The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 3 「戦雲」

(1)

 北の砦の兵士たちが毎朝の訓練に使っている演習場は、円形闘技場も兼ねている。
 もちろん、南の要塞にあるような大きな闘技場とは並ぶべくもなく、ましてや、数万人を収容できる帝都ローマの絢爛たるコロッセウムを想像してはいけない。
 石造りのアーチも回廊もなく、きらびやかな垂れ幕や桟敷もなく、ただ周囲を土手がぐるりと取り囲み、板を渡しただけの木製の椅子が連ねてあるだけ。
 それでも、閲兵式の日、その木製の観客席に、威儀を正したローマ市民やブリテン島民たち、そして司令本部から検閲に来た帝国軍の将軍たちが、ずらりと並ぶ光景は壮観だ。
 いったいいつから始まった習慣なのか、毎年の砦の創設記念日にあたる日に、内外の関係者を招待して閲兵式を催すのが、ブリテン島のどこの砦でも行われている常だった。
 数日前から、砦の城下町は大いに賑わっていた。
 店主たちは、石畳の通りに机を出して果物を並べ、あるいは軒に肉を吊るして、客を呼びこんだ。商人たちが、島のあちこちから一斉に集結してきて、中央広場に屋台を出し、珍しい銀細工や宝石、なめし革の鞍や靴、陶器やろうそくなど、ありとあらゆる品を売っていた。
 クレディン族のふたりの若者は護衛たちとともに、ローマ軍兵士の先導に従って、町の大通りを進んだ。
「すごいな」
 アイダンは、半ばローマ兵たちに聞かせるために、ラテン語でつぶやいた。「見ろ。これがローマの都市の豊かさだ」
 セヴァンは顔をそむけた。本当は、パン屋の店から漂う香りに心を奪われ、口の中に唾がわいていたことを、誰にも知られたくなかった。
 兄は、さらにクレディン族の言葉で言い直した。「セヴァン。よく見るんだ、帝国のこの豊かさを。ローマと敵対するだけが、氏族の進む道ではない。利用できるものは利用するんだ」
 弟は答えの代わりに、敷石に唾を吐き捨てた。
「やつらは、ただ利用されるだけの相手じゃないよ」
「わかっている。だから、あらゆる機会を決して逃がしてはならないんだ。大きな象だって、すべてが強いわけじゃない。弱点を知っておくことも大切だ」
 セヴァンは、ぐっと奥歯を噛みしめて、沈黙に戻った。
 内心は、今回の招待を受けることに反対だった。だが、アイダンの熱意に押し切られたのだ。兄の考えることに、間違いがあろうはずはない。
 案内役の兵士は、正面から砦の塁壁にそって回り込み、木の門をくぐった。門の内側の衛兵所に、あの黒髪の将校、レノス・マルキス司令官が立ち、部下に指図をしていた。
 レノスは、儀式用の見事な羽根飾りのかぶとを被り、首には赤いマフラーを巻き、目の覚めるような青色のマントを羽織って、その端を剣帯にはさみこんでいた。鎧とすね当ては陽光に金色にきらめき、しなやかな全身は、きびきびと動いていた。
「やあ、アイダン、セヴァン」
 彼はふたりに気づくと、きれいに並んだ白い歯を見せて、近づいてきた。「よく来てくれた。うれしいよ」
「お招きにあずかり、光栄です。司令官どの」
 アイダンは丁重な挨拶を述べたが、セヴァンは空を見上げるふりをしていた。
 レノスの後ろにいる砦の兵士たちの視線が、シカ皮のマントをまとった氏族の若者たちに突き刺さっていたからだ。
 ……あいつらが、クレディン族の族長の息子……家畜を盗み、町に火をつけたのは、左側のやつか……なぜ、司令官は、あいつらなんかを閲兵式に……。
「さあ、こちらに」
 レノスは、悪意が入り込む隙のない親密さで、彼らの腕を取り、石段で作られた貴賓席に案内した。
「ここからだと、兵士たちの表情まで、よく見える。楽しんでほしい」
 彼は、そろそろ始まるからと言って、自分の持ち場へと去っていった。
 観客席はほとんど満員だった。まだ無人の闘技場は雑草も抜かれて、地面は美しく均されていた。夏の終わりを告げる乾いた風が吹いて、闘技場の正面にかかげられた軍旗、赤いドラゴンの旗を揺らしていた。
 ラッパが鳴り響いた。
 観衆のざわめきが静まると、立派な扇形のかぶとを被った将校を乗せた馬が入ってきて、軍旗のかたわらに立った。
 それに続いて馬で入ってきたのは、レノス・マルキス司令官だった。彼に率いられ、北の砦の守備隊である第七辺境部隊の歩兵中隊および騎馬隊が、整然と行進してきた。
 場内を一周した行進が終わると、彼らは闘技場の中央に集結し、軍旗のそばに立つ将校に対して、整列した。
「辺境部隊司令長官、マニウス・テレンティウス・ファビウス閣下に敬礼!」
 レノスが号令をかけると、一糸乱れぬ正確な動きで、兵士たちは最敬礼した。
「あれが、この島北部のローマ軍全体を束ねる司令長官か」
 アイダンは、口の中でつぶやいた。
 閲兵式は、日頃の鍛錬の成果を見せるほかに、司令本部の査察という重要な意味合いがあった。砦をまかされているレノスにとっては、準備に胃の痛くなるような日々が続いていたのだ。
 兵士たちも、それを知っているからこそ、細部まで手を抜くことはなかった。
 フラーメン隊とラールス隊対抗の模擬試合が行われた。三つの隊列に組まれた兵士が次々と交替していく三列の陣や、亀甲と呼ばれる密集陣形へと、旗手の旗とラッパ手のラッパの音で自在に組み替わる。
 続いて、鎧を着けた馬に乗り、槍を構えた騎兵が所せましと走り回る勇壮な騎馬戦。
 弩砲や、投石器の実演。
 その一部始終をながめながら、弟は低い声でうめいた。
「あのカケスは、何を企んでいる? こんなにもたやすく、自分たちの手の内を見せたりして」
「さあな」
「氏族の反抗など、まったくのムダだと言いたいのか」
 セヴァンは、土手の観客席から司令官をにらんだ。
 確かに、ローマ軍の武力は圧倒的だった。そして緻密な戦術。ひとたび集団戦となれば、ばらばらに戦うことしか知らない氏族はひとたまりもないだろう。
 何を弱気なことを考えてるんだ、とセヴァンは自分を恥じた。こんなにもたやすく、やつらの毒にやられてしまうなんて。
 レノスは、兵士らの様子を馬上から見守り、時に厳しく、時に笑いながら、激励の声を挙げていた。そのたびに、かぶとの羽根飾りが、馬のたてがみのように揺れた。
 やがて、すべての闘技が終わると、彼は馬から降り、司令長官の前で一礼し、そして観客席に向かっても一礼した。
「フラーメン」
 呼びかけに応えて、金髪の百人隊長が進み出た。
 ふたりは向き合い、剣を構えた。
 砦の将校同士の、一対一の戦いが始まるのだ。観客の興奮は最高潮に達した。まるで、帝都でおこなわれる剣闘士の戦いだ。
 フラーメンは背を屈め、まるで四つ足のケモノのように姿勢を低くした。ゆらゆらと体を揺らす様を見ていると、音のないリズムに吸い込まれそうだ。
 対してレノスは、背筋を伸ばし、相手にまったく関心がないというように微動だにしなかった。
 フラーメンが瞬時に相手のふところに飛び込んでいく。体を引いたレノスは、攻撃の勢いを殺しつつ、余裕をもって迎え撃った。
 剣の合わさる、甲高い音。
 フラーメンは、ふたたび後ろに跳び退り、今度は反対側に回り込んだ。
 右に左に、素早さを行かした、かく乱攻撃だ。
 レノスは、ほとんど最初の位置を動かずに、四方からの攻撃を受け続けた。防戦一方、明らかに押されている。
 だが、そうでないことは、数十閃撃ち合ったあとに、わかった。
 レノスは突然、猛攻に転じた。それまでの戦いで疲れきっていたフラーメンは、膝が力を失い、あっと言う間もなく地面に打ち崩されていた。
 観客席は、どっと歓声に包まれた。
「最初はよかったぞ」
 剣を剣帯に戻したあと、司令官は、尻餅をついている部下に手を差し出した。「だが、力の配分が甘い。戦場では最後に立っているのが勝者なのだ」
 セヴァンの腹のあたりで、濡れた布がしぼられるような心地がした。鳥肌が立った。敵であるはずの司令官の姿が、彼の眼に力強く輝いて見えるのだ。
 兵士たちが退場し、人々が帰り支度を始めるころ、見覚えのある「セイグ」と呼ばれる混血の兵士が、近づいてきて氏族のことばで言った。
「食事の用意があります。必ずいらしてください、との司令官からの言付けです。ご案内いたします」


 先ほどとは別の門を抜けて、砦の内部に案内された。
 この中でも、アイダンとセヴァンは目を奪われっぱなしだった。
 『砦』という言葉から想像もできないほど、りっぱな要塞だった。
 堅牢な塁壁や見張り台、張り巡らされた水道の設備、湿気を防ぐためにたくさんの柱に支えられた穀物庫に武器庫、清潔な浴場や炊事場など、どれをとっても、クレディン族の村には比べるものすらない。
 口の中がからからに乾き、兄弟は無言になった。
 中に招き入れられたのは、ふたりだけで、護衛たちは外に残された。
 窓にガラスがはまった明るい食堂で、テーブルの上には、ワインの壺、小麦のパンにチーズ、蜂蜜、干しブドウや干しイチジク、羊の肉が、ところせましと並べられている。
 入り口から、レノスが入ってきた。埃だらけの軍装を解き、トゥニカとマントだけになっていた。そして、その後ろから、ファビウス司令長官がむすっとした表情で入ってきた。司令本部から来た将校たちもいっしょだ。
「長官。こちらが、クレディン族の客人、アイダンとセヴァンです」
 彼の不機嫌の原因は、氏族の族長の息子たちと同席しなければならないことだと、すぐにわかった。レノスはしばらく、気づかわしげな表情で、長官とアイダンたちの様子をかわるがわる見ていたからだ。
 それでも、晩餐は乾杯とともに、なごやかに始まった。
 ラテン語の会話は、ファビウスの重々しい語りに将校たちが大げさに相槌を打ったり、フラーメンという名の百人隊長が冗談らしきことを言って他の者を笑わせたり、アイダンがときおりレノスとの会話に控えめに加わったりして、進んだ。
 セヴァンは、ただ黙々と肉やチーズやパンを、ふだんの食事の三倍ほども腹につめこんだ。
 ファビウス司令長官と彼の部下たちの友好的とは言えない視線が、ときおり自分たちの上に針のように注がれるのに、じっと耐えた。
 もう少しでお開きという頃になって、平穏は破られた。
「ところで、氏族の連中が」
 あからさまな侮蔑の視線をふたりに注ぎながら、ファビウスは砦の司令官に話しかけた。
「こうやって砦の閲兵式に来るとは、はじめてではないかね、マルキス司令官」
「はい」
 レノスは、ややこわばった笑みをもって答えた。
「赴任してきて、わずか半年あまりで連中を手なずけるとは、さすがは陸軍参謀長の甥御どのだ。この調子で、反抗的な氏族も少しはおとなしくなるとよいのだが」
 アイダンの卓の下に置いた手が、ぶるりと震えた。言葉がわからないセヴァンでさえも、自分たちが侮蔑されていることは肌で感じた。
「司令長官どの」
 レノスは我慢できずに、上官のことばをさえぎった。「彼はラテン語を解しているのですよ」
「ほう、それはすごい」
 ファビウスは、口の端をゆがめるように笑った。「氏族たちがローマの文明を受け入れて野蛮な風習を捨て、一歩でも人間に近づく。それでこそ、われわれが苦労して、こんな辺境の地を治める甲斐があろうと言うものじゃないかね」
 語尾を自分の部下たちに向けると、彼らは口ぐちに同意の声を挙げた。
 アイダンの堪忍袋の緒が切れると見た瞬間、セヴァンは卓を叩いて立ち上がろうとした――敵の矢面に立つのは兄ではなく、自分でなければならないのだ。
 しかし、それよりもなお早く、レノスが椅子を蹴り飛ばして立っていた。
「すみません、みなさん。急用を思い出しました」
 怒りに息を荒げながら、それでも、にこりと微笑むふりをする。「もうすぐ日も暮れる。このへんで祝賀会はお開きにしましょう。わたしは、客人を門まで送ってまいります。このふたりは、わたしの大切な――友なのですから」
 敬礼すると、呆気にとられている司令長官たちを残して、レノスは飛ぶように外へ出て行った。
 アイダンは軽く頭を下げ、そしてセヴァンは思いきり憎悪の一瞥を残して、その後に続いた。
 ふたりの百人隊長は、「やれやれ」とばかりに肩をすくめた。「それじゃ、司令長官どの。今夜の宿舎にご案内いたしますよ」


「くそ、くそ、くそっ」
 砦の正門に向かう間、レノスは一歩ごとに罵声を吐き出しながら歩いた。
「ちがう! ローマ人の誰もが、ああいう考え方をしているわけではない」
「いいえ。あの人たちが、ごく一般的なローマ人なんですよ」
 アイダンが、その背中に冷ややかな声をかけた。「幸か不幸か、あなたがそうではないだけだ」
 レノスは立ち止まり、振り返る。
「こんなつもりではなかった。互いにもっと知り合えば、誤解は解けると思っていたのに」
「氏族とローマ人のあいだには、越えられない壁があるのです。ローマ皇帝が南に築いた壁よりも、もっと高い壁が」
 アイダンは顔を伏せ、レノスの履くサンダルと、自分の履くシカ革のブーツを、長い間じっと見つめていた。
「わたしたちが友になることは、やはり不可能だったのです。あなたはローマの軍人だ。決して上官に逆らうことはできないでしょう」
「だが、あきらめたら、そこで終わりだ」
 レノスは熱意をこめて、言った。「いつか、誰もが町と村を自由に行き来するようになる。今年や来年が無理でも、何年か経てば、友が互いの家を訪ね合って、酒を酌み交わして笑える日が、きっと来る」
「生きている間にそれを見たいものです」
「見られるとも」
 きっぱりと宣言してから、レノスはその道のりのはるかさを思い、しばらく押し黙った。
「もう日が暮れる。今夜は、町に宿をとらせよう」
「いいえ」
 次代の族長は頭をめぐらせ、山の端にかかろうとする夕陽に顔を向けた。「わたしたちは、森や藪のかげで野宿ができますから。この島の大地はどこにでも、氏族の息子たちに寝床を与えてくれます」
 そう言い残して、アイダンを先頭に、クレディン族の若者たちは町の門の厩へと去っていった。セヴァンが最後にちらりとレノスのほうを振り返ったが、その目には先ほどまでの憎しみと怒りの代わりに、とまどいが宿っている。
 薄闇の中を、馬に乗ってゆらゆら遠ざかるシカ皮のマントを見送りながら、レノスの胸はチクチクと痛んだ。それは、どんなに望んでもなくなってしまう明け方の夢のように、丘の向こうへ静かに消えていった。





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