靴下を穿いた猫
あっこ
どうしたらいいのさ?!何でこんな目に・・・・あたしは溜息をついた。
初めて見た人じゃないし、いつもの居酒屋さんの常連ではあったが、この男の素性をあたし何一つ知らない。

あたしさぁ、あんまし興味ないんだよね。仕事が終わって居酒屋さんで軽く呑んで、ご亭主とお話して。常連さん達はあたしに話し掛けてくれるけどね、その時は適当に話すけど名前も知らないし、年齢も、なぁーんにも知らない。他人には興味ない。
今夜はたまたま隣り合ったってだけなのに、「あ!亜美さんだよね!良かったら俺の知り合いの店に行きませんか?ここ、すげぇ混んでるし。ね?」悪い人じゃなさそうだし、顔見知りだったから「そうしますか?」なんぞとうかうか付いてったのが大間違い。

この人、そんなにお喋りじゃなかった筈なのに、まぁ・・・・喋るわ、喋るわ。挙句に泥酔。ぬかるみを避ければいいものをジャブジャブと歩いてさ、靴は泥だらけ。駐車場のブロック塀に寄り掛かって正体ないし。あたしは酔えなかったから運転して帰る。しかしこの男をここに置き去りにしていいんだろうか。まだ夜は冷え込む。どうにかなっちゃわないだろうか。嗚呼!世話焼かしてえ〜〜っ!この馬鹿野郎!
・・・・しょうがない。車に押し込んだ。マンション目指して車を飛ばした。

泥だらけの靴を脱がす。こんなんで歩かれちゃ堪んないわ。何の因果で酔っ払いを引きずって深夜のエレベーターに乗ってるんだ?あたしは。
部屋に入ってソファに寝かす。靴下脱がせて。捨てたろ。ありゃりゃ・・・・。イビキかいてるよ。シアワセだね。おまいは。
明日は日曜日か。こいつが起きたら送って行ってやろ。あたしも眠い。隣の寝室でベッドに倒れこんだ。

ん?美味しそうな匂いがする。お腹空いた。・・・・なんで?なんで美味しそうな匂いなのよう!?ムックリ起き上がったあたしは、あいつが鼻歌交じりにスクランブルエッグなんぞを作ってる姿を発見した。
「亜美ちゃん〜〜!おはよう!さ、朝ご飯ですよん。いっぱい食べてね」
「・・・・ナニしてんのよ?なんで貴方が朝ご飯作ってんのよ?」
「お腹空いたんだもん。ついでに亜美の分も作ってあげた」
亜美さんから亜美ちゃん。亜美と呼び捨てにするまで半日もかかってない。図々しいにも程がある。
「じゃね、テーブルに並べるから。化粧でもしなさいよ。そいからさ、なんで俺の靴泥だらけなの?」
「はぁ・・・・。もういい。記憶喪失か。ところでお名前は?」
「忍。シノブだよ。そう呼んでたじゃん?みんな」
「知らないよ。貴方の足何センチ?」
「26cm。なんでよ?そいから俺のソックスは?」
「汚かったから捨てました。あたしのソックスあげるから。伸ばせば穿ける」

彼の作った食事は美味しかった。若い頃にはペンションでアルバイトしてたと言う。
「今は?何屋さんなの?」
「今はね、家出中。彼女んちで居候してたんだけど追い出された。ここんちでヤッカイになってもいいかな。家事労働なら得意です。うん。そうしよう。俺、亜美なら嫌いじゃないし」
「あのね?実家にお帰りになれば?野良猫じゃあるまいし。なんでここに居つくのよっ!サッサと帰れっ!馬鹿!」
「いろいろ事情があんのよ。今は帰れない。そうだな・・・・あと1ヶ月かな。いいじゃん。ここ広いんだし。亜美、彼氏でもいるの?いないでしょ?ご飯食べたら買い物に行こうよ。晩御飯食べたいものある?」

真っ暗な部屋に帰るのは好きじゃなかった。部屋の明かりが見えただけで嬉しかった。おまけに料理は美味しかったし。忍は優秀な家政夫だった。あたし達は毎晩笑ってばかりいた。でも訊かない。どこの誰かさえお互いに知らない。名前だけ。たったそれだけしか知らなかった。そしてそれ以上は必要のない関係だった。

1ヶ月が過ぎた。
「亜美、世話になった。俺帰るわ。祖父さんが死んだ。会社の相続問題で、兄貴より俺を可愛がってた祖父さんが俺を社長にしたがったんだ。そういうの拙いし。これで兄貴が無事に社長だ。今夜祖父さんの通夜。そいじゃ」
忍は立ち上がり、ジャケットに袖を通しながらそう言うと玄関を出て行った。あたしは無言で見送った。

忍のいない生活はどこかに隙間風が吹くような気がした。恋人じゃあるまいし。家政夫じゃん。それなのになんでこんなに淋しいんだろう。いきなり現れていきなり去ってしまった野良猫なんぞ。そう思ってみたが無駄だった。あたしは淋しかった。
毎晩近所の公園のブランコを漕いだ。部屋でなんか泣きたくなかった。

今夜は満月か。忍はどうしているんだろう。あれから随分時間が過ぎた。もう慣れちゃった。最初からいなかったと思えばいいや。

誰かが隣のブランコに腰掛けた。
「よお。元気か?亜美。俺。返さなきゃならないもんがあってさ。マンションまで行ったらいなくって、探しちゃったよ」
「・・・お陰様で。貴方こそ元気だった?」
「うん。落ち着いた。寒いから帰ろう。話したいことあるし」
「どこへ帰るのよ?」
「亜美んちに決まってるでしょ。とりあえず熱いコーヒー淹れるから。勝手知ったる他人の家」

あたしはぼんやりと忍を見ていた。コーヒーの香りが部屋中に漂っていた。なんだろう?この妙な安心感は。失くした筈のジクソーパズルの最後の1枚が嵌め込まれたみたいな。
「亜美、ソックス。返そうと思ったんだけどまた穿いて来ちゃった。返したほうがいいか?」
「いらね。てか、返したことになってないじゃん!無理やりにちっこいソックス穿いて来なくてもいいじゃん!」
「う。返しに来たんじゃない。本当は貰いに来た。貰いたいもんがあったのよ」
「なんじゃ?ええしのボンがあたしに何を貰いたいのさ?あたし、びんぼですけど」
「不埒な時間」

靴下を穿いた猫は、とんでもなく不埒な時間をあたしと過ごした。彼の肩越しに顔を上げると、カーテンからは月明かりが洩れていた。いいのかな。ナンだかシアワセなんだけどいいのかな。猫は寝息を立てている。

明日はあたしが朝食を作ろう。飛び切り美味しい不埒な朝食を。模様も伸びきったソックスが部屋の片隅に揃えてあった。