Hungarian Rhapsody ハンガリー狂詩曲


           (1)


 何かが手に当たった。
 うっすらと目を開けると、マルギットの体は、【ポンチセ】のマスターから借りた防寒着、そしてもう一枚の男物の上着のサンドイッチになっている。
 見覚えのある黒の上着。それは昨日クリフォトが着ていたものだ。
 手に触れたのは、その内ポケットからはみでていた一枚の古びた写真だった。
 二十人ほどの男女がドームの透明内壁を背に作業服姿で並んでいる。隔壁の外に広がるのは、見渡す限りの火星の赤茶けた荒野だ。
 真中あたりに長身のクリフォトがいた。両側にいる男たちと肩を組み、今では考えられないほど柔らかい表情を作っている。
(これが彼?)
 とてもあの無表情なロボットと同一人物とは思えないと、寝起きの頭でぼんやりと考える。
 さっきから、心地よい香りに鼻腔をくすぐられていることに気づき、けだるい上半身を起こして驚愕した。
「ええっ」
 まるで違う部屋に来たようだ。
 昨夜はからっぽだった室内に、今は居心地のよさそうな濃緑のソファと椅子がある。テーブルにはオレンジ色のクロスが掛かっている。
 キッチンにはピカピカの調理器具が並び、セフィロトが鼻歌を歌いながらスクランブルエッグを作っていた。さっきの香りは、そのそばのコーヒーマシンから漂っているのだ。
「あ、目が覚めましたか」
 セフィロトは振り返って、うれしそうに笑った。「おはようございます。マルギット」
「おはよう……ございます。あ、あの」
「わたしのことは、セフィと呼んでください」
 彼はぎゅっと、親しみをこめて彼女を抱きしめた。「一晩じゅう床に寝て、体は痛くありませんか。ソファに移そうかと思ったのですが、起こしてしまいそうだったので」
「どうしたの。これ」
「ゆうべ、ここのリサイクルセンターに必要な家具や食器を注文したんです。火星の地下都市も意外と便利なものですね。明け方には届いていました」
「まったく、俺の許しもなしに!」
 クリフォトが奥の部屋から足音も荒々しく出てきた。彼がメンテナンスで充電装置に入っている隙に、セフィロトに勝手にホームコンピュータを操作されたことを怒っているのだ。
「あ、支払いはそっちのクレジットにつけておいたから、よろしく」
「おまえのことなんか、心配してやるんじゃなかった!」
「あ、あはは」
 マルギットは、のけぞって笑い始めた。
 部屋のトイレとシャワーは、問題なく使えた。セフィロトは家具のついでに、彼女の着替えまで取り寄せてくれていた。
「クリフ。これ、ありがとう」
 シャワーのあと、丁寧にたたんだ上着をクリフォトに渡した。
「それと、これ」
 写真を差し出すと、彼はそれも黙って受け取った。
「この人たち、誰なの?」
 しばらく返事をしなかったが、やがてぼそりと答えた。「……第一次火星調査移民団のメンバーだ」
「七十年前の?」
 彼は小さな声で「ああ」と答える。
 トースト、コーヒー、手の込んだアボカドサラダとスクランブルエッグがテーブルに並び、ふたりのロボットと、まるで家族の食卓のように和やかな朝食が始まる。
(なんだか不思議)
 なんで、こんなに満ち足りた心地になるのだろう。見知らぬ惑星の見知らぬ地下都市で、これから先の未来がまったく見えないというのに。
 食事のあと、セフィロトはアボカドの種をフォークに刺し、水の入ったコップに浮かべた。
「芽が出るといいですね」
 大きな茶色の丸い種は、さながら惑星のようだった。


 YX35便の航宙士、レイ・三神がふたたび訪れたのは、昼近くになってからだ。
 「遅れてすまない」と言いながら入ってきた彼は、予想どおり「わっ」と部屋の変わりように目を見張った。
「はじめまして。こいつの兄のセフィロトと言います」
 セフィロトが柔らかく微笑みながら、レイに手を差し出した。「昨夜遅く、地球から、ここに着いたばかりです」
「あなたがあの――?」
 握手を交わしながら、レイの声に畏敬に似たものがまじった。
「あなたのことは、クシロ航宙ポートの生方管制官からよく聞かされている」
「ああ、彼も【すずかけの家】出身です。相変わらず真っ黒に日焼けしてるんでしょうね」
「保育施設の園長に納まっていなければ、銀河連邦の総裁にだってなれる人だと言ってた」
 セフィロトは、それを聞いてくすりと笑った。「ロボットに支配されて平気な人間はいませんよ」
 そしてキッチンでレイのためのコーヒーを注いで戻ってくると、言った。
「あらましは弟から聞きました。わたしも協力させてください」
「よかった。味方は多いほうが心強い」
 四人はさっそく、新しく買ったばかりのテーブルを囲んで作戦会議を開いた。
「申し訳ないが、タオ機関長は今は整備ドックのほうに詰めているのでここに来れない。出航前の最終調整なんだ」
 マルギットの不安に曇った視線を体の片側に感じながら、レイは続けた。
「YX35便は明後日の2400時、地球へ向けて出航する予定だ。だから僕たちが協力できるのは、明後日の夜までということになる」
「まずは、彼女の身の振り方をどうするかですよね」
 セフィロトは顎に手を当てて考えこむ。レイはうなずいた。
「確かにそれが一番だが、その前にもっと厄介な話が飛び込んできた」
「厄介な話?」
「実はゆうべ、地上に戻ってから、タオと手分けして情報を集めたんだ――マルギットを密航させた男の正体について」
 彼女は息を飲み、身を乗り出した。「あいつ、見つかったのかい!」
「【グラナトゥス】という組織の名を、誰か知っているか」
 クリフォトが喉の奥でかすかな音を立てた。レイは彼に振り向いたが、何も発言しそうにないので続けた。
「この数年間、月や【サテライト】の各都市で、約六百人の人間が行方不明になっているらしい。その人たちの行き先がここ火星だというんだ」
 レイは調査結果を記した電磁シートを、ぱさりとテーブルの上に置いた。
 マルギットは覗き込もうともしないし、ふたりのロボットは瞬時に内容を読み取っていただろう。
「つまり」
 セフィロトは慎重にことばを選んだ。「【グラナトゥス】とは、マルギットと同様、人々を秘密裡に火星に連れてくる組織だと」
「奴隷商人ともいう」
 レイは憤慨をこめて、より刺激的なことばに言い直した。
「あくまでもシップ乗りの噂にしかすぎないが、核心ははずれてないと思う」
 レイはマルギットに向き直った。
「ここへ連れてこられるまでに、シップは途中でどこかに立ち寄ったということはないかい?」
「あ――あたし、コンテナの中で眠らされていたから、よくわからないけど」
 マルギットは、そのときの暗黒と恐怖を思い出して、ぶるりと震えた。「一度、どこかに着陸したような気がする」
「【グラナトゥス】の本拠地は、火星の衛星フォボスにあるらしい。大半の人間はそこで降ろされて、一部は火星に連れてこられる――そのほとんどが女性で」
 レイは後の言葉をにごした。おそらくマルギットを待ち受けていた悲惨な運命を言い表すことになるからだ。
 女性が圧倒的に少ないのは、環境の苛酷な宇宙殖民地の常だった。火星の男女比は、移民七十周年を迎えた今年でも、およそ三対一。
 人工子宮による生命の誕生は、厳しい規制のもとにある。男たちは、自分の子孫を残すため、あるいは、ただの性の捌け口としての女性を渇望した。――どんなに違法な手段を使ってでも。
「組織を摘発することで、マルギットを密航者としてではなく、奴隷売買の被害者として当局に認定してもらう。そうすれば逃げ回る必要もなく、堂々としていられる。交渉次第では、地球への居住権を認めてもらえるかもしれない」
 涼しげな顔貌に不似合いなほどの熱意をこめて語る青年航宙士に、マルギットは頬を染めるばかりだ。
「どうだ、マルギット」
「う、うん。それがいいよ。いいと思う」
「じゃあ、決まりだ。さっそくフォボスへ行こう」
「ええっ!」
「密航の手引きをした男の面相を知っているのは、きみだけだ。そいつを見つければ、てっとりばやく組織への足がかりができる」
「い、いやだよ。敵の本拠地に乗り込むなんて」
「タオと僕がついてる。絶対に危険な目には合わせない」
「それでも――イヤだ」
「わたしが行きましょう。彼女の代わりに」
 セフィロトは小さなシートを上着の内から取り出した。
 やたらと不鮮明な男の顔写真。目鼻立ちがかろうじてわかる程度。
 マルギットが目を丸くして叫んだ。「ああっ。こいつだよ。あたしをだました男!」
 クリフォトもレイも、驚愕して彼を見る。セフィロトは静かに笑みを浮かべた。
「どうやら、わたしが火星に来た目的と、あなたたちの目的は合致するようだ」