The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 2 「欠けた石垣」

(3)

 ――帝国軍が、森の回りをうろついている。
 見張りがそう知らせてきたとき、族長である父は「ほうっておけ」と戦士たちに命じた。だが、セヴァンは弓と投げ槍を持って村を抜け出した。
 ほうっておけるわけがない。
 この地に押し寄せて来てからというもの、ローマ軍は圧倒的な武器と兵力で戦士たちを殺し、馬を盗み、女をさらっていった。村を壊し、戦えなくしておいて、貢を要求したのだ。いくら小麦や大麦が多く実っても、羊が仔をたくさん産んでも、彼らの要求はさらに増えていく。
 幾百年も前から彼らのものだった大地を汚し、生き物を育んできた森の木を切り倒し、獣の通り道をずたずたにして石畳の道を敷き、土塁に囲まれた墓のようなおぞましい町を建てる。
 なぜ神々が彼らを罰しないのか、セヴァンは不思議だった。
(神が罰しないのなら、俺が代わりに罰してやる)
 狩りに行くと思ったのだろう、彼の猟犬も、あとから従ってきた。
 森を歩き回って、あの若いカケスの男がひとりでいるのを見たときは、ついに報復のときが来たのだと確信した。
 猟犬にその場で待つように命じてから、ゆっくりと側面に回りこむ。ヤツが犬に気を取られている隙に、矢を番えた。
 まず心臓に狙いをさだめ、少しだけ矢の向きをそらした。
 これから後、もう二度と氏族に関わりたくないと思わせてやる。
「イスカ、そいつが少しでも動いたら噛みつけ」
 勝利の喜びが、背筋をじわじわと駆け上がった。


「イスカ、オス サムド クノイ」
 金色の髪の少年は、矢を番えたまま彼らの言葉で叫んだ。
 声の調子からすれば、猟犬に何かを命じたのだろう。
 矢を避ければ、犬が飛びかかってくる。犬に気を取られれば、矢が襲ってくる。レノスは剣の柄に手をかけたまま、指一本動かせなくなった。
 落ち着けと自分に言い聞かせ、真正面から少年を見つめる。上半身は裸で、腰布を巻き、手や足には幾重にも革ひもを巻いていた。森の木漏れ日を受けて、薄い色の瞳が獣のように光っていた。
 たけり狂っているかに見えた嵐の水面に、小舟のようにひとかけらの理性が浮かんでいるのを見つけたとき、まだ、希望はあるかもしれないとレノスは思った。
 セヴァン。妓楼の女将は、彼の名をセヴァンと言っていた。
 話し合いたい。しかし、何を言えばいい? 言葉が分かり合えないのに。
(破壊は何も生み出さない。わたしは戦いを望んではいない。氏族とうまくやっていきたいのだ)
 どうやって、そのことを伝えられるだろうか。
 少年の手の中の弓が、いっそう引き絞られた。
 小さいころ、父の狩りのお伴をした。氏族の族長が案内役になって、父とふたりで笑いながら、氏族のことばで何かを言っていた。
 思い出せ。どんな言葉だったか。
『友よ。いい狩りができますように』
 氏族の少年は、びっくりしたように、矢じりを下げた。
 森の入り口のほうから、「司令官どの」という部下たちの呼び声が聞こえてきた。
 その一瞬、まるで背をひるがえす魚のように、少年は姿を消していた。
 猟犬も、すぐにその後を追った。
「大変だ、司令官どの!」
 ラールス百人隊長が、めずらしく血相を変えて走ってくる。
「うちの兵士が、クレディン族の連中と剣をまじえた!」


 監視塔に馬で駆け戻ると、レノスはラッパ手に命じて、「集合」の合図を吹き続けさせた。
 兵士全員が戻ったことがわかると、監視塔の中に入れて、扉を固く閉めて、立てこもった。
 兵の何人かは、軽い打ち身や切り傷だった。ひとりだけ、矢で肩口を撃ち抜かれていたが、命に別状はなさそうだった。
「どうして、こんなことになった」
「森の端で俺たちがシカを仕留めようとしていたとき、奴らが言いがかりをつけて、逃がしてしまったんです。この森は、自分たちの狩場だと」
「氏族との間に、そんな境界を定めていたのか」
「決めちゃいません。やつらが勝手に、そう言っているだけです」
 あたりが薄暗くなり、クレディン族の追手も来ないことがわかると、監視塔の回りにテントを張り、夜通し交代で見張りに立った。
 夜が明けるとすぐ、一隊は負傷者を護衛しながら、砦に引き返した。ウサギやカモなど、わずかな獲物だけを手に入れただけで、狩りはさんざんな結果に終わってしまった。
 砦に戻ると、レノスは医者に負傷者を託し、司令部に将校たちを集めて緊急の軍議を開いた。
 百人隊長のフラーメンとラールス、その副官の立場である十人隊長の主だった者たち、騎馬隊の隊長スピンテル、土木技術将校カイウス、補給係将校ルスクスが勢ぞろいした。
「クレディン族との今回の衝突について、皆の意見を聞きたい」
 レノスは、みなの顔に浮かんでいる怒りや困惑を見た。
「昨日のは、偶然はちあわせただけです。待ち伏せではない」
 一番年かさの騎馬隊長が、発言した。「幸い、死人はいない。早く忘れたほうがいい」
「俺の部下が大けがをしたんだぞ、それでも忘れろと?」
 ラールスが吐き捨てるように言う。彼がこれほど激情をあらわにする人間だったとは意外だ。
 それに比べて、ふだん軽口ばかり叩いているフラーメンは冷静だった。このふたりの百人隊長は、いつも天秤のように互いの役割を使い分けているのかもしれない。
「やつらには、できるだけ関わらないほうがいい。オオカミを祖先だと言っているような奴らだぞ。常識は通じない」
 というのが、フラーメンの意見だった。
 あとは、腕組みをして考え込むばかりの全員をぐるりと見渡してから、レノスは椅子から腰を上げた。
「わたしが、クレディン族の村へ行き、族長に会おうと思う」
 予想もしていなかった言葉に、一同は息をのんだ。
「これは、考えようによっては、天与の機だ。今回に限らず、一連の氏族の蛮行が、若者たちのおのれ勝手なふるまいなのか、それとも族長の命によるものなのかを、直接確かめることができる」
「もし、それが族長の命令だったら?」
 カイウスの声が裏返った。「おひとりで乗り込むだなんて、あまりに危険です。司令官どの」
「だとしても、部隊が武装して乗り込んでは、余計にことは悪くなる」
 レノスは、ほほえんだ。「それにもちろん、わたしひとりで行くのではない。護衛は連れて行く。……スピンテル」
「はい」
「おまえの隊の三人組を貸してもらえまいか」
「そんな若造では……無茶だ!」
 ラールスはうめいた。フラーメンは、石造りの天井が今にも落ちてくると危惧しているかのように、上をにらみつけていた。
「若造だからいいのだ」
 レノスは、静かに言った。「クレディン族は、誇り高き戦士の一族なのだろう。おどおどと和睦に来た『四人』の若造たちを、無碍に殺すことはすまい」
 結局、代案は出ず、その夜、タイグ、セイグ、ペイグの三人が、司令官室に呼び出された。
「明後日の朝、わたしはクレディン族の村に出発する。その護衛を頼みたい」
 三人は敬礼して声をそろえた。「はっ。光栄であります!」
「それから、セイグ」
 ランプの光の造り出す陰影の中で、司令官は夢を見ているような深い色の瞳で若者たちを見つめた。
「実は、かねてからおまえの叔母上に、クレディン族との仲立ちを頼んでいた」
「叔母に?」
「今日さっそく、村への使者を立ててもらった。フィオネラの労に報いるためにも、族長との会談はきっと成功させる」
 熱っぽい声で、レノスは誓った。
「そのためにも、セイグ、おまえにクレディン族との通訳を頼みたいのだ」
「俺……ですか」
 不安そうに、混血の若者は目を泳がせた。
「おまえしかいないのだ」
 セイグのぼんやりしたハシバミ色の瞳が、焦点を結んだ。彼がぐっと奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
「わかりました。司令官どの。ご信頼に応えて、使命を果たします」


 早朝に馬で出発したレノスたち四人は、ふたたび、あの古の石垣のそばを通り過ぎた。
 昼前には三日前に籠城した西の塔に到着し、そこからさらに丘をひとつ越えると、クレディン族の村が谷の底に見えた。
 村の周囲は、木の枝を束ねて作った垣根で囲まれていた。長方形の倉庫にまじって円形の家がいくつも建っていて、草でふいた屋根から染み出るように、炉の煙がたなびいていた。
 村の回りには、黄色く色づき始めた小麦の畑がパッチワークのように連なり、向こう側の丘の斜面では、何十頭もの灰色の羊が草を食んでいた。
 紫色にけぶるような美しい田園を見たとき、レノスは体がしびれるような懐かしさに襲われた。
 ここではない、どこかの村の夕暮れどきの光景。円形の家は暖かく、子どもたちがにぎやかに遊んでいて、ひとりの氏族の女が蜂蜜を塗った大麦のパンを食べさせてくれた。まだレウナが母親を亡くしたばかりのときだった――。
「司令官どの」
「行こう」
 村の近くまで軽やかに駆け下りると、ラバに鍋や鋤など、たくさんの荷物をくくりつけた行商人らしき男が、道端の岩に腰かけて、彼らを出迎えた。
「ガヴォか」
「はい、司令官さま。お待ちしておりました」
 彼は一礼した。
 妓楼の女将フィオネラが、レノスの伝言を託すために選んだのが、この行商人だった。
 帝国軍がこの島に来る前、およそ町というものが築かれる以前には、人々の暮らしは行商人によって支えられていた。包丁や鍋などの生活必需品、上等の剣、あるいは婦人の首や耳を飾る貴重な装飾品のたぐいは、彼らによって村から村へと運ばれていたのだ。
 あるいは、遠く近くのうわさ話を伝える語り部としても、彼らは有用だった。
 だから氏族たちは、行商人が行けば必ず門を開く。和解の書状を託すのに、これほどうってつけの人物はいなかった。
「族長はなんと答えた」
「平和の話し合いをするならば、会うと言っておりました」
「恩に着るぞ」
「いいえ、これしきのこと」
 日に焼けて赤銅色の肌をした行商人は、にやりと笑った。帝国軍に恩を売っておけば、これからの商売におおいに役立つのだ。
 村の門に近づくと、門番によってサンザシの矢来が取りのけられた。
 いよいよ、クレディン族のふところに入るのだ。
 タイグが手に持っている和議のしるし、緑の葉をつけた枝だけが今この瞬間、一番たよりになるもののように思えた。
 広場には、おおぜいの男たちが立っていた。馬を降りると、中からひとりの背の高い赤毛の若者が前に進み出て、頭を下げた。
「ようこそ、いらっしゃいました。族長サフィラの長男、アイダンといいます」
「北の砦の司令官、レノス・クレリウス・マルキスだ」
 レノスも目礼した。「あなたは、ラテン語が話せるのだな」
「はい。東のウィザムの町へ行って学びました」
「それはよかった。今日は族長どのにお会いし、直接お話ししたいことがある」
 三人の兵士たちは、馬に括りつけていた荷物を運んできた。
「これをまず、お渡しねがいたい」
 族長サフィラへの土産、ブドウ酒を入れた陶器の壺だった。
「どうぞ、こちらへ」
 アイダンはやわらかな物腰で、彼らを一番大きな円形の住居に案内した。
 入り口の垂れ幕を上に巻き上げてから、彼はわきによけた。
 剣を剣帯からはずして、入り口を入ろうとするとき、レノスは横から敵意に満ちた視線を感じたような気がした。思わず振り向いたが、アイダンは穏やかな笑みをたたえて、レノスを見つめ返した。
 家の中は、予想よりもずっと広かった。
 中央に暖炉があり、乾いた泥炭が燃えていた。壁には人の背丈よりずっと大きなタペストリが何枚も飾られている。
 天井を見上げると、垂木に枝や草が敷きつめられ、その上には干し肉などの食糧や衣類がぶらさげられているのが見えた。
 幼いころの記憶と重ねあわせながら、レノスは正面に向き直り、居住まいを正した。
 族長サフィラは、奥の分厚い敷物の上に座っていた。
 アイダンやセヴァンの父親となれば、まだ四十に手が届いていないだろうに、彼の砂色の髪も髭も、空から真白の雪をかぶったようだった。寒さの厳しい北国では、この歳で人はもはや老境に達しているのだろう。
「サフィラどの。ローマ帝国軍、第七辺境部隊司令官、レノス・クレリウス・マルキスがご挨拶を申し上げる。この家に幸運が訪れますように。われわれとあなたがたの間に平和がありますように」
 レノスは、セイグに教わったとおりに、氏族のことばで挨拶を述べた。
「平和があるように」
 サフィラは、実際の年齢にふさわしい、良く通る深みのある声で答えた。
「この村にローマ人が訪れたのは、何年ぶりだろう。どうぞ、座りなさい」
 レノスは、大きな火鉢をはさんで真向いの敷物の上に座した。三人の兵士も、すぐ後ろに座った。
 族長の息子も、父親から少し後ろの床に胡坐をかいた。そちらのほうに視線を移したレノスは、その奥に、さらにもうひとりの人間がいるのを見つけた。
 壁にかかったオオカミのタペストリの前にうずくまるように、あの少年が座っていた。
 部屋に入ったときに、彼がいることにまったく気づかなかったという事実にレノスは驚いた。それほどにセヴァンは、この家の中で存在を無くしていたのだ。



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