれば、暖房もろくにない家に暮らし、朝から晩まで汗水たらして働く人生が待っているだけだぞ」
「大きなお屋敷でたくさんの召使にかしずかれて、一生何不自由なく暮らせる人生だけが、いい人生なのかな」
「下働きのくせに、えらそうなことを。誰だって、貧乏より金持ちのほうが幸せに決まっとる」
 興奮した州長官は、立ち上がろうとして、馬車の天井でしたたかに頭を打った。
「……あの子が五歳でわしの家に来たとき、大きなアザを体じゅうにこしらえておったのだぞ。ブノワ侯爵に手篭めにされたことを、母親はずっと夫の男爵に言えなかったのだ。不貞の証である幼な子の金の髪を黒く染めて、ひたすら隠しておった。そのことがバレて、カロン男爵は常軌を逸した」
 馬車が揺れた拍子に、ギルマン州長官の目から涙がこぼれ落ちた。
「わかるか? あの子は父親と信じていた男に、ある日突然、殴られ罵倒されたのだぞ。おまえにわかるか? 物心ついたときから髪を黒く染め、息をひそめて暮らさなければならなかった悲しみが」
「……」
「あの子には、とびきりの幸せな人生を送ってほしいのだ。そうでなければ、あまりにむごすぎる」
 馬車は川沿いの道を河口に向かって走っていた。ラトゥール河が水面に月の光を映しながら、ゆったりと海にそそいでいる。
「何が幸せな人生か、決めるのはコレットさん自身だよ」
 窓外を見つめる少年のつぶやきは、雄大な河の流れに向かって放たれ、そのまま消えていった。


 寝台の上で眠れぬ一夜を過ごしたコレットは、明け方にそっと起き上がって、身支度をした。
 鏡台の前で、絹糸のような金の髪をくしけずる。十七年のあいだ黒く染めていた髪を生来の色に戻したのは、ブノワ侯爵からの書状が来てからだった。
 コレットを娘として認める。侯爵令嬢らしい気品と美しさに磨きをかけてから侯爵家に戻り、そのままアロンゾ家に嫁ぐように――との一方的な命令だった。
 今でも、侯爵を父と思うことは一度もない。カロン男爵夫妻に対してさえ、なつかしいという思いは薄い。傷ついた彼女を五歳のときから珠のように大切に育て上げてくれたのは、ギルマン州長官夫妻だった。彼らこそが、本当の父母であると今でも思っている。
 だから、父デジレから「侯爵家に戻りなさい」と諭されては、もう何も言うことができなかった。
「お父さま」
 唇を軽く噛んで、涙をやり過ごした。もう泣いたりしない。泣いたら誰かが助けてくれる齢は、とうに越えたのだ。
「で、心は決まったんですね」
 部屋の隅の暗がりに、いたずら好きな小悪魔のように立っている少年に気づいて、コレットはうなずいてみせた。
「決まりました」
「シモンさんは今、ポルタンスの港の魚市場で会計係として働いています。朝が早いから、ちょうど今から行けば会えるはず。さあ、マントを羽織って。夜明けの風はまだ冷たいですよ」
「はい」
「それから、服をひとそろえ貸してください。できるだけ体の線が出ない服がいいな」
「え?」
 エドゥアールは、彼女の目の前で、さっさと着ているものを脱ぎ始めた。「時間かせぎに、誰かがあなたのふりをしていたほうがいいでしょう?」
 十四才の少年の体は華奢で、コレットとほとんど背丈も変わらない。ボンネットの紐を結ぶと、もともと顔立ちが良いせいか、愛らしい少女にしか見えなかった。
「こないだの女ぐせの悪い騎士が外で待っています。ちょいと乗馬は荒っぽいけど、目をつぶっていれば、あっというまにシモンのところまで運んでくれますよ」
 コレットの服を着た下働きの少年は楽しげに笑った。その屈託ない水色の瞳には、汲めども尽きぬ豊かな泉が隠れているようだった。
「あなたの本当の気持ちを、きちんと彼に伝えなさい。決してあとで後悔しないように」
 耐え切れず、コレットの目から一粒の涙が伝い落ちた。
 今までの人生で、自分の気持ちを問われたことはなかった。いつも彼女は誰かの指図のままに、くるくると居場所を変えられた。
 男爵の娘、州長官の娘、そして侯爵の娘と、幾度も呼び名を変えられた。
 今度こそ、私は自分の意志で自分の道を選ぶ。どんな苦難が待っていようとも。たとえ、その道が途中で閉ざされようとも。
「ありがとうございます。エディさん」
 コレットがユベールに連れられて部屋を忍び出た後、エドゥアールは寝台の布団にくるまり、ボンネットを被った頭だけが見えるようにうつ伏せた。
 どれくらいの時間が経っただろうか。
 嵐の訪れのような不穏な音が少し続いたあと、不気味な静寂が訪れた。
 扉が開き、数人の男が無言のまま、寝台を取り囲んだ。
「よおし」
 息をひそめながら、エドゥアールは掛布の下で拳をぐっと固めた。




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