伯爵家の秘密/番外編

8. 伯爵の謀反



(4)

「ロナン。久しぶりだな」
 エドゥアールは両腕を広げて、若き平民会議員の帰郷を歓迎した。「どうした。リオニアから引き揚げてきたのか」
「いえ、用事がすめばすぐに向こうに戻るつもりで、荷物は置いて来ました」
 賓客用のソファに座るように促し、伯爵も腰をかけた。
「どうだ、半年ぶりのクラインは」
「相変わらず、この平民会のバッジは何の役にも立ちませんね。王宮の玄関で門前払いされるところを、侍従長どのに救っていただきました」
 からかうような微笑を浮かべるロナンは、もう半年前のせっかちで短慮な若者ではなかった。リオニアでの留学経験は、彼を一皮むいて、見違えるほど大きく成長させた。
「ずいぶん、いろいろなことを学んだようだな」
「はい。政治の舞台の表も裏も見せていただきました」
 ラヴァレ伯爵からの紹介状をたずさえてきたロナンを、リナルディ首相は秘書のひとりとして使ってくれたのだ。
「ようやく、あなたのおっしゃっていたことの意味が、わかったような気がします。結局のところ、国とは人のつながりなのです」
 実は、これはマルディーニ大臣の受け売りなのですがと、はにかんだように笑う。「共和政であっても大勢がいがみあうだけなら、国は立ち行かない。反対に、優れた人物が玉座の回りを固めるなら、王政であっても良い国となるとおっしゃっていました」
「そうか」
 ラウロ・マルディーニは父伯エルンストの旧友だ。今は財務大臣としてリオニア共和国の重責をになっているが、かつてはリナルディ首相の懐刀として世界を縦横無尽に飛び回り、プレンヌ公に牛耳られていたころのクライン王国にも密偵として訪れたことがある。
「リオニアでも、未曽有の飢饉と、それによる大幅な国庫収入の減少に悩まされています。議員はそれぞれの派閥によって争い、議論が膠着状態に陥ると、議会は何日も空転します。法案をひとつまとめるのに膨大な時間がかかり、妥協によって、せっかくの法案が骨抜きになることもしばしばです。マルディーニさんはしばしば笑いながら『王政に戻ったほうが、いろんなことが速やかに運ぶだろうな』とこぼしておられますよ。けれど」
「けれど?」
「こうも、おっしゃっておられました。今回のような大飢饉では、民衆の不満が限界まで高まる。共和政では、民衆から選ばれた代表が国を治めるから、国の失策は民衆の責任でもある。怒りの持って行き場がない。だが、王政では、ひとつ間違えば、憎悪の対象が一点に集約される」
「……なるほど」
 さすがに、リオニアの共和革命を支えた人物のことばは重い。
 エドゥアールは立ち上がり、部屋をゆっくりと歩き回った。
「クラインでは、平民と貴族の対立がますます際立っている。デモ隊が武装しているという噂が流布し、貴族側も私兵を雇って対抗手段に訴える恐れも出てきた」
「実は、わたしがクラインに帰ってきたのは」
 ロナンが身を乗り出して、声をひそめた。「ある情報をつかんだからなのです」
「それは?」
「異教徒の大陸から密かに大量の銃がクラインに密輸されている。その一部が武力による革命を叫ぶ急進共和派に流れていると」
 エドゥアールは眉をひそめた。「噂は本当だったのか」
「しかし、彼らにそれほどの資金はなかったはずです」
「後払いでもよいと持ちかけてくる奴なら、いくらでもいる」
 伯爵は拳をぎゅうっと固めた。「たとえば、武器商人ギルド」
 エドゥアールの脳裡に、不倶戴天の敵フラヴィウスの顔が浮かぶ。彼は一年以上前、黒い関係を結んでいたクラインの陸軍幕僚のひとりに背中を刺されて重傷を負った。今も生きているかどうかはわからない。だが、たとえ死んだとしても、その汚らわしい仕事は誰かが引き継いでいるだろう。
「ロナン、急進共和派の中心人物は誰だかわかるか」
 たじろぐほどの鋭い瞳で、伯爵はロナンを見据えた。
「その者を逮捕なさるのですか」
「違う。話をしたいだけだ」
 エドゥアールはソファの前に片膝を落とすと、ロナンの腕をつかんだ。「武力による衝突は、絶対に避けねばならん。命の奪い合いをすれば、数十年の将来にわたって禍根が残る。このクラインにそんな悲劇を生みたくない」
「……」
「お願いだ。そいつに会わせてくれ」
 若者は返答をためらった。だが伯爵の真摯な水色の瞳を覗き込むうちに、まるで春の湖のように、迷いは溶けていった。
「わかりました。話をしてみます」


 下町の一角、ツタのからまる石造りの僧院や、学生が住む古びたアパルトマンがある昼下がりの通りを、かつかつとふたりの靴音が響いた。
 先に立って案内するのは、ロナン。少し後ろに、マントの襟を立てたラヴァレ伯爵が続く。
 とある僧院の前で立ち止まり、渋面もあらわなユベールに外で待つようにもう一度念を押してから、エドゥアールは木の扉をくぐった。
 ホールの階段を先に上がったロナンは、一室の扉を選んでノックする。扉は内側から開き、中にいた数人の男が立ち上がった。
 部屋の中は、昼なのにカーテンを閉め切って暗く、ぴんと張り詰めた空気が漂っている。
「大臣閣下。こんなむさくるしい場所にようこそ」
 ひとりの男が一歩前に進み出た。「ジモンド州代表議員、ヴィクトル・ジャケです」
「ジャケくんか。球戯場できみに会ったという話を父から聞いている」
「覚えていてくださるとは、光栄です」
 彼は軽く頭を下げ、隣に立っている長身痩躯の男を紹介した。「ジョセフ・ボードリエ。議員ではありませんが、このギロンヌ・クラブの中心のひとりです」
「ああ、『絵入り民衆新聞』の」
 一部の貴族が領民の生活保護金を横領していることをすっぱぬいて、一躍有名になった記者だ。
「『絵入り民衆新聞』は、先月辞めました。今はひとりで、細々と政治新聞を発行しています」
 ボードリエは、意味ありげに微笑む。「あの新聞社は、さる王宮関係者の方がひそかに出資なさっているとわかりましたのでね」
「なんだ、もうバレちまったのか」
 エドゥアールは肩をすくめた。「わからないように、二つの銀行を経由してたのになあ」
「あなたは、ずるい」
 ジャケは、目を光らせて威嚇する野獣のようだった。「留学費用を出してやると持ちかけ、ここにいるデュシュマンさえ、自分の手先にしてしまった。そうやって陰から手を回して、敵を懐柔し、身の安全をはかっている」
「それは違う」
 エドゥアールは低く答えた。隣のロナンは唇を噛みしめている。ラヴァレ伯爵との仲立ちをつとめる彼を、仲間たちが裏切り者と罵倒しただろうことは、想像にかたくない。
「俺は、貴族と平民が自由にものを言い合える世の中を作りたいだけだ。そのためにも、きみたちと直接話し合いたいとデュシュマンに頼んだ。彼を手先にした覚えはない」
「貴族と平民が対等に語り合うことなど、未来永劫ありえない」
 ジャケは嘲るように言った。「あなたの理想など、絵空事だ。宮殿の奥深くで騎士や衛兵に守られ、ぜいたくな暮らしをして、貧しい民衆の何がわかる」
「わかっているつもりだ。俺は、港町の娼館で育った」
「それは、遠い過去の話でしょう」
 記者のボードリエが、あるかなきかの微笑を見せた。「今のあなたは、貴族の生活にどっぷり浸かって、昔のことは忘れておられる。髪を金色に戻したときから、もうあなたは昔のあなたではない。王族のひとりとして、高みから我々を一段低く見ておられる。あなたならきっと、われわれ庶民の心がわかってくださると、期待したのがバカだった」
 エドゥアールは唇を結んで、長い間黙りこくっていた。
「きみたちギロンヌ・クラブの活動は、今やクライン全土の町や村にまで広がっている。伝えてほしいんだ。武力蜂起だけは思いとどまってほしいと」
「お断りいたします。むしろ貴族のほうですよ、傭兵を雇い入れて、人々の恐怖心を煽っているのは」
「武力は手っ取り早く問題を解決するように見える。しかし、それは間違っている。どんなに遠回りに見えても、対話こそが問題を解決する唯一の力だ」
 エドゥアールは暗がりに沈む男たちの顔を、ひとりひとり祈るような思いで見つめた。「どうかお願いだ。決して短気を起こさないでほしい。国王陛下とわれわれ大臣に、もう少し時間をくれ」
「陛下は、以前にもそうおっしゃいました。かならず救いの手を差し伸べるから、もう少し待ってほしいと」
 ジャケは、首を振った。「結果はどうなりました。民衆のパンを貴族が横から奪い取っただけだ!」
「今度の平民会議できみたちの主張を取り上げたい。壇上で発言してくれないか。国王陛下も臨席なさる」
「ふふ。平民会議など」
 ジャケは僧院の高い天井を仰ぎ、喉仏を震わせて笑った。「もう僕たちは、平民会議などに何の期待もしていません。あれはもともと大地主や金持ちの商人、デュシュマンくんのようなブルジョアの代表の集まりだ。貧しい民衆の代表ではない」
 とりつくしまもない、とはこのことだ。
 部屋を辞したとき、ロナンは小さな声で「すみません」と言った。「デモ隊を率いていたときは、あれほど互いに理想を分かち合ったのに。もうわたしは彼らの仲間ではないようです」
「謝るのはこちらだ。きみの立場を悪くしてしまったようだな」
「いえ、わたしは」
「とりあえず、こちらの意志は伝えた。あとは平民会議で相手の出方を待つだけだ」
 エドゥアールは言葉を切って、階段を勢いよく降りた。
 平民会は、もうすでにいくつかの派に分裂している。貴族の力は削ぎたいが、王政の廃止までは望まない保守派。国の体制を根底から変え、共和政に移行することを目指す共和派。その中でも特に、武力による革命を望む急進派たち。
 そして、この急進派の勢力が、日に日に拡大している。
 扉の外で待っていたユベールは、主人の顔を一目見るなり、「どうしましたか」とまなじりを吊り上げた。
「なんでもない」
「なんでもないという顔ではありません」
 エドゥアールは騎士の肩に腕を回し、ぎゅっと引き寄せた。「俺は、そんなに昔と変わったのかな」
「若さまは、七歳のころから全く変わらないと思いますが」
「七歳から進歩がないって?」
「オオカミの子を助けようとして死なせてしまったことを覚えておられますか」
 ユベールは、騎士の羽根帽子を目深にかぶりなおした。
「今のあなたは、あのときと同じ顔をしておられます」


「だめだ」
 セルジュ・ダルフォンスは、たちどころにエドゥアールの提案を否定した。
「平民会議に、陛下のご臨席はならぬ。きさまも出席を控えろ」
「なんでだよ!」
「ひとりで勝手に、急進派の巣窟であるギロンヌ・クラブに乗り込むなど、おのれの立場がわかっているのか」
 昨日の今日の話が、もう耳には入っていた。セルジュは椅子にのけぞるようにして背を預け、大げさなため息をついた。
「きさまが無用な動きをすればするほど、陛下のお立場が苦しくなるのだぞ」
「わかっている。だからこそ今度の平民会議は成功させたいんだ」
 エドゥアールは苦渋に唇をゆがめた。「納得するような結果を出さないと、今度こそ本当に市民は蜂起するぞ、セルジュ」
「そうなれば、警察隊が鎮圧するだけだ」
「どちらかの血が一滴でも流れれば、貴族と平民の戦いは誰にも止められなくなる」
 伯爵は、僚友の執務机をバンと叩いた。「市民たちに武器を安く流したのは、武器商人ギルドだ。その思惑どおりに俺たちは王都警察隊にマスケット銃を配備した……やつらの思うつぼにはまってしまったんだ!」
「では、どうしろと」
「すみやかに法案を可決する。貴族会の優位性を廃し、平民会との平等を実現する」
「その後は、どうするつもりだ」
 セルジュは冷ややかに視線を返した。「その次は、『恩恵』をなくすつもりか」
 エドゥアールは目を伏せた。その仕草は、肯定を意味している。
 『恩恵』は正式には、『クライン王国法補則』と言う。先代フレデリク二世の治世のときに作られた、貴族に対してさまざまな特権を認める法律だ。それが廃止されることは、すなわち貴族と平民が、法律的には同等の権利を持つことになる。
「そしてゆくゆくは、このクラインの貴族制度を廃止し、フレデリク国王陛下を退位させ、共和政に移行させたいと望んでいるのだな」
「違う」
 力なくエドゥアールは反駁した。「俺はそんなことは望んでいない」
「一番始末に悪いのは、自分のことを自分でわかっていない輩だ」
 侯爵は疲れ切った仕草で椅子に深く体を沈めた。「いいか。エドゥアール。おまえはクライン貴族の頂点、征服民族の長たるファイエンタールの血をひいている。フレデリク三世陛下にとって、たったひとりの甥なのだ。そのことをわきまえろ」
「……わかっている」
「それならよい。だが」
 セルジュは、自分に腹を立てているような声音でつぶやいた。「もしおまえが貴族であることを捨てて、平民の側につくような真似をすれば……わたしが容赦しない」


 その翌日、心臓が止まりそうな報告が南部からもたらされた。
 ラトゥール河流域のさる男爵領で、小作農民たちが食糧を求めて一揆を起こし、それに対して貴族側も武力で対抗、大勢の負傷者が出たというのだ。
 ラトゥールと言えば、エドゥアールが育った港町ポルタンスのある州。さらに驚いたことには、その男爵領とは、ポルタンスの下町の医師テオドール・グランの父、グラン男爵のものだった。
 すぐに州長官に紛争の鎮圧を命じ、さらに王宮からも特使を送って、調査と調停にあたらせることになった。
「ギルマン長官、がんばってくれよ」
 ラトゥール州長官デジレ・ギルマンならば、事態を巧みに収拾してくれるはずだ。王都から離れられないエドゥアールは、そのことをひたすら祈った。
 一週間後、代わりに現地に飛んでいたユベールが、待ち望んでいた吉報を持って帰った。
 州兵がグラン男爵の領館の回りを固め、保護するという名目で幽閉する一方、ギルマン長官が領民たちの騒ぎを鎮めた。ギルマンの娘婿のシモンも、陰ながら大きな働きをしたという。
 グラン医師も妻のゾーイとともに男爵領に入り、怪我をした領民たちを次々と診て回っている。
「テオ先生もか」
 勘当されたとは言え、実の父や兄、生まれ育った故郷の災難を見過ごしにはできなかったのだろう。
「それだけではありませんよ。ミストレス・イサドラもいっしょです」
 娼館の女将イサドラと娼婦たち、それにポルタンスの住民の有志が、荷馬車で大挙して現地に入り、傷つき飢えた人々の世話をしている。船乗りたちも、ボートで川を遡り、食糧や医薬品の運搬に一役買っているらしい。
 手厚い支援の働きに、血気にはやっていた領民たちもすっかり落ち着き、調停に素直に応じている様子だという。
 ひとつの地域で暴動が起きれば、その知らせは瞬く間に全国にもたらされ、クライン全土に燃え広がることになるだろう。クライン王国にとって、今は小さな諍いが命取りになる。その火口(ほくち)を、テオやイサドラたちが消し止めてくれたのだ。
「すごいや、ポルタンスのみんな」
 報告を聞きながら、エドゥアールは目じりの涙をぬぐった。
 王宮の援助を、ただ座して待つだけではない。市民がまず立ち上がって、困っている人々を助けた。
「特に変わったこととは思えませんが」
 ユベールはこともなげに言った。「あの下町の人々は、隣で困っている人がいれば、放っておけないのです。あなたご自身も、そうだったではありませんか」
「そうか」
 エドゥアールは机の前から立ち上がり、執務室の扉を開いた。回廊から透き通った春の光が射しこんでくる。「そうだったな」
 貧しい人たちが貧しいなりに互いを案じ、わずかなものを分け合う姿を見ながら、彼はあの街で育ってきた。
 支配する者と支配される者の一方的な依存の関係ではなく、市民が自ら考え、行動して、互いに助け合う。エドゥアールがずっと理想の社会として思い描いていたものは、初めからあのポルタンスにあったのではなかったか。
 王宮で政治にたずさわるようになって、自分の権利を声高に主張する人々ばかり見ているうちに、そのことをすっかり見失ってしまっていたのだ。権力を得ると、人は一番大切なことを忘れていくものだろうか。
 感慨を胸に抱いて、エドゥアールがラヴァレ家の居館に戻ると、二階から甲高い叫び声が聞こえてきた。
「ぜったいに寝ないったら、寝ない」
 四歳の息子ジョエルの声だ。「みんな、出てけ、命令だ」
「どうした」
「あ、若旦那さま」
 子ども部屋に入ると、メイドたちがおろおろと向き直り、お辞儀をする。
 部屋の向こうには、半分寝間着を脱いだままのジョエルが、足をぐいとふんばって立っていたが、父親の顔を見て、表情を変えた。
「……ちちうえ」
 子守係のメイドのひとりが弁解した。「もうお休みの時間なので、お召し替えをしようとしたのですが……どうしてもいやだとおっしゃって。申し訳ありません」
「ミルドレッドは」
「奥方さまは、シュヴァリエ伯爵の夜会に出かけておられます」
「わかった。あとは俺がやる」
 侍女たちが出て行ったあと、エドゥアールは肩をこわばらせている息子をひょいと抱き上げた。
「寝る時間なんだろう。どうして、ジャンヌの言うことをきかなかった」
「だって……」
「だって、何だ?」
「ボクはジャンヌよりえらいんだ。だから、言うことをきかなくて、いいんだ」
 エドゥアールは、ベッドに腰をおろし、ジョエルを隣に座らせた。「それは違うな」
「ちがうの?」
「ジャンヌが言うことを聞いてくれるのは、それが仕事だからだ。おまえがえらいからじゃない。父上がお給料を払って、ジョエルの面倒を見てくださいとお願いしているからだ」
「でも、父上は、はくしゃくなんでしょう。ボクも大きくなったら、はくしゃくになるんでしょう?」
「伯爵が偉いなんて、そんなことは嘘だ」
 エドゥアールの声は固く、きびしかった。「人間には、生まれつき偉い人も、生まれつき卑しい人もいない。自分の仕事を果たそうと、懸命に努力する人が偉いというだけだ」
 だから、娼婦や貧しい市井の医者が、国王や大臣が及びもつかない尊い働きをなすことができる。
「母上も、父上を助けるために夜遅くまでがんばってくれている。それは母上にしかできない仕事だ」
 エドゥアールは、息子のひよこのように柔らかな金色の髪をふわりと撫でた。「ジョエルは母上も父上もいなくて、さびしかっただけなんだな。すまなかった」
「ちちうえー」
 ジョエルは頑なさをかなぐり捨てて、父にむしゃぶりついた。
 なんと暖かく、やわらかいのだろう。思えば、幼い息子を膝の上に乗せるという至福を、父エルンストと母エレーヌはとうとう味わえなかった。
 エドゥアールは、息子のふっくらとした唇に指の腹でそっと触れた。この唇は、いとしい妻にそっくりだ。
 真っ直ぐな鼻筋は、ラヴァレ伯爵家の代々の当主が受け継いできたもの。やさしい眉や目の輪郭は、彼の母エレーヌを思わせる。両親の血脈は、静かに確実に、息子へと流れていく。
 とろとろとまどろみ始めた我が子の頭を撫でながら、エドゥアールは自らに問うた。
(この子に、俺は何を残せるのだろう)
 支配する者とされる者が、生まれながらに決まっている社会か。それとも、身分に縛られることのない平等な社会か。
 いや、とうに答えは決まっている。ただ、それに気づくのが恐いだけなのだ。自分が進むべき道から目をそむけて、今のぬるま湯のような幸福にひたっていたいだけなのだ。
 じくじくと胸をえぐる苦悩に、伯爵はなすすべなく、ただわが子のまどろむ顔を見つめることしかできなかった。


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