伯爵家の秘密/番外編


7. 伯爵夫人の涙



(2)

 扉をノックした後、ややあって「いいよ」という返事があった。
 いつものエドゥアールらしい返事だ。柔らかく、何の気負いもなく。
 ノックから返事までの間合いも、まったく計ったように、変わりがない。いや、本当に計っているのかもしれない。
 エドゥアールの優しさも、気配りも、朗らかな笑顔も、すべては、裏切りを隠すために計られたものだったのかもしれないとさえ思えてしまう。
 ミルドレッドは、自分を虜にしている疑心を振り払うように強く瞬きし、それから扉を開けた。
「親父さまたちは、もう落ち着いたかい?」
「ええ、休みました」
「そう、よかった」
 彼は、暖炉のそばの一人掛けの安楽椅子から立ち上がると、長椅子に座りなおした。
「こっちへおいでよ」
「ええ」
 じっと注がれる視線を感じながら、ミルドレッドは彼のそばに近づいた。
 隣に座ると、夫は微笑み、彼女の頬に手を触れ、額にキスした。「愛してるよ」
「ええ、わたくしも」
 ――本当、本当に?
「さっきの話の続きをしたい」
 ミルドレッドはすぐには答えず、ハンカチを持つ手を膝の上に置き、目を伏せた。
「その前に、私の質問に答えていただけませんか」
「質問?」
「王都の伯爵家の居館に、ティボー公爵令嬢レティシアさまがお住まいだというのは、本当ですか」
 長いあいだ返事がないことに耐えられなくなって、とうとう彼女を顔を上げた。
 エドゥアールの瞳の色を誰よりも知っているのは、ミルドレッドだ。
 彼の瞳は、少し角度を変えるたびに色を変える。そのことを利用して長い間、他人から視線をそらせることでファイエンタール王家の一員であることを、ひた隠しにしてきた。
 けれどミルドレッドだけは、最初に会った舞踏会の夜から、彼の瞳が晴れた日の湖のような水色であることに気づいていた。
 そのことが、彼女のなけなしの誇りだった。
 けれど今、エドゥアールは彼女から目をそらして座っていた。瞳は鬱々とした暗い蒼色に沈んでいる。
「本当だよ」
 苦いものを吐き捨てるかのように、夫は答えた。
「では、レティシアさまを夫人として迎えられるというのも、本当でしょうか」
「……そういうことじゃなくて」
「お答えください!」
「ひとつの可能性としては、ありうる。けど、それは、きみの考えているような意味じゃない」
「わかりました」
 冴え冴えと、ひどく静かな心持で、ミルドレッドは立ち上がった。「それで、もう十分です」
 エドゥアールは、まるで幽霊を見るような表情で彼女を見上げた。
「ミルドレッド。座れ。話はまだ終わってない」
「これ以上、お聞きする必要はありませんわ。あなたに無用な嘘をつかせたくはありません」
 彼女は数歩離れると、片膝を曲げて、深々とお辞儀した。
「数日のご猶予をください。隣の部屋を片付けて、ジョエルとともに西の離れに移ります」
「ミルドレッド」
「短い間ですが――楽しゅうございました」
 捕まえようとしたエドゥアールの手を、彼女は身をひるがえして、すり抜けた。
 当主夫妻の両翼の部屋を隔てる扉が、激しい音を立てて閉まる。
 固くかんぬきをかけてから、ミルドレッドは振り返り、月の光に青白く照らし出された無人の部屋を見渡した。
 ここは、ラヴァレ伯爵夫人のための部屋。もうわたくしのものではない。
 どうして自分が泣かずにいられるのか、不思議だった。
 いつか、こういう日が来るのを心のどこかで覚悟していたからかもしれない。王位継承権第二位のやんごとなき血筋である夫が、下級貴族の娘を娶ることで政治的に不利益をこうむっているのではないかと、考えるたびに身の置きどころがない不安を味わった。
 もう、恐れることはないのだ。身分の低い妻が、それにふさわしい正しい居場所を得るだけ。あとは何も変わらない。
 妾夫人となっても、エドゥアールは今までと同じように、ミルドレッドのことを大切にしてくれるだろう。
 だが、それではいけない。
 誰よりも頭の回転が速く、人の心を読むことに長けたエドゥアールだが、驚くほど不器用で、子どものようにわがままな一面もある。ふたりの女性を公平に愛するなどという芸当は、彼にはできないだろう。
 ミルドレッドは、喉の奥で思わず、くすくすと笑い声をあげた。
(ああ、エドゥアールさま。今でもあなたのことが愛しくてたまらない)
 だから、わたくしは彼の一番ではなく、二番にならなければ。レティシアさまを立てて、万事に控えめにしなければ。夫に一番愛されるのは、私ではなくレティシアさまであるべきだ。
(だって、エドゥアールさまがふたりの女の間で苦しむ姿を、見たくないもの)
 ミルドレッドは大きく息を吸い込んで、心を落ち着かせた。だいじょうぶ。取り乱したりはしない。
 ふと目を落とすと、ジョエルのために縫っていた刺繍のベッドカバーが大きな木の枠にかけてあった。
 今日の昼、エドゥアールがジョエルをいとしげに抱き上げて、言ったことばを思い出す。

『早いとこ、大きくなれ。そして俺の代わりに、この谷を守ってくれ』

 そのことばが偽りのものだったなんて。
 ジョエルに何と言えばいいのか。幼子にとって、自分が父親の一番ではなく二番だと知ることほど悲しいことはないのに。
 はらはらと温かいものが頬を伝い落ちる。――それは、伯爵夫人が今日はじめて流した涙だった。


 翌日のまだ暗いうちに、モンターニュ子爵夫妻はラヴァレの谷を離れることになった。
「もう少し、ゆっくりなさればよいのに」
 見送りに出たミルドレッドのことばに、ふたりは首を振った。「伯爵さまに知られぬうちに出発したいのだよ」
 侍女のジルの腕に抱かれて、眠そうに目をこすっている孫のジョエルにかわるがわるキスをすると、彼らは馬車に乗り込んだ。
「ミルドレッド」
 父パルシヴァルは娘を近くに呼び寄せると、低くこわばった声でささやいた。「モンターニュ子爵の位は、何が何でもジョエルに継がせてやってくれと、エドゥアールさまに強く願うのだ。これだけは決しては譲ってはならん」
「お父さま。何もそのようなこと」
「がめついと呆れられてもかまわん。おまえはこれからは、ジョエルの将来のことだけを考えて生きるのだ。くじけてはならぬぞ」
「つらかったら、いつでも戻ってくるのよ」
 動き始めた馬車の窓ごしに、母ダフニが泣きはらした目にハンカチをあてるのが見えた。
 土ぼこりが坂道を下っていくのを目で追いながら、ミルドレッドは茫然と立ち尽くした。
 両親の口から、こんなときに保身の心得を聞かされるとは思わなかった。妻の座を追われる立場とは、なんと無力でみじめなのだろう。
(そんな先々のこと、考えたくない。今は何も考えたくない)
 谷底から吹き上げてくる冷たい風に、彼女は身震いして上着の襟をかき合わせた。
「寒いわ。部屋に戻りましょう」
「はい。奥方さま」
 ジルはジョエルを抱きなおすふりをして、涙をぬぐっている。


 若旦那さまがティボー公爵令嬢を正夫人として娶り、ミルドレッドが西の館に移るという噂は、その日の午前のうちには、領館のすべての使用人たちの知るところとなった。
 ある者は、伯爵夫人のお心を思って泣き出し、ある者は、伯爵の理不尽ななさりように激しく憤った。
「ミルドレッドは?」
 書斎で書類に目を通しながら、エドゥアールは家令に尋ねた。
「ジョエルさまのお部屋でお休みになられるとのことで、必要な品々を運び入れているところでございます。当分はお食事も、お部屋で召し上がられると」
 答えるナタンの声があからさまに怒気を含んでいるので、顔を上げた。
 なにごとも控えめな彼にしては、珍しいことだ。ナタンはプレンヌ公爵から見限られて行き場を失ったおり、ミルドレッドに救われたことがある。そのことに、今でも深い恩義を感じているのだろう。
「人間、いざとなると、ふだん見られない表情が見られるものなんだなあ」
「おそれながら、そのおことば、そっくりそのままお返ししとうございます」
「なるほど、それもそうか」
 廊下を歩いていても、誰にも会わない。領館の使用人すべてが、彼の前から消えてしまったかのようだ。
 エドゥアールは晩餐の席についた。
「親父は?」
「食欲がないとおっしゃいまして、軽く召し上がられて、お引き取りになりました」
「それで、これは」
 手元に目を落とすと、そこに置かれているのは、わずかなパンと一杯のスープだけだ。
 食卓に呼ばれたコックのシモンは、直立不動の姿勢で答えた。
「今日は、若旦那さまのために料理することを自重しております」
「自重?」
「無理してお作り申し上げれば、間違って妙なものを入れかねませんゆえ」
「ははあ」
 エドゥアールは納得した。「そういうわけか。たっぷりの唐辛子とか、穴から這い出たミミズとか」
「伯爵家のコックとして、おのれの最高の料理をお出しできぬとわかっている以上、厨房に立つわけにはまいりません」
 居並ぶ給仕やメイドたちも、一様に表情が険しい。
「これじゃ、牢獄の食事だ」
 エドゥアールはため息をついて、ぼそぼそとパンをかじった。
 子ども部屋に行くと、扉のところでソニアが目に涙をいっぱい溜めて、とおせんぼをしていた。
「通してくれ」
「奥方さまは、若旦那さまには決してお会いにはなりません」
「……本人がそう言った?」
「いいえ、いらしたことをお伝えすれば、奥方さまはお会いになるでしょう。穏やかに微笑まれるでしょう。私は、そんな奥方さまを見たくないのです。私は――私たち使用人はみんな」
「ソニア」
「どうして、ユベールは若旦那さまを止めなかったんだろう。近侍の騎士として命を懸けて、止めて……くれなかったんだろう」
 顔を覆って泣き出してしまった侍女を残して、エドゥアールは部屋に戻った。暖炉に火の気はなく、寝台も整えられていない。いつも控えているはずのナタリアとジョゼの姿も、どこにもない。
「一糸乱れぬ職場放棄か。すごいな。みんな」
 寝台に入ってはみたものの、一睡もできなかったエドゥアールは、明け方近く空腹に耐えかねて、厨房に忍び入った。
「ふん。兵糧攻めなんて戦法、俺には通用しないもんね」
 パンの残りをスライスして、フライパンでこんがり焼き、分厚く切ったベーコンを温めて、とろとろになったグリュイエールチーズや野菜くずと一緒にはさむ。
「くー、めちゃくちゃ美味い!」
 庭に出て、デザートがわりにイチジクやリンゴをもいでは、かぶりつく。
 ついでに、洗い場に回って、着替えたばかりの服を慣れた手つきでかたっぱしから洗った。
 きれいに竿に干し終えた頃合いに、紺色の制服を着たロジェが現れた。
 まったく、この男はいつ制服を脱ぐのだろうというくらい、どんな真夜中でも完璧な執事の身形をしている。
「お茶の用意ができておりますが、いかがいたします」
「うん、飲む」
「それでは、東のあずまやへどうぞ。この時刻ならば、ちょうどきれいな朝焼けが見られます」
 あずまやのテーブルには、ティーセットと焼き立てのワッフルと温かい毛布が用意されていた。
 濃いたんぽぽ茶を口に含んでいると、ロジェの言ったとおり、東の山の端がゆっくりと薔薇色に染まり始める。
「まいったな」
「いかがなさいました」
「どんな美味いものを食べても、どんなにきれいな朝焼けをながめても、そばに誰もいなきゃ何ひとつ満足できない」
 頬杖をつきながら、エドゥアールは物憂げに言った。「俺はやっぱり、ひとりでは生きられないよ」
「人間だれしも、そうでございます」
「この谷の領主は俺だと思っていたけど、どうも違うらしい。みんな、ミルドレッドの味方をする」
「奥方さまはこの五年間、当主夫人として、実にかいがいしく使用人や領民の面倒をご覧になりましたから」
「みんなが怒るのは当然だな。俺は、人でなしだ。あれだけ尽くしてくれたミルドレッドを平気で捨てるなんて」
「お見受けしたところ、とても平気でいらっしゃるとは思えませんが」
 若き伯爵は、頭から毛布をすっぽりとかぶり、部屋の隅に隠れた幼な子のように膝をかかえる。
「俺はもしかして、進むべき道を間違っていたのかな」
「過ちならば、正せばすむことでございます」
「親父は何か言ってたか」
「おそれながら、大旦那さまのお言葉を借りて申し上げれば」
 ロジェは、かしこまって一礼した。
「『エドゥアールが何も言わなかったのには、何か言えない理由があるのだろうと。いやむしろ、まだ解決への希望を捨てていないからこそ、あえて言わなかったのだろう』、と」
「ほかには?」
「『この一件には、ティボー公爵令嬢が深く絡んでいる。しかし、奥方のみならず、わたしにまでも内密にせねばならなかったということは、ことはティボー公爵家の醜聞……いや、クライン陸軍全体の醜聞にかかわることかもしれぬ』、とも」
「さすがだな、親父は」
 伯爵は力なく笑った。「あの人には、隠し事ができねえや」
「で、どうなさるおつもりでございますか」
「こうなったら、すべてを洗いざらい、ぶちまけるしかないんだろうな」
「それが、よろしゅうございます」
「でも、ミルドレッドには、なんて言えばいいんだろう」
 その日最初の太陽の矢が谷を東から西へと貫き、エドゥアールは目を細めた。「どんなに言葉を尽くして赦しを乞うても、最悪の場合、公爵令嬢を妻に迎えなきゃならないことに変わりはないんだ」
 白髪の執事は、こほんと咳払いした。
「これは、若旦那さまらしくもない。これまで、この谷には、最悪と呼ばれる事態は幾度も訪れたではありませんか。そのたびに若旦那さまは、カラシ菜の苗の上を飛んで遊ぶ子どものように、軽やかに飛び越えてこられました」
 ロジェは腕にタオルをかけたまま、すっくと闘牛士のように足をそろえた。
「ご案じなさいますな。このようなこと、若旦那さまにとっては、屁のようなものでございます」
「へ?」
「屁でございます」
 大真面目な顔で繰り返す執事に、エドゥアールは腹をかかえて笑った。あまりに笑いすぎて、あずまやの椅子から転げ落ちそうになった。
「ありがとう、ロジェ」
 伯爵は、執事の首に腕を回して抱きついた。「勇気が出た。今からミルドレッドのところへ行ってくるよ」
「そうなさいませ」
 エドゥアールが歩み去ったあと、ロジェは首筋に指でふれた。
 襟のカラーに濡れた感触がある。執事は祈るような思いで、主の武運を願った。


「ミルドレッドに会わせてくれ」
 扉をノックするが、返事がない。ソニアはいよいよ、籠城作戦を決行したようだ。
「ミルドレッド、ちゃんと話がしたいんだ。出てきてくれ」
 何度も呼んだあと、指が扉の取っ手に触れた。
 取っ手は意外にも、するりと開く。
 早朝の透明な光に照らし出された子ども部屋には、ミルドレッドはおろか、ジョエルもメイドたちもいなかった。もぬけのからだ。暖炉には何時間も、火が焚かれた気配がない。
 エドゥアールは大声でののしりながら、廊下を突進した。
 玄関から裏に回り、馬小屋の扉を割れんばかりに叩くと、わら束を抱えた馬丁のダグが出てきた。
「ひえっ」
「馬車を出したのは、いつだ!」
「ゆ、ゆうべ遅くです」
 伯爵の剣幕に押されそうになりながらも、ダグはありったけの勇気をふりしぼって、踏みとどまった。
「誰がいっしょだ」
「馭者のランドさん、ジルさんとソニアさん、それにジョルジュさまとトマさんが両脇に護衛についています」
「くそっ。みんなでよってたかって何てことを」
 エドゥアールは、ぎりぎりと歯噛みした。「どこへ向かった」
「王都に決まってるでしょう。奥方さまが乗り込んでいらっしゃれば、きっと公爵令嬢なんか、あわてて居館から逃げ出します」
「冗談じゃねえ、今すぐ馬を出せ!」
「いやですっ」
 ダグはおそろしさのあまり、半分腰をぬかしながら、それでも馬柵の前で立ちふさがった。
「俺の命令が聞けないのか」
「奥方さまを追いかけて、お叱りになるんでしょう。だったら、絶対にどきません。若旦那さまは、公爵のご令嬢をお娶りになるつもりでしょう。いやだ、いやだ。俺たちは、若旦那さまと奥方さまとジョエルさまに、クライン王国一の幸せな家族になってもらいたいんだ。そのためなら俺、殺されたってかまわない!」
 エドゥアールは、馬丁の首筋をつかんでいた手を離した。
 首を垂れて、まるで彼のことばが全身に染み入るのを待っているようだった。
「ありがとう、ダグ。俺たちはそれほどまでに、谷のみんなに心配されていたんだな」
「……若旦那さま」
「行かしてくれ。ミルドレッドに謝って、帰ってきてもらう。公爵令嬢とは結婚しないと誓う」
 ダグは身震いする。彼を真正面から見据えた領主の瞳は、嘘いつわりなど入り込む余地のない真摯さに輝いていた。
「……ほんとですか」
「ラヴァレ伯爵家の名誉にかけて」
「すぐに、鞍をつけてまいります!」
 着替えに戻っている余裕などない。エドゥアールは、馬小屋の壁にかけてあった粗末な厚織のコートを羽織り、馬丁用のブーツを履いた。
 ダグが引いてきた駿馬に一息でまたがると、手綱をさばき、闇の残る谷の底に向かって、まっしぐらに駆け下りていった。
 


 


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