The Warrior in the Moonlight

月の戦士

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拍手お礼ページ総集編

★ローマ人の名前

ローマ人の名前は長くて複雑。
まず、一番目が個人名。
二番目が氏族名。
三番目が家族名ということになります。
さらにあだ名や添え名がつく場合もあります。うええ、長すぎるよ。

主人公のレノス・クレリウス・マルキスの場合は、
レノスが個人名
クレリウスが氏族名(その家族が属している氏族)
マルキスが家族名となります。
そして、レノスの場合、父の家族名を隠し、伯父の家族名を使っています。

個人名は公ではあまり呼ばれることがありません。
女性に至っては、個人名もない場合がほとんどで、「(氏族名)の娘」と呼ばれていたそうなんですね。
たとえば、「ユリウス族の娘」は「ユリア」というように。

★古代ローマ本ご紹介

「古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活」(アルベルト・アンジェラ著、河出書房新社)

ローマの民衆の姿を24時間を通して追っていくという、なかなか面白い仕立てになっています。
「24時間」と言っても古代ローマ人は、現代のような正確な時計を持っていたわけではありません。
彼らが用いていたのは、日時計、そして水時計です。
日時計は日の出から日没までの時間を12に区切っていたため、冬と夏では一時間の長さが違うということが起こりました。

第1章の第3話で、
「中庭の日時計は、北国の長い日差しを受けて、冬よりもゆっくりと時を刻んでいる」
という一文を入れたのは、このあたりから来ています。

★髭とローマ人

ローマ人の男性は、とても体毛の手入れに気を使う人たちだったようです。
ヒゲをかみそりで剃るだけではなく、むだ毛を毛抜きで一本一本抜いていたようです。
脱毛ワックスを使ったり、すねをクルミの殻などでこすって毛をやわらかくしたりもしていました。
ハゲのほうはもっと大問題で、煤を頭に塗ったり、かつらをかぶったりして苦心しました。

レノスが女性であることがバレなかった理由のひとつは、ヒゲがまったく生えていないことを、誰も不思議に思わなかったからでしょうね。

★風呂好きローマ人

いただいたコメントの中にお風呂のことがあったので、今日はお風呂の話を。
「テルマエ・ロマエ」というマンガが映画化されて話題になりましたが、古代ローマ人はお風呂好きな国民でした。
ローマの大きな公衆浴場ともなると、発汗室(サウナ)、温水浴、冷水浴、オイルマッサージの施設はもちろん、図書室、庭園、運動場、レストラン、劇場まで備えられていたそうです。人々はここで、語らい、心身を鍛え、商談をしていたといわれています。床下暖房などもあったようで、まさにスパーランドです。

さて、軍隊ではどうでしょうか。
北アフリカ、シリア、ブリテンといった辺境のローマ駐屯地にも、浴場施設の遺跡があったことがわかっているそうです。またそれらの駐屯地の周りには、自然に村ができ、居酒屋や売春宿といった施設を兵士たちのために提供していました。

いずれ、物語は帝都に場所を移すので、レノスの豪華な浴場でのサービスシーン(笑)は、またお見せすることができそうです。

★ローマ軍の宗教行事

狩りの女神の話が出ましたが、ローマ軍団では、軍隊の暦に神々への祭が組み込まれていました。
ローマの伝統的な神々ユピテル、マルスやミネルヴァや、軍団の守護霊などを礼拝し、それらに奉納した石碑が残っています。もちろん皇帝礼拝もあり、さらに、ゲルマニアやブリテンなどそれぞれの出身地の神々、東方の太陽神ミトラを信奉する兵士もいて、辺境の地では、混然一体となっていたようです。
これらは、宗教行為というよりも、軍団の結束をはかり、ローマ帝国への忠誠を誓う意味があったのかもしれません。

★ブリテンの植物

さて、今日は、植物の話。
ブリテンもの、特にローズマリ・サトクリフの小説には、イギリスの自然の情景が書かれていて、とても美しいですよね。
日本人にはなじみのない樹木名も多く、読んでいて想像できないのですが、そういった動植物の写真を集めてみることにしました。ほとんどの写真はウィキペディアからお借りしています。
  セイヨウナナカマド
日本でも、東北や北海道ではおなじみのナナカマドですが、イギリスに生えているのは、「セイヨウナナカマド」です。
英名は、Rowan。北欧では、魔よけの力があると信じられているそうです。十メートルくらいの高さになり、春は、手まりのような白い花を咲かせ、夏に赤い実を結びます。


  セイヨウトネリコ
英名は、Ash tree。北欧神話によれば、世界樹・ユグドラシルは、このセイヨウトネリコなのだそうです。
成長すると大きくなり、樹高20〜30メートルくらい。木材としての利用価値も高いようです。


  ワラビ
英名は、bracken。シダの仲間です。日本人には山菜としてなじみ深いワラビですが、英国の人は「毒がある」と言って食べないそうです。
実際、家畜が食べると中毒症状を起こすそうで、羊などは本能的に食べないとか。もちろん、きちんとアク抜きをして大量摂取しなければ大丈夫です。
山腹などに多く生え、冬には茶色く枯れて、春には緑の新芽を出す、季節を感じる植物なのかもしれません。


  セイヨウハシバミ
ハシバミの英名はhazel。その実が、「ヘーゼルナッツ」で、お菓子などに使われます。


ところで、よく西洋人の瞳の色の描写に「ハシバミ色」というのが出てきます。
これはハシバミの実の色、つまり淡褐色のことなのですが、光の当たり具合によっては、緑色にも見えます。
ウィキペディアの説明によれば(「ヒトの虹彩の色」)
(引用)ライトブラウンとダークグリーンの中間の色であるため時として複数の色に見えることがあり、
太陽光にさらされた時、瞳孔に近い部分がライトブラウンに、その周りがライトグリーンに(逆もあり)なることがある(引用終わり)


  ハリエニシダ
英語名はgorseまたはfurze。スコットランドの丘陵地帯では、春になるとハリエニシダの花の真っ黄っ黄に染まるそうです。
花の季節は春と秋の二回。枝や葉はするどいトゲが生えていて、うっかり触るとものすごく痛いそうです。


  ヒース
ヒースは、英語ではheath。元来は、イギリス北部およびアイルランドに特有の、丈の短い雑草の生える荒地の地形のことをさします。
植物名として「ヒース」という場合は、エリカを指すことが多いようです。
ヒースというと、ひゅーっと冷たい風が吹き抜ける荒れ野を思い浮かべてしまいますが、語感がそうなのでしょうか。
「嵐が丘」のヒースクリフなんかも、連想してしまいますよね。


★ブリテンの鳥類

ブリテンの自然についてご紹介してきましたが、今回は鳥を取り上げます。
写真はいずれも、ウィキペディアからお借りしています。

  アカライチョウ
英名は、red grouse または、moorcock(オス)。
イギリスおよびアイルランドの固有種で、ムーア(荒野)に生息します。ハンティングの猟鳥としてもポピュラー。
鳴き声は、「Goback, goback, goback  帰れ 帰れ、帰れ」と聞こえるのだそうです。


  オオハクチョウ
セヴァンが猟で仕留めて、羽根をむしっていたのが、これです。
ユーラシア大陸北部、アイスランドで繁殖し、冬季になると南に渡って冬を越します。イギリスの国鳥になっています。


  ヨーロッパコマドリ
英名はeuropian robin。赤い胸が特徴で、よくさえずる。人家近くの林に生息し、人々に愛される野鳥の一つであり、イギリスでは一般に国鳥とされています。


  ハイタカ
セヴァンは、ハイタカの鳴き声のまねをして仲間と呼び合っていました。
キーッキーッという耳障りな甲高い音です。どうやってあんな音を出したんでしょう(笑)。
英名は、sparrowhawk。「ゲド戦記」の主人公の名前としても、なじみ深いです。
大きさは、オスは30センチくらいと、タカにしては小柄ですが、メスはオスより大きいそうです。

ハイタカメス

  カケス
セヴァンは、レノスのことを「赤いカケス」と呼んでいましたが、カケスの頭が、百人隊長のかぶとの羽根飾りに似て見えたのでしょう。 本当は、カケスはこんなに美しい色をした鳥です。 英名は、jay。「ジェー」としわがれた声で鳴くのが由来だそうです。物真似するのが上手で、他の鳥や、人間の声まで真似することができるといいます。
「フリー素材無料写真 森の父さん花鳥風穴」さま

★ブリテンの動物

今回は動物編です。
図版はいつものように、ウィキペディアからお借りしています。

  ハイイロオオカミ
タイリクオオカミとも言います。英名はGray wolf。
かつては広い地域に分布していましたが、人間の狩猟と、森林破壊のために、大きく数を減らしました。ブリテンにおいては、オオカミは少なくともビクトリア時代には絶滅してしまいました。
毛色は住む場所で異なり、白色、灰褐色、黄褐色、黒色と様々なようです。
参考サイトさま:http://www.tomorrow-is-lived.net/wildlife/canidae/grey-wolf.html


  アカシカ
英名は、Red Deer。
ただし、5歳以上のオスのアカシカをstagまたはhart、3歳以上のメスのアカシカをhindと呼ぶなど、実に細かく分かれています。さすがに狩猟民族の言語ですね。
クマの絶滅した英国では、現在一番大きな野生の獣は、このアカシカだそうです。
そのためか比較的保護されているようで、今は三十万頭にも増えているそうです。
ところで、中国語では、アカシカのことを馬鹿(マールー)と呼ぶとか。ほえーっ。


  クマ
かつてイギリスにいたクマはヨーロッパヒグマです。ところが11世紀ごろを最後に絶滅してしまいました。それと関係があるのかどうか、イギリスの童話にはクマが多く登場します。ちなみにパディントンはペルーからやってきたクマです。


なぜ、イギリスの野生動物はこんなに絶滅してしまったのでしょうか。
ひとつには、森林の喪失が理由に挙げられます。
資料によれば、集落の形成、畜産・農業のための開墾、土地の浸食作用などによって、中世にはスコットランドの原生林の80%が姿を消してしまったそうです。
(参考サイト:http://www.suntory.co.jp/whisky/Ballantine/chp-01.html)
現在は、逆にアカシカが増えすぎたことに対して、天敵のオオカミをスコットランドに再導入しようという動きもあるそうです。ブリテンの野や森をオオカミが駆ける日が、果たしてふたたび来るのでしょうか。

★第三章の結び

「月の戦士」第3章が終わりました。そして、ここから物語は新しい展開を見せます。
今日は、これからの展開について、あとがきめいたものを書いてみます。

ご存じの方もおられましょうが、これはもともと、「第二回恋愛ファンタジーコンテスト」に出品した短編がもとになっています。その短編はサイトからはおろしたので今は読めませんが、「恋愛ファンタジーコンテスト」の会場に行けば、読むことはできます。主人公たちの名前など、多くの相違点があります。
その短編にまったく出てこなかったのが、セヴァンの兄、アイダンの存在です。
長編化を考えていたとき、「なぜ、レウナ(レノス)はセヴァンを助けて、奴隷にしようとしたのか」
「なぜ、セヴァンは、彼女を殺したいほど憎みつつ、愛するようになるのか」
についての設定が必要だと感じました。短編では、セヴァンの美しさが動機となっていたので(笑)。
彼らの間に、ひとりの男「アイダン」を介することにより、彼らは複雑な糸で結び合わされていくという筋書きを立てました。
ここまでアイダンとセヴァンの兄弟間の複雑な感情、レウナ(レノス)がアイダンに抱いた想いなどを拙筆ながら描いてきましたが、ここでアイダンの命が絶たれることは、お読みになられた通りです。
実は作者の中で、執筆前に考えていたよりもずっとアイダンが大きな存在になっていて、彼の死は、ひとつの大きな縦糸として最後まで物語に影響を与えることになりそうです。
そして、これまで脇役に甘んじていたセヴァンは、兄を失い、氏族の敗北により奴隷となり、奴隷の目からローマ帝国の偉大さと矛盾を知ることによって、ようやく真の主人公として目覚めます。
つまり、ここまでが序章、ここからお話は本筋に入ることになります。

★ローマ軍団と補助軍について

ブリタニアに、ローマが最初に遠征をおこなったのは、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代でしたが、本格的な属州となったのは、紀元43年、クラウディウス帝のときです。
そのとき、ブリタニアに侵攻したのは、第9軍団ヒスパナでした。
その後、ブリタニアの最大の氏族蜂起となったボーディッカの反乱によって、第9軍団は大打撃を受け、その後、歴史から消滅します。
映画化して有名になったサトクリフの「第九軍団のワシ」は、この第九軍団の消滅のことを書いています。
その後、ブリタニアで主導権を握ったのは、第二軍団アウグスタです。4世紀にローマ軍がブリタニアから完全に撤退するまで、第二軍団、第六軍団、第二十軍団の三軍団が主にブリタニアで駐留を続けました。
さて、レノスが北の砦で指揮しているのは、正規の軍団ではなく、属州特有のアウクシリア(補助軍)と呼ばれる支援部隊です。
補助軍は、重装歩兵のほかに、騎兵、軽装歩兵、投石兵、射手など多彩な攻撃ができる、さまざまな兵種で構成されました。

正規のローマ軍団には、ローマ市民権を持っている人間しか入ることはできませんが、この補助軍は、ローマ市民権を持たない人間が入ることもできたので、おもに属州出身の志願兵で成り立っていました。
また補助兵は25年の兵役を務めあげて退役すると、土地または金銭、ローマ市民権を得ることができました。

★ガリアの英雄ヴェルチンジェトリクス

今回は、ガリアの英雄ヴェルチンジェトリクス(ラテン読みではウェルキンゲトリクス)のお話です。
ガリア同盟軍を率いてローマと戦ったヴェルチンジェトリクスは、カエサルの「ガリア戦記」第七巻に登場しますが、フランスでは祖国最初の英雄という扱いのようです。

ガリア戦記 第七巻 ウィキブックス

ヴェルチンは、紀元前一世紀のガリアに住むケルト人の一族アルウェルニ族の族長の息子で、諸部族をまとめて、ガリア総督カエサル率いるローマ軍を苦しめました。
ローマについて調べているあいだに、たまたまヌーヴィルという画家の挿絵を見たのですが、めちゃカッコいい!!(笑)
カエサルの前に投降する場面なのですが、堂々と腕組みなんかしちゃって、カエサルのほうがびびっているように見えるのです。


佐藤賢一の「カエサルを撃て」は、ヴェルチンとカエサル双方の視点でガリア戦記の世界を描いていますが、ヴェルチンは救国を宿命づけられた愛に飢えた若者として、カエサルは彼の存在におびえつつも知略を尽くして戦うハゲの中年オヤジ(笑)として、著者独自の要素を加味して描かれています。


また、マンガでは、内水融の「アグリッパ―AGRIPPA―」(ジャンプコミックス)も、ヴェルチンが描かれていて、こちらも期待どおりに面白かったです。


すみません、自作そっちのけで語ってしまいましたが、セヴァンもやがて「ガリア戦記」を手に取る日が来て、ヴェルチンジェトリクスに影響を受けていくのでしょうか。まだまだ長い道のりです…。

★古代ローマの葬儀について

今回はローマとケルトの弔いの話題が出てきました。
古代ローマ人は葬儀をとても大事にした民族です。
死者は清められ、香を塗って、白い衣を着せられ、台に乗せられました。三途の川の渡り守カロンに支払う貨幣を口に入れて、足から先に運び出されたそうです。
墓地への行列はとてもにぎやかで、先頭に笛吹き、それから泣き女のあとに、死者の台が担がれて進み、友人、奴隷などが進みます。
当時は火葬が主流で、土葬がメインになったのはキリスト教以降だと言われています。
もちろん、これは都市部の話で、辺境の砦の葬儀は、もっと簡素なものだったことでしょう。

★古代ローマの音楽について

古代ローマの音楽は、ギリシアに大きな影響を受けています。
楽譜が残っていないので、ローマ人がどんな音楽を楽しんだかは想像するしかないのですが、モザイク画などから、どんな楽器を使ったかはわかるそうです。専門家たちによって再現する試みもあり、YOUTUBEで聞くこともできます。不思議なことに、日本の雅楽に似た雰囲気もあります。
YouTubeミックスリスト「古代ローマ・ギリシアの音楽」

★ローマ軍の食事

さて今回は、ローマ軍の兵士たちの食事について、とりあげます。
ローマ軍は進軍や移動のとき、武器防具と土木用の資材のほかに、自分の携行食料や食器も備えていました。とにかく自給自足が旨ですから、その荷物たるや、40kgもの重さだったと言われていて、棒の先に大荷物を結びつけて行軍する姿は、「マリウスのロバ」と呼ばれたほどです。

ウィキペディアによれば、彼らが遠征のとき携行した食料として、

「小麦粉、固く焼いたパン、干し魚、たまねぎ、イチジク、チーズ、牛乳、オリーブオイル、塩、水、葡萄酒」
とあります。(ウィキペディア「軍団兵」の項)

フランスにチーズを持ち込んだのは、ローマ軍だったともいわれています。
肉をたくさん食べるようになったのは、意外にも時代がかなり下ってからで、それまでは魚を主に食べていました。調味料も塩のほかに、ガルムと呼ばれる魚醤が活躍しました。
軍隊の食事は朝と夕の二回。将校は当番兵が調理したものを食べましたが、一般の兵士は、パンだけはかまどで焼いたものを支給されますが、あとは十人隊ごとに自炊して食べていたといわれています。

★ローマの貨幣

今日で第4章も終わりになります。文字を学び、商売を始め、セヴァンの悲惨な奴隷生活も、少しばかり光が見えてきました。
さて、お話に少し出てきたローマの貨幣について。
共和制ローマと、帝政前期、後期とでは、貨幣の名前も単位も少し違ってきます。
ここでは、お話の時代である帝政前期の貨幣単位をご紹介します。
デナリウスを基準としています。当時の地方軍人の一日の給料が1デナリウスに相当しました。

アウレウス  金貨 デナリウスの25倍
クィナリウス・アウレウス アウレウスの半分
デナリウス  銀貨
クィナリウス デナリウスの半分
セステルティウス 銅貨。デナリウスの四分の一
デュポンディウス デナリウスの八分の一
アス 青銅貨。デナリウスの十六分の一
セミス デナリウスの三十ニ分の一
クォドランス デナリウスの六十四分の一
          (出展、ウィキペディア)

最初に貨幣の表面に自分の肖像を刻ませたのは、ユリウス・カエサルでした。
聖書にも、デナリウス銀貨にちなんで、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というイエスの有名なみことばがあります。ただし、このときの税金に使われたデナリウス銀貨の銘は、ティベリウス帝のもので、「カエサル」というのは称号であったと思われます。
新約聖書の舞台ユダヤの地でも、デナリウスやクォドランスといったローマ貨幣が流通していることがわかります。


マクシミヌス帝時代のデナリウス貨
さて、デナリウス銀貨は長い間、おおよそ銀4グラムを含有していました。
しかし、マルクス・アントニウスは、莫大な戦費を賄うために、銀の含有量を落としたデナリウスを鋳造させました。
レノスが最初に持っていたデナリウスは、その悪貨のアントニウス貨だったのです。それからも、歴代の皇帝たちは銀の含有量を落としていくのですが、それは経済状況とともに、銀の発掘量が減少してきたのも一因のようです。

★ボウディッカの叛乱

今回、レノスとセヴァンは総督府の町に到着しますが、これは現在のロンドンにあたるロンディニウムのことです。フラーメンとともに散策する川は、もちろんテムズ川ですね。
そのときに語られた「馬族の女王」ボウディッカについて、今日は記してみたいと思います。

南ブリテンの騎馬族「イケニ族」の女王、ボウディッカ(あるいは、ブーディカ、ボアディケアなどの読みもあり)は、皇帝ネロの治世に、ローマ帝国に対して、ケルト人氏族をまとめあげて、叛乱を起こしたことで有名な女王です。
ローズマリー・サトクリフ原作の映画「第九軍団のワシ」にあるように、第九軍団を壊滅させた女王としても知られています。

ことの発端は、夫であるイケニ族の王プラスタグスが亡くなったことでした。
サトクリフによれば、イケニ族は、もともと母系社会だったそうです。それゆえ、王が亡くなっても、当然のように、女王ボウディッカからふたりの娘に、王位は継承されるはずでした。

ところが、ローマ帝国の法律では、継承権を持つのは男子のみ。双方の習慣の違いが悲劇を生みます。
王の死後、ローマは娘への王位の継承を認めず、それまでの同盟条約を盾に取り、イケニ族の王位と領土を没収し、属州に組み入れようとしました。
さらにイケニ族に債務の返還を迫り、財産を没収、貴族を奴隷とします。さらに、このことに抗議する女王を、ローマ軍は鞭で打ち、娘ふたりも凌辱したと、タキトゥスは書いています。

怒りの化身となったボウディッカは、近隣の氏族をまとめあげ、ブリタニア総督不在のときを狙って、一斉に蜂起、まず退役軍人の町カムロドゥヌムを攻め、そのほかの植民市も次々と攻略し、第九軍団ヒスパナを大敗させました。歩兵隊は全滅、騎兵隊など、ごくわずかな者だけが生き残ったそうです。

さらに、ローマ軍が撤退したあとのロンディニウムにも襲いかかり、市民七万人を虐殺したと言います。
その虐殺は、火あぶり、串刺しと、酸鼻をきわめるものでした。

一方、市民を見殺しにして時をかせいだローマ軍は、軍団を集結させて、ふたたび反乱軍と激突。
戦術にすぐれ、鉄壁の守りを誇るローマ軍は、たった一万で、八万の反乱軍を打ち破り、ボウディッカは毒をあおいで死んだといわれています。


ローズマリー・サトクリフの、ボウディッカを描いた小説。おすすめです!

★ウィッラについて

お調子者の百人隊長フラーメンが、意外にも育ちの良いお坊ちゃまであることが判明しましたが、彼の育ったのが、「ウィッラ」(ヴィラ)と呼ばれるカントリーハウスです。
ウィキペディアによれば、「古代ローマの上流階級の人々が田舎に建てた家屋を意味した」とあります。裕福な人々は夏になるとティヴォリなどローマ周辺の丘のウィッラに避暑に訪れ、皇帝のウィッラはナポリ湾近辺に集中していたそうです。
ウィッラは、「農業屋敷」とも訳され、自給自足生活が営めることが重要とされました。
たくさんの使用人を使って畑を耕し、自前のオリーブで油をしぼり、ブドウをワインにして飲むことが、貴族のぜいたくだったのです。どの時代もそうですが、人間は都市生活に疲れると、自然に帰りたくなるのかもしれませんね。

イングランド、フィッシュボーンのウィッラ

ブリタニアにも、たくさんのウィッラの遺構が残っているといわれています。
畑と葡萄園が周囲にあり、風呂や庭を備えた邸宅には幾何学模様のタイル張りの装飾があり、広い中庭を屋敷が取り囲むペリスタイルになっているものもあって、まるで宮殿です。
ローマ人は、次第に都市を捨て、自給可能で要塞化したウィッラに住むようになり、中世の荘園、修道院へと継承されていきます。

★ここまでの分を大幅改稿しました

またまた、大幅な改稿をすることになってしまいました。
今まで、物語の舞台を「ローマ帝国の属州ブリタニア(現在の英国)を模した架空の島モルナ」としてきましたが、今回全面的に改稿して、「紀元2世紀のブリタニア」と設定させていただきます。
本当は前回、歴史上の人物を登場させたときに、同時に改稿の決心をすべきでした。実在したローマ皇帝コンモドゥスやブリテン総督アルビヌスを出しておきながら、架空の舞台を作るのはおかしいと。
それが速やかに決断できなかったのは、ひとえに今の私の精神的な弱さゆえです。
今回の更新分から、属州モルナは「属州ブリタニア」、モルナ島は、「ブリテン島」と書き改めています。今までの更新分も、すでに変更をすませています。
ただし、北の砦近辺の地理や、ケルト氏族の名称は、まったくの創作です。実際の歴史上の事件にも創作をまじえた解釈が入ります。
これ以降、大きな改稿はないとお約束できると思います。ここまで応援してくださっていた皆様に、心から深くおわびいたします。

★ブリタニアの旅について

 さて、今回レノスたちは、ブリタニアを縦断する騎馬の旅に出発しました。
「イギリスを縦断って、いったい何日かかるんだろう」と思われるかもしれませんが、ロンドンからハドリアヌスの長城まで、およそ300マイル(450キロ)でした。
ちなみに、江戸時代、江戸から京までの東海道500キロほどを徒歩で15日あれば行けると言われていましたから、完璧に舗装されたローマの軍用道路ならば楽々です。

ところで、イギリスBBCが作った、こんなウェブサイトがあります。
Ermine Street - A Journey through Roman Britain
「ローマ時代のブリタニアの旅」ということで、ロンドンからヨークまで、紀元二世紀のブリタニアを旅する人へのガイドブックという趣きです。
ほんとに、イギリス人はローマ時代が好きなんだなあということが、よくわかりますね。

ブリタニア
図はウィキペディアから。

★「ガリア戦記」と「アグリコラ」

「ガリア戦記」
超有名な、あのガイウス・ユリウス・カエサルが、みずから綴ったガリア戦争(BC58年からBC51年)の記録です。
もともとは、元老院に提出する報告書だったと考えられ、名前も、「ガイウス・ユリウス・カエサルの業績に関する覚書」となっていました。「ガリア戦記」と呼ぶのは、ルネサンス以降らしいのですね。文章も、一人称ではなく、三人称になっています。

カエサルはもともと、すぐれた文筆家でもあり、ガリア戦記も簡潔な文体,的確な現実把握の点でラテン文学の傑作といわれているそうです。
このガリア戦記のラテン語日本語対訳が、今はただでWIKIBOOKSで読めるようになっています(一部未訳あり)。いい世の中ですねえ。
ガリア戦記 WIKIBOOKS

「アグリコラ」
歴史家タキトゥスが書いた一世紀のブリタニア総督アグリコラの伝記です。アグリコラはタキトゥスの岳父であるので、ちょっと遠慮ぎみ(笑)のところもあるのですが、古代ブリタニアの一級資料として貴重なものです。

小説でレノスが詠じた
「ローマ人は破壊し略奪することを偽って「支配」と名づけ、人住まぬ荒野を作ってそれを「平和」と呼んでいる」
は、一九世紀のイギリスの首相グラッドストンが、この一文を引きつつ、大英国主義を批判したことで有名になりました。

ご存知のように、ケルト民族は文字を持たなかったため、ブリタニアにおけるローマとの闘争について、彼らは何も書き残していません。
それゆえ、ローマ側からケルトの立場に立って叙述しているタキトゥスの功績は、大きなものがあります。

参考:「海のかなたのローマ帝国 古代ローマとブリテン島」(南川高志著)
「世界大百科事典」
ウィキペディア

★ローマの国境線「リメス」

リメスとは、ラテン語で「境界」という意味で、ローマ帝国が国境警備のために築いた防塁をあらわします。
「ハドリアヌスの長城」もリメスの一部に入りますが、ふつう「リメス」と言えば、ゲルマニアの蛮族の侵入を防ぐためにライン川・ドナウ川に沿って築かれた国境線(リメス・ゲルマニクス)を指します。

そもそもは、初代皇帝アウグストゥスの時代。トイトブルクの戦いで、三個軍団を失うという大敗を喫したローマは、前線を後退し、ライン川を防衛線として死守する方針を取り、後の皇帝たちも、ほぼその政策を堅持しました。
工事はマイン川の南から始まり、東はドナウ川流域まで達して、全長550キロメートル、歩哨拠点900以上と大小の出城120を越えるリメスの全容が完成するのは、ハドリアヌス帝の時代になってからだと言います。

土塁あるいは石塁でできた長城のところどころに正方形の土台を持つ物見やぐらを配し、大小の砦が配置され、主に属州ガリアの兵士が警備の任にあたりました。
正規軍団は、後方のマインツやストラスブールに駐屯し、緊急事態があればすぐに駆けつけられるように、軍用道路網も整備されました。
この道は、地中海と北海を結ぶ「ローマ帝国の回廊」とも呼ばれ、物流の要でした。ブリタニアからローマへ旅するのには、便利な経路だったでしょう。
リメス地図

今では、ほとんどの遺跡は破壊されてしまったのですが、ザールブルクで砦や塁壁の復元が行われ、観光名所になっています。
ゲルマニアのリメス遺跡は、2005年7月に、ハドリアヌスの長城とともに「ローマ帝国の国境線」として、ユネスコの世界遺産に登録されました。(テレビ番組のナレーションみたいですな)
ザールブルク城砦 ザールブルク城砦

物見やぐら 復元された物見やぐら

説明文や写真は、ウィキペディアからお借りしています。


★ローマ貴族の大邸宅

基本、ローマは沼地なので、低地は湿気ていて、蚊も多く、インスラと呼ばれる庶民の集合住宅や、公共の建物が占めていました。 そして、七つの丘には皇帝の宮殿、神々の神殿、比較的身分の高い貴族の大邸宅が立ち並んでいました。
今日は、その邸宅、ドムスのご紹介です。
ドムス
ドムスは、防犯のため外側に窓がなく、広い中庭や天窓を通して採光していました。
玄関を入ると、「アトリウム」と呼ばれる広い中央ホールがあり、天窓から光を取り入れ、雨水を集める工夫がなされていました。
アトリウム
その両側が寝室、その奥が書斎あるいは執務室で、庇護民との謁見などは、ここで行われました。
そして、壁には円柱やカーテン、遠くの景色などのフラスコ画を描いて、部屋を広く見せる工夫をしていました。ローマ人は、カラフルなものが大好きなので、現代のような真っ白な壁というのはありえなかったのでしょうね。

さらにその奥には、ペリスタイルと呼ばれる様式の、中庭を取り囲んだ円柱のあるポーチがあり、台所や食事室、半円ドーム状の談話室などがありました。
ペリスタイル

この写真はいずれも、ポンペイの遺構から作られた復元図です。古代ローマ史にとって、いかにポンペイの発掘が重要だったかがわかりますね。

写真はウィキペディアよりお借りしています。


★庶民の町スブラ

今回から、スブラが舞台です。スブラは「諸皇帝のフォルム」の側にあり、ローマの中でも特に庶民的な地域で、多くの人が買い物に訪れて、年中ごったがえしていました。
ローマ市内は、最盛期で百二十万とも百五十万ともいわれる人口があり、お屋敷(ドムス)に住む余裕がない中流以下の人々は、インスラという賃貸高層アパートに住むことになりました。
紀元二世紀には、五階建て、六階建てのビルディングが四万六千棟以上もあったと言います。
インスラ
オスティア市のディアナの家と呼ばれるインスラの復元模型

多くの場合、一階と二階は裕福な人が住み(あるいは一階部分は店舗として利用されました)、上の階に貧しい人が住みました。エレベータもなく、水道も一階しか使えないため、上になるほど条件が悪かったのです。たくさんの家族が狭い部屋を共有し、階段の踊り場まで人が住みました。水がないため、掃除もめったにされず、衛生状態はかなり劣悪でした。トイレは下まで捨てに行かねばならないため、おまるの中身をこっそり窓から捨てるという暴挙もあったそうです。
崩落事故や、火事も多く、延焼を防ぐために、高さ三十メートルの防火壁がスブラとフォルムを隔てていました。

ユリウス・カエサルは、このスブラに住んでいたということです。さすがにインスラではなく一軒家でしたが、そのおかげで、由緒ある貴族出身なのに、民衆に対して優れたバランス感覚を持っていたのではないかと言われます。


★テルマエとバルネア

二世紀のローマ市内には、大浴場が11、公共浴場が1000あったと言います。カラカラ浴場などの、まるで宮殿のように広い大浴場よりも、小ぶり(小ぶりと言ってもすごいのですが)の公共浴場のほうが圧倒的に多かったわけです。
ここでは、テルマエを大型浴場、バルネアを中小浴場として説明していますが、それほど厳密な区別はなかったようです。入浴料は1クォドランスで、わずか20円くらい。これで、一日のんびり過ごせて、軽食まで食べられたのだから、すごいです。
兵士と子どもと奴隷は無料だったと言われています。


参考資料:「古代ローマ人の24時間」(アルベルト・アンジェラ)
写真:ウィキペディア



★ローマ時代の学校

ローマの文化は、基本的にはギリシア文化をもとにしたものなので、裕福な家はギリシア人の教育奴隷を持ち、子どもたちの教育を担当させました。そのため、上流階級のローマ人は、ほとんどがギリシア語とラテン語のバイリンガルなのだそうです。
このときに、家にいる奴隷の中にも、主人の子どもと机を並べて勉強することを許される者がいました。成長したときに、主人の子どもをサポートする忠実な存在となれるように、というわけです。ローマにおいては、奴隷とは必ずしも無学な存在ではなく、各国の優秀な人物もたくさん集まっていたのです。

教育奴隷を持つ余裕のない中流以下の家庭の子弟は、蝋板と鉄筆を持って町の私塾に通っていました。
教えるのはやはりギリシア人が多く、教育奴隷から解放されて学校を開く者もいました。場所は、広場(フォルム)の一角や、インスラの列柱廊、空き商店などが利用されていました。こういうわけで、教師というのは、ローマ時代には卑しい職業と思われていました(医者も同じです)

蝋板と鉄筆
蝋板と鉄筆を復元したものです。蝋板はタブレット。鉄筆はスタイラス。なんだか今の時代に通じるものがありますね。

「読み書きそろばん」と言えば、江戸時代の寺子屋のことですが、ローマ時代の初等学校も、まさに読み書きそろばんを教わっていました。そろばんはアバクスといい、中国やバビロニア経由で渡来したものだといいます。

ローマのそろばん
ローマ時代のアバクスを復元したものです。

読み書きはたとえば、イソップ寓話やことわざなどを教材にしていました。
学校は午前中で終わり、家に帰ってご飯を食べたあとは、遊びの時間です。彼らはもっぱら、公衆浴場へ行って、運動場で思い切り遊びました。

ほとんどの子どもは十二歳で卒業しますが、ある者は中等教育に進みます。科目は、ギリシア語、歴史、文学。読んだ書物をもとに互いの意見を述べ合うという授業でした。
十七歳で卒業し、それぞれの道に進みます。軍隊に入れるのも十七歳からでした。

ローマ民衆の識字率はかなり高いもので、一説には、十九世紀ヨーロッパに匹敵すると言われています。
時代が下ってローマ帝国が崩壊していくと、ラテン語は一部の聖職者だけのものになってしまいました、街角の学校で子どもたちがラテン語を学んでいた時代からすると、なんとも皮肉なことです。


参考資料:
「ローマ人の物語」(塩野七生)
「古代ローマ人の24時間」(アルベルト・アンジェラ)
「優雅でみだらなポンペイ」(本村凌二)
写真:ウィキペディア



★ローマ時代のクリスチャン

新しく登場したユニアはクリストゥス信奉者、つまりクリスチャンです。
古代ローマ帝国初期においてキリスト教信者は、おおむねレノスが言っているように、「胡散臭い連中」だと思われていました。

そもそもローマ社会では、家父長が、家にある守り神の祠の前で家内安全を祈ります。街角ごとに神々の祠が建てられていて、人々はそこでも祈ります。ローマの公共行事である祭事も、成人男子の中から選ばれた人がとりおこなっていました。宗教的行事によって国をまとめることがローマ市民の義務だったのです。
それに対して、唯一神を信じるクリスチャンは、そういう公共行事にまったく参加せず、皇帝礼拝も拒否したため、「無信仰者」(アテオー)と呼ばれ、疎んじられていたようです。

皇帝ネロの治世にローマを襲った大火の濡れ衣を着せられ、何百人ものクリスチャンが火刑に処せられたことは有名ですが、それ以外にも、なにか天災や疫病が起こるごとに、鬱憤晴らしのようにクリスチャンが弾圧され、処刑されることはしばしば起こりました。
コンモドゥスの父マルクス・アウレリウス帝の時代、ガリアのリヨンで、歴史上初めて円形闘技場でクリスチャンが野獣刑に処せられるという事件が起こりましたが、これもガリアの住民たちによる自発的な迫害で、皇帝はそれを追認しただけでした。

迫害
コロセウムにおけるキリスト教徒の猛獣刑 ジャン=レオン・ジェローム画

このように散発的な迫害を恐れて、キリスト教徒は十四区、十三区など、都心から離れた場所に固まって住み、カタコンベやインスラの一室で、こっそりと集まりを持っていました。信徒のほとんどはギリシア人などの外国人で、貧しい階級や奴隷だったと言います。
彼らは、集まるたびにキリストの血と肉に与かるための聖餐の儀式を行なったため、人肉を食べていると陰口をたたかれました。また信者同士が「兄弟姉妹」と呼び合っていたため、近親相姦を行なっているとの誤解を受けました。

聖餐
カタコンベの壁に描かれた、聖餐式を描いたフレスコ画 三世紀ごろ。

しかしながら、まだまだこの時代のキリスト教徒の力は小さく、帝国にとって大きな脅威にはなりえませんでした。
コンモドゥス帝の愛妾のひとりは、キリスト教徒だったほどです。
愛妾の名はマルキアと言い、次回以降に重要人物として登場します。

参考資料:
「ローマ人の物語」(塩野七生)
「キリスト教の歴史T」(松本宣郎編)
「世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教」(弓削達)
 ウィキペディア(写真も)



★コンモドゥス帝について

これからしばらく、お話に登場する歴史上の人物について書いていこうと思います。
最初は、コンモドゥス帝について。

ネロ帝と並ぶ残虐非道な愚帝として、映画、マンガなどいろいろ登場していますよね。映画は「グラディエーター」が有名です。


マンガ「ウィルトゥス」は、現代日本の格闘家が古代ローマに召喚されるというお話。コンモドゥスもマルキアも出てくるそうです。読みてえ。

正式名は、ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌスですが、しょっちゅう改名しています。
父は、あの『哲人皇帝』で有名な第16代皇帝マルクス・アウレリウス。
父から子に直接に帝位が継がれるというのは、ローマ帝国では珍しいことらしく、特に在位中の皇帝を父に生まれたことは初めてで、『紫の皇子』とあだ名されました。

当時はローマ未曾有の国難が頻発した時期で、父アウレリウスはローマの玉座を温める暇もありませんでした。コンモドゥスも子どもの頃は、父とともに前線暮らしに明け暮れます。
父親がドナウ川前線の陣中で亡くなると、十八歳で第17代皇帝に即位しました。しばらくは戦線で指揮を執っていましたが、あっさりと蛮族と講和を結んで、ローマに帰還してしまいます。前線暮らしに嫌気がさしたとも、莫大な軍事費を抑制するための英断だったとも言われています。

それからは、今回名前の出てきたポンペイアヌスら重臣たちと協力して政治を行なっていましたが、しだいに奸臣たちにそそのかされ、宮殿の堕落した生活に侵されていきました。それまで哲学者の父の薫陶を受け、前線で兵士たちとともに暮らしていたコンモドゥスは、生まれて初めて、放蕩という禁断の美味を知ったのかもしれませんね。

歴史家で同時代人のカッシウス・ディオは、
『私はコンモドゥス帝が狂人であったとは思わない。むしろ人生で実際に会った人々の中で最も誠実な人間の一人だった』
と同情的に述べています。
私もできれば、彼を好意的に描きたいなと思っていたりします。うまくいけばよいのですが。ちなみに、金髪巻き毛の美男子だったそうですよ。わくわく。

コンモドゥス
ヘラクレスに扮したコンモドゥス
参考資料:
 ウィキペディア(写真も)



★将軍ポンペイアヌスについて

コンモドゥス帝暗殺のあと、一番皇帝の座に近かったのがこの人でしょう。
とは言え、当時彼は67歳。差し出された皇帝の座を固辞したとも言われています。

ティベリウス・クラウディウス・ポンペイアヌスは、西暦125年、作中で彼自身に言わせているように、シリアの商人の子として生まれました。
ローマ軍に入って順調に出世、アウレリウス帝にパンノニア総督に任命され、ドナウ川の前線をまかされます。

当時は、パルティア戦争、疫病の流行に加えて、ドナウ川の向こうの蛮族がしばしば攻め込み、一時はイタリア本土までおびやかされる有様でした。ポンペイアヌスはこの未曾有の国難の中で、マルクス・アウレリウス帝の右腕として活躍しました。共同皇帝のルキウス・ウェルスが病没したのち、アウレリウス帝は、彼の妻だった自分の娘ルキッラをポンペイアヌスに与えたほど、彼を信頼していたのですね。

ポンペイアヌス
馬上のマルクス・アウレリウス帝のすぐ右に立つのが、ポンペイアヌス

アウレリウス帝がウィーンで病没したあと、皇帝となったコンモドゥスは、長期化する戦争を終わらせるため、 蛮族と和睦を結び、ローマに引き上げてしまいます。ポンペイアヌスは最後まで、この和睦に反対したと言われています。

妻ルキッラが元老院議員と結託して、弟帝コンモドゥスを暗殺しようとしたとき、彼女はポンペイアヌスを次の皇帝の座に据え、自分はふたたび皇妃となることを夢見ていたそうです。
暗殺が失敗に終わり、ルキッラが罰せられたあと、ポンペイアヌスは高齢と目の病を理由に私領にひきこもりましたが、彼自身はコンモドゥスの悪政をどう思っていたのでしょうか。

参考資料:
 ウィキペディア(英文)写真も




★愛妾マルキアについて

コンモドゥス帝暗殺については、多くの相違点はあるものの、おおよそ首謀者に関しては、三人の名前が挙がっています。つまり、

近衛長官ラエトゥス(英語読みだとレトー)
ギリシャ人の解放奴隷、侍従(寝室係)エクレクトゥス
皇帝の愛妾マルキア

そして、このマルキアがキリスト教徒であったことも知られています。今回、私がこのコンモドゥスの時代を取り上げたいと思ったのは、まさにこのマルキアさんがいたからと言っても過言ではありません。

残念ながら、彫像・絵画のたぐいは残っていないようです。さだめし美しい人だったとは思うのですが、本作ではわざと、小太りのおばさん体型(笑)という設定にしてあります。

もともと彼女は、実姉ルキッラのコンモドゥス帝暗殺計画に連座したとして処刑された元老院議員たちのひとりが所有していた奴隷だったそうです。財産が皇帝に没収されたおりに、奴隷もいっしょに没収され、そのままコンモドゥスの愛妾におさまったというわけです。
政治にまったく無関心なコンモドゥスにとって、愛妾がキリスト教徒であろうとなかろうとかまわなかったと思われます。しかし、ネロ帝の治世をはじめとして激しい迫害を経験していた教会にとって、マルキアがコンモドゥス帝の愛妾であるということは、大きな希望であったのではないかと作者は想像します。
実際、ヒッポリュトスという人が書いたものによれば、188年から189 年にかけて、サルディニア島に追放された多数のキリスト教徒を、のちにコンモドゥス帝の愛人マルキアが追放刑から救った、ということです。

では、もしマルキアが真剣にキリスト信仰をつらぬく人であったなら、彼女はなぜコンモドゥス帝の退廃的な生活をいさめなかったのでしょうか。反対になぜコンモドゥスは多くの愛妾の中で、彼女を寵愛したのでしょうか。
そして、なぜ彼女はコンモドゥス帝暗殺にかかわってしまったのでしょうか。
……そのあたりを、フィクションとして書いていけたらと思っています。


参考資料: 大谷 哲 「使徒ヨハネ伝承に見る殉教者概念の変遷」千葉大学文学部史学科 http://hist-q.l.chiba-u.ac.jp/
「ローマ人の物語」塩野 七生



★セプティミウス・セウェルスについて

コンモドゥス帝暗殺の翌193年は、一挙に五人の皇帝が擁立されるという「五皇帝の年」と呼ばれ、長い内乱の時代に突入することになります。
当然レノスの上司アルビヌス総督もですが、今日ご紹介するセプティミウス・セウェルスもその五人のひとりです。 アルビヌスはかなり残念なキャラ設定になっていますが、セウェルスは作者の思い入れが、もうすでに出ているようです。結論から言えば、皇帝レースを勝ち抜くのは、セウェルスなのです。

セウェルス
セウェルス胸像

前回のポンペイアヌス邸での会談にもあったように、セウェルスはアフリカ属州生まれです。騎士階級の名門の家に生まれ、祖先がポエニ戦争のときアフリカに領地を得たそうです。
幼少期をアフリカで過ごし、長じてからローマに留学。ラテン語、ギリシア語、ポエニ語を流暢にあやつりましたが、彼のラテン語には、ややポエニ語の訛りがあったため、「カルタゴ訛り」と揶揄されていたとか。
それだけでも、中央に屈しない属州魂のようなものが感じられる逸話です。

出世は遅く、結婚も遅かったのですが、さらに不幸なことに最初の奥さんは子どももなく病死、再婚相手に選んだ女性は、当方の属州シリアの太陽神官の娘ユリア・ドムナという女性でした。このあたりも、非常に型破りなセウェルスの性格をあらわしているようです。ユリア・ドムナは非常に博識で頭の切れる夫人だったようで、セウェルスも一目置いていたそうです。
ふたりは、カラカラとゲタというふたりの息子を授かります。

皇帝になる過程は、本編のあらすじにかかわることなので省きますが、軍人として非常に有能な人物で、皇帝になってからも精力的に外征におもむきました。彼が亡くなったのは、ブリタニアのエボラクムです。また、軍制改革で給料を上げるなどして、兵士を優遇しました。 みずからの政治基盤を軍に置いた姿勢は、まさに軍事独裁政権と言えるもので、のちの「軍人皇帝時代」のさきがけとなった人物です。

コンモドゥス帝暗殺のときの彼の年齢についてですが、ウィキには46歳となっていますが、私は40歳そこそこという設定にしています。人間味があるが野心家で、頭は回るがやや粗忽という、いろいろな面で「惜しい」性格づけになっております。


参考資料:
 ウィキペディア(写真も)



★剣闘士について

ローマ時代の剣闘士は、たくさんの小説・映画・ゲームの題材になっているので、あえてここで詳しく書くまでもないでしょう。
筆者のおすすめは、ローズマリー・サトクリフの「王のしるし」です。主人公の剣闘士がたどる数奇な運命を描いていて、特にブリタニアがお好きな方には、おすすめです。

さて、最終試合の二対二バトルに出場している、コンモドゥス、ナルキッソス、リュクス、セヴァンのいでたちについてご紹介しようと思います。

追撃闘士(セクトル)
皇帝コンモドゥスは大型のスクートゥム盾と真っ直ぐなグラディウス剣の追撃闘士の装備を好んで着けたと言われています。ただし、兜はつけずに、コンモドゥスは素顔をさらしたという設定にしてあります。
なぜならば、追撃闘士は、網闘士と対戦することが多く、網と三つ又槍の攻撃にさらされるため、兜はつるつるで飾りがなく、目の穴がふたつ空いているだけの頑丈なものでした。それゆえ、戦いが長引くと、しばしば呼吸困難を起こしてしまったそうです(笑)。さすがにそれはマヌケな結末ですよね。

網闘士(左)と追撃闘士(右)
網闘士(左)と追撃闘士(右)
Wikipedia: 5791 Arenes NIM 6062 C Recoura http://arenes-nimes.com/

切断闘士(スキッソール)
ナルキッソスは歴史に実在したコンモドゥス帝お抱えの剣闘士ですが、彼の装備が切断闘士というのは、私の創作です。
切断闘士は、片手には通常のグラディウス、もう一方の手には剣身の付いた籠手を着けたということです。盾を持たないため、鋼鉄の頑丈な鎧を装備しました。兜は…再現写真を見ると、なんだか昔なつかしいキン肉マンみたいな…。

切断闘士
切断闘士 
Wikipedia: Scissor 01 User:MatthiasKabel

トラキア闘士(トゥラケス)
トラキア人風の武装をした剣闘士。やはりこの派手さは、リュクスみたいな男が好むスタイルだと思います。
シーク刀と呼ばれる曲刀を武器にし、小型の盾を持つ。兜には鶏のとさかのような派手な羽飾りがついているのが特徴です。スパルタクスもトラキア剣闘士だったと言われています。

トラキア闘士
トラキア闘士
Wikipedia: Thraex 01 User:MatthiasKabel

ケルト人戦士
さて、セヴァンは剣闘士ではないので、装備はケルト風です。上半身はだか、下は長ズボン、青いウォードの汁を顔や体に塗りたくっていたものと思われます。
ケルト戦士の画像をさがしたのですが、なんかイマイチなものばかりで。カッコ悪いんだよなあ、しましまズボン(笑)。

参考資料:
 ウィキペディア(日本語・英語)



★コンモドゥスの死の真相

コンモドゥス殺害グループと言われているのは、愛妾マルキア、侍従エクレクトゥス、そして直接の実行犯は皇帝お抱えの剣術の教師ナルキッソス。
しかし、「ローマ人の物語」で塩野七生氏が書いておられるように、彼らの動機はまったくわかっていません。
彼らはコンモドゥスあってこそ権勢をほしいままにできるのであって、彼が死ねば地位が危うい立場なのです。
資料にも諸説があって、一致が見られないのですが、いくつかの書物、またウィキペディアなどを総合すると、当日の状況は、おおむね以下のとおりです。

192年の大晦日、コンモドゥスはある計画を心のうちに持っていました。それは、翌年の執政官ふたりを殺害し、剣闘士のいでたちで自分が代わりに就任式に臨むというもの。あるいは、単に気に入らぬ元老院議員の処刑を企てたと言う説もあります。
ともあれ、コンモドゥスが作った処刑者リストをこっそり盗み見た愛妾マルキアは、そこに自分の名もあるのに驚愕します。
要人たちと相談して、マルキアは皇帝の夕食のワインに密かに毒を盛ります。
けれど、解毒剤を常用していたコンモドゥスは死ぬまでには至らず、あわてた彼らは、屈強なナルキッソスを差し向け、死闘の果てに、コンモドゥスは浴室で首を絞められて息絶えたというのです。

三人はこのことをすぐにラエトゥスに報告し、それを境に歴史の表舞台から姿を消してしまいました。その後、彼らがどうなったかわかっていません。
そのため彼ら三人の単独犯であると言う説が有力なのですが、陰に暗躍していたのはラエトゥスで、ペルティナクスを次の皇帝にするという密約があったという説もあります。
「月の戦士」で私が描いているポンペイアヌスの家での密談、またアルビヌス総督やセウェルス総督が皇帝暗殺に関わっていたという史実は一切ありません。
また、サトゥルナリア祭に剣闘試合が催されたというのも、コンモドゥスがブリタニアに外征する計画を持っていたというのも、作者の創作です。
もし、コンモドゥスが皇帝という呪縛から解き放たれて、レノスたちのブリタニアへの旅に加わっていたら…と想像すると、せつなくなります。

参考資料:
 「ローマ人の物語」(塩野七生)
 「ローマ帝国愚帝列伝」(新保良明)
 ウィキペディア



★スコットランドの歴史

書く時機をはずしてしまった感もありますが、2014年9月18日スコットランド独立の住民投票がありましたね。結果は独立反対派の勝利に終わりました。スコットランド独立運動とローマ時代は全く関係ありませんが、ちょっとわくわくして見ておりました。

この二枚の地図を見てください。
左が、グレートブリテンのスコットランド州です。そして、右がローマ時代、ハドリアヌスの長城とアントニヌスの長城の地図です。
イギリスから独立しようとしているスコットランドの境界とは、ほぼこのハドリアヌスの長城のあったタイン川からソルウェー湾河口を結ぶ線であることがわかります。

スコットランド スコットランド2
スコットランドは、紀元前数千年前から人が住み始め、巨石文化が発達しました。今でもスコットランドには数々のストーン・サークルなどの遺跡が見られます。
青銅器、鉄器文明と移っていくにつれ、彼らは大陸から渡ってくるケルト文化の影響を受けながら、独自の文明を発達させていきました。

彼らは、文字を持たなかったため、その記録はほとんど残っておらず、紀元43年にローマ人総督アグリコラが侵入して後、タキトゥスの『アグリコラ』が彼らを知る貴重な手がかりとなっています。
アグリコラの侵攻以来、カレドニアと呼ばれたこの地域は、ローマ人によってほぼ三百年支配されます。が、実際はたびたび北からのピクト人の南下、大陸からの侵入と先住民の蜂起に悩まされ、一進一退の攻防の末、ローマ軍はハドリアヌスの長城の南に後退せざるを得なくなりました。それ以降ローマは直接支配をあきらめ、間接支配という形を取ることになります。
そこまで苦労して軍事力を投入しても、見返りに得るものはあまりなかったということでしょう。

紀元四世紀、ローマがブリタニアから完全に撤退したあとのスコットランドは、北部はピクト人、南部はブリトン人が支配し、のちにゲール人、アングロサクソン人、バイキングなども流入して、中世まで歴史の混沌の中に消えていきます。

参考資料:(地図も)
 ウィキペディア



★五皇帝の年

前回にもちらりと書きましたが、AD193年は「五皇帝の年」と呼ばれる、古代ローマ史の中でも特筆すべき混沌とした一年となります。

五皇帝とは、次の五人です。

ペルティナクス ペルティナクス

ディディウス・ユリアヌス ディディウス・ユリアヌス

ニゲル ペスケンニウス・ニゲル

アルビヌス クロディウス・アルビヌス

セウェルス セプティミウス・セウェルス

前年の大晦日にコンモドゥス帝が暗殺され、翌日の1月1日には、ペルティナクスが帝位にのぼります。
このお話で、ペルティナクスが選ばれたのは元老院のポンペイアヌスの意向であったという部分には、作者の創作が入っており、資料を見ても、近衛隊長官ラエトゥス(英語読みではレトー)が影の立役者と書いてあるものが多いです。
ところが、即位から三か月も経たぬうちに、そのラエトゥス率いる近衛隊がペルティナクスを暗殺してしまったのです。

ペルティナクスは当時66歳。元老院と協力して統治するという姿勢のもとに、財政の健全化に取り組みました。
ローマ市民に祝い金を配ったり、各地のローマ軍団の待遇改善も忘れてはいませんでしたが、肝心のラエトゥスに対して、十分なお返しをしていませんでした。つまり騎士階級にとって最高の出世であるエジプト長官へラエトゥスを任命をしなかったことがペルティナクスの命取りになったと塩野七生氏は書いています。ラエトゥスに扇動された近衛兵たちは、大挙して皇宮を襲い、皇帝を剣で突き殺しました。

ラエトゥスはその日のうちに、次の皇帝を立てることを画策します。そしてなんと、皇位が競売されるという事態を引き起こします。
同じく「ローマ人の物語」の中に、同時代の歴史家カシウス・ディオの記述が引用されています。

『二人の皇帝候補は近衛軍団の兵営をめぐる防壁の下に立ち、防壁の上から鈴なりになって見降ろす兵士たちを査定役にして、帝位の競売をはじめたのだそうである。この競り合いは、スルピチアヌスが、近衛兵一人につき五千デナリウス、ユリアヌスのほうは六千二百五十デナリウスを約束した時点で勝負はついた。元老院もこれには憤慨したが、結局は帝位を競り落としたディディウス・ユリアヌスの皇帝就任に承認を与えたのである。』

このスキャンダルに、ついに各地の軍団が動き始めます。各地の辺境防衛線にいる軍団は、それぞれ自分の総督を皇帝に推挙し、同時に三人もの皇帝候補が立つことになります、元老院ではなく、ローマ軍団が皇帝を選ぶ時代が到来したのです。

ところで、元老院の重鎮ポンペイアヌスは、この「五皇帝の年」193年に亡くなっています。憤死ではないかとつい想像したくなってしまうのですが、果たしてどうだったのでしょうか。

参考資料:
「ローマ人の物語」(塩野七生)
ウィキペディア(写真も)



★ザールブルクの砦

レノスたちが赴任した長城(リメス)の砦ですが、モデルは、ザールブルクの砦です。フランクフルトの北西20キロという好立地なので、フランクフルトに観光の際は、日帰りオプショナルツアーにお出かけください(笑)。

ザールブルクの砦は一世紀の終わり、皇帝ドミティアヌスによって建てられました。当時は百人隊ふたつほどの小さな木造の砦で、そこを守っていたのはブリタニアから来た補助軍ではないかと言われているそうです。
その後、五百人規模の歩兵隊・騎兵隊が駐留するようになり、砦も石造に建て替えられました。軍団の司令本部はモグンティアクム(現在のマインツ)にありました。

ザールブルク 19世紀に復元された城壁


砦自体は3.2haもの広い長方形で、最盛期は二千人、兵士の家族や職人なども住んでいたようです。砦が守る長城は、最初は木の柵でしたが、後に二重の堀と土塁に取って代わりました。

ザールブルク 復元されたリメスの堀と木の柵


ザールブルク 復元された穀物倉庫、今は博物館


三世紀なかばにゲルマンのアラマンニ族の侵入によって、砦は長城とともに打ち捨てられ、ローマの国境線は、ライン川へと後退して、二度と戻りませんでした。
その後、何百年ものあいだ、長城の存在は忘れられてきましたが、19世紀から本格的な発掘調査が行われ、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がザールブルク砦の復元を命じ、今日の姿になりました。

参考資料:
ウィキペディア(英語版・写真も)
ウェブサイト「ドイツの城」http://www.geocities.jp/y_ujoh/kojousi.germany.htm



★タキトゥスの「ゲルマニア」


コルネリウス・タキトゥスは、一世紀の帝政ローマ時代の歴史学者で、元老院議員、執政官にもなった人です。彼の妻の父親は、ブリタニア総督だったアグリコラで、その偉業について書き記した「アグリコラ」は、当時のブリタニアの地誌や文化についての重要資料となっています。
そのタキトゥスがゲルマン民族について書き著わしたのが、「ゲルマニア(ゲルマーニア)」です。書物の中にトイトブルク森の戦いについての記述もあるのですが、場所がまったく違うそうです。実は、タキトゥス自身はゲルマニアには行ったことがないと言う説もあり、いろいろな誤解やトンデモ系の思い込みもあるようです。
「ゲルマニア」を私訳・解説しておられるサイトをいくつか見つけましたので、少しだけ抜粋して引用させていただきますね。

○ゲルマン人は決して多民族と混血せず、みんな金髪碧眼、高身長である。瞬発力に富むが持久力に欠け、熱さに弱く寒さに強い。
○戦闘のときは、ほとんど裸で、鎧や兜もほとんど着けないが、盾だけは彩色した立派なものを持つ。盾を投げ捨てることは非常な恥辱となる。
○ゲルマン人は、戦いに家族を連れていく。そのため、戦っているあいだも、後ろから妻や子どもの叫び声がいやでも聞こえる。負けそうになると、女たちは胸をはだけて、「わたしたちが奴隷にされてもいいの」と夫たちを鼓舞することもある。
○男は戦争があるとき以外は寝て過ごし、畑や家の仕事は女や年寄りにまかせる。血を流して得られるものを、汗を流して得るのは女々しいと考える。
○彼らは太陰暦を用いているので、夜が一日の始まりと考える。重要な問題が持ち上がったときは、満月か新月の日に会議が招集されるが、時間に遅れる者が多く、全員が集まるのに二、三日はかかる。
○男はあまり早く女を知ると弱くなると考えて、結婚するまで童貞を保つ。結婚しても一夫一婦制を厳格に守る唯一の民族である。
○ゲルマン民族は都市を作らない。村はあっても、軒がくっつくような建て方はせず、家の周囲に広い空地をめぐらせている。

どうでしょうか。本当かなと思うものもありますね。
タキトゥスは、当時の帝政ローマや、堕落したローマ人に批判的でした。そのため、ゲルマン人を「高貴な野蛮人」として、やや褒めすぎているきらいもあるようです。


参考資料:
ウィキペディア
ウェブサイト「世界の古典つまみ食い」ゲルマニア第一部 http://www.geocities.jp/hgonzaemon/germania.html
ウェブサイト「元老院議員私設資料展示館」ローマ時代のゲルマニア http://www.kaho.biz/germania.html



★西暦194年の情勢について


レノスたちが炉辺でいちゃいちゃしていたあいだに(笑)、ローマ帝国内の情勢はずいぶん変わっています。
五皇帝の年である西暦193年の翌年、194年はどうなっていたのでしょうか。

まず、セウェルスですが、ふたりの皇帝候補からはさまれる形になっていました。東からニゲル、西からアルビヌスです。そこでさっさとアルビヌスを副帝に任命して後顧の憂いを断っておいてから、ローマに進軍し、帝位を勝ち取ったのです。そして間髪を入れず、東のニゲルを討伐に向かいます。賢いですねー。

シリア総督であったニゲルは、カッパドキア、シリア、エジプトなどの大軍団を擁していたにもかかわらず、兵力を小出しにしたために、最後にはセウェルスに敗れてしまいます。
そして、西暦194年9月、ニゲルはイッソスの戦いで敗北し、友好国であったパルティアに亡命する寸前で、セウェルス勢に追いつかれ、死を遂げます。このお話では、レノスが投獄されてしまったちょうどそのころです。


セウェルスの凱旋門
フォロ・ロマーノにあるセウェルスの凱旋門。後年、ニゲルに味方したパルティア王国に戦争をしかけ、圧勝した記念に建てたもの。

東方の一年近い激しい戦いのあいだ、アルビヌスはじっと動かぬまま、ルグドゥヌム(リヨン)にいました。ブリタニア、ライン防衛の四軍団とヒスパニア軍団を味方に付け、背後をつこうと思えばできたはずです。
セウェルスとの約束を守ったということでしょうか。彼の愚直なほどの生真面目さが裏目に出てしまったのです。
五皇帝も最後のふたりになりました。いよいよ、セウェルス対アルビヌスの一騎打ちが始まります。


参考資料:
ウィキペディア
「ローマ人の物語」(塩野七生)



★第9章(1)の展開について


今回の更新では、女性にとっては読むのがつらい場面がありました。ずっと無月経だったレノスに月のものが訪れた場面です。しかも牢獄で。書いていても、その不快感を思うと可哀そうでなりません。
お読みになって辛い思いをされた方がおられたら、申し訳ありません。ですが、ここはどうしても、レノスの人生の物語を描くために、書かねばならない場面でした。
後半に向かうにあたって、とても重要な転機となるところです。
今日はローマについてのよもやま話はお休みして、女性の無月経について。

しかし、果たしてこんなことがありうるのか。
ネットで調べた情報ですが、女子のスポーツ選手、しかもかなりハードに体をしぼりこむ種類のスポーツのトップアスリートたちは、無月経、月経不順の人が多いそうです。
体脂肪を極端に落とすと、体が臓器を護ろうとして、生殖機能をストップさせる…のだそうです。

レノスはローマ軍に入って以来、日々過酷な鍛錬を自分に課していたので、そのせいで月経が止まった可能性があります。加えて、「女であることは罪悪だ」という心理的なトラウマがあったことも一因かもしれません。
しかし、投獄されて鍛錬をやめてしまったことで、今回のような状態になったのでしょう。セヴァンへの愛を自覚して、女性である自分に目覚めた…という解釈のほうが、もっとロマンチックですが(笑)。
無理なダイエットでも、無月経、月経不順が起きます。若い女性の方、くれぐれも無茶はしないでくださいね。




★ルグドゥヌムの戦いについて


今回の更新は、本当に凄惨な場面が多くて申し訳ありません。社R指定は主にここの戦闘の描写につけていたものです。
しかしながら、これは作者の演出ではなく、ほとんどが史実をもとにしています。

とはいえ、私が調べた範囲では当時の史料はそれほどなく、誇張されているものもあって、果たして、どこまで正確であるかどうかの裏づけは取れていません。
また、私がウェブで接することのできた資料の多くが英語で(フランス語もありましたが、読めません)、かなりの想像をまじえて翻訳したところもありますので、そのあたりはご了承いただけるようお願いします。

ルグドゥヌム1
ルグドゥヌム(リヨン)のフルヴィエールの丘。円形劇場、神殿、バシリカ、官邸などがあり、当時はきらびやかな黄金や大理石で彩られていた。

それらの史料によれば、ルグドゥヌムの戦いはローマ軍同士が激突した内戦の中でも、最も凄惨で最も血塗られたものでした。
たえず蛮族との戦闘にさらされている、精鋭ぞろいのブリタニア軍団とドナウ軍団。
双方の戦力はほぼ互角で、そのため、戦いは二日間にわたって続きました(当時の戦いは、普通ほとんどが数時間で終わったそうです)。

アルビヌス軍は、左翼が突出し、右翼は持ちこたえて、セウェルス軍を罠に引き込む作戦に出ました。
苛立ったセウェルスは、みずから親衛隊とともに突撃して、戦場の真ん中に取り残されました。そのとき、セウェルスは皇帝のマントを臣下のひとりに着せて囮にし、危うく難を逃れたと言われています。

結局、セウェルス軍の優秀な騎馬隊がアルビヌス軍を撃破し、戦いはアルビヌス率いるブリタニア側の敗北に終わりました。
平野は馬と人間の死体で覆われ、死体の多くはばらばらの肉片となり、血が川となってローヌの流れにそそぎこみました。内戦は、勝者敗者ともに、いや、ローマ帝国全体に大きな打撃を与えたのです。

それ以降、セウェルスは、反対する者を容赦なく廃する軍事独裁政権へと突き進みます。

ルグドゥヌム2
当時のルグドゥヌムの町の模型。ローヌ川とソーヌ川が交わり、港町として栄えた。


参考資料・図表:
Wikipedia(English Version)
UNRV History The Roman Empire; War with Clodius Albinus


★歴史的事件と月齢

このお話のように、歴史上の大事件をもとに描いている場合、フィクションだからといいかげんには描けない情景があります。
たとえば、今回のように、月が重要な役割を果たしている場合。西暦197年2月19と20日の南フランスの月齢がわからないと、書けないと頭をかかえました。

それが、ちゃんとわかるサイトさまが見つかったのです。

月齢、月食、惑星食

紀元前1000年から西暦5000年までの日時と世界の地名を入力するだけで、月齢を計算してくれるというシュミレーターが設置されています。
これによれば、ルグドゥヌムの戦いの夜は、確かに満月(ただし、天気が晴れかどうかはわかりません)。
歴史小説書きには、なんとも頼もしいサイトさまです。


★ピクト人について


ピクト人とは、カレドニア(現在のスコットランド)に古くから住んでいたコーカソイド(白人)系の民族で、古くは中央ヨーロッパからブリタニアに渡ってきたそうです。

皇帝ドミティアヌスの時代、ブリタニア総督に任じられたアグリコラが、体に彩色や刺青をほどこしていた彼ら原住民を、ピクト(絵具)族と呼びました。また、彼らの住んでいた土地を、カレドニア(緑の樹の土地)と呼びました。
ピクト人たちはいくつかの王国に分かれていたそうですが、文字を使わなかったために、ほとんど詳細は知られていません。

一時はローマ軍に屈したピクト人たちでしたが、アグリコラが撤退したあと、勢いを盛り返します。そこで、ハドリアヌスの長城、次いでアントニヌスの長城が建設され、ピクト人をその北側へと押しやりました。
しかし、紀元150年代には、アントニヌスの長城はあっさり破られ、ピクト人たちは再び南下してきます。
特に、193年から197年の五年にわたる皇帝争いの混乱の中、ローマ軍の力が弱まり、彼らはますます勢いづいてくるのです。

ピクトストーン
ピクト人が残したと言われる「ピクトストーン」と呼ばれる石碑。これらは古代ローマより後、6世紀から9世紀のものが多い。

参考資料・
ウィキペディア(写真も)
エドワード1世によるスコットランド統治計画(川瀬 進)ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/tu/file/969/20150731104637/TU10080000001.pdf


★ローズマリー・サトクリフについて


前回にも書いたとおり、とある競作コンテストに出品したファンタジー短編を長編化するにあたり、私が目指していたのは、熱狂的にリスペクトしているローズマリー・サトクリフ氏の小説でした。彼女の小説は児童文学に分類され、図書館でも、氏の著作のほとんどは児童書コーナーにあるのですが、その風景描写の美しさ、人間描写の機微は、おとなの鑑賞にも十分すぎるほど耐えうるものでした。中でも、ローマン・ブリテン四部作と呼ばれるシリーズはすばらしく、そのうちの「ともしびをかかげて」は、1959年のカーネギー賞を受賞しており、また「第九軍団のワシ」は映画化されたことで有名です。

もし、この「月の戦士」を少しでも気に入ってくださる方々は、ぜひぜひサトクリフをお手に取って読んでみていただきたいと思います。拙作よりも百倍はすばらしいですから。


そのうちのふたつだけをご紹介したいと思います。
「辺境のオオカミ」
ローマン・ブリテン四部作の最終話にあたるもので、時代は四世紀。
主人公アレクシオスは、司令官としての判断の誤りによって部隊を失うという大失態を味わって、北ブリテンの辺境守備隊に左遷されてきた。
氏族出身の部下たちの冷ややかな態度にとまどいながらも、次第に彼らの信頼を得ていく。そして、その土地の氏族の族長の息子クーノリクスと知り合い、友情を結ぶ。
けれど、氏族にまったく無理解な上司のために悲劇が生まれ、やがて氏族とローマ軍が敵対し、親友クーノリクスと戦うという運命が彼を待ち受けていた。

……と、あらすじだけ書くと、本当に「月の戦士」の冒頭との共通点がてんこもりですね。もちろん完成度はまるで違いますが……(汗)。私がサトクリフの小説の中で一番好きなのが、この小説です。



「第九軍団のワシ」
新任の百人隊長マーカスは、砦の生活に慣れ始めたころ、信用していたブリトン人の氏族の奇襲を受け、足を負傷して除隊する。
叔父の家で失意の中にいるとき、たまたま見物に行った剣闘試合で、ひとりの剣闘士の命を救うことになる。その剣闘士、ブリトン人のエスカを買い取って自分の従者としたマーカスは、消えてしまった父と第九軍団の軍旗であるワシの行方を求めて、エスカをともなって北の辺境の地への冒険の旅に出る。
映画もレンタルで見ましたが、とても面白かったです。


日本に生まれ育ち、イギリスに一度も行ったことがない私。自然の描写に悩むことが多々あるのですが、そういうときは、ウェブサイトを調べつつ、サトクリフの小説を読み返しています。まさに私にとってブリテンの空気を充電させてくれるのが、サトクリフの小説なのです。

ローマン・ブリテン四部作は、岩波少年文庫に収録されていて、簡単に手に入れることができます。
しかし、サトクリフの小説は、別の出版社からもたくさん出ていて、たとえば、「ケルトとローマの息子」(ちくま文庫)などは、ケルトとローマの混血の少年が奴隷として売られ、過酷な運命の中でまっすぐに生き抜き、やがて幸せを勝ち取るという、とても感動的なストーリーで、おすすめです。




★レノスはいったい何歳?


レノスは今、いったい何歳?
作者も数えるのがこわくなってきました。というのは、歴史の大事件に合わせて物語が進んでいるため、どうしても、それだけの年数が経ってしまうのですね。

そこで、歴史年表と物語のできごとを併記し、合わせてレノスとセヴァンの年齢を付け加えてみました。

西暦190年春 レノス ブリタニア赴任   レノス19歳 セヴァン15歳
※ 西暦191年 アルビヌス ブリタニア総督に任命される
西暦191年秋  氏族の一斉蜂起   レノス20歳 セヴァン16歳
※ 西暦192年12月31日  皇帝コンモドゥス暗殺
西暦193年夏  ゲルマニア駐留   レノス22歳 セヴァン18歳
※ 西暦197年2月19日 ルグドゥヌムの戦い
西暦197年8月 別れ  レノス26歳 セヴァン22歳
(※印は、実際の歴史上の日時)

つまり、二年後の今は、西暦199年で、レノス28歳、セヴァン24歳となります。



★内乱終結後のブリタニアについて


この作品は、ほとんどが作者のフィクションなのですが、時おり史実も混ぜ込み、実在の人物も登場しています。
前回ちらりと出た、新ブリタニア総督、ウィリウス・ルプスなども実在した人物です。あ、この人はたぶんもう出てきませんので、名前を覚える必要はないですよ(笑

この人に関するウィキ(英語版)を読んでみると、当時、内乱が集結した直後のブリタニアの様子が書かれています。
おおまかですが、意訳してみますと

ルプスは属州ゲルマニアの軍団長で、帝位争奪の内乱ではセプティミウス・セウェルスを支持した。内乱が激しさを増した196年には、彼の軍はデキウス・クロディウス・アルビヌスに敗れている。

197年にセウェルスが皇帝の座に就くと、ルプスはブリタニアの総督に就任した(執政官経験者だったのだろう)。
セウェルスは、ルプスをただちにブリタニアに送った。というのは、その前年にアルビヌス総督が内乱のために軍団兵のほとんどを移動させてしまったため、ブリタニアではあちこちで反乱が勃発していたからである。

ブリタニア北部では、マエアタエ族の蜂起に対して、ルプスは和平を金で買わねばならなかった。マエアタエ族がカレドニア連合と結託する恐れがあったことと、セウェルス帝から援軍が来る見込みがなかったため、ルプスはしかたなく、金銭を払ってマエアタエ族に撤退を約束させ、捕虜を取り返した。
ルプスは徐々に丘陵地帯の砦をローマの支配へと取り戻したが、ハドリアヌスの城壁が再建されたのは、ようやく205年になってからだった。


この文章からわかることは、氏族たちが結託して叛乱を起こそうとする動きがあったこと、ローマ側はセウェルスからの援軍も望めず、打つ手がなかったこと。ローマ軍の捕虜について身代金の交渉が行われたことです。
このマエアタエ族がクレディン族と考えれば、このお話の展開は、そこそこ史実に近いと言えます。もちろん、全くの偶然なのですが。


★登場人物の名の由来について


レノス
物語の中にも記したとおり、ライン川のラテン語での呼び名「レヌス(Rhenus)」が語源となっています。
全長1,233キロ。特にドイツにとっては重要な川です。
そのためか、ほとんどの川はドイツ語では女性名詞なのですが、この川やマイン川などの少数の川だけが男性名詞で呼ばれるということでした。
語源は、南ドイツに入植したケルト人が、「流れる水」という意味で「renos」と呼んだのが最初という説や、ゴール人がこの地のことを、ゴール語で「日の出」を意味するRenosと呼んだという説などがあります。

ローマ人の固有名(praenomen)はそれほどバリエーションがなく、男性は「ガイウス」や「ルキウス」など、せいぜい十数個。レノスという名をつける父親は相当変わり者と呼ばれたことでしょう。

セヴァン
セヴァーン(Severn)川は、イギリスで最も長い川。全長354kmとウィキにあります。名はケルト語に由来しますが、どういう意味かはわかっていないそうです。 

イスカ
ブリタニア南東部にあったというだけで、どの川のことかよくわかっていません。第2軍団が駐留したイスカ・アウグスタ(現在のニューポート付近)、イスカ・ドゥムノニオルム(現在のエクセター)などの地名にその名をとどめています。

実は河川の名をつけたのは、この三人だけ(二人と一匹)だけで、あとは適当に別の名をつけています。
多くはローマ人とケルト人の人名をつけていますが、アイダンAidan は古代ケルトのAodh (太陽と火の神) に由来し、フラーメンには「風」という意味があります。
イスカの後釜の猟犬は「ドライグ」は、「竜」という意味です。


★古代ケルトの生活


いよいよ次回から、クレディン族の村での生活が本格的に始まります。
もう何度も言っていることですが、古代ケルトの民は文字を持ちません。なので、彼らがどういう生活をしていたのか、どういう風習を持っていたのかは、ローマ側からの資料と、現代に残るケルト文化から推測するしかない部分があります。
ローマについての資料は集めやすかったのですが、ケルトの資料となると、ぐっと少なくなってしまうのですね。
その中で、作者が資料として今回特にお世話になったのは、「ケルトの植物」という本です。



これは、図版も豊富で、ケルトの植物だけではなく、風習や文化についても細かく解説してくれています。
夏至祭の野草の入ったビール、火の回りで踊るダンス、恋人たちが炎の上を跳ぶ行事なども、この本から教えられること大でした。

さて、もうひとつ、ケルトについておもしろいウェブサイトを見つけました。
BBC Wales のホームページのコンテンツ 「鉄器時代のケルト人」というサイトです。
http://www.bbc.co.uk/wales/celts/

面白い読み物やミニゲームが満載で、楽しく二千年前のケルトの生活について学べるようになっています。
けっこう、ケルト人の女性の絵がごつくて笑えます(このせいで、ちょっとメーブのイメージが変わってしまいました。笑)
ぜひ、行ってみてください(音声注意)


★ケルト人のタータン(ブリーカン)


タータン
(Stewart of Atholl Ancientと呼ばれるもの。 スチュワート家のタータン。スチュワート家は12世紀にスコットランドに渡ってきたノルマン人を先祖に持つ。タータンの柄は、正装用、狩猟用など細かく分かれており、膨大な数にのぼる)

スコットランド人が「タータン」と呼ばれる鮮やかな格子縞柄の衣服を身に着けることは有名ですが、この柄には、単なる模様以上の意味があるそうで、氏族や家族によって柄が厳格に定められていました。日本人風に言えば、「家紋」ということになるでしょうか。
タータンについて解説しているウェブサイトによれば「農民や兵士は1色、将校は2色、族長は3色で、貴族は4、5色使いが許され、王族は7色も用いた」ようです。

現存する最古のタータンは、三世紀のものだと言われています。もちろん当時は草木染でした。
赤紫色はニワトコの実の絞り汁、黒は、古い樹皮や若いブラックベリー。濃い灰色にはシモツケソウ、黄褐色や薄茶はコケ類、黄色はカバノキの葉やワラビの根…などという具合に、身近な自然のものが使われました。

「タータン」と呼ばれるようになったのは16世紀以降のようで、現在に伝わっているタータンの柄のほとんどは近世以降のものです。
タータンとは、フランスの古語で「麻と毛の交織織物」という意味を持つ「テリターナ(teritana)」から来ているそうです。つまり、古代ローマ時代のスコットランドで、「タータン」と呼ばれることはなかったはずです。
この小説では「ブリーカン」と書かせていただきました。ブリーカンはゲール語で「格子縞」という意味です。


織り機はどんなもの?
さて、レノスが悪戦苦闘してタータンを織っている織り機とは、どんなものなのでしょうか。
レノスに負けず劣らず、女性的な仕事にうとい作者ですが、一度だけ「さをり織り」というものを体験したことがあります。「隙間ができてもいいから、自由に織ってください」と言われて、とても楽しかった覚えがあります。そのとき使った織り機は足踏みペダルもついた水平型の織機でした。

前回ご紹介した、「鉄器時代のケルト人」に、織り機のイラストがありました。

ケルトの織り機

ウィキによれば、これは最も原始的な「経糸おもり織機(竪機)」と呼ばれるもののようです。
上に渡した棒から経糸の束を垂らし、その先には石などの重りをつけて、ピンと張るようにします。
緯糸は、杼(ひ)または梭(おさ)英語ではシャトルと呼ばれる舟形の木の器具を通して、経糸のあいだを通して織っていきます。

最初は手でシャトルをくぐらせていたのが、次第に改良され、偶数番目と奇数番目の経糸をそれぞれ別の棒(ロッド)に結び付け、交互に持ち上げて、そのすきまをシャトルが通ることによって、複雑な模様を織ることができるようになっていきました。

参照ウェブサイト:
http://fashionjp.net/archive/fashionmaterial/tartan01.html (写真も)
http://www.suntory.co.jp/whisky/Ballantine/chp-02.html
http://www.fashion-heart.com/term/fabric/jp-tatan.htm
ウィキペディア「織機」の項


★フリスラン人について


フリスランは、今のオランダ・ドイツの北海沿岸地域をさします。フリジア、フリースラントと呼ばれることもあります。
地理の授業を思い出してくれたらよいのですが、オランダはもともと海抜が低く、潮の干満によって海水が流入しやすい土地でした、そこで古来から住民たちは、「テルプ」と呼ばれる人工の盛り土をして、その上に家を建てていました。
紀元一世紀にこの地を訪れた博物学者の大プリニウスは、このテルプを海に浮かぶ船にたとえたようです。
住民はさらに、水路を縦横にめぐらせて排水を試みていました。本格的な堤防が建設されたのは、12世紀ごろになってからです。

このような状況だったので、フリスラン人は穀物の生産よりも、酪農や漁業で生計を立てていました。
彼らが話していたフリスク語は、隣接するオランダ語よりも英語との共通点が多くみられ、その理由として、北海漁業に従事する漁民たちが、ブリテン島の漁民たちと頻繁に接触していたのではないかという説もあるそうです。

5世紀ごろには、本格的にアングロサクソン人がブリテン島に移住しますが、フリスラン人がブリテン島に渡ったり、略奪行為を働いたという記録はありません。あくまでも作者の想像です。



★ドルイドについて


ドルイドは、宗教を司る神官ですが、政治的にも強大な権力を持っていました。
彼らは、カシの森の中に聖域を持ち、さまざまな神事を森で行なったため、「カシの森の賢者」と呼ばれていました(「ドルは「カシの木」、ウイドは「知識」を意味する)

ドルイド
ドルイド僧になるには、神がかり状態になって、神々の託宣を得るという特殊能力が必要でした。
そのために、素質のある若者を集め、厳しい修行をさせて、口伝えで膨大な知識を教え込んでいきました。
その知識は自然学、数学、天文学、医学の分野と多岐にわたり、人々のもめごとの裁判も彼らの仕事であったようです。
また、カシの木に寄生するヤドリギを神聖なものとし、さまざまな儀式や薬に用いていました。

ドルイド神官独自のネットワークは、ケルト人の諸部族全体にまたがっていて、ガリアでは年に一度招集される聖なる森での全体会議で、氏族全体にかかわるさまざまなことを決めていたと言います。
戦争などの重要な政治的問題も、彼らの託宣なしには行われなかったと思われます。

戦争の前には、戦士を集めてお祓いをし、独特の催眠状態に引き込みました。また、人は死んでも別の姿に生まれ変わるという「転生思想」を説いたため、戦いに赴いたケルトの戦士たちは、死をも恐れず、恍惚状態となって、不気味な叫び声をあげながら戦ったそうです。
セヴァンが、ローマのコロセウムでコンモドゥス帝と戦う前、自分で自分を催眠状態にしていたのは、このドルイドの教えを実行していたのでしょう。

ローマ帝国はもともと被征服民族の宗教に寛容で、むしろ積極的に彼らの宗教を認めて懐柔することが多かったのですが、そのローマが、ドルイドだけは徹底的に弾圧しました。
カエサルも、ガリアを平定した後、ドルイドの祭祀を禁止しましたし、ブリタニアでもアグリコラの時代に、アングルシー島を支配するドルイドを駆逐し、彼らの聖域を破壊しました。
その理由が、この狂信的な側面にあるのではないかと言われています。

ドルイドで有名なのは、ヤナギで作ったかごに大勢の人間を詰め込み、火をつけるという処刑の話であったり、人を突き刺して、痙攣状態や血の量で占うという話なのですが、どこまで本当かはわかりません。
ただ、シャーマニックで魔術的な一面は大いにあったようで、本作でも、彼らをセヴァンやレノスの敵として示す意味でも、個々の人間としてではなく不気味な「影の集団」として描写しています。

参照:ウィキペディア(画像も)
「ケルト人のガリア戦記」(書物 出版社など不明)
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