The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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Chapter 5 「ローマへ」

(5)

 レノスたちが、ローマに向けて出発する日が来た。
 第七辺境部隊は、その持てるかぎりの技術と組織力を如何なく発揮した。クレディン族が切り出したカシの木材を使って、見張り用のやぐらを組み、将校や兵士の宿舎を増設し、塁壁を広げ、五百人部隊が十分に駐屯できるだけの砦を、司令官の出立の日までのわずか数週間で作り上げたのだ。
「はりぼてじゃないだろうな。風が吹いたら倒れるとか」
「とんでもありません。百年だって持ちこたえてみせます。いや、三百年だって」
 レノスの冗談に、土木将校は髪を振り乱して力説した。
「今年は、小麦も塩漬け肉もたっぷり。冬の食糧は万全です」
 補給係将校も、上機嫌に腹をゆすっている。「兵站部のやつら、びっくりしてましたよ。はじめて俺がひとことの文句も言わずに配給を受け取ったって」
「ゆっくり行ってきてください。春までクマみたいに冬眠していますから」
「俺たちは、何もしないのが一番安全だからな」
 司令官代理の重責を負う百人隊長たちも、のんびりと軽口をたたいている。
 誰もが、司令官が半年のあいだ砦を留守にすることを寂しく思いながらも、安心して旅立てるように気を配っているのだった。
「じゃあ、春に会おう」
「お元気で」
「皇帝陛下によろしく!」
 美しく整備された中央広場には、戦勝栄誉のしるしである月桂冠をつけた軍旗が輝かしくきらめいている。整列した兵士たちの歓声のアーチをくぐり抜け、レノスとセヴァンは南へ向かう街道づたいに、馬を走らせ始めた。
 総督と合流するため、まずはロンディニウムに向かう。
「船、ではないのですか」
「春と同じ陸路を取る。途中で、第六軍団の要塞にも寄りたいからな」
 あからさまな安堵の吐息を聞きとがめ、レノスはにやりと笑った。「なんだ、ゼノ。そんなに船に乗りたかったのか。心配せずとも、ブリタニアは島だ。必ず船には乗れるとも」
 セヴァンは主のからかいを黙殺し、手綱を軽くさばいて、先導するように丘を駆け下りた。
 レノスも空模様を確かめて、後に続く。確かにぐずぐずしている暇はなかった。
 この季節は、日没が早い。旅ができるのは、一日のうちわずか数時間。明るいうちに距離をかせいでおかねばならない。
 西風が、背中を押すように、みぞれまじりの雨を運んでくる。草木は早くも冬枯れて黒ずみ、ハリエニシダは棘だらけの白い骨のようだ。
 春のときと違うのは、おしゃべりのフラーメンがいないことだった。必要なことしか口をきかない奴隷との旅は、延々と無言が続く。
 ほかに生けるものとていない広い大地に、たったふたり、沈黙の中で馬を進める。自分の内側をからっぽにして、身体の感覚だけに心を凝らす時間。
 隣にいるセヴァンが本当は何を考えているかなどと、思い悩むことはもうやめていた。ただ、彼の息づかいを聞きながら、同じ方向を目指しているという意識だけを共有する。
 港の辺境部隊本部に立ち寄り、ファビウス司令長官にくれぐれも北の砦の留守を頼む。長官からは、アルビヌス総督への私信を託された。
「辺境部隊の意志は、わたしが取りまとめておく」
 耳元にねっとりしたささやきを吹きかけられた。「だが、ことは秘密裡に運ばねばならん。蛮族のやつらは、文字も読めぬくせに、機を見るに敏だ。帝国の政治が不安定だと知られると、たちまち攻め込んでくるからな」
「そうならないよう、お願いします」
 レノスは苦々しい思いを噛みしめながら、敬礼し、脇にかかえていたかぶとを被った。
 建物の外に出ると、セヴァンが二頭の手綱を持って立ち、裏手にある広い訓練場の方角をじっと見つめていた。
 レノスも同じ方向を見やると、歩兵団が訓練場で行進の練習をしている。
 クレディン族の若者たちだった。セヴァンの目に宿る狂おしい情熱の理由がわかった。たとえ『ローマの犬』と同族たちから蔑まれていても、彼は族長の息子としての責任を捨ててはいない。
 レノスが近づくと、奴隷は強ばった顔で振り返った。
「アントニウスの長城の崩れかけた砦から呼び戻されたばかりだ。もうすぐ、南の部隊に再編されることになる」
 レノスはそっけなく説明した。「アルビヌス総督もファビウス長官も、あのときの約束を守ってくれたことだけは、少なくとも感謝せねばならんな」
 セヴァンは黙って訓練場に背を向けると、「行くぞ。アラウダ、エッラ」と馬たちの名を呼びながら、歩き始めた。
 主従はふたたび、南に向かう軍用道路を、くつわを並べて進んだ。
「エッラとは、どういう意味だ」と、主人が訊く。
「ケルトの言葉で、ハクチョウです」と、奴隷が答える。
 セヴァンが乗っている仔馬は、フラーメンの実家で譲り受けたもので、半年間の手入れの甲斐あって、見違えるほど良い走りをするようになっていた。しなやかな肉がつき、毛並も白くなり、まさに白鳥だ。
「そちらも、鳥の名か」
 しばらくの無言の後、セヴァンが訊いた。「アラウダとは、どういう意味ですか」
「ラテン語で、ヒバリという意味だ」
「ヒバリ――」
 なぜ、そんな名前をつけたのだという、もの問いたげな顔が返って来る。
「ユリウス・カエサルが、ガリアでアラウダという名の私兵軍団を作られたことにちなんだ」
 レノスは、笑いを口に含んだ。「わたしのヒバリ軍団は、目下のところ、この馬とおまえだけだ」
 ふたりは馬を進めながら、どちらともなく上を仰いだ。冬雲のたれこめた空には、一羽のヒバリも飛んでいなかったが。


 ハドリアヌスの長城を過ぎたあたりで、西風はもう追いついてこなくなった。なだらかな丘陵を抜けると、エボラクムだ。
 エボラクムは、大きな石造りの要塞を備える、ローマの正規軍団である第六軍団の駐屯地である。
 北の辺境部隊は、第六軍団に属する補助軍にあたる。つまりは帝国を揺るがすような有事の際は、レノスたちも第六軍団の傘下に入ることになるのだ。
 辺境守備を任とする一介の二百人隊長が、旅の途中で立ち寄っただけなのに、レノスは驚くほど大きな歓迎を受けた。
 居並ぶ正規軍団の隊長たちの前で、軍団長じきじきの激励を受け、ひたすら恐縮するばかりだ。旅程の遅れを口実に、ようやく逃げるように要塞を辞する。
「やれやれ」
 アルビヌス総督が皇帝の座に就くために、何か特殊な任務を帯びてローマに行くという話が、ひどく大げさに伝わっているらしい。
 ますますローマに行くことに気が重くなる。自分は何か、とんでもない間違いをおかしているのではないだろうか。あまりにも身の程知らずの、重すぎる荷を負おうとしているのではないか。
 回れ右して、北の砦に帰りたい。
 エボラクムを出て、さらに南へ道を進める途中で、レノスは馬の鼻づらを西に向けた。
 セヴァンは目ざとく、そのことに気づいた。
「主よ。道がちがいます」
「少し、寄り道をする」
 リンドゥムから南西に向かう、『溝の道』と呼ばれる軍用道路の回りには、枯草色の丘陵がどこまでも広がっていた。
 ロンディニウムに直行するのに比べれば、およそ一日半の遅れになる。予定より捗っているとは言え、レノスにこの道を選ばせたのは、ローマに行くことをためらう、おのれの意気地のなさだった。
 ここまで南に来れば、皮膚を刺すような寒さはやわらぎ、日射しも心なしか温かみを取り戻している。
 尾根で立ち止まると、レノスは馬の首を撫でながら、言った。
「この平原で、ボウディッカ女王の軍と、ローマ軍が激突したのだ」
 セヴァンは身を固くして、谷の底を見下ろす。
「あのあたりだろうな。袋小路のように見える道の狭まった場所で、一万のローマ軍は、馬族の八万の軍勢を迎え撃った。大挙して押し寄せてくる氏族に向かって、ローマ軍はピルムという槍を投げつけた。一度盾に突き刺さると、決して抜けない槍だ。氏族はしかたなく、盾を投げ捨てた。だが、ローマの歩兵は、全員二本のピルムを持っている――どういうことになるか、わかるな」
 セヴァンは、うなずいた。「盾を捨てたので、氏族は槍を身体で受けます」
「そうだ」
 ケルトの少年が完璧に彼の話を理解していることに内心驚きながら、レノスは続けた。
「ついでローマ軍は、幾百の小隊に分かれて襲いかかり、大軍に、鋭いくさびを打ちこんだ。押された氏族たちは、並べていた自分たちの馬車に退路を断たれる形で、為すすべなく虐殺された。ローマ軍は女も子どもも容赦しなかった……ほら、あの藪の右側を見てみろ」
 冬の弱い日射しが、斜めから舐めるように草原を照らし出し、無数の土まんじゅうの陰影を浮かび上がらせた。「ここに八万の氏族が埋まっている。それに対して、ローマ側の死者はわずか四百だ」
 セヴァンは、大虐殺の地にじっと目を凝らした。百年経った今でも、ここには錆と死の匂いが満ちている。
「ゼノ。何がこの戦いを決定したと思う?」
「ローマの武器のほうが、すぐれていました。ローマの兵士のほうが、訓練されていました」
「それから?」
「数が多いから、勝つのではない。場所を見て、兵をどこに置くか。いつ守って、いつ攻めるか。そのことを氏族は考えませんでした」
 司令官は、赤い房のついたかぶとの下で、薄い琥珀色の瞳を光らせた。
「ゼノ、もしおまえがボウディッカ女王の参謀なら、何を提案する?」
 セヴァンは奴隷の作法を忘れて、熱意をこめた視線をまっすぐに主人に返した。
「大軍をいくつかに分けます。正面の兵が敵をひきつけるあいだに、森の中を回り込んで、後ろと横からローマ軍を攻めます」
 レノスは身体を反らし、馬上で声を挙げて笑った。
「もしおまえがそこにいたら、たぶんブリタニアの歴史は変わっていたな」


 ロンディニウムに着いたのは、三日後だった。
 総督府で再会したアルビヌス総督は、満面の笑顔で「よく来てくれた」とレノスを息子のように抱きしめた。いくつかの送別の式典を経て、彼らは属州ブリタニアの南の玄関、ドゥブリス港に向かった。
 ガレー船に乗りこむ梯子を上がるとき、レノスはじくりと身体のどこかが痛むのを感じた。二年半前この地に降り立ったとき、心細さに足の裏が感覚をなくしていたことを思い出す。
 今は、この島を去ってローマに赴くことのほうが心細いと感じるのだ。ふたたび、生きてここに戻ってこられるのだろうか。
 まして、生まれて初めて島を離れる者にとっては、黄泉の地アヴァロンに行くような心地だろう。
「安心しろ。海峡の幅は、たった二十マイルだ」
 隣で顔色をなくしている奴隷を、レノスは陽気に慰めた。「もっとも、この海峡がもう少し広ければ、ブリタニアに来ようというローマ人は誰もいなかったかもしれぬな」


 船は、風と潮が変わるのを待って早朝に出発し、午後にはゲソリアクムの港に到着した。ここは属州ガリアの中でも、ベルギカと呼ばれる地域だ。
 一行は平坦な草原を東に向かって馬で旅を続け、やがて、滔々と流れる大河のほとりに立った。
 後世にはラインと呼ばれるようになるこの川を、ローマ人たちはレヌス川と呼んでいる。
 ゆるやかな流れの中を、何隻もの大型櫂船が行き交っている。ブリテン島には、これほど大きな河はない。
 何よりもセヴァンを驚かせたのは、河の東岸に沿うように、地の果てまで伸びている防塁と堀だ。高く積まれた土塁に沿っておよそ半マイルごとに見張り塔があり、軍団や補助軍の駐留する、大小さまざまな砦も見える。
「ハドリアヌスの長城と同じだ」
 辺境の司令官は、なつかしい家族を呼ぶように、その名をつぶやいた。
「大河の流れを守るように、防壁がゲルマニアから東のラエチアまで続いている。これがローマ帝国の北の国境だ」
 ここには、七つの正規軍団と補助軍団が駐留して、北からの蛮族を堰き止めている。
 アルビヌスが、ローマ行きにあえてこの道を選んだのは、もちろん理由がある。ブリタニアの三軍団に加えて、ガリア軍団からの支持を取り付ければ、皇帝の座に一歩も二歩も近づいたことになるのだ。
 砦をめぐって政治活動にいそしむ総督とその副官たちに、レノスはなるべく近づかず、近づいても、なるべく話しかけられないように心がけていた。
 昼間の移動でも、列の最後尾につき従い、夜は砦の将官宿舎の隅を借りるか、兵舎のテントにつつましく引きこもる。
 セヴァンはどこにいても、レノスの声が届く範囲に場所を見つけて、目立たぬようにうずくまって眠った。そして朝は、一番鳥が鳴く前にすばやく起き上がった。誰にも見られないうちに、自分の持ち物を隠すためだ。
 彼がブリタニアから持ってきたものは、三つあった。
 ひとつは、フィオネラから預かったパピルスの巻物。旅のあいだも暇さえあれば、こっそり読み続けている。ローマに着けば、ユリウス・スーラという人物を捜して、渡さねばならないからだ。
 もうひとつは、金貨の袋。これはセヴァンが北の砦にいた一年半のあいだに、こつこつと小金を貯めたものだ。枚数にすればほんのわずかだが、ローマ帝国のどこへ行っても、このアウレウス金貨は役に立つはずだ。
 そして三つ目は、フラーメンとラールスから託された青銅の短剣。
 巻物と金貨の袋を、寝袋の中に押し込み、丁寧に巻いて収めた。短剣はトゥニカの下にしまった。
 それから、食事当番の兵士から湯をもらって、主人の部屋に運んだ。
 一仕事を終えると、外に出て、チーズと固いパンで急いで自分の朝食を摂る。あたりがぼんやりと明るくなるころ、砦の歩哨たちの行き来にまぎれて、塁壁の階段を駆け上がった。
 川面をひたひたと朝もやが這い、白っぽい日の光が黒い森の背後から射し込む。あの向こうが、ゲルマンの蛮族の住む場所。ローマ帝国の及ばぬ、外側の地だ。
 川を眺めるうちに、いつのまにか、読み覚えたラテン語が口をついていた。
「フルミネ レノ ラティシモ  アトクェ アルティシモ(最も幅広く、最も深いレヌス川)」
「ガリア戦記か」
 背後に、人が立つ気配を感じた。振り返らなくても誰だかわかる、もうすっかり馴染みになった声だ。
「どこで学んだ。フィオネラのところか」
「はい」
 その人は、彼の隣に寄り添うように立ち、水面を見つめた。
「ここはふたつの川の合流地点だから、くっきりとふたつの青色に分かれているな。見事なものだ」
「川の水は、どこも茶色だと思っていました」
「ああ、ブリタニアの川が茶色いのは、泥炭に染まっているからだ」
(真正面から見ると、その眼光の鋭さに圧倒されるほどなのに)
 セヴァンは、めまいがするような感覚を覚えた。
 どうして、横顔は、こんなに無邪気なのだろう。腹立たしいほど華奢で、隙だらけで、無防備だ。
 奴隷など、警戒するにも値しないと油断しているのか。突然、脇腹を刺されることなどありえないと、たかをくくっているのか。
「私の名前は、この川から取られている」
 横から熱心に盗み見られているのも気づかず、レノスははるか彼方をあこがれるように見つめていた。「ゴール語で『早い流れ』を意味する。父が任地に赴く途中で、ここを通るとき決めたそうだ。もし男の子が生まれたら、この雄大な川にちなんだ名をつけようと」
「もし、女の子なら?」セヴァンは、ごくさりげなく訊ねた。
「ローマ人は、女の子には名をつけない」
 レノスは、苦笑まじりに答えた。「なんという野蛮な民だ! ローマの女は、氏族の名でしか呼ばれない。ユリウス族ならユリアという具合に。わたしはクレリウス族だから、クレリアと呼ばれただろうな。もちろん、父はそうは――」
 レノスは、それきり口をつぐんだ。
 陽が昇るにつれて、川霧は晴れて行き、東の果てまでよく見通せるようになった。ここから川はゆるやかに湾曲し、南に向かい、アルプスの峰の源流に行きつく。その頂を越えれば、目指すローマは、すぐそこだ。
「なぜ、ローマは」
 朝焼けのまぶしさにハシバミ色の目を細めながら、セヴァンは言った。
「もっと大きくなろうとするのですか。なぜ、ほかの民を攻撃し、支配しようとするのですか」
 レノスは、まじまじとセヴァンを見た。それは、初めて気の合う親友を見つけたときの少年のまなざしに似ていた。
「平和のためだ」
 軍人は、悲しそうに答えた。「ローマは拡大し続ける限り、平和でいられる。降伏した民族から貢物を取り、奴隷として働かせる。属州となったあとは、彼らとともに繁栄を享受する。だが、いったん負けてしまうと、そこで終わりだ。転がることをやめた車輪のように、地に倒れる。一度負けると、皇帝たちは恐怖に駆られて、防砦を建てはじめる。このゲルマニアの防壁のように。そして――」
「ハドリアヌスの長城のように」
 セヴァンは、静かに言葉を引き取る。
「わたしは、恐い。ゼノ」
 レノスはとうとう、心の奥底を吐き出した。
「ローマの作り出す平和を信じていた。だが、今はわからなくなってきた。何かが少しずつ、狂い始めてきているのかもしれない。ローマに行けば、真実を知ることになるだろう。それが、恐くてたまらないのだ」
 セヴァンは、懐に手を当てた。そこに入っている青銅の短剣の冷たさを感じた。
「何があっても、俺が、あなたを守ります」
――ほかの誰にも、あなたは殺させない。俺以外の、誰にも。
「ありがとう」
 レノスは、ほほえんだ。
「そうか。わたしにも、頼もしいヒバリがついていたのだったな」


 彼らがアルプスを越え、ローマに着いたころ、季節はすでに晩秋を迎えていた。
 それは、第十七代ローマ皇帝アウレリウス・コンモドゥスが暗殺される、わずか数週間前だった。




         第五章 終

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