The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 11 「芽吹く春」

(4)

 族長の家に生まれた男の子は「ルーン」と名づけられた。
 戦死者の喪が明けるのを待って名づけの祝宴が開かれ、村人たちは春の息吹とともに訪れた新しい生命を大いに喜んだ。
「族長さまの世継ぎができて、これでこの村も万々歳だね」
「ああ、立派な男の子をお産みになったことだし、レウナさまのことを悪く言ってた人も、これで口を閉じるだろうよ」
「いやいや、納得はしないさ。自分の血筋から族長を出るはずだったのだもの」
 豆の皮を剥きながら、おしゃべりに興じていた老婆たちのひとりが、近づいてくる少年の姿を見て「あっ」と声を挙げた。
 黙り込んでしまった女たちの横を、アイダンは惨めな気持ちを抱きながら、早足で通り過ぎた。
 噂話の的が、祖父と自分であることは明らかだった。
 このところ、祖父は昼間から炉端で酒にひたっている。ピクト人との戦いは激しいものだったと聞いているが、それが深酒の原因だとは、とても思えない。
 命がけの戦闘を終えて帰ってみれば、族長の家にローマ人の血を引く男子が生まれてしまった。誇り高い祖父は、ひどく衝撃を受けたのだろう。なのに、村人たちはそんなことは遠い昔のことだとでも言うように、祝賀の喜びに沸き、祖父の陰口を叩くのだ。
(ローマに味わわされた辱めを、みんな忘れてしまっているのだろうか)
 若いからこそ、アイダンは自らの心に刻印された恨みを忘れてはいなかった。父を殺された恨みを息子が忘れてしまえば、いったい誰が思い出すというのだ。それでは、父があまりに可哀そうだ。
 ためらいがふっきれた少年は、力をこめて足を踏み出した。
 族長の家の生垣のそばでは、族長であり氏族連合の王でもある男が、鋤を使って地面を掘り起こしていた。
「族長どの」
 セヴァンは振り返り、表情をゆるめた。「なんだ、小さなアイダンか」
「何をしておられるのです」
「りんごの木の回りを掘って、肥料を梳き込んでいる」
 まだ新葉が生えてきたばかりの若木を、セヴァンは満足げに見上げた。「これで秋に良い実が成るだろう」
「お願いがあって、きました」
「なんだ」
「次の戦いから、僕を戦士として加えてください」
 セヴァンは驚いたように、十歳の少年を見つめた。「おまえは、まだ若すぎる」
「わかっています。けれど、前の戦いで何人も死にました。代わりが必要なのではありませんか。僕は、勇敢な戦士だった父の血と戦士長である祖父の血を受け継いでいます。その名に恥じない働きをしたいのです」
「これは、戦士長どのの考えか」
「いいえ、祖父は何も知りません。僕ひとりの考えです」
 セヴァンは軽いため息を吐いた。そして手に持っていた鋤をじっと見下ろした。
「『剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す』という言葉があるらしい」
「……どういう意味ですか」
「ユニアが教えてくれた。古いユダヤの格言らしい。俺もできることなら、剣を捨てて、この鋤を握っていたいと思う」
 顔を上げて、悲しげな微笑を浮かべる。「すでに俺たちは血にまみれている。だが、おまえたち次の世代には、剣は持たせたくない……自分の息子ができた今は、なおさらそう思う」
 アイダンは怒りの叫びを挙げた。「勇敢な戦士の言葉とは、とても思えません」
「もしおまえの父が生きていれば、きっと俺に賛成してくれるはずだ」
「そんなはずはありません!」
 耳をふさぎたくなる気持ちを堪えて、拳を握りしめる。「父ならば、そんなことは言わない。クレディン族の誇りをかけて、いのちが尽きる時まで勇敢にローマと戦った父ならば、絶対にそんなことは言わない!」
 セヴァンはりんごの枝を見上げた。まるで、空をわたって遠くから聞こえてくる誰かの声に耳を傾けているかのように。
「おまえの家に、ブナの木でできた長持があるだろう」
「え?」
「その中に、お守りがあるはずだ。男根をかたどった奇妙な形のものが」
 確かに、言われたとおりだった。ブナの木箱は、父の遺品が入った大切なものだからと、母は絶対に他人には触らせない。
「あのお守りは、レウナがおまえの父に渡したものだ。健やかな子どもの誕生を願って」
「なん……ですって」
「ふたりは国や民族を超えて信頼し合える友だった。誓って言うが、憎み合う敵ではなかった」
「そんな……」
 信じられない。誰も教えてくれなかった。そんなことがあったなんて。
「俺も、兄の無念を晴らすつもりで彼女を憎んだ時があった。けれど、それは浅はかな思い込みだった。アイダン兄さんは決して、ふたつの民族が憎み合うことを望んではいない」
「うそだ」
 叫んで、少年は奥歯をきしませた。「信じない、そんなこと。あなたは、だまされているんだ」
 セヴァンは、目に涙すら浮かべている甥をじっと見つめた。
「憎しみを捨てるのは、勇気が要る。俺はおまえにも、それができる男になってほしい」
「……」
「おまえが戦士になるのは、それからだ。今は、まだ早すぎる」
 アイダンはきびすを返すと、一目散に走り出した。セヴァンはそれを見送ると、ふたたび鋤を取って、足元の地面を掘り返し始めた。


 春が過ぎ、穏やかな夏が訪れた。
 夏のあいだじゅう、ピクト人の大規模な襲来はなく、氏族の村々は平和のうちに憩った。湖はゆったりと澄んだ水をたたえ、ハクチョウの群れが西から渡ってきて、さかんに鳴き交わした。
 女たちは歌いながら羊の毛を刈り取り、歌いながらキイチゴやコケモモを摘んだ。
 ハリエニシダの花の甘い香りがそこかしこに漂い、野生のヘザーが草原を紫色に変え、ハチミツ作りの職人たちが南からやってきて、巣箱をかけて蜂を放した。
 天候の恵みは、大麦と小麦の大収獲をもたらしてくれた。大勢の捕虜たちが新しく開墾した畑では、ソラマメやエンドウが土を肥やし、次の年の豊かな実りを約束した。
 収獲を終えると、セヴァンは約束どおり、荷車いっぱいの麦の袋と塩漬け肉、毛織物を持たせて、ピクト人たちを妻子たちの待つ北の地へと送り出した。
「もっとたくさんの食糧や暖かい衣服がほしければ、来年また畑を耕しに来るがいい」
 とセヴァンは彼らに言った。「ただし、武器は持ってくるな。戦いは必要ない。次に会うときは、敵ではなく、友人として迎えよう」
 彼の植えたりんごの木はぐんぐんと枝を伸ばし、乳を飲み終えたルーンの寝顔に心地よい影を落としてくれた。小さく硬い青い実が、浅緑から黄金色へと柔らかく色を変えるにつれて、赤子の手足はすくすく伸び、揺りかごからはみだしそうになっていた。
 木陰の長椅子に座って、つかのまの微睡を我が子と共有しているレノスの耳に、犬小屋の扉が開く音、そして犬たちが嬉々として飛び出す足音が聞こえてきた。メルヴィスが猟犬たちを朝の訓練へと連れて行くのだ。
 彼は、いまだに犬小屋で寝起きしている。厩番のユッラが仔馬の出産に大忙しのあいだに、猟犬たちの世話はすっかりメルヴィスに奪われてしまった。
「なぜ、仲間たちとともに帰らないのだ?」
 フリスラン人たちが海の向こうの故郷へと旅立つとき、メルヴィスだけはひとり残ることを選んだ。
「俺の一族は、来年またこの村に働き手を大勢送ってくるから、誰かひとり、ここで待っていなければなりません。それに」
 メルヴィスは、忘れたのかと言いたげな威張った顔つきになった。「まだ、あなたから、コンクリートの作り方を教わっていませんよ」
 レノスはまどろみながら、そのときのメルヴィスの顔を思い出して微笑んだ。フリスランの地を洪水から守るためには、どんな堤防を作ればよいだろうか。海水を排水するためには大きな労力がいる。堤防のところどころに水門を作ってはどうだろう……。
 人の近づく気配に、はっと目を覚ました。
「ルエルか」
「こいつは、見るたびに大きくなるような気がしますね」
 義弟は、木の幹によりかかりながら、ルーンの濃い色の髪に指で触れた。「そして、ほら、どんどんあなたに似てくる」
「産毛が抜け替わるまでは、セヴァンにそっくりだった」
 レノスは宝物を愛でるように、赤子の目鼻立ちをひとつひとつなぞった。「口元は、どちらかと言えばきみに似ているな」
「アイダン坊やにも似ている。みんな違う顔なのに、不思議なものです」
「血というのは、不思議なものだ」
 レノスは、「座らないか」と長椅子の左半分を空けた。ルエルは首を振った。「いいえ、このままで」
「お願いがある。アイダンの父親になってくれないか」
「……え?」
「あの子は、苦しんでいる。まだたった十歳の子どもなのに、祖父と父の名誉という途方もない荷物を背負おうとしているんだ」
「……知っています。セヴァン兄さんから聞きました」
「父親となって、あの子のそばにいて支えてあげてほしい……そして、メーブの夫として」
 十八歳の若者は、たじろいだように目を伏せた。
「でも、義姉さんは……」
「メーブとはもう話した。彼女もそのことを心から望んでいると言ってくれた」
 レノスは、視線を避けようとするルエルを射抜くように見つめ続けた。「きみも、考えていなかったわけではあるまい」
 長い沈黙の後、とうとう彼はレノスの隣に腰をおろした。
「義姉さんがアイダン兄さんのもとに嫁いで来たとき、僕はほんの小さな子どもでした。母を病で亡くしたばかりの僕に、メーブは母親代わりとして親身に尽くしてくれた」
「ああ」
「兄さんが死んで実家に戻った後も、義姉さんは僕にとって大切な、なくてはならない人でした。いつのまにかその気持ちが変わっていたことに気づきました……男が女を恋うる気持ちへと」
 ルエルはしばらく、奥歯を噛みしめていた。
「14歳になったばかりのある日、僕はメーブに結婚を申し込んだんです。セヴァン兄さんはローマに連れ去られて、生きているか死んだかもわからない。あなたと結婚して、兄の名を残せるのは僕しかいないと ……でも、メーブは嘲るように笑って答えました。今からそんなことを気にする必要はない。セヴァンだって、いつか戻ってくるかもしれないのだから、と」
 レノスは、話のあいだずっと詰めていた息を、ゆるゆると吐いた。「それは……」
「僕はそれを聞いて、メーブはセヴァン兄さんとの結婚を願っているのだと思いました。同じ族長の息子でも、僕では駄目なのだと」
「ルエル、きみは誤解している」
 突然の大声に、母親の腕の中にいた赤子は眠そうにぱちぱちと目を瞬いた。
「メーブは、本当はきみを好いていた。まだ若いきみの将来の重荷になりたくなかっただけだ」
「ええ。今ならわかります。そんなこともわからないくらい、僕は子どもだったのです」
 ルエルは大きく深呼吸した。「僕はすっかり自信を失ってしまいました。僕では、セヴァン兄さんにはかないっこない。戦うことが嫌いで、弱虫で意気地がない僕は、族長にもふさわしくないと」
 胸がふさがれるように痛んで、レノスは黙り込んだ。赤子はいつのまにか、また目を閉じてしまった。
「セヴァン兄さんが村に戻って来たとき、僕は内心ほっとした。これで、族長にならなくてすむ。メーブを兄さんに託せる。でも、同時に……醜い嫉妬の思いが僕の中にどす黒く渦巻いていたんです」
 レノスは苦労して、涙を喉の奥に押し戻した。「つらかった……のだな」
 ルエルはにっこりと晴れやかに笑って、首を振った。
「いいえ。ある人が、僕に教えてくれました。僕は僕らしくあればいい、兄たちと比べなくていいのだと。生きるうえで本当に大切なことを、その人から全部教わりましたから」
「そうか」
 レノスは、まなじりを柔らかく緩ませた。「とても、よい出会いがあったのだな」
「はい。とても」
 ルエルの若葉のような色の瞳が、ようやくレノスから逸れた。「メーブにもう一度、結婚を申し込んでみます」
「今度は、きっと良い返事が聞けるよ。約束する」
「もう今から、心臓がとんぼ返りを打ちそうです」
 立ち上がると、彼は両腕をレノスに差し出した。「ルーンを抱かせてもらえませんか。新しい命から幸運がもらえるように」
「いいとも」
「ありがとう」
 ルエルは、長いあいだ赤子を抱きしめてから、母親の膝の上に戻した。
 屈みこんだ拍子に、彼の唇がかすかにレノスの髪に触れた。


「僕と結婚してほしいのです」
 そう告げる緊張した声とそれに続く沈黙の後に、ひそやかな泣き声が聞こえた。
 その泣き声が、くぐもったものへと変わったとき、アイダンは物音を立てないように、そっとその場を離れた。
 おぼつかない足をどうにか運び、屋根裏への梯子を上がる。
 屋根裏では、祖父のクーランが藁を棒で叩いていた。
「……お祖父さん」
「なんだ」
「たった今、外でルエル叔父さんが……母さんに結婚を申し込んでいました」
 クーランの手から棒が滑り落ちた。
「メーブは何と答えた」
「母さんは、何も言わず……ただ抱きついて泣いていました」
「そうか」
 戦士長は、打った藁を両手でかき集めると、振り向いた。「アイダン、おまえはどう思う」
「僕?」
 射抜くような視線を受けて、アイダンは狼狽した。
 幼いころから、ルエルは親身に彼の面倒を見てくれた。記憶にさえない父の面影を、彼はいつしか若い叔父と重ね合わせるようになった。
 村人たちはルエルと母は再婚するだろうと言い交していたし、アイダンもそう信じていた。それ以外のことには決してならないと信じていた。
 なのに、もう一人の叔父セヴァンが村に帰って来て、サフィラ族長の後を継いだとき、祖父はいきなり「メーブはセヴァンと結婚させる」と言い出したのだ。それを聞いて、アイダンはひどく悲しくなった。
 みんな、大嫌いだ。
 族長の座を横から奪い取ったセヴァン叔父さんも。自分のものを毅然と守れなかったルエル叔父さんも。
 それを知って急に心変わりした祖父も。自分の気持ちすらはっきりと言えない母さんも。
 だから、ルエル叔父さんと母さんが結婚すると聞いても、もう昔のようには喜べないのだ。
 心の奥底に凝り固まった思いを、祖父には決して気取られまいと、アイダンは無理をして笑みを作った。
「賛成です。母さんが幸せになるならば」
「そうか」
 祖父は立ち上がると、ゆっくりと梯子を降り始めた。「もうこれで、何の迷いもなくなった」
 翌日の早朝、朝餉の煙が家々の屋根から立ち昇り始めるころ、家畜の世話のために外へ出たアイダンは、祖父が馬に大きな荷物を積んでいるのを見た。
「どこへ行くのですか?」
「ああ、二、三日出かけてくる」
 荷物の中に大きな木籠があり、中に仔羊が一頭いるのを見て、少年は祖父の行き先を悟った。
「カシの森の聖者に生贄をささげに行くのですね」
 古の時代から氏族たちは、何か良いことがあったときには、カシの森に感謝の生贄をささげに行く。祖父は、ルエルと母との結婚がよほど嬉しいのだろうと、アイダンは思った。
 だが、振り向いたクーランの目には、幸せや喜びとは無縁の、底のない影が宿っていた。
「このことは、誰にも言うでないぞ。母さんにも、ルエルにも」
「は、はい」
「神々に誓うのだ」
「……誓います」
「それでよい」
 祖父は孫の頭にぽんと大きな手を乗せると、馬の手綱を引いて旅だって行った。
 しばらくその後ろ姿を見送っていたアイダンは、急に理由のない不安に襲われ、村の門のわきの物見やぐらに走り、梯子をよじ登った。
 てっぺんについたとき、朝日がちょうど東の丘の上に姿を現わし、突然の強い光に目がくらんだ。ようやく慣れた目に映ったのは、灰色の草原にひょこひょこと動く、祖父と馬と長い影だけだった。


 家に入ってきたセヴァンと迎えに出たレノスは、同時にしゃべり出し、同じ話なのに気づいて同時に笑い出した。
「たった今、ルエルから聞いた」
「そうか、わたしはメーブからだ」
 明日の昼までには、ルエルとメーブの結婚は、もう村の隅々にまで伝わっているだろう。
「祝宴の準備で忙しくなるな」
 レノスは満足のため息を吐き、繕っていた夫のアカシカのマントを広げて見せた。「もう少しで仕上がる。明日の出発になんとか間に合いそうだ」
 マントの裏に、紫の端切れを丹念に縫いつけていたのだ。上等な布の裏打ちだから、今までよりも格段に暖かくなることは間違いない。
「ローマ皇帝の紫のマントを裏地に使うなど、北の砦の連中が聞いたら卒倒するだろうな」
「氏族連合の王にふさわしいマントだ」
 セヴァンは背後から妻の身体を抱きしめた。「ありがとう。おかげで勇気が出る」
「明日の会議は……むずかしいのか」
「だろうな。不穏な動きがある。カシの森の聖者たちが族長たちに俺への謀反をそそのかしているらしい。俺はどうやら、大変な相手を敵に回したようだ」
「大丈夫か。おまえはいつも敵を作りすぎる。真っ直ぐ進もうとして、事を急いてはならん」
「心配するな。味方は大勢いる。きっとうまく乗り切ってみせる」
「それならよいが」
 レノスは、セヴァンの手に自分の手を重ねた。「人が生き方を変えるのはむずかしいことだ。戦士長も内心はおまえのやり方に反対らしい。酒ばかり飲んで愚痴を言っていると、メーブがこぼしていた」
「ふたりの結婚で、クーランの気分も変わる」
「そうだとよいが」
 セヴァンはしばらく妻と指をからみ合わせていたが、ようやく口を開いた。「ルエルに族長の座を譲ろうと思う」
「なんだって」
 レノスが突然振り向いたので、そばで寝ていたルーンがぴくっと両腕を震わせた。
「少し前から考えていたことだ。俺の役目はもう終わった。いつでもルエルに族長の座を明け渡せる。その後は、小さなアイダンが受け継げばいい」
 むずかり始めた息子を抱き上げたセヴァンは、ハシバミ色の目をやわらかく細めた。「俺は無用な後継者争いは起こしたくない。ルーンは……かわいそうだが、ローマ人の血を引く子だ。族長にはなれない」
 そして、目を見開いたままのレノスを心配そうに見つめた。「納得がいかないか」
「ははっ」
 レノスは軽やかな笑い声をあげた。「何を言っている。わたしも大賛成だ。ルエルなら、きっとおまえよりも賢くて思慮深い族長になれるだろう」
「言ってくれるな」
「クーラン戦士長も喜んでくれよう。争いを起こさぬ、このうえない解決法ではないか。クレディン族にとって、それが一番たいせつなことだ」
「ああ。これでアイダン兄さんの血筋が、絶えることなく族長の家に受け継がれる」
 セヴァンは、息子の茶色の髪に額を押しつけた。「俺はずっとそう望んでいた。ヴァルハラにいる兄さんも喜んでくれるだろうか」
「きっと喜んでいるとも」
 レノスは目のふちの涙をそっとぬぐった。「よかった……すべてがうまく行くのだな」
「明日の会議には、ルエルも連れていく。あと一年か二年すれば、氏族連合の王も代わってもらうつもりだ。ルエルがいやだと言えば、ほかの誰でもいい」
 レノスは、息子をあやしている夫の肩にそっと頭をもたせかけた。「そうだな。おまえの願っていた氏族の平和と繁栄は、手の届くところにある。あとは誰にまかせてもいいな」
「することがなくなりそうだ」
「毎日でも狩りに行けるぞ」
「まずは、ルーンを連れて北の砦に行こう。たくさんの品がローマから届いたという知らせがブリアンから来た」
「本当か」
 砦の町に設けた氏族の取引所では、美しいガラス細工や銀細工、高価な陶器、イタリヤのワインなどのローマの品々が並べられていることだろう。氏族たちが気軽にそこを訪れ、それらの品物をうっとりと品定めし、錫の器や毛織物を売った金と引き換えに買っていく光景が、もうすぐ見られるようになるのだ。
「ポッツォーリの塵は届いただろうか」
 レノスは顔を上げ、突然きらきらと目を輝かせた。「そうだ。暇ができたら、三人でフリスランに行かないか」
「フリスラン?」
「メルヴィスと一緒に、洪水を止める手だてを考えたいのだ。ローマ式のコンクリートの堤防なら、きっとうまく行く」
 たちまち渋面になった夫の気持ちが手に取るようにわかる。「ルーンはおまえと違ってきっと船には強い。毎日、ゆりかごで揺れても平気で寝ている」
「わかったよ」
 妻の熱意に圧されて、しぶしぶとセヴァンは同意した。「どうせ行くなら、ゲルマニアの森にも立ち寄ろう。ウォルムスたちは、まだ第七辺境部隊の分隊を名乗っているだろうか」
「クロベルトたちも元気だとよいが。何とか探し出して、彼らの馬車を借り切ってローマに行こう」
「スタティウスとエウドキアの肉団子は美味かった」
「わたしたちが結婚したと知ったら、二人はさぞたまげるだろうな。スブラの子どもたちにも会いたい」
「ああ、会いたいな」
 いつ尽きるともない話に花を咲かせる両親の口元を、小さな赤子はきょろきょろと交互に見つめていた。
「ルーン。乳をたくさん飲んで早く大きくなれ」
 レノスは夫から息子を受け取ると、高々と抱き上げた。
「いいか。世界はこの村だけではない。もっと広いのだ。いつかおまえにも、わたしたちのたどってきた道のりを見せてやるからな」


 次の朝早く、村の門の前には、氏族会議に出かけるセヴァンとルエルを見送るために村人たちが集まっていた。
「あとは、よろしく頼む」
 馬上の夫の言葉に、レノスはうなずいた。「ああ、まかせてくれ」
「祝宴の準備は、あたしらで整えておくよ」
「長く語り継がれるような豪華な宴にしてみせるからね」
 女たちの威勢のよい答えに、ルエルは顔を真っ赤にして、「よろしくお願いします」と頭を下げた。メーブは洗濯が忙しいとつぶやきながら、早々に立ち去ってしまった。
「アイダン。戦士長はどこだ」
 ルエルの乗る馬のくつわに手をかけていたアイダンに、セヴァンは問いかけた。「姿が見えないようだが」
「あ……あの、昨日から森へ狩りに行っています」
「そうか。祝宴のために、さぞ立派な獲物を取って帰るおつもりだろう」
 セヴァンは少年にほほえんだ。「帰ってきたら、大切な話があると伝えてほしい。きっと戦士長も喜んでくださろう」
「……はい」
 朝の光の中で、馬上の王は慈しみにあふれ、輝いて見えた。その気高さに不意に心を打たれ、アイダンはたじろいだ。
 喉元につかえていた固まりが急に膨れ上がる。「あの……」
「なんだ」
――このことは、誰にも言うでないぞ。
「……なんでもありません。祖父に伝えておきます」
「では、行ってくる」
 族長一行が旅立ち、木の門がギギと音を立てて閉められても、レノスだけはひとり、その場に立ち尽くしていた。
「セヴァン……どうか、すべてがうまく行くように」と祈りながら。


 会議が行われるのは去年と同じ、たたらの村だった。
 もうカシの森で、氏族の集会はしない――セヴァンは、族長たちにそう申し渡していた。それはドルイドたちとの決別の宣言とも言えるものだった。
 呪いを恐れ、伺いを立てて氏族の行く末を決め、占いによって人々を裁くことはもうしない。政治と法律は、人間の手で作るものだ。

――市民の代表がものごとを決めることを政治と言い、もめごとを裁く決まりを法律という。

 あのフォルム・ロマヌムの雑踏の中でレノスが言ったことばが、ずっとセヴァンを導いてきた。
 族長たちが集まり、話し合いでものごとを決める時代が、来たのだ。あと少しでそれが実現する。
 だから、馬を飼い葉のところへ連れて行ったルエルが、戻って来て蒼白な顔で言った言葉は、セヴァンの臓物を煮えたぎらせた。
「兄さん、カシの森の聖者がここに来ている」
「なんだと?」
「……いや、見まちがいかもしれない。木の陰にチラリとあのローブが見えたような気がしただけで」
 ルエルの瞳は、みるみる不安に染まって行った。「兄さん……」
 セヴァンは返事をしないことでそれに答えると、きびすを返した。
 小屋の入り口に立つと、垂れ幕の内側で激しく罵り合う声がする。
 垂れ幕を押し上げると、その声はぴたりと止まった。席についていた族長たちは奇妙な表情を浮かべながら、一斉に振り向いた。
 四方の壁には、慣例どおりに彼らの剣が立てかけてある。その数が人数よりも少ないことを、セヴァンは素早く見て取った。
 しかし数えるまでもなく、立てかけてある剣の数のほうが圧倒的に多い。
 セヴァンは正面の王の座に進み出ることなく、その場で両足を踏ん張り、威厳をもって腕を胸の前で組んだ。
「俺のやり方に不満があるのなら、陰謀などという、まどろっこしいことはしなくていい。俺はいつでも王の座から退く」
 そして、強い眼差しでひとりひとりの顔を睨みつけた。「ただし、そのためには、ここにいる全員の総意が必要だ。いくらでも時間をかけて話し合ってほしい。話し合いがすむまで、俺は外で待っている。どんな結論であろうと、黙って受け入れる」
 言い捨てると、セヴァンは垂れ幕の外に出た。
 ルエルがすぐに駆け寄ってきた。「どうだった?」
「やはり、何人かは聖者に焚きつけられて、謀反を企んでいたようだ」
 セヴァンは落ち着いた声で答えた。「だが、見たところ、その数は思っていたほど多くない。大多数は今の体制が続くことを望んでいる。そのことを悟れば、奴らも無謀な試みは捨てるだろう。大丈夫だ。勝てる」
「それならいいけれど……」
 セヴァンは安心させるように、弟の腕をぽんと叩いた。「心配するな。何ごともなく終わらせてみせる」
 自信に満ちた言葉に、ルエルも笑みを取り戻した。「わかった。もう一度さっきの場所に行ってみる。カシの木の聖者がいたら、話しかけてみるよ。兄さんは聖者たちに決して敵意を持っているわけではないということを、なんとしてでも分かってもらう」
「ありがとう。ルエル」
 セヴァンは感慨を込めて頭を下げた。「おまえは小さいころから敵を作らず、どんな相手とでも和らげる力を持っていたな。俺も見習わねばならん」
「何を言ってるんだ、兄さんらしくない」
 ルエルはくすぐったそうに顔をそむけると、急いで走り出した。
 セヴァンも歩き出した。集会の結論が出るまで、まだしばらくかかるだろう。鍛冶職人と話でもしながら時間をつぶそう。
 ぶらぶらと鍛冶場のあたりまで来る。晩夏の太陽と鍛冶場の火炉が練り上げた熱が、谷の底にわだかまっていて、暑さのあまり着ていたアカシカのマントを脱いだ。
 と、そのとき小屋の中からひとりの男が出てきた。
「クーラン!」
 灰色の髪を肩まで伸ばした老戦士長は、セヴァンを見て目を見張り、茫然と立ち止まった。
「セヴァン……」
「なぜ、こんなところにいる。狩りに行ったとアイダンから聞いたが」
「あ、ああ。行ったことは行ったのだが」
 クーランは、何度か咳払いをした。「途中で大切な投げ槍を折ってしまったのだ。少し足を伸ばして修理を頼もうと」
「偶然だな、こんなところで会えるとは。実は、ぜひあなたに話したいことがあった」
「話?」
「少し、歩こう」
 セヴァンは先だって歩き始め、クーランも、後から従ってきた。
 谷を駆け下りてくる涼やかな風が、髪をなぶり、トネリコの大木をざわざわと揺らして通り過ぎていく。
(なんと切り出そうか)
 不機嫌なクーランの顔が柔らかくほどけていく光景を想像して、みぞおちに温かな細波が湧き上がってくるのを感じる。
「実は、このことはルエルにもまだ話していない。是非あなたもいっしょに聞くべきだと思っていた」
 もったいぶって言葉を選びながら、セヴァンは行く手に視線を注いだ。ハシバミの藪に大勢の小鳥が止まり、先を争って実をついばんでいる。その藪の向こうに弟の赤みがかった頭が見え、セヴァンは立ち止まった。
「おい、ルエル――」
 そのとき、背中に何かが覆いかぶさるような暖かみを感じた。次いで、冷たく強い衝撃がセヴァンを襲った。
 藪の小鳥が一斉に、空へと飛び去っていく。
「……なぜ?」
「すまぬ。おまえが憎いわけではない」
 暖かさが離れていくとき、戦士長のしゃがれた声が耳元で聞こえた。
「ただ、クレディン族を存続させるために――こうするしかなかったのだ。おまえと、あの忌まわしいローマ人の妻子を除かなければ……神々の呪いを受けて村が滅びてしまうのだ」
 アカシカのマントが手からすべり落ち、妻が縫いつけた紫の裏地がふわりと地面に広がった。
 セヴァンは両手で腹を押さえた。噴き出す血とともに失われていく自分の命をつなぎとめようとするかのように。
「兄さん!」
 前かがみになって地面に倒れる途中、誰かの腕に支えられた。
「ルエ……」
「しっかりして、兄さん。ああ、クーラン、なんてことを!」
 薄れていく意識の中で、セヴァンは何かを探し求めるように必死に顔を上げた。
「俺を……村に、連れて帰ってくれ……レウナのもとへ……早く」
 だが、底知れぬ暗黒以外に、その目に映るものは、もはやなかった。


 風が、吹き過ぎた。
 レノスは思わず振り返ったが、そこには誰もいなかった。
 片手に息子を抱きかかえ、片手には紡ぎ終えた糸束の駕籠を持って、ふたたび歩き始める。麦の収獲が終わり、今年もブリーカンを織る季節がやってきたのだ。
 教会から、クリストゥスの賛美歌が聞こえてきた。春に砦の町から移住してきた信者十人ほどが、七日に一度の集まりを開いている。
 そして、玄関口には、リュクスがでんと座り込んでいた。
「どうした。中に入らないのか」
「俺が大声で歌うたびにユニアがいやそうに顔をしかめるから、賛美の時間は外に出ることにしたんだ」
 元剣闘士はおどけてみせたが、のんびりした答えに似合わず、目だけは油断なく四方に配られている。
「見張り、というわけか」
 レノスの鋭い指摘に、リュクスは「やれやれ」と頭をかいた。
「いやがらせがひどいのか」
「いや、実際のところ、この村に来てからは、さほどでもない。セヴァンが集会のお墨付きをくれているしな」
 リュクスは肩をすくめた。砦の町にいたころは迫害が酷かったのだと言う。糞や石を投げ込まれたり、火をつけられたこともあったらしい。
「俺は正直、教父さまの手紙や説教はよくわからない」
 リュクスは拳を打ち合わせる。「集会のときは、こうやって外で見張りをするのが俺の役目だと思ってる。ユニアや兄弟姉妹たちを命を懸けて守るのが、神に与えられた俺の使命だと思ってる」
「そうか」
「メーブが一度、覗きに来てくれたよ。あの人は良い人だな」
「ああ。素晴らしい人だ」
「よろしく伝えておいてくれ」
 女たちの家に向かう途中も、レノスの耳の中にずっと彼らの賛美歌が心地よく響いていた。

『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てないと主は言われる。 主は私の助け手。私は恐れない。人間が私に対して何ができようか。』

 女たちの家に着くと、レノスは「おはよう」と明るい声で呼びかけた。
「おはよう、レウナ」
「おはよう。すてきな色の糸ができたわね」
「今年は、何を織るの?」
 ルーンを下ろして、床に敷いた布の上に寝かす。この頃は寝返りを覚え、あっというまに部屋の端から端まで移動してしまうので、ひとときも目が離せない。
 今年のブリーカンは、この子のおくるみを織ろうと決めている。色は黄色と緑の二色にする。
 セヴァンが族長の位をルエルに譲れば、この子は族長にならない。族長だけに許されている四色は使えなくなる。
 それでよい。この子の人生に平和と喜びが満ちてくれれば、地位や肩書などなくてよいのだ。
 織り機に糸束を取りつけ、色合いを確かめながら慎重に最初の模様を織りあげていく。
 しばらくその作業に没頭していたレノスは、周囲の女たちが不安げにざわめいているのにようやく気づいた。
「外の騒ぎは何?」
 どこかで悲鳴が上がった。垂れ幕を挙げて入ってきたのは、服を血まみれにした義弟だった。
「ルエル!」
「レウナさん」
 野生の獣のような荒々しい光を目に宿して、ルエルが跳ぶように近づいてきた。
「すぐに逃げてください」
「な、なんだって?」
「謀反が起きたんです。カシの木の聖者があなたを捕えて殺せという命令を出しました。氏族たちが隊を組んで、この村に迫っています。今すぐ……すぐに村を出てください」
「何の話だ。何を言ってる」
 レノスは目まいを起こしたように、よろよろと立ち上がった。「セヴァンは? 謀反とはどういうことだ」
「兄さんは……刺されました」
「……誰に」
「クーラン戦士長です」
 メーブが言葉にならない悲鳴を上げ、部屋中の女たちは大混乱に陥った。
 レノスは、机に両の拳を叩きつけた。
「逃げるなど、冗談じゃない!」
 腹の底から、しぼり出すように叫ぶ。「わたしをセヴァンのもとに連れていけ。早く、彼を助け出さねば」
「まだわからないのですか!」
 ルエルの悲痛な声は、部屋の中の音を、色を、すべてを、ゆっくりと凍りつかせた。
「……もう遅いのです。セヴァン兄さんは……死にました」



      第11章   終

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