アナタニアイタイ
くりす
→ 後編
(前編)
 そいつはいつも居場所のない顔をして教室の隅で携帯から
流れるFMラジオをイヤホンで聴いていた。
 みんなと笑っていても、俺にはピンと感じてしまう。あいつ今
愛想笑いしやがった。あ〜あ、他の奴らは全然気づいてねぇよ…。
 俺があんまりそいつばかり気にしてみていたので、その日
あいつは俺の方に近寄ると声をかけて来た。

「高倉君、何か用ぉ?」

 俺は押し黙ったままあいつを見上げて首を横に振った。

「変なの…」

 あいつは腰まである長い髪を翻し、友達の輪に戻って行き、
そして屈託なくまた笑い出す。
 微かに香るシャンプーの残り香が俺の胸を締めつける。
 重症だな…俺…。
 俺は読みかけの文庫を顔に伏せるとそのまま天井を向いた。


 ――中根琴美
 彼女はクラスメイトで同じクラス委員。ただそれだけの関係だった。
 ところが一ヶ月前から俺にとってただのクラスメイトではなくなってしまった。
 それはある夜迷い込んで来た一匹の猫がきっかけだった。
 左前足に怪我をした、毛足の長い真っ白で綺麗な顔の猫だった。


 一ヶ月前、俺は自室で暇つぶしにとリビングにある親父の本棚から
引っ張り出した夏目漱石を読んでいた。
 何ゆえに漱石だったのかは記憶がない。暇つぶしなら例えば
ベッドの下には若者には有意義な本がいくらでもあったのだから。
 しかしなぜか俺は漱石を数冊引っ張り出し、柄にもなく秋の夜長を
楽しんでいた。夜風が心地良く、月も煌々と夜空に輝いていた夜だった。
 窓辺に座る俺は『坊ちゃん』を斜め読みした後『心』をぱらぱらと開き、
一番下にあった『吾輩は猫である』を最後に手にした。

「確か…漱石が自分の神経衰弱の治療のために書き始めた小説だったよなぁ」

 授業でそう習った事を思い出し、俺は頁をめくり始めた。
 本来“書く”という事には癒しの効果があるらしい。物語を読んだり
観たりする事もそうだと思う。古来より人々は物語を愛し読みものとして
芝居として楽しんで来た。
 それは二十一世紀になった今でも変わらず、架空の世界、主人公を通した
疑似体験は人々を興奮させる。
 そんな姿はそれこそ猫の目から見たら奇異なものかもしれない。頭の中で
創造された話に夢中になってひととき現実の自分を忘れようとする人間たちを。
 そう想像しながらつらつらと読み進めている時に、奴は来た。真っ白な
ペルシャ猫。怪我をしたまだ若いメス猫だった。
 にゃあ…、と一声鳴いて窓辺に座る俺の部屋の窓の、そのすぐ傍まで
張り出した木の枝にうずくまっていた。

「どうした?おまえ…そこから降りられないのか?」

 本来俺は動物好きである。しかし両親が共働きのため家ではペット禁止
だった。どうせ世話をするのは自分になるんだから余計な負担はごめんだ
というのが母親の言い分だった。
 なので、例えどんな理由があろうと動物を家の中に入れたとあっては家族に
良い顔はされないので、俺は階下の両親に気づかれぬよう猫をそっと招き寄せた。
 猫は最初警戒しながら怪我をしてない方の前足をそろりと俺の方へと差し出した。
 俺は隙を逃さず手を伸ばすと奴の脇腹をぐっと捕まえた。

「よーしよし、良く来たな。どこでそんな怪我したんだ?腹減ってるのか?」

『吾輩は猫である』を読んでいたせいか、俺はやけに突如現れたその夜の猫に
感情移入していた。足音を忍ばせながら階段を降り、一階から救急箱とついでに
皿とツナ缶を持って来て猫の世話をした。

「猫、飼った事ないから分かんねぇんだけどこれ食えるか?ほら、怪我も見せてみろ。
 何だ?これ。ひでぇ…何か火傷みたいな傷だな…」

 奴は前足に包帯を巻かれたあと俺の手に顎を乗せゴロゴロと鳴いて擦り寄った。
そして急に身体を翻し部屋の中をごぞごぞと散策し始めた。

「おーい、爪あとなんか残すんじゃないぞ。おふくろと揉めるのやだかんな」

 俺がそう呼びかけると猫は俺に振り向き尻尾をゆらりと振った。OKという
意味らしい。そして部屋を一巡して好奇心が満たされた頃俺が用意した皿に
ようやく興味を示し、あとはぺチャペチャとツナ缶を食い始めた。
 一挙手一投足がそろそろと慎重だが、愛くるしい表情で俺の言葉に
反応する。その仕草が可愛い上に何だかちゃんと世話されてる事に感謝
してる気もして、俺はなかなかに初対面のこの猫を気に入ってしまった。
 猫は性格が冷たいなんて言うけど、こいつはちゃんと分かってる。母さんも
こんな毛並みの良い猫なら飼う気になるんじゃないの?いや、きっともうどこかで
飼われてる猫なんだろうな。迷子になったか何かで…飼い主もこいつを探してるんだろう。 
 そう思うと俺はその猫を家族に紹介する事をいよいよ諦めた。猫は俺の与えた
エサに満足したあと俺の膝に飛び乗り舌なめずりをしながら丸くなった。

「おいおい、落ち着くなよ。おまえ可愛いけどさ、お前の事大事に
 してる飼い主が他にいるんだろ?」

 そう言うと猫はふっと頭を上げ俺の顔を切なそうに見上げた。(ように見えた)
 本当に綺麗な顔の猫だった。白い産毛のような細い毛に金混じりの茶の瞳。
 俺は吸い込まれそうなその眼をしばし覗き込んだあと

「ほら、腹が一杯になったんなら家にお帰り」

と、情が移ってしまう前に手放さなければやばいと感じ猫にそう言った。
 そして玄関まで抱えて行ってやろうと抱き上げた時、猫はするりと
俺の手を離れしなやかに尻尾を伸ばすと窓辺にすっくと登り立った。

「おい、降りれないんだろ、そこからじゃ」

 そう声をかけた時、猫は一度俺に振り向き、またにゃあと鳴いて
枝に飛び移り瞬く間に地上へ降り立つとそのまま闇夜に去って行った。
 俺は呆気に取られた。奴は木から降りられずにうずくまって
そこにいた訳じゃなかったのだ。

「何だよ、同情買うのが上手い奴だな…」

 残された皿を片付けながら、俺はまたあの猫が遊びに来てくれる事を
期待した。猫は飼い猫であっても複数の“家”を持つと言う。あんな
綺麗な猫になら、時々騙されてやっても良い気がした。


 翌日俺は中根とふたりで職員室に呼び出され、担任にクラスの
資料を準備室から運び込むよう命じられた。

「かったりぃなぁ…」

 ぶつくさ文句を言いながら重い資料を準備室で中根に
渡そうとした時、中根の左手に巻かれた白い包帯に気がついた。

「おまえ、それどうしたの?怪我?」

 俺の問いかけに中根はぺろっと舌を出し肩をすくめた。

「これ?夕べ制服のブラウスにアイロンがけしようとしたら
 自分の手もアイロンしちゃったの。痛かったよぉ?
 高倉君も気をつけなよね。って、高倉君が自分の服に
 アイロンかける事なんてないかぁ〜?」

 けらけら笑ってそう言った時、中根の瞳が一瞬昨夜の
猫のように金色混じりに光って見え、俺は息を飲んだ。

「何?私の顔に何かついてる?」

 この春から共にクラス委員をしていたが、思えば中根の顔をしっかり
見たのはこの時が初めてだった。その時よっぽど俺は間抜けな顔で呆けて
中根を見たのだろう。小柄な中根は怪訝な表情で俺を見上げた。

「いや、おまえの眼が…今猫みたいに…」

 そう言い掛けて、俺はしまったと思った。間抜けにも
ほどがある。絶対に、目の錯覚に過ぎないのに…。
 しかし中根は俺の発言に表情を崩し、逆にうんうんと頷き出した。

「そぉか、高倉君、やっと気づきましたか。でも気づくの遅過ぎ。
 同じクラスで気づく子は結構早くからいたよ?それなりに噂にも
 なった気がしてたんだけど、高倉君の耳には届いてなかったんだねぇ」

 ひとり納得する中根に、俺は居心地の悪さを感じた。

「みんなは知ってたけど俺は知らなかった事って何だよ」

 すると中根は悪戯っぽい顔で答えた。

「あたし、先祖に外国人の血が混ざってるのよ。だから普段はちょっと
 薄めの茶色の眼だけど光の加減で金色に見えるらしいの。でもこれ、
 男の子には昔から好評だったんだけどな〜、気づいてませんでしたか…」

 まぁ、確かに、綺麗だと思う。ってか、そう思った。外人の血と言われて
納得する部分もある。抜けるような白い肌と黒いけど日本人にはあまり見ない
ような柔らかそうな長い髪と、高い腰の位置と張り出した胸と…。
 そこまで考えて俺はジロジロと中根を上から下まで眺めて
しまった事にはっとした。
 中根には俺の思考が分かったらしく、赤くなって視線を逸らす俺に
またけらけらと笑い始めた。

「おかし〜、高倉君、真面目過ぎ。ベッドの下にあんなもの隠してる人に見えない」

 そう言うと中根はさっさと資料を抱えて廊下に出て行った。
 からかわれた俺は赤くなったままワンテンポ遅れて廊下に出たが、
中根は小走りに去って行ったあとだった。

(あんなもの…って、何だよ…。え…?え…!?)

 その時、ストンと俺の中に何かが落ちて来た気がした。 
 奇妙な奇妙な感覚。
 あとで気づいたが、あれが“予感”と言うものだったんだろうと思う。
 その日の中根の昼食は“ツナサンド”だった。
 俺はその日から何となく気になって中根を見るようになった。


 数日後、奴はまた来た。またもや俺が部屋で漱石を読んでいる時だった。
 にゃあにゃあと切ない声で鳴いて俺を呼び出そうとする。
 ここですぐに出て行ったらおまえの都合の良い男って事ににならないか?
などと猫相手に意地を張りつつ俺はカーテンと窓を開けた。奴はまた前の
ように俺の部屋の窓にぎりぎり届きそうな頼りない枝の上で俺を待っていた。
 俺は手を伸ばし、そっと近寄る奴を抱きとめた。

「よぉ、怪我はどうだ?アイロンで火傷だったって?」

 俺が同じ瞳の中根と猫をどことなく重ねてからかい気味にそう言うと、
奴は心なしかピクンと俺の腕の中で震えた。
 俺はまた、台所で適当に見繕ったエサを与えて奴としばらく戯れたあと
奴を窓から見送った。そんな日が幾日か続いた。奴の前足の傷が癒えて行く
様子と中根の傷跡は、不思議と重なってるように思えた。


 一昨日の夜 
 その日は昼間から降っていた雨がやっと上がった空気の湿った宵だった。
 俺がいつものように暇つぶしに文庫を開いてると、いつものように
奴の声がした。
 俺は窓を開け奴を抱き入れたのだが、その時俺は俺のシャツが
一瞬でえらく汚れた事に気がついた。

「うわ、おまえ今日はやけに汚れてるんだな」

 枝にいる時は暗くて気づかなかったが、その日の奴はぬかるんだ
土の上を歩いたせいか長い毛足が仇となり腹と足元がドロドロだった。
 にゃおんと鳴くと、俺の顔を切なく見つめる仕草。

 …あぁ…、ちくしょ…。

「良いか、静かにしてろよ!」

 俺は奴に言い聞かせ、階下の両親に気づかれないよう奴をバスルームへと運んだ。
 バスルームにあるのは母親と姉貴のお気に入りのシャンプーと俺と親父のメンズシャンプー。

「猫に…使っても良いのかな…肌とか、荒れたりしないよな…」

 俺は戸惑いながらもメンズシャンプーで奴を洗った。奴のついでに汚れた自分の
シャツも洗った。母親に見つかったらうるさいと思ったので証拠隠滅の必要があった。
 猫は風呂が嫌い、という話を聞いた事があったような気がしたが、奴は俺の言いつけ
通り一声も漏らさずじっとしていた。部屋でドライヤーをかけてやってる時もそうだった。
ひたすら気持ち良さそうに目を細め、バスタオルを敷いた俺の膝の上でじっとしていた。

「不思議な猫だよな、おまえ…」

 俺は台所からちくわをくすねて奴の口に運んでやった。奴のざらっとした
舌が手のひらに当たり、人間以外の動物なんだと思わされる。
 でも…猫なんだけど…俺には奴が何だか中根と重なった。あいつもどことなく
猫っぽい。瞳の色が、とか怪我した場所が一緒だから、とかではなく、最近
気になって見ていて気づいたのだが、あいつは笑ってるようで笑ってない時がある。
 周囲に溶け込んでるようで、実は孤高な性格だと思い始めていた。気配り
上手でクラスの世話はお手のものだし周りを盛り上げようとしているのも
感じる。でも、眼が笑ってない。そしてふっと気づくとひとりでラジオを
聴きながらぼぉっと外を眺めている事も多かった。
 掴み所のない奴…。
 プライドが高そうなのに不思議と俺に世話を焼かせてしまうこいつと、
いつか世話を焼いてみたい気のする中根が俺の中で重なっていた。
 俺は最近中根と同じ携帯を買った。ラジオが聞ける機種。
 あいつが毎日聴いている番組を聴いてみたかった。あいつはいつも
昼休みの終り頃、必ず教室の外のベランダで、あるラジオ番組を聞いていた。


 翌日、俺と中根はまたクラスの仕事で一緒になる機会があった。
 中根はHRの集計結果をまとめながらメモを取っていた。

「高倉君、真面目にやってます?」

 時々俺を見上げながら、中根は金混じりの瞳で俺を睨む。
こいつはマジメモードの時は必ず敬語を使って来る。
 俺は、やっぱ奴に似てるなぁと思いながら生返事を返した。
中根はいわゆる猫顔なのかもしれない。ほら、“なかねことみ”って
名前にしたって真ん中に“ネコ”がいるし…などと思っていた時だった。

「高倉君、ほらこれ、こっちやって下さいよね」

 俺に集計用紙を押しつけようと席を立って近くに来た時
中根の残した残り香に俺は固まった。

「嘘だろ!」

 俺は思わず叫んで立ち上がった。

「な、何よ、何?」

 中根はもっと驚いてる様子だった。

 その日の中根琴美の髪からは…

 俺の家のシャンプーの匂いがした…。


『アナタニアイタイ』(後編)

 その夜は眠れなかった。
 あいつが奴と同じ匂いをさせてたって…どういう事なんだろう。
 中根はきょとんとしたまま俺を見上げたあとさっさと作業に
戻ってしまったので、俺はその後詳しく追求する術をなくした。
 いや、追求と言っても仕様はないのだけど…。
 君、夜になったら猫になって俺の部屋に来てない?なんて訊いたら
確実に頭がいかれてると思われるだろう。
 そういや夕べ奴にちくわを上げたけど、今日のあいつの昼の弁当は
でかい磯辺揚げが入ってなかったっけか?これも偶然か?
 妙な妄想が膨らんで、ただでさえキャパの残り少ない俺の脳みそは
ショートしかけていた。

「…眠れない。目を疲れさせよう…」

 俺はひとりごちると読みかけの『吾輩は猫である』を鞄から取り出した。
 栞を抜き取り読み始める。文庫の小さな文字は心持ち眠気を誘ってくれる。
 本棚から数冊引っ張り出した漱石なのに、まともに読んでるのはこれだけだった。
 なぜだろう。思えばあの夜だって突然本棚からこれらを引っ張って来たのだ。
 普段俺は漫画しか読まない。課題図書だって誰かのをアレンジするかあとがきから
適当に内容を絞り込んで個性のない作文を仕上げるか、くらいが関の山の読書量だ。
 それなのに急に純文学なんぞを読みたくなって手にした。それ自体が妙だった。
 そして奴はやって来た…。

 そんな事を考えながら、少しうとうとしつつ俺は数頁読み始めた。
 頭の中では奴がぼんやりと浮かび始めていた。
 そう言えば…奴が来る時って、俺はいつもこれを読んでないか…?
 そう気づいた時、窓の外がざわざわ鳴った。
 そして、また奴の俺を呼ぶ小さな声が聞こえた。
 俺の心臓はどくんと跳ねた。
 眠気は一気に吹き飛んだ。


 深夜に訪れたその夜の奴は、それまでとどこか違った。
 窓を開けると枝の上で丸くなり少し驚いた顔をした奴がいた。

「何だよ。自分から来といて何驚いてんだよ」

 俺が手を伸ばすと奴は柔らかい身体を俺に預けて部屋の中に
入って来たが、すぐに床に降り立つとそわそわと落ち着かない
様子できょろきょろ辺りを見回し始めた。

「どうした?おまえ、何か変だぞ?」

 そう声をかけた時、奴は俺の口の開いた鞄に目をつけ
一目散に向かうと中身を前足で掻き出し始めた。

「おい!こら、やめろ!何やってんだよ!」

 鞄の隅からころんと俺の携帯が転がり出ると、今度は奴は
アンテナを器用に口で引っ張り出し、携帯を開いて爪で
ラジオ操作ボタンを長押しした。

「え…?う、嘘だろ…?」

 携帯からFMラジオの番組が流れ始めた。奴はホッとした表情で
携帯の横に寝そべるとじっとラジオ番組を聴き始めた。
 その顔は、最初は中根が教室で見せるような無表情に近かったのに
次第に中根よりももっと豊かなものに変わって行った。
 泣き顔だった。猫の癖に。
 今にも大粒の涙をこぼしそうな顔で、奴はラジオを聞いていた。

「おまえ…もしかして本当に…中根なのか…?」

 奴は俺の言葉を無視して一心不乱に番組に集中していた。
 奴の背中は孤独で、気やすく撫でてあげられるような雰囲気ではなかった。
 奴は猫だけど、その夜、間違いなく泣いていた。
 俺は何も言えずにただじっと奴を見つめていた。


 一体奴のあの表情は何だったんだろう。
 奴は一体何者なんだろう。
 俺は一ヶ月前から我が家に時折現れる猫の正体と、同じクラスの
中根琴美との因果関係をひとり模索しクラスメイトと笑い合うあいつを
じっと見ていた。そしてこのモヤモヤは最早本人に訊くしかないという
結論に至っていた。

 ――おまえ、時々猫になってる? 

 あぁ、何度シュミレーションしても間抜けな台詞だ。
 でも訊くしかない。そうしないと俺と奴との関係も変に
なってしまいそうなんだから。
 漱石の小説の影響かどうかは知らないが、俺はあのペルシャ猫を
随分擬人化して捉えていた。それは認める。そして、同時に中根琴美の
事も気になって気になって仕方がない。
 これがどういう感情なのかは自信を持って言えない。ただの
好奇心かもしれない。
 でも、もし奴がラジオを聴いて泣いていた理由を人間の中根琴美が
知っていたら、そうしたらちゃんと人間の言葉でなぜなのかを教えて
欲しかった。どうしてあげたら良いのか分からずただうろたえるのは、
男として辛かった。

「中根!」

 俺は席を立って中根のいるグループまで近寄った。

「なぁに?高倉君」

 中根はいつものように愛想良く返事をした。いつもの、笑わない金茶の瞳で。

「話がある。今日の帰り顔貸して」

 言い終わったあとグループの女子たちがからかい気味に歓声を上げた。
 でも、知ったこっちゃなかった。
 中根は俺をじっと見たあと何も言わずに頷いた。
 俺は中根の表情に、あながち自分の考えが的外れではない事を確信した。


 約束の放課後
 俺は中根を屋上へ呼び出した。

「もうすっかり寒くなったね。高倉君、クリスマスの予定は?」

 中根は屈託ない表情を崩さず俺に話しかけた。いや、俺には分かる。
こいつは愛想良くするのが単に習慣になってるんだ。心の奥では本当は…。

「別に何にも…」

 反して俺は無愛想に答えた。中根は肩をすくめると、がっかりした
表情を見せた。

「なぁんだ、愛の告白とクリスマスのお誘いかと思ったのに違うんだ。
 何?用事って。何かクラスで困った事でも持ち上がった?」

 腰に手を当て小首を傾げて再び中根は俺に質問した。
 冷たくなった風が中根の長い髪を揺らす。奴と出会った時は
まだ夜風の気持ち良い秋だった。でも今は、同じ風がやがて来る
雪の季節を思わせる。
 俺は単刀直入に話を持ち込む前に、中根にある事を切り出した。
 中根は素で硬い表情になった。

「おまえがいつも聴いてるラジオ番組さ…。それと昨夜遅くにやってた
 ラジオ番組。同じDJのJーPOPとオールディズの番組なんだな」 

「…」

 俺はラジオに関して多少の下調べをしていた。DJの名前は高倉昭典。43歳。
少なからずこの男に奴と中根が関係してるのは間違いなかった。

「俺の知ってる猫が、寂しそうにその番組聴くんだよ。おまえ何か
 知らねぇ?俺、あいつが寂しそうなのって耐えられないんだ」

 中根は口を両手で覆うと目を見開いた。

「不思議な猫なんだよ。一ヶ月前に俺の部屋の窓に現れてその時おまえと
 同じ場所に火傷をしてたんだ。それから、俺が一昨日泥だらけのあいつを
 風呂場で洗ってやった時、次の日おまえ俺んちのシャンプーと同じ匂い
 させてた。極めつけは携帯ラジオ。猫の癖に俺の携帯のラジオを起動させて
 夕べは泣きそうな顔で聴いてたよ。なぁ、何か知らない?こんな事言う俺って
 やっぱ頭がおかしいのか?」 

 中根はすとんと冷たいコンクリートの上に座り込むと両手のひらに顔を伏せた。

「中根…?」

 俺もしゃがみ込んで中根の肩に手を当てた。
 中根は…泣いていた。夕べ奴が泣きそうな癖に涙を流さなかった分を
補うかのように、大粒の涙をぽろぽろとこぼしていた。
 そしてやがて、小さく消え入りそうな声で中根は呟いた。

「…夢…じゃ…なかったんだ…」


 俺と中根はそのあと町外れの喫茶店に場所を移した。
 落ち葉の舞う並木道の外れにある小さなビル。
 その一階にある喫茶店の窓を冷たくなった風が叩く。
 やたらとコーヒーや紅茶の種類が豊富なその店のメニュー中から
飲み物をオーダーすると、中根はやっと落ち着いた顔を見せた。
 
「あのね…高倉君、今日も学校に持って来てたけど、今漱石読んでるよね…?」

 喫茶店の隅の壁にそびえ立つ大量の文庫の数々を見つめながら中根は言った。

「私もここのマスターから借りて、今読んでるの」

「もしかして…『吾輩は猫である』…?」

 中根はこくんと頷いた。
 中根の話はこうだった。一ヶ月前の月の綺麗な夜、借りて来た本を
部屋で読んでいると飼い猫が膝に甘えて来た。そしてしばらく背中を
撫でながら読み進めていると、突然意識を失った。
 気づいた時は周りの風景がやけに大きくなり自分の目線も随分低かった。
 おまけにいつの間にか外に立っている。近くのショーウィンドーの
ガラスに映った自分の姿を見ると自分の飼い猫が映っていて驚いた。
 どうしようかうろたえている時、俺の家の明かりが見えた。
 どういう訳かクラスメイトの高倉の家だと直感で分かった。
 庭先に侵入し、爪を出して木を駆け上る。鳴いて自分の存在を知らせる。

「まるで大昔から猫をやってるみたいだったわ」

 遠い目で中根はそう言った。
 それから中根は俺にエサを与えられて家に戻ったと言う。ふっと意識が
遠ざかり、目覚めるとベッドの上だったので夢だと思っていたそうだ。
 幾度かそんな奇妙な夢を見て、それは決まって漱石を読みながら
うたた寝した時だったらしい。いつも俺の部屋の前の庭木に登り、
俺を呼び出しているのだと言う。翌日は決まって猫の自分が前の夜
与えられたエサと同じものを昼食に取るのも、夢があまりにリアルで
その食感が忘れられなかったからだったと…。

「じゃあ…あいつは中根が飼ってる猫だったんだ。白いペルシャ猫…」

「うん、二年前…パパが置いていった猫…」

 中根はくっと顔を歪めて下を向いた。

「パパが…ママと離婚した時あたしにくれた猫…」


 DJの高倉昭典は中根の実の父親なのだそうだ。
 離婚後、中根の母親は父親と会う事を禁じ、中根も
母親の旧姓を名乗るようになった。
 しかし中根の家には最近新しい父親が暮らす事となり、
母親もその男の姓に変わった。中根は何度も姓が変わるのが
嫌なので、そのままの姓でいる事になった。

「でも、名前って不思議なの。ママと苗字が違うだけで、
 本当に他人になってしまった気がするの。いつも新しい
 お義父さんに気を遣ってて、あたしの事なんてもうどうでも
 良いみたい。パパはね、クウォーターなの。だからあたしの
 この目はパパ譲りなんだ。でも、ママはもうパパの事
 思い出したくないのかあたしの顔見ようとしないし、
 お義父さんなんてあたしの目が嫌いでしょうがないみたい…」

 中根は静かにそう言った。中根の妙に大人びた寂しげな顔は
クラスにいる姿からは想像出来ない雰囲気だった。
 そんな…孤独を抱えていたなんて、全然知らなかった。
 手のひらに爪が食い込むくらい、俺はぎゅっと拳を握った。

「でも、何で飼い猫に中根の意識が移った時俺の家に来てたんだろう。
 確かに俺もいつも漱石を読んでる時におまえが来てたけど、それに
 関係あるのかな…?」 

 そう言うと中根も小首を傾げた。

「分からない。心の中であたしはいつもパパに会いたかったの。でも
 パパは二年前からパパの恋人と暮らしてるし、会っても迷惑な顔
 されるだけだって知ってるし…。だから同じ名前の高倉君だったの
 かもしれない。あたし、今のクラスになって高倉君がクラス委員に
 なったから副に立候補したの。そしたらいつも高倉君の名前を呼んで
 一緒にいられるでしょ?あたし“高倉”に戻りたかったのかもしれない。
 家族みんなが“高倉”で幸せだった日に…」

 …何だ…好かれてたのは名前だけかよ…。
 俺は少し、いやかなりがっかりした。

「それと…高倉君、動物好きだよね。ずっと前の梅雨の時、雨の日に
 通学路で捨てられてた子猫のダンボールの前から何十分も動けずに
 いたのを見た事があるの。そのあとクラスのみんなに呼びかけて
 飼ってくれる人を探してあげたよね。パパも動物が好きだったから…
 だから…猫になったあたしにも優しくしてくれるだろうって思ったの
 かもしれない…。とにかくあたし…いつもどこにも居場所がなくて…」

 中根は猫の時に見せるような切ない瞳で俺を見上げた。
 俺の心臓は跳ね上がり、それと同時に腰を浮かせて席を立っていた。

「高倉君?」

 俺は中根の横にさっと座ると中根をぎゅっと抱きしめた。
 一連の動作は全て無意識だった。自分の行動に自分で驚いたが、
それに気づいた時はもうやってしまったあとだった。

「高倉…君…何…?」

 中根は驚いていた。

「…良いから、猫の時みたいに素直になれよ。俺に抱かれるの、
 初めてじゃないだろ。居場所がないなら俺が居場所になって
 やるよ。将来、おまえが望むなら“高倉”にだってしてやるよ」

 同情とか、そういうのはあったと思う。
 でも、とにかく中根が哀しそうなのは昨夜奴が寂しそうだった姿
以上に俺に堪えた。理由を知ってしまった今はもっとそうだった。
 すると中根は大きな眼からぽろぽろ涙を流し始めた。
 勢いでプロポーズ(?)したと言うより、父親のような気分だった。
 こんなに誰かを守りたいと思ったのは初めてだった。
 俺は固く抱きしめたまま中根の長い髪を撫でた。
 猫の時にしてやるように、静かに静かに撫で続けた。
 猫の姿でしか素直になれなかった中根琴美は、その日人間の姿で
初めて俺に素顔を見せてくれた。


 数日後、俺たちは何とか連絡を取りつけDJの高倉昭典に会った。
 あいつは自分の父親が自分に会いたがらないと思い込んでた
ようだが、高倉昭典はそんな男ではなかった。
 娘に苦労をかけた事を詫び、これからも連絡を取り合おうと
約束出来たようだった。
 POPな現代音楽とオールディズをこよなく愛するDJアキノリ。
 瞳はやはり、娘と同じ金茶色をしていた。
 俺は心密かにこの男と同じ苗字であった事を神に感謝した。
 そうでなければ、彼女は俺に興味を示さなかったのかもしれないのだから。


 クリスマスソングが町に鳴り響く十二月のある日。
 俺は自宅であるものを見つけて驚愕した。

「そうか、もしかして、そうだったのか―――!」

 どうしてあのような奇跡が自分たちの身の上に起きたのか、
あれから俺たちは図書館やネットで調べていた。今までにも
誰かが動物に憑依した記録等がなかったかどうかを。
 琴美はオカルト方面で。俺はやはり漱石が気になり、
文芸方面を調べていた。
 するとネットで『吾輩ハねこまつり』という企画にヒットして
その主催者の趣意書を読んで一連の謎が解けたのだ。
 趣意書によると、今年二〇〇四年の十月は夏目漱石の名作
『吾輩は猫である』の猫が生誕して丁度百年目になるのだという。
 猫の手記が翻訳家夏目漱石の手によってネコ語からヒト語に
翻訳されたのが同年の年末で、ゆえにその百年祭を二〇〇四年
十月下旬から十二月下旬までの約二ヶ月行っているというものだった。
 もしかすると、『吾輩は猫である』は全くの創作ではなく実話
だったのかもしれない。夏目漱石はネコ語を理解し(もしくはその猫が
ヒト語を理解、使用し)漱石はそれを一冊の書籍にまとめたのかも。
 俺と琴美はその百年目の夜、偶然にも同時に『吾輩は猫である』を
読み始め、何かにシンクロした琴美は自分の飼い猫に意識が移り、
会いたいと思い続けてる父親と同じ名前の俺の家へと辿り着いた。
 その後も俺たちは同時に読んでる時のみ猫を通して出会っていたのだ。
 “猫”という存在は昔から魔力を秘めてる動物として描かれるが、
案外嘘ではないのかもしれない。時空の関係なのか琴美の想いが
強かったのかは知らないが、不思議な力が働いたのは確かだった。

 百年目の夜の奇跡。
 俺たちは十七年の生涯で生まれて初めて生身で神秘体験というものをしたのだった。


「じゃあ十二月下旬まで魔力は続くのかな?」

 琴美は俺の部屋でパソコンを覗きながらそう言った。

「でも、この間俺たちが携帯で連絡取りながらせーので
 読み始めても、おまえ猫にならなかったじゃん」

 俺がそう言うと、琴美はふむと考え込んだ。

「やっぱさ、もう私の想いが満たされちゃったから猫の魔力は働かなく
 なったのよ、きっと。あれからパパとはママに内緒でしょっちゅう
 メールしてるの。ラジオの評価をすぐに、それも毎日するリスナー
 なんてあたしくらいなものよって言ってるんだけどね。最近パパ
 自分の好みに走り過ぎてる嫌いがあるのよ。もっと柔軟性を持って
 番組作りをして行かないと、飽きられちゃうと思わない?」

 琴美は笑う時もふざける時も、ちゃんと瞳が主張するようになっていた。
 魂のなかった状態だったのに、今は見違えるように生き生きしている。
 俺は心の中で琴美の父親に軽く嫉妬を覚えた。
 結局こいつを元気に出来たのはこいつの親父だったのかって…。

「何?何か変な顔してるよ?」

「別に。変な顔は生まれつき」

 俺は拗ねて答えた。でも琴美は俺の気持ちなんか気にしてない。
部屋を眺め回して楽しそうに喋り続けた。

「ねぇねぇ、この部屋ってもっと広く感じてたんだけど、六畳だったんだね」

「広く感じたのは猫だったからだろ?悪かったな、狭くって」

「ううん、わー、このベッド懐かしー。良くこの上でコロコロ転がしてくれたよね」

「こ、こら、そんなとこ行くんじゃない。こら、寝そべるなって!」

「何でー?あ、この下、この下に変なもの隠してるからでしょー」

「…何でそんな事おまえ知ってんだよ」

「猫の時に見ちゃったんだもん♪」

「見るなよ!こら、出すなって!」

「きゃ〜〜、こんなもの見るんだ〜〜」

「や・め・ろ!俺が壊れるからやめろ!」

「壊れるって?」

「言葉通りだ、あほっ!」

 あぁ…、ちくしょ…。
 こいつは、猫の時の方が断然良かった。扱いやすかった。 
 女は何てやっかいなんだ。人の気も知らないで…。

「あたしね、高倉君が猫でなくてもいつでも抱きしめてくれるって
 分かったから、きっともう猫にはならなくなったんだと思うよ」

 愛くるしい金茶の瞳で琴美が言う。

「それなら…もうならなくても許してやるよ」

 俺は俺に出来る精一杯の強がりでそう言った。

 すると困る俺を尻目に、琴美はごろにゃんと俺の膝に甘えて来た。


      〜終〜