伯爵家の秘密/番外編

8. 伯爵の謀反



(2)

「偽善者……か」
 ラヴァレ伯爵は、浴びせられた糾弾のことばを、舌の上で味わうようにころがした。「なぜ、そう思う?」
「あなたのお父君は、若い頃リオニアに留学し、革命前夜の同志たちと親交を結んだと聞きました。そして、そのご子息であるあなたも共和主義者であられると。王家の一員であるあなたが味方してくださるならば、たちどころにこの国の改革は進む。僕たちはそう期待していたのに……それなのに」
 ロナン・デュシュマンの手は、ラヴァレ家居館の長い塀に向かって、振り回された。「分厚い塀に囲まれたこの豪奢な館の中で、あなたの耳に、民の声は届いているのですか。平民会が何を決議しても、ことごとく貴族会に拒否されて、それで終わりだ。庶民の生活はいっこうに良くなりません。小麦の価格は上がる一方。王都の貧民街に住む赤ん坊は、みな痩せこけている」
 若き平民会議員の声は、激昂してどんどん大きくなる。
「なのに、そこからわずかしか離れていない館で、あなたはぜいたく三昧の暮らしをしている。その矛盾をなんとも思わないのですか。平民会はただのお飾りで、わたしたちを欺くための言い訳だったとしたら、あなたはやはり――偽善者だ!」
 最初は穏やかな表情で聞いていた伯爵は、次第に渋面を作り始めた。それに気づいた陳情者は、罵倒が浴びせられるのを待った。
「くちゅん」
「……」
「あー、さみい。夕風は冷えるなあ。……おい、デュシュマン」
「は、はい」
 鼻の下をこすりながら、エドゥアールは快活に笑った。「こんなところで立ち話もなんだ。うちに入って、飯でも食いながら、ゆっくり話そうぜ」
 「いえ、あの」という辞退はあっさりと無視し、伯爵はすたすたと門に向かって歩き始めた。かたわらに立っていた騎士は、「はあ」と嫌そうな吐息をついて、剣の柄にかけていた手を下げ、主に従う。
 てっきり捕えられることを覚悟していた若者は、とまどいながら後に続いた。
 いや、本当は、捕えられることを望んでいたのだ。大臣に陳情に行った平民会議員が投獄されたと、新聞にでかでかと書いてもらえれば、自分たちの運動にはずみがつく。
 英雄になれるという姑息な考えも、頭をかすめなかったとは言いきれない。
 門番の敬礼を受けて、中に入る。
 石畳の落ち葉は丁寧に掃き清められ、噴水を見下ろす大理石の彫像はゆかしく優美。そして、樹木の一本一本に至るまで丁寧に刈り込まれている。
「デュシュマンさま、よくおいでくださいました」
 色白の執事が、深々とお辞儀した。いつのまに彼の名前を知ったのだろう。
 奥の書斎に通される。
 大きなガラス窓には、一点の曇りもなく、そこから見晴らす中庭の景色は、絵物語に出てくる南国の楽園のようだった。
 館の主人は、窓際の安楽椅子を占めると、戯れのように揺らし始めた。
「座りなよ」
「いえ、ここで立っています」
「ま、俺より若いから元気だろうけど……いくつだ?」
「十九です」
 先ほどの執事がお茶を運んできて、テーブルの上に置いた。それから、ロナンに一礼した。「マントをお預かりいたします」
「あ、ありがとうございます」
 丈の短い学生用マントを持って出ていく執事を見送りながら、伯爵は訊ねた。「きみは、ナヴィル大学の学生か」
「そうです」
「学生は、平民会議には立候補できないはずだけど?」
「議員に選出されたのは、僕の父です」
 ロナンは釈明する。「父は、ゴール州の農園主です。今年の春、腹に腫物をわずらって倒れました。僕は二年前から経済学を学びに王都に来ていましたが、家督を相続し、父のあとを継いで平民会に出席することを了承されたのです」
 ラヴァレ伯爵は、「ああ」と額に手を置いた。
「うっかりしてた。親父さん、ミシェル・デュシュマン議員だったのか」
「父をご存じなのですか」
「議員の顔と名は、全部覚えている。親父さん、具合がよくないのか」
「寝たり起きたりの毎日です」
「そうか」
 伯爵はそのまま押し黙った。カップを手に取ると、紅茶の芳醇な香りを嗅いで、口に含む。その横顔に、ロナンは刺すような視線を注ぎ続けた。
「お食事の用意ができました」
 ほどなく、執事が呼びに来た。
 伯爵家の豪華な晩餐は、平民階級の若者にとって、初めてづくしの体験だった。
(ご馳走につられて、懐柔などされないぞ)
 固く心に誓うものの、じゅうじゅうと湯気を立てる肉が供されると、思わずかぶりついてしまう自分が我ながら情けない。下宿生活でいつも腹を減らしている学生にとって、このもてなしは抗いがたいものだった。
 ラヴァレ伯爵もなかなかの健啖家で、皿を片っ端から空にしていく。
「うちの料理はうまいだろ」
「は、はい」
「コック長を紹介する……ヤコブを呼んで来てくれ」
 執事が厨房に入り、白いコック帽をかぶった男を連れて戻ってきた。
「うちのコック長ヤコブだ。スリジエ通りで店をやってるから、もし機会があれば行ってやってくれ」
「ごひいきに、デュシュマンさま」
 コックが厨房に引っ込んだあと、ロナンはいぶかしげに振り向いた。「店、とは? この屋敷の専任のコック長ではないのですか」
「専任だよ。けど、自分のレストランを持ってる」
 リンド産の赤ワインを美味そうに口に含みながら、エドゥアールは説明した。「うちの居館では、執事のエティエンヌ以下数名を除けば、全員自分の店を持たせてる。たとえば、リネン室のエマは洗濯屋の女主人だ。馭者のマルセルは、家族で馬車屋を営んでいる」
「あなたが、命じたのですか」
「いくばくかの金は出資した。必要なときは手伝いに来てくれるという条件つきでね。あとは、各々の才覚次第だ。儲けは彼ら自身の稼ぎになるし、損をすれば店をたたんで、もう一度うちで修業をやり直す」
 ロナンは、フォークとナイフを持ったまま、凍りついている。貴族が使用人たちに出資して、自分の店を持たせるなどという話は、今まで聞いたことがない。これではまるで……会社組織だ。


 食後のコーヒーは、居間に運ばれた。
 居館の一階の部屋はすべて中庭に面している。大窓のすきまから、甘い花の香りを含んだ夜風がそよいでくる。
 虫の音が聞こえるなど、久しぶりだった。ロナンにとって、夜はいつも下宿街の酒場の喧騒と同志たちとの声高な議論に塗りつぶされていたから。
「いいから、座れ。そっちの椅子だ」
 伯爵の求めに、ロナンは今度は素直に応じた。
「ここからが、居館の建物全体が一番良く見渡せる」
 エドゥアールは、ゆったりとソファに身を預けた。
「どうだ、デュシュマン、貴族の館の感想は」
 ちらりとからかうような視線を投げつけられ、ロナンの萎えかけていた闘志にふたたび火がつく。
「壮大な無駄だと思います」
 ロナンは吐き捨てるように言った。「これだけの広さがあれば、堀や市壁の中に住む貧しい家族が二十家族は救えるでしょう。彼らは冬の寒さに震え、夏の炎暑に耐え、風邪をこじらせても医者にもかかれない。彼らの平均寿命は、貴族より十歳も短いのです」
「けれど、それから後はどうする?」
「どうする……どうするとは?」
 エドゥアールはことりとティーカップを皿の上に置いた。「なるほど、確かに、俺がこの屋敷を開放すれば、二十家族は助けることができるだろう。だが、それ以外はどうする。王都には劣悪な住宅に住んでいる民が少なくとも二万人いる」
 伯爵は立ち上がり、窓辺に移動した。
「残りの人たちは、ここに住める人たちをどう思うだろう。あいつらばっかり得して不公平だ、と思わねえか。それなら、他の貴族の館もつぶしてしまおう、と言うことにならねえか。だとしたら、この都の秩序はめちゃくちゃになる」
 窓に背をあずけ、腕を組む。闇色に塗られたガラスは部屋の燭台を映しこみ、伯爵の体は灯に縁どられているように見えた。
「一部を助ければ、それ以外の者に対して公平を欠く。たとえ法律をひとつ変えるために途方もない歳月をかけるとしても、全部を平等に助ける道をさがさなきゃいけない」
 若者を冷ややかににらみつける。「それが、為政者の立場にいる者のすべきことじゃねえか。目先のことにとらわれず」
 ロナンも、思わず立ち上がった。
「僕たちの考えは、甘いとおっしゃるのですか」
「甘いな。幼稚でゆきあたりばったりだ。十年後、五十年後の大望がない」
 相手を焚きつけるかのように、厳しいことばを連ねる。
「たとえば、貴族にやとわれている平民は、この王都だけでいったい何人いると思う? 彼らに職を与え、住む場所と賃金を与えているのは貴族だ」
「でも、彼らは望んでそうしているのではありません」
 ロナンの声が、興奮のためうわずった。「生きていくために、そうせざるを得ない。貧富の差が激しすぎるから」
「最初はそうだろう。だが、貴族の使用人の中には細かい階級制度があって、実力さえあれば、どんどん登っていける。貴族の館は、ことばづかいや作法を教え、専門教育をほどこす教育機関としての役割を果たしている」
「冗談じゃない。階級を作る社会のありかたが問題なんです。人が人を馬のようにこき使ってよいはずはない」
「ドレスを縫うお針子、肖像画を描く絵師、夜ごと宮廷音楽を奏でる演奏家に作曲家。貴族がいるからこそ職を得ている彼らが、貴族がいない社会で食べていけるのか。貴族打倒を叫ぶよりも、まず平民のためにドレスが縫われ、音楽が奏でられる社会をクラインに打ち立てるべきじゃないのか」
「では、あなたは平民の中にも階級を作れと? それでは、本末転倒だ!」
 激論の残響が消えて、ロナンの耳に、虫の音がまた聴こえ始めた。天窓から涼しい風が入っているというのに、背中に汗が伝い落ちる。
 彼を真正面からにらみつけていた伯爵は、ふっと表情をやわらげ、晴れ晴れとした声で言った。
「きみはいい演舌ができるな。まだ若いのに」
「わ、若いと言っても」
 あなたと五つしか変わらない。そう反論しようとしたロナンは、喉をつまらせた。たぶん、実際の年齢よりはるか下に見られているのだろう。彼と我との間には、それだけ圧倒的な人生経験の差がある。
 そう気づくと、傲慢にも伯爵と対等にやり合おうとしていたことが、ロナンは急に恥ずかしくなった。
「領地にいる親父に、きみを会わせてやりたい」
「ラヴァレ大伯爵に?」
「きっと喜ぶだろうな。あの人は、きみのような元気でがむしゃらな男が大好きだから」
 伯爵は振り向いた。水色の目が、みるみるいたずらを思いついた子どものように細められた。
「そうだ。俺の領地に遊びに来ねえか」
「えっ?」
「親父に会ってくれよ。すげえ喜ぶぞ。今は仕事がたてこんでて無理だけど、来週なら俺も体が空くから」
「え、え、あの、その」
「そうだ。それに決めた」
 やわらかな蜘蛛の糸にからめとられた虫のように、気づいたときはもう身動きがとれなくなっている。平民会議員ロナン・デュシュマンがエドゥアール・ド・ラヴァレ伯爵の真の恐ろしさを知ったときは、もう時すでに遅かった。


 北部のラヴァレ伯爵領まで、山をいくつも越えて馬車で一日半かかる。
 ついに目的の地に入る最後の坂道を下り始めたとき、ロナンは駕籠の窓から身を乗り出さんばかりにして、景色に見入った。
「きれいだ」
 こんな美しい谷は、クラインのどこにもないだろう。
「もうすぐ、ここは雪一色に染まる。きみは運がいい」
 ラヴァレ伯爵は、ようやく目を覚まし、ぼんやりした声で言った。王都で激務をこなしたせいか、馬車の中でもずっと眠っていたのだ。
 川と湖は豊かに水をたたえ、谷の両壁の山は、常緑樹の緑と広葉樹の金や赤でパッチワークを織りなし、すべてが午後の陽に燦然と輝いている。
 南の丘を登っていくと、古い領館が見えてきた。
 そのとたん、眠たげに背をもたれていたエドゥアールが、突然身を起こした。
「ジョエル!」
 門の手前で馬車が停まると、若き伯爵は駕籠の扉を開け放ち、飛び降りた。幼い少年が顔を真っ赤にして走ってくる。その後ろには、パラソルを差した夫人の姿も。
「ちちうえ、ちちうえーっ」
 全力で飛び込んできた少年を、伯爵はがっしりと受け止め、笑いながら高々と抱き上げた。「帰ってきたぞ」
「あなた」
「ミルドレッド、ただいま」
 妻と抱擁を交わし合う伯爵のとろけそうな笑顔を、ロナンは唖然と見つめた。
「ふたりに紹介する。俺の新しい友だち、ロナン・デュシュマン」
「はじめまして。ようこそラヴァレ領にお越しくださいました」
 奥方は、平民のロナンに対して優雅に膝をかがめた。「どうぞゆっくりしていってくださいね」
「よ、よろしくお願いいたします」
「ちちうえー。海賊ごっこ!」
「ああ、あとでな」
 息子をひょいと肩車して、伯爵は領館に通じる歩道をさっそうと登り始めた。その隣には美しい夫人が寄り添い、侍女や従者が付き従い、最後尾に馬車がつくという、陽気な行列だ。
 ロナンも、とまどいながら後に従った。クラインの最高権力者のひとり、一睨だけで居並ぶ貴族をもひるませ、国王でさえも頭が上がらない存在だと巷では噂されているのに。そのラヴァレ伯爵が息子と海賊ごっこだって?
 領館の玄関では、使用人たちが勢ぞろいして待ち構えていた。
 その中心にいるのは、ひときわ背が高く、気品を備えた老君。
「親父」
 息子を肩からおろすと、エドゥアールは彼のもとに近寄った。
「こんな寒いところで長時間立って。無理をするなって何べん言えばわかるんだ」
「おまえの帰りを真っ先に迎えるという特権さえ、わたしから奪う気かね」
 頭は灰色がかった白髪で覆われ、頬はひどく痩せこけているというのに、その声には張りと深みがあった。
(あの御方が、ラヴァレ大伯爵)
 ロナンは、脳髄から足先までしびれたような心地に打ち震えた。
 共和主義者たちにとって、エルンスト・ド・ラヴァレ伯爵の名は伝説だった。クラインの貴族でありながらリオニア革命を陰から支え、被征服民族でありながら、征服民族である王家の姫君をめとった男。
 越えることのできない壁を壊し、深い淵に橋を渡した男。
「後ろにいるのは、平民会議員のロナン・デュシュマンだ」
 エドゥアールは振り向いた。「ぜひとも親父に会わせたかった。こいつと議論して、久々に腹の底が熱くなった」
「そうか」
 老伯爵は杖を支えに進み出て、手を差し伸べた。「会えてうれしいよ、デュシュマンくん」
「よ、よろしくお願いいたします」
 その後ろにはべっていたのは、王都でも会った金髪の騎士だった。その隣には赤ん坊を抱いた黒髪の侍女が立っている。
「ユベール、命名式は無事終わったか」
「はい、大伯爵さまの立ち会いをたまわり、『エクトル』と名づけました」
 あのときの氷のような面差しが嘘のように、柔らかく微笑んでいる。「ありがとうございます。そのためにわたしを先に帰してくださって」
 ロナンは息もできないほど驚いていた。それでは、この侍女は騎士の細君なのだ。そして、この赤子は嫡男。
 騎士階級の征服民族が、黒髪の侍女と結婚している。それを、この領地では誰も不思議に思わないのだ。
「……と、挨拶も終わったところで」
 エドゥアールは、さっさとコートを脱ぎ始めた。
「さあ、ジョエル。遊ぶぞ。今日は遊び相手を連れてきてやったからな」
 手袋を脱いだ伯爵の指先は、まっすぐにロナンを差していた。
「ぼ、僕?」
 麦わら色の髪の少年は、お日さまのような笑顔でむしゃぶりついてきた。


 翌朝まだ暗いうちに、ジョエルが伯爵夫人の部屋に連れられてきた。
「ははうえ、ちちうえはどこ行っちゃったの」
 と、泣きべそをかいている。「あさ、みずうみの海賊のアジトに行くってやくそくしたのに……」
「すみません、奥方さま」と、養育係のメイドが申し訳なさそうに報告した。「若旦那さまはダグに馬を用意させ、お客さまとごいっしょに遠乗りに出かけられたそうなのです」
「まあ、こんなに早く? 元気すぎて困ったお父さまね」
 寝台から降りたミルドレッドは、息子を抱きしめた。
「ジョエル。あなたの一番の大好きなお気に入りは、何だったかしら」
 母の胸にしっかりしがみついたまま、くぐもった声で答えがある。「……まっくろくまちゃん」
「そうね」
 母はいとし子の髪を何度もなでてやる。「お父さまも、大好きなお気に入りを見つけてしまったのよ。だから、少しだけ待ってあげましょうね?」


 エドゥアールとロナンは、坂道の途中で手綱をしぼった。
 あたりはまだ薄暗い。黒々としたくぬぎの木の梢の向こう、谷の全景を見晴らせる場所にくつわを並べる。
 山の端にかかっていた雲が真珠色に染まったかと思うと、白い光が一息に朝もやをつらぬいた。
 曙光は西の斜面を舐めるように照らし、闇に沈んでいた谷の底も一枚ずつベールをはがされ、鮮やかに彩られていく。
「ここの谷ではすべて、寒さに強い冬蒔き小麦に切り替えたんだ」
 その言葉どおり、ほとんどの村で刈り入れはすでに終わっていた。すでに黒い土が掘り起こされ、次の年の種まきの備えが始まっている畑もあった。
 ロナンの故郷の農園は、今が刈り入れの真っ最中であろう。
「豊かな谷です」
 平民会議員は、吐息を漏らした。「噂どおり、あなたの領主としての才覚はすばらしい」
「俺の力じゃない」
 エドゥアールは、山の端にかかる陽を受けてまぶしそうに目を細めた。「親父とおふくろが、心を合わせてこの谷をいつくしんだからだ。俺はそのおこぼれに与っている」
「おっしゃる意味は、よくわかります」
 ラヴァレ領館の一晩の客となり、そのことが身に沁みた。
 伯爵家と使用人のけじめは保ちながらも、彼らはすでにひとつの家族だった。これは一朝一夕につちかわれた絆ではない。
 伯爵はしばらく、朝の風に髪をなぶらせていた。
「俺の親父を見て、どう思った?」
「え……」
 そう言えば、五十を過ぎた高齢とは言え、あれは明らかに病的な痩せ方だ。
 ロナンの父親と同じ痩せ方だ。
「きみの親父さんと同じ病気だ。発病してから八年経つ」
「お加減は……いかがなのです」
「良くも悪くもならないまま、なんとか永らえている」
 エドゥアールは顎を持ち上げ、白み始めた空を仰いだ。「長く厳しい冬が来るたびに、覚悟はしている。春が訪れるたびに、神に感謝する。八年間、その繰り返しだった」
「そうでしたか」
「ときどき思うんだ」
 エドゥアールは自問するようにつぶやいた。「最高の治療のためにあらゆる手を尽くし、新しい薬をかたっぱしから飲ませて、親父に闘病を強いるのは、俺のわがままなんじゃないかって。もうそろそろ楽にしてあげてもいいんじゃねえかって」
「そんなことはありません!」
 ロナンは思わず叫んだ。「わがままでいいじゃないですか。あらゆる手を尽くしたっていいじゃないですか。子が親に生きていてほしいと願うのは……理屈じゃありません」
 ラヴァレ伯爵は、何度か目をしばたいて若者を見、微笑んだ。「ありがとう、ロナン」
 二頭の馬は、谷を渡る道をのんびりと走り抜けた。
 立ち寄ったどの村でも、村人が伯爵に気づくと、たちまち人だかりができた。
 どの人の顔も満ち足りている。
 小川のほとりに来た。馬に水を飲ませて、藪の枝にゆわえつけ、道ばたの草の上に思い思いに腰をおろす。
「あなたが領民を大切にしておられること、僕も認めます」
 信念が揺らぐのを感じつつ、ロナンの声は固くこわばった。「だが、この国のすべての貴族が、あなたのような思いやりのある方々ではない」
「そうだな。すべてではない」
 エドゥアールも認める。「だから、貴族制度は廃止すべきだと、きみは主張するのだな」
「そうです。リオニア共和国がなしえた革命を、この国にももたらすことが、僕たちの夢です」
「きみたちが思っているほど、あの国はバラ色ではないぞ」
 エドゥアールは、草むらに仰向けに倒れこんだ。「無血革命と言われているが、事実はそうではない。多くの人が故郷を追われ、職を失い、あるいは生命を落とした。性急すぎる改革は、決して民を幸福にはしない」
「それでも、ただ座して、飢えて死ぬよりはましです」
「その前に、もっとすべきことがあるのではないか」
 ラヴァレ伯爵は太陽をつかもうとするかのように、片腕をかざした。
「この谷では、数年前から権限を大幅に各村に委譲している。選挙によって長を決め、それまで伯爵家に収められていた租税は、村ごとに予算を立てて実行する。だが、最初はうまくいかないことも多かった。村によっては収入に格差が生まれ、不公平感が生じた。それまでありえなかったケンカや強盗などの犯罪も起きた」
 エドゥアールは半身を起こして、若者を見つめた。
「貴族制度をなくして共和主義の社会になっても、また新たな格差が生まれる。人間が社会を営む限り、不平等は決してなくならない。ロナン。それを覚えておかなければ、制度を変えても新たな混沌をもたらすだけだ」
「あなたは……」
 ロナンは両の拳を強く握りしめた。この人だ。やはり、この人なのだ。
「お願いです。僕たちを導いてください。平民会は今、烏合の衆だ。意見がばらばらで、ひとつにまとまることすらできない。強力なリーダーが必要なのです。あなたが旗を振ってくだされば、みんなついてきます」
 伯爵は目を伏せて、しばらく答えなかった。
「それは、できない」
「なぜですか。平民会を組織したあなたが、なぜ今さら僕たちを見捨てるような真似をなさるのです。やはりあなたも口先だけで、本音は貴族の特権にしがみつくのですか」
「そうじゃねえ!」
 エドゥアールは立ち上がった。「そうじゃない……俺は、自分がこわいんだ」
「こわい?」
 伯爵は服についた枯れ草をはらい、歩き出した。
「ロナン。リオニアに行ってみないか」
「え?」
「何か月か、共和主義国の実情を見て来い。リナルディ首相には話を通しておく。今、クラインが何をなすべきか、学んでこい」
「でも、僕にはそんな金は」
「『絵入り民衆新聞』の奨学金を使う。それなら、俺が出したとはわからない」
「『絵入り民衆新聞』……!」
 左派の代表格として知られる新聞だ。いくら大臣とは言え、その奨学金を左右できるはずはない。
「待ってください。まさか、あなたは『民衆新聞』の――」
 出資者。それとも、事実上の社主。
 エドゥアールは返事の代わりに笑むと、馬の手綱をほどき始めた。
 ロナンの背中の産毛が逆立った――クライン王政の中核にある国務大臣が、共和主義者たちを陰から支援しているとは。
「その代わり、ひとつだけ条件がある」
「なんですか」
「今日一日、ジョエルの海賊ごっこに付き合ってくれないか?」


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