音なき言霊 ――『鍋島化け猫騒動』異聞――
朧豆腐
(前編)

 その藪から出ようとした時、猫は足を止めた。何かがやってくる気配を感じる 。同じ鳥獣の類(たぐい)ではない。暗闇の向こうから足音が聞こえてきた時、 それが人間(ひと)の気配だと気づいた。しかし、珍しい。江戸の街から少しば かり離れているだけだが、人気のほとんどない森の中。まして日の落ちた今頃と なっては、よほどの事がない限り人間の訪れる事はない。
 猫はじっと息を潜め、藪の向こうを凝視する。ほとんど待つ事なく、暗闇の向 こうから人間の影が現れた。一人ではない。一瞥しただけで、十人以上はいるだ ろう。いずれも黒ずくめの装束の彼らは、覆面をしているため顔が分からない。
「もうそろそろ参られる頃だな」
 黒装束の一人が、言葉を紡ぐ。何ら構えを取っていないにも関わらずその姿勢 には一片の隙もなく、他の黒装束と比べて威厳に似たものを感じさせる。おそら く彼がこの得体の知れない集団を束ねる頭(かしら)なのだろう、と猫は察した 。
「道に迷われている、という事はありませぬでしょうか?」
「ないとは言いきれぬ。が、もう少し様子を見た方が良かろう。事は、お家の存 亡にも関わる大事。起こった以上は、なおさら我らのような者が迂闊な動きを見 せるべきではない」
「むっ!?お館、音が」
 黒装束の一人が言った通り、何か堅いものを打つ音が、漆黒の帳の奥より聞こ えてきた。
「間違いあるまい。こちらからも、音を返すのだ」
 『お館』と呼ばれた黒装束の頭に命じられ、音を捉えた黒装束は、懐から木で できた二枚の板を取り出す。それぞれの板を両手で持ち直し、互いを合わせるよ うに叩く。すると、最初に聞こえてきた音と同じ音が鳴った。音が消えると、ま た最初と同じ方向から音が鳴る。それに応じて、黒装束がまた木の板を叩く。そ んな音の往来が、幾度か不規則に繰り返された。
「灯りを」
 お館の言葉にまた別の黒装束が、小さな行燈に似た道具を用意し火を灯す。暗 闇の中で、ほのかに浮かぶ小さな灯り。猫の耳が、その灯りへ向かってやってく る足音を拾う。そして、猫の目は、新たに現れた影を視界へ収めた。
 人間の男だ。黒装束の者たちとは身なりがまるで違うし、覆面もしていない。 髷を結った頭、腰に差した長い得物から、彼が『武士』と呼ばれる人種である事 を、猫は認識する。それから、武士が発する生々しい匂いを、犬にこそ劣るもの の人間よりはるかに優れた猫の嗅覚は確かに嗅ぎ取った。覚えのある匂いだ。こ れと極めてよく似た匂いを、猫は、野鼠などを狩る時によく嗅いでいた。
「お待ちしておりました」
 やってきた武士へ向かって、お館が恭しく頭を下げる。そんなお館に、武士は 軽く頷いただけだった。灯りに照らされた顔は、若いがひどく疲れやつれている 。その顔を捉えた猫の瞳孔が、少しだけ大きく開いた。
「お屋敷の様子は……いかがなっておる?」
 幾ばくかの時が流れた後、武士が、重そうに口を開く。
「お命は取り留めましたが、お言葉も満足に口にはできぬご様子。長くはありま すまい」
 それに応えるお館の言葉は、醒めているというより冷えているという表現が近 い口調だった。風が吹く。水が流れる。石が転がりぶつかる。それらに似た音の ように、猫の耳には聞こえた。
「奥方様は?」
「残念ながら」
「……そうか」
 首を横へ振るお館を見て、武士が漆黒の天井を仰ぐ。拳を握る手が震えている 。
「何故、あの場へ参られてしまったのか。そうすれば、あの方だけを楽にしてさ しあげたというのに……」
 その場にいる誰に語りかけるでもない武士の言葉に、猫は、お館の言葉とは正 反対の、煮えたぎるような感情の滾りを感じた。
「小森(こもり)様」
 天を仰ぎなおも耐えているように見える武士へ、お館が声をかけた。
「もはや済んだ事でございます。多少不測の事態があったにせよ、お役目を無事 果たされた事に変わりはありません。あとは大殿と我らにて、全ての『始末』を 行いますので、ご安心くださいませ」
「ご公儀(こうぎ)には、いかな申し開きをするつもりか?」
「ご乱心の上の刃傷沙汰、という事になりましょうな」
「左様か」
「やむを得ぬ事にございましょう」
 お館と言葉を交わしている武士の背へ、二人の黒装束が足音を立てないように 廻る。その様子を見守り続ける猫。黒装束二人の手に、白刃が握られる。武士に 気づいた気配は窺えない。その瞬間、彼らは動いた。
「うぐっ!?」
 二人の黒装束に背中から飛びかかられた武士が、異様な呻きを上げてよろめい た。そこへ左右にいた他の黒装束が、次々と刃を抜き、武士へ向かって覆い被さ るように飛びかかっていく。
 重みある物体の地面へ崩れ落ちる音が聞こえた。黒装束が、一人ずつその場か ら離れる。黒装束の囲みが解けた時、あの武士が、一人言葉もなく土の上で横た わっていた。すでに息はなく、目にも光のないのが、一目で分かる。
「よし。あとは埋めて引き上げるぞ」
 お館のその言葉と、ほとんど同時だった。何故かは分からない。気づけば、猫 の足は動いていた。動きにあわせて、藪から草と擦れあう音が暗闇を伝っていく 。黒装束の一団が、一斉に殺気立った。触れたなら一瞬にして斬られてしまいそ うな、刃を彷彿させる気配。猫の身体が、怯えで震えた。
 黒装束全員の目が、藪の方を向いている。誰一人言葉を発しない。しかし、音 がどこから聞こえてきたか、間違いなく分かっている。お館が顎で藪を指すと、 二人ほど刃を構え近づいていく。刃が、武士から吸ったであろう血の匂いを放っ ている。猫の鼻が最初に武士から嗅ぎ取った匂いと、同じものだった。

 ――にゃあ――

 猫は、咄嗟に一声鳴いた。逃れがたい危険を察した本能のなせる業だったのか もしれない。
「猫の声です。人のつくる声とは違うと思われますが、いかがします?」
 藪へ近づいていた黒装束の一人が、お館へ指示を仰ぐ。
「確かに、真(まこと)の猫の声だな。気にするな。それより、ここにいつまで も留まっているわけにもいかぬ。速やかに穴を掘るのだ」
「はっ」
 命を受けた黒装束たちが、すぐさま穴掘りへとりかかった。すでに誰一人、藪 の方を見ていない。効率的に進む作業で、武士の傍らには、たちまち大きな穴が できあがっていく。
「それくらいでよい。急ぎ埋めよ」
 その場で穴掘りをやめた黒装束たちが、今度は物言わぬ屍と化した武士の周り へ集まる。そのまま亡骸を担ぎ上げようとした彼らの動きが、一斉に止まった。 その様子を訝しげに眺めていた猫の瞳孔も、大きく開いた。
 武士が、動き出した。地面に手をつき、首を上げていく。最初、膝立ちとなり 、しばらく経ってから、ゆっくりと立ち上がった。緩慢極まりない動作だが、お 館も他の黒装束も、誰一人それを止めようとしない。すでに息が絶えたはずの男 が動いた異様な光景に、誰もが驚愕のあまりに動けないでいる。
 仁王立ちとなった武士は、けれども、それきり微動だにしない。ただ、白い目 で一つの方向だけを見つめている。血の気を失った唇が、ゆっくりと動く。だが 、そこから漏れるものは、何一つ音にならない。頬を伝う一筋の輝き。それが涙 だとお館が気づいた時、武士の身体は、糸が切れたように大地へ再び崩れ落ちた 。
「埋めよ」
 手下の黒装束が誰一人身動きする事も、言葉を発する事もできない中、お館は 、感情を一切殺した口調で命令を下す。
「しかし……」
「もう動かぬ。たった今、この方の身体に残っていたお命は、全て炎となって燃 え尽きたのだ」
 それ以上の反駁を許さない色が、お館の口調に滲んでいた。それを感じた黒装 束たちが、武士の身体を担ぎ上げる。確かに、動く気配はもう微塵もない。それ からの作業は、実に速やかだった。穴まで運び、下ろし、上から土を被せていく 。あっという間に、武士の顔も身体も全く見えなくなった。
「終わりました」
 手下の言葉に、お館は無言で頷くと、一歩前へ踏み出した。その視線が、武士 の亡骸が埋められた跡へ注がれる。
「お役目ご苦労にございました」
 軽く頭を下げたお館の言葉に、ほんの微かだが、初めて感情らしき色が滲み出 していた。


 猫が、藪の中から這い出してきた。暗闇の中を、風が駆けていく。すでに、黒 装束の一団は影も形もない。土が掘られ埋め直されたその上に、猫は、小走りで 近づいた。
 匂いが、土の中から昇り立つ。血生臭い匂い。それに、見覚えのある人物の匂 い。その人物が、江戸の街で野良犬に追われ怪我した自分を助けてくれた。広く 物々しい建物へ連れていかれ、傷が癒えるまで世話をしてくれた。その後、時々 その建物を覗くと、小魚などを与えてくれた事もある。
 今はまだ匂いが残っているが、数日も経てばすっかり消え去っているだろう。 全ての血肉は、いずれ等しく塵となり、土へと還る。それを本能で知っているは ずなのに、猫には、土の下の武士がまだ生きている気がしてならない。
 最期に立ち上がったあの時、武士の白い眼(まなこ)は、間違いなく藪の中に 潜んでいた自分を見ていた。光などかけらも宿っていないのに、その視線に籠め られた圧倒的な不可視の力に束縛された。目を逸らす事も叶わなかった自分に向 かって、武士は、何かを語りかけてきた。
 一つ一つ、猫の目に焼き付けられていった口の動き。音なき言霊。その意味を 理解する事はできなかったが、猫の何かに深く染みついた。猫が、また鳴く。鳴 き声が、どこか暗い響きを帯びている。


 三月三日深更。春を迎えたというのに、薄ら寒いものを感じさせる夜だった。


(中編)

 何が起こったのか分からなかった。手足から感覚が失われ、視界が幾重にも変 転していく。夢幻の世界へ落ちていくのだと思った。自分の身体が畳の上へ倒れ たのだと分かった時、初めて現実へと舞い戻る事ができた。
 一瞬の空白。それから全身を駆け巡り吼える、『激痛』という名の凶獣。叫び 声を上げようとしたが、喉は、すでに力を失っていた。唯一己の意志で動かせる のは、二つの眼だけ。その眼を、可能な限り上へ向ける。見上げたそこには、男 が一人、血塗れの刀を握り立っている。

 ――ち、ょ、う、ご、ろ、う――

 男の名を呼ぼうと試みるものの、口から出てくるものは微かな息吹ばかり。傷 はどうやら、己の生命(いのち)の深いところにまで達しているようだ。そんな 自分を見つめる男の双眸は、氷の冷たさに微かな哀しみの混ざった光を湛えてい た。いつも奥に温かいものを秘めていたあの双眸は、偽りだったのか。
「今、楽にして差し上げますぞ」
 一切の感情を押し殺した声で、男は、言葉を紡ぐ。その手が、緩やかな流れで 刀を振りかぶる。
「高房(たかふさ)様、いかがされました?妙な音が聞こえましたが」
 襖の向こうから、よく知っている声が聞こえた。男の表情に、動揺が走る。殺 意の籠もった視線が、横へ動いた。その射抜いた方向は、紛れもなく襖の方。
 凍てついた荒波が、全身を襲った。

 ――あ、け、る、な――

 声にならぬ叫びが届くはずもなく、襖が音を立てて開く。
「高房さ……ひっ!!そ、そなたはっ!?」
 襖を開いた女が、床に倒れた自分を見て驚愕し、次に男を見て恐怖の叫びをあ げようとした。そんな女の方へ、男の足が動く。
「だ、誰かぁ!!た、高房様が……あぐあっ!!」
 一陣の鋭い刃風に、女の身体が、深紅へ染まりながら崩れ落ちた。倒れた女の 胸へ、男は刀を振り下ろし、容赦なく抉り、貫く。女は、一瞬全身を激しく震わ せたが、それきり指一本動かなくなった。
 その間、自分は何もできなかった。

 ――あ、あ、あ……――

 瞬きを忘れ、光を失った女の目が、まっすぐ自分の方を見つめている。
 決して仲の良い妻ではなかった。派手な衝突こそなかったものの、お互いの間 に漂う空気はいつも冷えていた。おそらく、愛してなどいなかっただろう。本人 の意など汲まれる事なく結びつけられた夫婦。自分のせいで、どれほど肩身の狭 い思いをさせただろうか。そんな彼女の心を思えば、少なからず同情を覚えずに はいられない。先に裏切り彼女の心を傷つけたのは、自分なのだ。とはいえ、同 情はいつまでも同情でしかなく、愛情の入り込む余地はほとんどなかった。
 それが今、物言わぬ屍となった女を見て、胸が打ち震えている。憐憫を覚えた だけなのか。それとも、妻への想いらしきものが心のどこかに宿っていたのか。 いかなる理由であろうと、二度と光の宿る事なき女の双眸を見つめ、胸の内で嵐 の荒れ狂う自分が、間違いなくここにいる。
 心の痛みがどれだけ耐えがたくても、今の自分には、床へただ這いつくばる事 しかできないのか。

 否。
 もう一つ、できる事がある。

 男へ向けた視線に、あらん限りの憤怒と憎悪を籠める。それは決して、男の姿 を捉えて離さない。

 ――おぬし、だけは、わかってくれる、と、おもって、いた。なの、に――

 こちらの視線に気づいたようだ。妻を刺して何故か呆然としていた男の顔から 、血の気が引いていく。刀を握る手が、震えて止まらない。それは、数度ほどの 瞬きにも満たなかったのかもしれない。けれども対峙している間、時間(とき) の流れは、数十年にも数百年にも感じられた。
 男が、先に耐えきれなくなった。踵を返すと、一気に襖の外へと飛び出した。

 ――長五郎!!―

 もう一度、その名を呼ぶ。だが、男の姿は、すでにない。
 静寂に満ちた夜の闇だけが、どこまでも果てしなく広がっている――


 瞼を開けると、天井にはまだ昼の明るさがあった。日の光が、傍らの障子に張 られた紙の白さを一層際立たせている。そして、茵(しとね)に横たわる己が身 を自覚し、今まで見ていた光景が夢だったのだと、高房は気づく。
 夢から醒めた。けれども、現実へ戻ったという実感が湧かない。一日過ぎるた びに、自分は、現実を失っていく。気のせいではない。自分を現世へと繋ぎ止め る生命の綱は、時を経るほど糸のように細くなっても、太く強い綱へ戻る事はな い。茵から起きあがれなくなってから数えていた月日も、三十を過ぎる頃には数 える気力を失っていた。あれから春が過ぎ、夏が過ぎて、今は秋も大分深まって いる。おそらく、半年ぐらいは経っているだろうか。
 高房の口から、不意に呻き声が挙がった。微かな身じろぎが、激痛を彼にもた らした。胸から腹にかけて流れるような裂傷の跡。すでに癒えているが、幻の痛 みが時折襲ってくるのだ。幻のはずなのにおそろしく生々しいその痛みが、まだ 自分はこの世で生き長らえているのだと教えてくれる。何という皮肉か、と高房 は思わずにいられない。けれども、この先それを感じる時間も、それほど残って はいないだろう。あの男の剣は、間違いなく肉体以上に己が魂魄(こんぱく)の 斬られてはならぬところを断ち斬った。
「……ちょう……ご……ろう……」
 呻きの中で、高房は、己を斬った男の名を呟く。
 小森 長五郎。幼い頃より、己の傍らで近侍(きんじ)してきた小姓(こしょ う)。年は自分より三つばかり上だが、主従というよりも、友として、兄弟とし て、ともに育ち生きてきた男。剣の腕前は相当のもので、高房の剣の師匠でもあ った。
 稽古となると、反吐が出てもなお叩きのめされる事など日常茶飯事だった。そ れを高房が嫌だと思った事は、一度もない。怒る時であっても、長五郎は、いつ も本気で接してくれた。物心ついた頃から内にも外にも心を許せる味方のいなか った高房にとって、長五郎は、かけがえのない存在だった。今にして思えば、そ れこそが長五郎の背後にいた者の謀(はかりごと)であり、万が一の場合の備え であったのかもしれない。
 あの夢は、ただの幻ではない。今でも意識をあの夜へ向ければ、瞼を閉じずと もつい昨日のようにまざまざと蘇る。

『……高房公。なんとおっしゃいました?』
『仏門へ入る。儂は、当主の座を退き、この屋敷を出る』
『……おそれながら、お戯れにしては、あまりにも笑えませぬ』
『無論、戯れなどではない。戯れ言で、このような事を語りはせぬ』
『お待ちくださいませ。では、龍造寺(りゅうぞうじ)の家は、いかがなされる おつもりにございますか?お世継ぎも、まだございませぬのに』
『案ずる事はあるまい。隠居の身とはいえ、父上は、まだご健在であらせられる 。弟たちもおる。儂がおらずとも、龍造寺の血が絶える事はあるまい』
『高房公……』
『あるいは、あれとの子を呼び戻し世継ぎと――』
『高房公!!』
『分かっておるわ。それこそ、戯れよ』
『おやめくだされ。仮にも、さような事を奥方様がお聞きになられたなら……』
『確かに、戯れが過ぎた。それは詫びよう。儂とて、あれにこれ以上むごい仕打 ちをしたいわけではない』
『では、出家のお話もなにとぞ思いとどまりいただきますよう――』
『それとこれとは、また別の話だ』
『何ゆえ?』
『体調思わしくなく、当主としての務めを十分果たせなくなってきたためよ』
『それは、ご公儀や国元へお伝えする理由にござるか?』
『さすが、長五郎よな。よく分かっておる。長年儂とともにいたお主なら薄々勘 づいておろうから、この際伝えておく。頭を丸めた後、佐賀(さが)へは戻らぬ 。江戸近くのどこかの寺でも入ろうかのう』
『何と』
『我が故郷に、未練がないわけではない。されど、この先二度と足を踏み入れる つもりはない』
『それほどまでに……それほどまでに、鍋島(なべしま)公をお怨み申しておい でですか?』
『長五郎よ。それこそ、この屋敷では申してはならぬ戯れではないのか?』
『それがしにとって今大事なのは、高房公のお気持ちでござる!!』
『長五郎……』
『なにとぞ、それがしにはご本心を打ち明けてくださいませぬか』
『怨みか。確かに父上と同じく、加賀守(かがのかみ)に国を奪われた、と思っ た事もかつてはあった。されど、加賀守こそが祖父(じい)さま亡き後の龍造寺 家を守ってきたのだ、という事が今はよく分かる。子として口にするのも憚(は ばか)られるが、父上のご器量では龍造寺が肥前(ひぜん)の地にて生き残る事 など、到底叶わなかったであろう。現在(いま)の肥前佐賀藩三十五万七千石、 真(まこと)の主が鍋島である事を認めるのも吝(やぶさ)かではない』
『されど、鍋島公は、あくまでも龍造寺家の名代にござる。佐賀の政(まつりご と)を滞りなく行う事ができるのも、鍋島公の後ろに高房公のご威光があればこ そ』
『威光を放っておるのは、儂ではなく龍造寺の名であろう。龍造寺家の当主が儂 でなければならぬ、という理由はない』
『……そのような情けなき事を申されますな。高房公らしくございませぬ』
『儂、らしくか。長五郎、お主は今、儂が儂らしく生きていると思うか?』
『それは――』
『佐賀の政に儂の関わる余地はなく、ご公儀へお仕えしようにも外様(とざま) の、それも実権なき身では大した務めもなく、ただ、この江戸屋敷にて国元から 送られてくる料米(りょうまい)で暮らすのみ。これが、儂の『生きている』と いう証なのか?』
『………………』
『必要とされているのは、あくまで龍造寺という家。龍造寺 高房という男が、 佐賀藩にとって欠かせぬわけではない。佐賀藩の中には、儂が己の力を発揮する ための居場所がどこにもないのだ』
『では、仏門にご自身の居場所がある。高房公には、そうお考え遊ばされるので ございますか?』
『さてな。むしろ、居場所はより一層なかろうな。龍造寺を捨てた儂に、いかほ どの価値があるか見極める事すらできぬ。されど、少なくとも今のしがらみから は解き放たれよう。龍造寺の名からも、佐賀の地からも。今ある飾りを全て捨て 、単なる一人の人間として、儂は、己の居場所を見つけてみたい。あるいはつく ってみたい。そこは、おそろしくひどい場所なのかもしれぬ。後悔する事も、き っとあろう。それでも、何も為さずに後悔するよりは、ずっと良いと思う』
『ですが、おそれながらいささかご勝手が過ぎませぬか?高房公ご自身がおっし ゃられた通り、龍造寺の名は、佐賀の政には欠かせぬもの。御身(おんみ)が退 かれあそばされても、龍造寺家のご当主には、ご一門のどなたかがお就きになら ねばなりませぬ。すなわち、その方もまた、高房公と同じしがらみを抱えて一生 を送らねばならぬのではありませぬか!!』
『ならば、お主は、儂がこのまま己の一切を殺して一生を終えれば全てがうまく 治まる、と申すのだな?』
『い、いえ。左様な事は』
『儂が出家する事で、父や弟たちはもとより、お主や加賀守らにも迷惑をかける 事は重々分かっておる。儂のような男に本気で接し尽くしてくれてきたお主には 済まぬ、とも思う。されど、このまま当主の座にあっては、儂自身の心がやがて 朽ち果てる。自分でも分かるのだ。このまま、座して死を待つ事に耐えられぬ自 分が、この胸の中で暴れ、狂おうとしているのが』
『高房公。お気をしっかりとお持ちください!!』
『このままでは、よからぬ行いへ到ってしまうかもしれん。分かってくれ、長五 郎。たとえ、この先が地獄であろうと、儂は、己の力で自分の生きる道を切り開 きたい。龍造寺である事を全て捨てよう。お主らへ助けを求める事も、この先一 切するつもりはない』
『高房公……』
『だから……これが最後だ。出家のための手伝いをしてくれ』

 痛みが、また走った。恐ろしい技だった。気づいた時には、見事に斬られてい たのだ。そして、恐ろしい男だった。自分の頼みを聞いてしばし逡巡していたの かと思いきや、座したまま、あの居合を放ってきた。殺気を感じる間もなかった 。真正面で対峙するように座りながら、その動きを捉える事ができなかった。  その言葉を、聞く事ができただけだった。

『お許しくだされ』

 長五郎から、何年も剣を学んできた。敵わぬまでも、その剣筋をある程度は読 めると思っていた。あんな凄まじい抜刀の技を、あの瞬間まで見た事はない。長 五郎は、己の正体とともにその腕も隠していたのか。
 長五郎だけではない。こうして身動きすらままならなくなった身になってなお 、この屋敷にいる全ての者が、表向きは自分へ敬意を表している。けれども、誰 一人本心より語りかけてくる者はいない。あの夜の後長五郎はどうなったのか、 その姿を見ていないのか、誰も語ろうとしない。それどころか、小森 長五郎と いう男は最初からこの屋敷にいなかった、といわんばかりに皆振る舞っている。
 結局、自分は欺かれ続けていたのだろう。何年も、挙動の一つ一つを影から見 張られていたのだろう。実権こそ失われたものの、龍造寺家の当主は、鍋島が佐 賀を治めるために欠かせない御輿だ。その御輿が勝手な振る舞いに及ばないか。 もしその気配があったなら、あの長五郎のように、しかるべき処置を取るよう命 じられていたに違いない。
 ようやく、痛みが治まってきた。疲労の色濃い高房の目が、ただ天井を凝視す る。屋敷の者たちは近くこの身を佐賀へ移すつもりだ、と聞いているが、それま では保たないだろう。残り少ない生命が、刻一刻と削られていく。それが、感覚 として分かる。もっとも、江戸であろうが佐賀であろうが、今となってはどうで もいい事。国元の父や一族の者たちには迷惑をかけた、と少しばかり思うだけだ 。
 物心ついた頃には、病弱の父に代わり当主の座へと据えられた。幼少で政務の 何たるかなど分からぬ自分の名代として、加賀守が政の一切を執り仕切った。自 分は、加賀守に担がれる御輿(みこし)であり、長じてからも御輿であり続ける 事だけを求められた。為政者としての資質も定かに見えぬ自分より、豊臣 秀吉 (とよとみ ひでよし)、徳川 家康(とくがわ いえやす)といった天下人か らも認められた見識・力量を備える加賀守に政を任せた方が、安心できる。そん な一門家臣の思いは、自分にもよく分かる。それはまた、誰一人為政者としての 自分の器と才に期待していない、という事も意味していた。
 他人に全て飾り付けられる御輿。己の意志と関係なく、他人に担がれあらかじ め決まった道をただ進んでいく。そうして終えるかもしれない己の生を思った時 、高房は耐えられなくなった。政に関われなくてもよい。今より、貧しく苦しく てもよい。いかなる末路を迎えようと、一瞬でも己の持つ星が輝きを放てたなら 、それだけでいいではないか。
 そんなささやかに思える願いも、しかし、自分を取り巻く者たちから見れば許 し難い事だったのだろう。御輿は、御輿である事を勝手にやめる事はできない。 そんな政の非情さを、身を持って教えられた。
 誰を憎めばよい。
 高房の衰弱した心の臓を、やりきれない無念の刃が深く抉る。
 佐賀の実権を一手に掌握した加賀守か。加賀守に政を委ねるしかなかった凡庸 で病弱な父か。己に御輿である事を強いた一門家臣や領民か。己を欺き続けた屋 敷の者どもか。この身を斬った長五郎か。あるいは、そんな周囲の思惑に破れ、 運命を克服できなかった不甲斐ない己自身か。
 憎悪の渦に呑み込まれた思考とともに、高房の意識は、いつの間にか暗闇の底 へと落ちていった。


 ――にゃあ――

 暗闇の隙間から、その声が滑り込んできた。
 高房の瞼が、大きく開かれる。部屋の中がどことなく薄暗い。夕暮れ時なのだ ろう。障子の紙が赤く染まっている。
 障子の前へ座す小さな影に気づいた。いつから、そこにいたのか。開かれた猫 の瞳孔は、真っ直ぐに高房へと向けられていた。
 お前は。
 高房の唇が、音なき呟きを漏らす。
 その姿に見覚えがあった。長五郎が、いつぞやに街で拾ってきた猫だ。どこに でもいるような野良猫だった。怪我をしていたらしいそれを、何故かよく手当し 世話をした。自分でもどうしてそんな事をしたかよく分からないがほっとけなか った、と長五郎自身語った事がある。そう語った時のあの男の顔は、芯からの暖 かさが滲み出していた。
 そうだった。高房は、胸の内に震えを覚える。儂の知っている長五郎とは、そ ういう男であった。

 ――…………う……――

 今の声は。
 高房は、咄嗟に起きあがろうとした。身体に、もう少し力が残っていれば起き あがれたかもしれない。半年ぶりに、全身を熱い血が駆け巡るのを感じた。
 高房が、さらに猫の目を強く見つめる。猫は、微塵も視線を逸らそうとしない 。瞳孔の奥。その中に、一つの影が浮かぶ。影の輪郭が明瞭になった時、そこに は、長年ともに生きてきた男の姿があった。
 男の目は白かった。白い目で、男もまた、高房の方を真正面から見つめている 。
 しばし、全ての時が止まったかのようだった。止まった時を再び動かそうとい うが如く、男の唇が、ゆっくりと開いた。

 ――……た……か……ふ……さ……こ……う……――

 一言一言、音にならない言葉が、高房の心に染みていく。その胸を、無形の巨 大な塊がこみ上げる。何か語りかけたい。けれども、こみ上げたものが詰まって 、音なき声すら返せない。
 男の白い目から、一筋の涙が流れた。それから、崩れていく男の姿。猫の目の 奥に何者の姿も認められなくなった時、高房の視界は滲んだ。頬を熱いものが流 れて止まらない。

 ――長五郎――

 すでに影まで失われた男を、高房は呼ぶ。言葉が、微かな音にすらならない。 そう分かっていても、その名を叫ばずにはいられなかった。

 ――儂もお主も、定められた道を生き、そのために死ぬ事しかできなかった。 次に揃って生まれ変わった時には、己の意志で己の道を選び、ともに笑いながら 生きようぞ――

 茵の上で静かに慟哭する部屋の主の姿を、猫は、じっと見守り続けていた。


 慶長十二(一六〇七)年九月六日。
 龍造寺 高房、佐賀藩江戸藩邸にて没。享年二十二。


(後編)

「政家公がお亡くなりあそばされて、もう二月(ふたつき)経ちましたか」
 藤兵衛(とうべえ)はそう呟いてから、茶室の主が点てた茶を一口啜った。部 屋は狭く、飾る調度品も華美とは言い難い。けれども、部屋中を覆う気品は高い 。その様は、そのまま主の人となりを物語っている。
「儂や信濃守(しなののかみ)を最期まで恨まれながら逝かれたそうよ。まあ、 無理もない」
「しかし、大殿(おおとの)のお力なくば今の佐賀藩がなかったであろう事は、 天下の誰しもが認める事実にございましょう。それを、お怨み申されるなど―― 」
 見当違いも甚だしい、と言い切りたかったができなかった。仮にも、この茶室 の主である大殿をはじめ、佐賀領内の誰もがかつて『ご主君』と仰いだ人物なの だ。それが形の上だけであっても、礼を失するような言葉を吐いてよい存在では なかった。
「藤兵衛よ。政家公は、暗愚のお方では決してない。我らと変わらぬ、普通のお 人であらせられた。が、それゆえに龍造寺家のご当主というお立場は、さぞお辛 いものがあったのであろう。まして、お父上が偉大な方であらせられただけにな 」
「はい」
「さりとて、儂は、己のやってきた事を後悔しておるわけではない。己の手を汚 してでも為さねばならぬ事もある。政に携わる者の宿命といってもよい。されど 、それが己の行いを忘れてよい理由(わけ)となるわけではない」
 天井を見上げる大殿の眼差しには、疲労より虚無の気配が漂っている。藤兵衛 は、何と声をかけていいのか分からない。
「七十年。よくぞ、ここまで生き長らえた」
 大殿の口から漏れた言葉にも、やはり虚無の響きしかなかった。
「気づけば、あの方の御年をはるかに越えてしもうたわ」
 『あの方』と大殿が言う人物を、藤兵衛は、一人しか知らない。
 龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)。
 先々代の龍造寺家の当主であり、二ヶ月前に逝去した龍造寺 政家の父にあた る。かつて、肥前の一国人(こくじん)に過ぎなかった龍造寺氏を大友氏、島津 氏と並ぶ戦国九州の一方の雄にのし上げ、『肥前の熊』と畏れられた稀代の傑物 だった。最盛期には、肥前はもとより、肥後(ひご)、筑後(ちくご)、筑前( ちくぜん)、豊前(ぶぜん)から海を越えて壱岐(いき)、対馬(つしま)にま で勢力を拡げ、『五国二島(ごこくにとう)の太守(たいしゅ)』と仰がれた事 もある。
「あの頃、儂は、まだ鍋島飛騨守信生(なべしまひだのかみのぶなり)であった 」
 虚しさ以外になかった大殿の言葉が、初めて熱を帯びる。藤兵衛は、じっと耳 を傾けたまま黙して語らない。
 鍋島 信生は、龍造寺家の縁戚に連なる重臣で、隆信の義弟にあたる存在だっ た。しかし、自分が隆信に重用されるのは血縁・家格ではなく『龍造寺家中第一 』と目された力量だという事が、信生には分かっていた。事実、元亀元(一五七 〇)年の今山(いまやま)合戦をはじめ多くの局面において隆信の期待を裏切る 事なく、その卓越した才腕を遺憾なく発揮していく。親族というだけで信頼が勝 ち取れるほど隆信は甘い主君ではなく、家柄だけで世に通用するというような時 代でもなかった。
「あの頃の儂にとって、隆信公をお助けしともに戦う事は、何よりの生き甲斐で あり喜びであった。剛毅であり、英明であり、何よりも底知れぬ器のお方であら せられた。まだ、龍造寺家が佐賀のわずかな領地を保つに過ぎなかった頃より、 あの方は天下へ雄飛せんとする大志を抱かれておいでだったのだ。あの方の進む 先には、常に険しくとも輝かしい道が開かれていた」
 龍造寺が大友、島津と九州を三分するほどの勢いを示した頃、すでに天下のお よそ半分は、織田 信長(おだ のぶなが)とその跡を襲った豊臣 秀吉の掌中 にあった。かつて、龍造寺が強力な同盟者として頼りにしていた中国の雄毛利( もうり)氏ですら、秀吉の勢威の前に膝を屈していた。
 だが、そんな状況にあってなお、隆信は、天下への望みを捨てていなかった。 むしろ、秀吉を討ちその勢いで天下を奪(と)ろうとさえ考えるほど、その覇気 には微塵の衰えも窺えなかった。時勢は秀吉にあり、と見た自分は、龍造寺の家 名と領国を守るために豊臣方への臣従を考えていたというのに。
 凡人には自ら破滅を招く無謀とも単なる夢物語に過ぎないとも思える秀吉への 挑戦も、隆信だったら可能なのではないか。そう思わせるだけの何かを、隆信は 備えていた。
 だから、信生には、あの時の隆信を止める事ができなかった。
「天正十二(一五八四)年、沖田畷(おきたなわて)――」
 大殿の呟きに、藤兵衛の肩が、微かながら震える。
 天正十二年、龍造寺に反旗を翻した肥前島原(しまばら)の国人有馬(ありま )氏を討つべく、隆信は、自ら大軍を率いて出陣。有馬とそれを支援する島津の 連合軍と、島原沖田畷にて激突した。しかし、圧倒的優勢な兵力を擁しながら隆 信は、島津勢の策略にかかりあえなく討ち死にを遂げてしまう。享年五十六。
「この身に変えてもお止めすべきであったのかもしれぬ。今も、そう思う事があ る。島津は、我らに引けを取らぬ戦上手。あの時の構えも、一計を案じておる気 配は何となく感じられたのだ。されど、隆信公もそれをご存じでありながら、あ えて敵陣へ斬り込んでいかれた。『ここが龍造寺の正念場。乾坤一擲の勝負を賭 ける時ぞ』と申されてな」
「左様でございましたか」
 単なる相づちではない。藤兵衛自身も、あの時沖田畷の戦陣に身を置いていた 。何故、ああも無謀と思われるような突撃の命が下ったのか。ようやく、分かっ た気がする。隆信は、敵の策略を逆手に取って一気に殲滅すべく、自ら虎口へと 飛び込んでいったのだろう。けれども、天は、非情にも隆信を見放した。
「儂も、隆信公も、豊臣を、天下を意識しすぎて焦っておったのであろうか。い ずれにせよ、確かに言える事が一つだけある」
 大殿の目が、改めて藤兵衛を見据える。澄み切った湖を彷彿させる眼差し。が 、藤兵衛は、思わず目を伏せたい衝動に駆られる。湖水のような眼光の奥に見え るのは、何一つない。まるで、虚空そのものを眺めているような気分に陥った。
 そんな藤兵衛の気持ちを知ってか知らずか、大殿は、ゆっくりと口を開く。
「あの時、この信生もまた、隆信公とともに沖田畷で朽ち果てたのだ」
 隆信亡き後、沖田畷より敗走する軍勢をまとめ龍造寺家を滅亡の危機から救っ たのは、信生だった。だが、わずか数年で急激に膨張し西九州を覆うまでになっ た勢力圏は、それゆえにまだ支配基盤も十分に整っていなかった。五国二島に及 んでいたはずの龍造寺の版図は、隆信が倒れるや否や音を立てて崩壊していった 。
 隆信の嫡子政家は凡庸、他の一門重臣の中にも隆信や信生に匹敵する器量の主 はいない。自然と、龍造寺家の命運は信生一人の双肩にかかっていく。それから の信生は、政家の補佐役、龍造寺家事実上の執政として隆信の遺した龍造寺家の 再建と存続にひたすら奔走した。大友や島津によって肥前以外の地からことごと く駆逐されてしまったものの、肥前の龍造寺領は寸分たりとも外敵に侵させる事 なく、秀吉、家康といった天下人とも渡り合い、龍造寺の家名と領国を肥前佐賀 藩三十五万七千石として存続させる事に見事成功した。

――けれども、それは大殿ご自身にとっていかほどの意味があったのか――

 隆信存命の頃、信生が自らの歩む道の先に見ていたのは、肥前一国の大名とし て生き長らえた龍造寺家ではなかったのだろう。九州、いや、天下の覇者となっ た龍造寺家、そして、天下人となった隆信とその執政を務める己自身だったのか もしれない。その夢を与えてくれた隆信が、志半ばで倒れた。信生は、確かに智 勇兼備の名将だが、隆信という傑出した主の片腕であってこそ、その資質は最も 開花する。隆信に替わり龍造寺家の頂点へ立っても、自ら先頭に立ち天下へ向か って雄飛する器でない。その事実は、他ならぬ信生自身がよく理解していた。し かし、新当主の政家に、鍋島 信生という逸材を使いこなせるだけの器量はなか った。

――隆信公がお亡くなりになられてから二十余年、いかなるお気持ちで過ごして こられたのであろう――

 藤兵衛は、もう一度大殿の言葉を噛み締める。
 鍋島飛騨守信生は、主君隆信とともに沖田畷で死んだ。隆信が見せた天下への 大志を胸に抱いて。鍋島加賀守直茂(なべしまかがのかみなおしげ)と名を改め てからの人生は、余生とすら呼べなかったのだろうか。無惨に崩れ去った隆信が 夢の後始末。それ以上の意味は、なかったのだろうか。現佐賀藩主鍋島信濃守勝 茂(なべしましなののかみかつしげ)の父にして『大殿』という尊称で呼ばれる この人物が胸に抱く深い闇を、一体誰が理解しているというのだろう。
「ところで、藤兵衛。公(おおやけ)には、高房公のお世継ぎがいらっしゃらな い事となっておる」
 大殿――直茂が、にわかに話題を切り替えた。藤兵衛の表情から、瞬く間に血 の気が引いていく。
 政家の嫡男で龍造寺家の当主だった高房は、半年以上も前に『ご乱心の上の刃 傷沙汰を起こして自決しかけ』、その時の傷がもとで亡くなっている。今から三 ヶ月ほど前、父に先立つ事一ヶ月ほど前の事だった。その高房と『刃傷沙汰にま きこまれた』正室との間に、子供はない。しかし、正室お付の女中に手をつけ、 女中は子を宿した。己の子供と分かった瞬間、高房は女中へ暇を出したが、正室 には隠しきれなかったらしい。これが、ただでさえ冷えていた夫婦の仲に決定的 な亀裂をもたらし、あの夜へと到った。何故、正室がその場に居合わせてしまっ たのか分からない。彼女自身、意識せずに抱いていた想いがあったのだろうか。 が、それを確かめる術は永遠に失われてしまった。
 いずれにせよ、女中とその子が、どこにいるかすでに調べてはいる。その子が 男児である事も、高房ではなく名もなき武士の子として育てられている事も、分 かっている。直茂の命を貫徹するなら、この母子(おやこ)にも手をかけるべき だっただろう。しかし、藤兵衛にはどうしてもできなかった。彼ら母子だけでな く、あの夜以来誰一人手にかけたくなかった。だから、『お館』の座より身を退 いた。今は、息子に佐賀藩お抱えの忍の頭を任せ、藤兵衛は、藩領内の村の一つ をまとめる庄屋として日々を過ごしている。
 けれども、直茂からすれば己が命に背いたも同然の行為だろう。特別、高房の 子については、直茂へ報告していない。が、今の言葉から推測する限り、直茂は 、高房の子の所在を突き止めているに違いない。
 藤兵衛は、椀の中の茶を一気に飲み干した。空になった椀を畳へ置き、両手を 付いてひれ伏す。弁解の余地もない。直茂から首を打つといわれれば、黙って首 を差し出すしかなかった。
「それがしは」
「高房公にお世継ぎがいらっしゃらないとなれば、龍造寺家ご嫡流の血筋は途絶 えた事になるな」
「大殿、それがしは」
「一体、何をしておるのだ。頭を上げよ」
 おそるおそる顔を上げると、そこには、苦笑いを浮かべる直茂がいた。
「龍造寺家ご嫡流の血が失われた事は、誠に残念である。されど、それによって 佐賀藩は危機を免れたのだ」
 どうやら、高房の子を始末しなかった事に、腹を立てているわけではないよう だ。龍造寺の世継ぎとして育てられていなければ、問題ないという事なのだろう 。
「最近、化け猫とやらが城下に出没するという話があるらしいのう」
 直茂が、また話題を変える。
「そこまで聞き及んでおられましたか、されど、根も葉もなき噂。大殿のお心を 煩わす事などございませぬ」
「高房公がお亡くなりになられる間際、枕元に猫の影を見たものがおるそうだ」
「高房公の祟り、と噂している者がおると?」
「別段、不思議な事ではあるまい。世間は、我ら鍋島がお家を乗っ取ったと思っ ていよう」
 直茂自身は、もともと主家に替わり佐賀の主となる気がなかった。だが、政家 の器量を危ぶむ龍造寺家臣団、さらに秀吉、家康ら天下人の圧力によって、政家 は隠居させられ、直茂が幼い高房の後見としてさらなる実権を握る事となる。徳 川幕府が江戸に開かれた時、すでに、佐賀の大名は鍋島氏と目され、龍造寺氏は 大名と認められなくなっていた。いわば、直茂・勝茂の鍋島親子を頂点とする佐 賀藩の体制は、時代の要請だった。しかし、巷間(ちまた)が同じように見てく れるとは限らない。ことに己の意志に関わりなく当主の座から降りなくてはなら なかった政家の不満は、想像に難くなかった。
「では、高房公も政家公のお怨みを受け継いでおられた、と?」
「いや。小森 長五郎の報告にもあったが、高房公は、そのような怨嗟に囚われ るお方ではなかった。お若いながら、あの方は、もっと深く物事を見ておられた ようだ」
「ほう。ずいぶんと、高房公のご器量を高く買っておいでですな」
「あの方は、お父上よりお祖父さまに似ておられた。政家公の跡をお嗣ぎになり ご当主となられたのは、わずか五歳であらせられた。なのに、時折目をあわせる と圧倒される思いに囚われたものだ。あれは、紛れもなく隆信公の目であったわ 」
 そこまで語り、直茂は目を瞑る。
「今が乱世であったなら、隆信公にも劣らぬ武名を天下へ轟かせておられたかも しれぬ」
 が、すでに世は、戦乱の時代を過ぎていた。徳川幕府の天下は、もはや揺るぎ ようもない。このような時に、高房に出奔の気配あり、と幼少の頃から目付とし て側へ置いた長五郎が江戸より伝えてきた。泰平の世になりつつあるとはいえ、 まだ戦国の世の残り火があちこちで燻っている。事実上天下人の座から引きずり 降ろされたものの、大阪の豊臣氏は健在であり、乱世という立身出世の機会を奪 われ不平不満を抱える浪人たちも多い。そのような中では、高房にその気はなく とも龍造寺嫡流の血が、彼らに徳川への反旗を翻す名分を与えかねない。ただで さえ、公儀(幕府)は、佐賀藩のような外様大名へ警戒の念を抱いている。ここ で、高房が叛乱の首魁へと祭り上げられようものなら、即座に佐賀藩取り潰しの 名目を公儀へ与える事となるだろう。
 もはや、隆信とともに抱いた天下への志は、とうに朽ちた。それでも、隆信と ともに戦い夢を育んだこの佐賀の地まで龍造寺や鍋島以外の手に渡してしまった なら、隆信とともに戦ったあの日々は一体何だったというのか。

――もし、政家公ではなく元服した高房公が、隆信公の跡を嗣いでおられたなら ――

 けれどもその仮定の無意味さを、藤兵衛は、すぐに悟る。
 直茂とて、そのような思いへ抱かなかったわけがないだろう。が、佐賀の命運 を一手に担う老将には、見果てぬ夢よりも現実に守らなければならないものがあ った。隆信の魂と血と思いとが染みついたこの地だけは、守り通す。それは、直 茂が今を生きるための唯一の拠り所でもあった。
「儂に安らかな死が訪れる事は、おそらくあるまい」
 直茂が、目を開いた。
「大殿」
「覚悟はできておる。隆信公亡き後に佐賀の政を任された時より、こういう事が あろうかと思って生きてきた。されど、藤兵衛よ。いかに務めとはいえ、お主に は、苦しい思いをさせた」
「大殿。何をおっしゃいまする」
「儂一人で背負わねばならぬはずの咎を、そなたにまで負わせてしまった。許せ 」
 藤兵衛は、それ以上何も言えなかった。先ほどの自分と同じように、直茂が両 手を付いていた。主君の姿は、これほど小さかったのだろうか。藤兵衛の胸を、 見えない切っ先が衝く。そこにあったのは、佐賀藩の最高権力者でも、天下も認 める智勇兼備の名将でもなく、果てのない暗闇の中で戦ってきた一人の男の、老 い疲れ果てた姿だった。


 灯りを消し、茵へ横たわり、瞼を閉じる。それでも、藤兵衛は寝付けずにいた 。漆黒に覆われた天井を見つめ続け、どれほど経っただろう。
 直茂の隠居所を辞した頃にはすでに日が暮れていたため、村へ戻るのを止めた 。今宵は、佐賀城下の宿の一部屋に泊まっている。忍として働いていた頃は、暗 闇の中でも縦横に動けたし、人気のない夜の野山もしばしば駆け抜けていた。今 でもやろうと思えば、できるだろうか。いや、無理だ、と本能が囁いてくる。身 体は、老いても鍛錬を欠かしていない。若い頃に及ばずとも、駆けるくらいはで きるだろう。が、心の方が老いてしまっている。半年以上経つというのに、あの 夜から暗闇への恐怖を克服できない。
 恐怖ではなく、畏怖なのであろうか。暗闇の中を駆け抜けるのもできなくなっ た。人を殺めるのもできなくなった。全ては、あの夜からの事。侵してはならな いものを侵した、と思った。あれから、ずっと罪悪感に似た闇を心へ抱くように なった。神仏の祟りを畏れるのに似ている、と思う事もある。
 もしかしたら、あの大殿直茂公ですら、同じ畏れを抱かれておられるのかもし れない。いや、自分などよりももっと深く重いのではないか。佐賀藩三十五万七 千石をお守りするためとはいえ、誰よりも畏敬していたご主君の血筋を生贄とし てしまったのだ。だから、自分の如き下賤の者へ己の心情を垣間見せねばならぬ ほどに追いつめられていたのだろうか。

 ――にゃあ――

 藤兵衛は、茵から跳ね起きた。今、猫の鳴き声を聞こえた。気のせいではない 。脳裏に、あの夜の記憶が蘇ろうとしている。
 枕元へ隠していた忍び刀を手に取り、藤兵衛は立ち上がった。鳴き声がした方 を確認しようとして、困惑を覚える。聞こえたと思ったその方向は、宿の廊下へ 出る方の障子だった。宿で飼い猫の姿は見かけなかったから、外から入ってきた としか思えない。働いている誰かが、戸を閉め忘れたのか。しかし、それにして は周囲が静かすぎる。ここは、宿の二階。泊まっているのは、自分ばかりではな い。夜も更けているとはいえ、誰もあの鳴き声に気づかないほど寝静まっている のだろうか。
 もう一度、耳を澄ます。あの鳴き声は、聞こえてこない。先ほどは気のせいで はないと思ったが、本当は気のせいなのかもしれない。が、そんな心の迷いと裏 腹に、足が勝手に障子の方へ動く。

 あの夜、藪の向こうから聞こえた猫の声。
 高房公の枕元に佇んでいたという猫の話。
 そして、最近城下に出没するという化け猫の噂。

 様々な情報が脳内を交錯し、胸の鼓動がどんどん早くなっていく。刀を握る掌 や足の裏が、汗ばんでいる事も気づかない。それほど、藤兵衛の心は、障子の向 こうに囚われていた。障子の傍らまで来た。藤兵衛の手がかかる。喉が大きく鳴 る。一瞬の沈黙。それから、思い切り障子が開かれた。

 そこには、ただ暗闇だけが広がっていた。

 もう、誰も起きていないのだろう。すでに灯りは、一つとして点っていない。
 やはり、気のせいだったのか。藤兵衛は、一息つき、障子を閉めようとした。

 ――……た……か……ふ……さ……こ……う……――

 猫ではなく人の声が、背後から聞こえた。振り返った藤兵衛の目が、大きく開 かれた。老いたかつての『お館』の顔から、血の気が引いていく。
「……こ……小森様……」
 自分が横たわっていた茵の前に、あの小森 長五郎が立っている。あの夜と同 じように、血にまみれ、白くなった目を向けて立っている。その口は、まったく 動いていない。なのに、

 ――……た……か……ふ……さ……こ……う……――

 音になっていないはずのその言葉が、藤兵衛の周囲を幾重にも取り巻き、脳裏 を締め付けるように大きく反響する。最後に立ち上がった長五郎が呟いたあの言 葉。藤兵衛の身体が震え、手から刀が滑り落ちた。こめかみから脂汗が、目から 涙が零れ落ちていく。
「……お……お許し……ください……ませ……」
 震える声で手を合わせつつ、藤兵衛の足は、徐々に後ろへと下がっていく。
「……誰にも……知られてはならなかった……知られては……ならなかったので す……なにとぞ……お許しを……」
 龍造寺 高房の死に、佐賀藩が関わっている事を絶対に知られてはならない。 それは、高房の死へ直に関わった者も生かしておいてはならない事をも意味して いた。が、そのような名分など、死者には何の意味もない。死者は、生者の世界 を支配する法や命に束縛される必要はない。だから、死者の魂は、純粋な己の念 をぶつけてくる。
 長五郎が放つ魂の言葉に、己を謀り手にかけた者たちへの怨みはない。自ら裏 切らねばならなかった主への悔恨と、目付としての役目を越えた情義だけが入り 混じっていた。が、それだけに藤兵衛が心の底で押し殺してきた何かを抉り出す 。
 長五郎の姿は微動だにしない。いや、すぐ目の前に長五郎が立っている。いや 、右に、左に、長五郎の直立した姿がある。あちらかも、こちらかも、高房の名 を呼ぶ長五郎の痛々しい声が聞こえ、重なり、渦巻いていき――

「ひ、ひいいーーーっ!!」

 藤兵衛の心のどこかが壊れた。
 けたたましい声を上げながら踵を返す藤兵衛。暗闇へ向かって駆け出し、跳ん だ。その足の着くべき床がなかった。かくんと身体が、頭が下がり、廻る。世界 が揺れ、反転する。真っ暗な底へ、一瞬にして落ちていく。

 そして、全身を衝撃が駆け抜けた。

 痛みはない。何も感じない。何が起こったのかも分からない。ただ、あの音な き声をもう畏れなくてもよいのだ。それだけが分かった。微かな安堵を抱きなが ら、藤兵衛の意識は、二度と浮かぶ事のない深淵へと沈んだ。


 一体何が起きたのか、猫には分からなかった。突然、上の階から半狂乱のよう な声が聞こえたかと思うと、下の階へ向かって人間が一人頭から飛び降りた。そ のまま、動かなくなったのを見ると、おそらく助からなかったのだろう。その騒 ぎで、宿の人間が起き出し、大騒ぎになっている。
 何が起こったのかは分からないが、猫にとって、外へ飛び出す機会であるのは 間違いなかった。夕方に魚の匂いにつられて忍び込んだのはいいが、そのまま戸 を閉められてしまったのだ。宿の中を動く人間の気配に怯えながら、夜を過ごさ ねばならないのかと思っていた。
 混乱で一気に戸が開かれる。誰もが、右往左往して騒いでいて、足元まで目が 届かない。一片の躊躇なく、猫は、闇夜に覆われた外へ飛び出した。

 そして今、猫は外から宿の様子を見つめている。相変わらず騒がしい。また、 何人か人間が入っていった。よく分からないが、人間というのは、そんなに大勢 で騒ぐのが好きな生き物なのか。

 ――にゃあ――

 やがて眺めるのに飽きた猫は、そのまま、夜の街へと消えた。


――後日談――

 元和四(一六一八)年六月十二日、鍋島 直茂逝去。龍造寺嫡流家断絶後の佐 賀藩の安定を見届けた上での往生だった。しかし、最期は耳に腫瘍ができるとい う奇病に苦しみのたうちまわりながらの死だったため、自害とはいえ非業の死を 遂げた龍造寺 高房の祟りではないかと噂された。
 寛永七(一六三○)年、高房の隠し子伯庵(はくあん)が幕府に龍造寺嫡流家 の再興を訴えるも棄却され、伯庵本人は流罪とされる事件が起こった。この頃の 佐賀藩は、すでに龍造寺嫡流家という御輿を必要としていなかった。
 これら龍造寺と鍋島に関わる幾つもの因縁や風聞をもとに、やがて『鍋島化け 猫騒動』という講談、歌舞伎の一大傑作が生まれる事となる。


 『鍋島化け猫騒動』には、化け猫を退治し佐賀藩を救う忠臣小森 半左衛門( こもり はんざえもん)が登場する。けれども、同じ姓を持つ小森 長五郎とい う武士の名は、史書にも講談や歌舞伎にも一つとして登場しない。


 (了)


※本作の背景設定は一部史実に基づいていますが、その他は全てフィクションで す。