Subterranean Homesick Blues ホームシックブルース

           (プロローグ)


「火星の空って、ほんとにピンクなの?」
 甲高い、問いかけの声がした。
 ソファに座っていた茶色い髪の青年は、閉じていた目を開いた。
 ターミナルの中央広場に、ホログラフィーの赤い星が浮いている。銀河観光局の広告だろう。
 そして、五歳くらいの男の子が懸命に爪先立って、火星をその手につかもうとしている。
「誰の質問にも答えたくなるのは、職業病かな」
 つぶやきながら立ち上がると、青年は男の子を軽々と後ろから抱き上げた。
「うわあ、ありがと」
 幻のピンク色のもやが、ふたりの顔や手を包む。
「火星の空は、ほんとうにピンク色ですよ」
「それじゃあ、海もピンク色?」
「いいえ。火星には海はないんです」
「え、ほんとなの?」
「はい、川も湖もありません」
「じゃあ、お水が飲めないよ」
「極冠の氷を溶かして飲むんです。呼吸のための酸素も水から作ります」
 カウンターでチェックインをすませたばかりの母親らしき女性が、小走りに駆け寄ってきた。「どうも、すみません。ご迷惑をかけませんでした?」
「いいえ、とても良い子でしたよ」
 すとんと下に降ろされると、男の子は不満げに下唇を突き出しながら母親のそばに戻った。
「助かりました。火星に行くのは初めてなもので、手続きに手間取ってしまって」
「ああ、わたしもこれが最初の火星旅行です。観光に行くだけで、予防注射が三種類も必要だとは知りませんでした」
 彼はいたずらっぽく笑った。「うまくごまかしましたけど」
 見知らぬ青年の柔らかな印象に、女性はほっとした様子で相好を崩した。「道連れができて、心強いですわ」
 天井から、合成音のアナウンスが降ってくる。
『クシロ発、火星クリュスシティ行きの定期旅客シップ、AK07便は、まもなく搭乗手続きを終了いたします』
「そろそろ行きましょうか」
 彼らは、旅客用ゲートへと通じるコンコースに向かった。
 待っていた男性型のロボットは、搭乗客の電磁チケットを自動的に読み取り、「ようこそ。AK07便に」とにっこり笑って、誘導ブースに彼らを案内した。
 【AR9型】ヒューマノイドタイプ。
 彼らのオリジナルモデルが最初に市販されたのは六十年以上も前だが、今なおトップクラスのロボットとして国際的にも認知され、各方面で使用されている。
 ブースがふわりと浮き上がって動き始めると、男の子は青年が差し出した手にしっかりとしがみついてくる。
 二週間の宇宙旅行。口やかましい母親とふたりきりだと覚悟していたのに、こんなにすてきな遊び相手を見つけたという笑顔だ。
「夫がクリュスシティの地下鉄建設工事のため、この春から単身赴任しているんです。火星まで行けるチャンスは、これを逃したら二度とないかなと思って、思い切って夏休みを利用して、息子と訪ねることにしました」
「そうですか。わたしも弟に会いに行くんです。もう長い間会っていないので」
 ブースが静かに着地すると、すぐ先に待合ロビーがあった。
 正面のガラス越しに、銀色に照り映えるシップの機体と、その背後にそびえ立つ軌道エレベータが見える。
 出発ゲートのそばにいた恰幅のよい出国管理官が、彼を見て、しゃちこばってお辞儀をした。
「先生、お久しぶりです」
「サトくん、元気そうですね」
 親しげに挨拶を交わし合う青年と管理官に、母親は驚愕の表情になった。
「せ、先生?」
「ああ、彼はわたしの四十年前の教え子なんです」
「ええっ」
 青年はほほえんだ。その微笑は、まだ二十歳にも満たない彼の容姿からは想像もできないほど穏やかで、はるかに年経る者を感じさせた。
 彼は親子から離れて窓に近寄り、地球の空を見上げた。ピンク色の火星の空と違って、吸い込まれそうなほどに青い。
「とうとう約束を果たせる時が来ました」
 上着のポケットに手を入れ、きゅっと何かを握りしめる。
「いっしょに行きましょう――胡桃」