白猫
おっと





 耳元で甲高い鳴き声がした。シーツの中に潜ろうとすると、耳をざらざらした舌で舐められ、キャサリン・グリーンは気持ちのよい眠りを妨げられた。甲高い鳴き声とざらざらした舌の持ち主は、飼い猫のリリィだった。

 リリィは、長毛の白い毛並みと愛くるしい顔立ちと繊細な鳴き声をした仔猫だ。だがその可愛らしい外観からは想像も出来ないような騒々しい鳴き声を出すことがある。特に餌を要求する時は、気にいらないことがあった子供が癇癪を起こして泣き喚いているような声で鳴く。
 キャサリンはいつか隣人に苦情を言われるのではないかと心配だった。いくらペット可のアパートメントで動物を飼っている人が多いとはいえ、折角の休日に、リリィの喚き声で起こされたらたまらないだろう。隣からはシャワーの音に混ざって口笛が聞こえてくる。既にお隣さんは起きているようだ。キャサリンの口から安堵のため息がこぼれた。リリィがまた餌を催促して抗議の声を上げた。
 「…わかったわ、ベイビー…。食事の時間ね…。」

 いつもの深皿にキャットフードを盛りつけてリリィに差し出す頃には、隣からシャワーの水音は消えていた。
 キャサリンは、自分のためにコップにミルクを注ぐと、キャットフードに夢中なっているリリィに話しかけた。
「新しく引っ越してきたお隣さんってハンサムよね?駐車場でチラッと見ただけだけど……。」
リリィは、我関せずといった様子で、深皿に鼻を突っ込んでいる。
「いつも口笛で吹いている曲は、何ていうのかしらね?かなり古い映画の曲みたいだわ。西部劇かしら?それにとっても早起きで仕事熱心みたい。なかなかお話しする機会がないのよ。どうしたら仲良くなれると思う、リリィ?」
 満足げな表情で食事を終えたリリィは、キャサリンをちらっと眺めると毛繕いをはじめた。最近、キャサリンがする話題と言ったら、隣の住人に関することばかりだとでも言いたげだ。

 ようやく目が覚めてきたキャサリンは、溜めてあった1週間分の家事をこなしてしまう事にした。職場である小学校では、いつもは教師らしく見えるように小麦色の長い髪をアップにしている。平均より10センチも背が低いキャサリンは、大人っぽい格好をしていないと、背の伸びてきた高学年の生徒に紛れて、先生として見てもらえなくなってしまうのだ。授業のある時は、ずっとアップにしているのだが、長い時間ひっつめ髪にしていると頭痛がしてくるので、今日は掃除の邪魔にならないようにゆるい三つ編みにした。ジーンズの裾を切っただけの古いショートパンツとTシャツを身につけると、ティーンエイジャーの頃と全く変わらない。

 掃除のために窓を開けると、窓の外から新緑の香りが漂ってきた。ここ数日は、非常に気持ちが良い天気が続いている。今日こそ、冬用のカーテンを洗ってしまおう。キャサリンはカーテンを窓から外して丸めると、バスルームに向かった。カーテンを洗濯機に詰め込むとバスルームの掃除を始める。

 ブラシや歯磨きセットを整えていると見慣れないものが出てきた。金色のカフスボタンだ。両親が遊びに来た時に、父親が忘れたのだろうか?カフスボタンをしている姿なんて見たことがないけれど……。キャサリンは、「後で実家に電話をすること」と頭にメモした。

 ベッドルームに戻ると猛然と掃除を始めた。日頃は忙しくてなかなか手が行き届かないところまで、念入りに掃除して回る。狭いアパートメントなので掃除自体はすぐに終わったが、ベッドとソファーの下やテレビの後ろから、埃とともに見覚えのないものがいくつか見つかった。銀色のボールペン、皮ベルトの腕時計、丸まった男物らしき靴下、1セント位の大きさの小さなバッジ……。

 父親はこんなものを持っていただろうか?先ほどのカフスボタンと一緒に紙袋へ入れると、実家へ電話を掛けた。母親が出たが、父親は元々カフスなど持っていないし、他の物のことも知らないと言う。

 頭を捻りながらキッチンに戻ると、テーブルの上にまたしても見慣れぬものが載っていた。顔写真入の白いプレートだった。大学のパスカードらしい。「×××××大学獣医学部助教授 トラビス・シンクレア」とある。黒い髪に黒い眉。眠たそうに見える厚い瞼の奥の灰色の目。一文字に引き結ばされた唇。顔の写真は隣人のものだった。

 まあ、お隣さんは大学の助教授だったのね。名前はトラビス……彼にぴったりの名前だわ。写真写りは今ひとつというところかしら。……そんなことより、このカードは何処から来たの!?さっきは絶対になかったはずよ!キャサリンは困惑した。

 カードをよく見ると、角の1つがうっすらと濡れ、小さな凹みがあった。猫の歯型だ。
「……リリィ?」
 部屋の中をざっと見渡したがリリィはいない。お気に入りの場所に隠れているのかもしれないとベッドやソファーの下を覘いてみたが、やはりいない。まさか外に出たのでは……と、窓の所に行ってみたが、しっかりと網戸がはまっており、網を破かなくては猫といえども出られそうになかった。念のため、網戸を開け、外を見ようと体を乗り出す。すると、隣人、トラビス・シンクレアの声が聞こえてきた。

 「……君はなんて素敵な青い目をしているんだ。」
キャサリンは驚いて体を強張らせた。
「見た目よりもずっと華奢なんだね。抱きしめたら折れてしまいそうだ。」

 どうやら隣には女性が来ているらしい。素敵な男性だったのにもう恋人がいるとは残念だ。おまけに熱いくどき文句を聞いてしまうなんて、最悪だ。キャサリンは自分の耳が真っ赤になっていくのがわかった。これ以上、聞いてしまう前に窓を閉めなければ……。しかし、思ったよりもショックが大きかったのか、思うように動けない。まごついていると、隣人の黒い頭がひょっこりと出てきた。
「窓から入ってきたのかな。おかしいな。閉まっていたはずなんだけど。ほら、やっぱり閉まってる。」
 隣人がこちらを向いた。もう遅い。見つかってしまった。キャサリンは思わず目を瞑った。あんなセリフを聞いてしまったのも気付かれてしまったかもしれない。

 「やあ、この子は君の猫かい?」
 屈託のない声だった。

 ……猫?キャサリンは目を見開いた。トラビスの腕には、リリィが無邪気そのものといった青い瞳を輝かせて納まっていた。……素敵な青い目……。さっきのセリフはリリィのためのもの?私にも言ってくれないかしら……。

 「え、ええ、そうよ。探していたの。どうしてあなたの部屋にいるのかしら?」
「さあ?でも、少し前から、いつの間にか部屋に現れたり、いなくなったりしていたんだ。窓が開いていたか、玄関のドアを開けた隙に入って来たんだろうと思っていたんだけど、違うみたいだな。」
隣人も頭を捻る。やはり写真よりずっとハンサムだ。
「あ!あの、ひょっとして、カフスボタンやボールペンや腕時計がなくなっていない?さっき見つけたんだけど。」
「金色のカフスボタンかい?探していたんだ。君のところにあるのかい?」
「ええ。ごめんなさいね。うちの猫が持ってきてしまったらしいわ。……実は、あなたの写真入りのパスカードもあるの。」
「とんだ泥棒猫ちゃんだな。この仔は。」
隣人は優しく笑うと、リリィのおでこを軽くなでた。
リリィってば、なんてうらやましい子!!、キャサリンは内心そう思いながら表向きはにこやかに言った。
「ちょっと待っていて。そちらに伺うわ。」

 玄関をノックすると扉はすぐに開けられ、リリィを抱えた隣人が立っていた。リリィは隣人の腕の中ですっかりくつろいでいる。
「こんにちは。ミスター・シンクレア。猫を受け取りに来ました。それから、うちの猫がお宅から持って来た物です。」
「ありがとう。……え〜と、名前は?」
「キャサリン・グリーンです。猫はリリィよ。」
「僕はトラビスだ。トラビス・シンクレア。あ、もう、知ってるか。改めて、はじめまして。ミセス・グリーン。」
「ミセス?……私は独身よ。結婚しているように見えて?」
トラビスはキャサリンを上から下まで眺めた。
 こんなぴったりしたTシャツを着るんじゃなかったわ。それにこのショートパンツも高校の時のものよ。おまけに三つ編み。どうして、もっと女らしい綺麗な格好の時じゃなかったのかしら……。じっと見つめられて、キャサリンは落ちつかなげに体を動かした。

 キャサリンの動きにトラビスは我に返ったように言葉を続けた。
「……いや、……そうは見えないけど…。それじゃ、ベイビーっていうのは誰のこと?」
「ベイビー……?」
「たまにベイビーって呼びかけるのが聞こえてくるんだ。てっきり、隣には子供がいるんだと思っていたよ。」
「あ!それはリリィのことだわ!!」
キャサリンがリリィを見ると、リリィはとろんとした目で見つめ返してきた。
「この猫が?それじゃあ、君は1人……と1匹暮らしなんだね。ひょっとして大学生?」
「こう見えても、ちゃんと大学を卒業しています。実は小学校の教師なの。」
「そうか、よかった。」
トラビスは微笑んだ。
「……僕が食事に誘ったら、怒るようなボーイフレンドはいるかな?」
「え?いないわ。ここ数年、忙しくてそんな暇は……。」
一体、何が 「よかった」なのかしら?キャサリンはトラビスの笑顔に見惚れながら考えた。
「あら?私、食事に誘われているのかしら?」
「僕も同じだ。つまり忙しいってことだけど。食事については、そうだよ。ランチに行こう。リリィがどこから2人の部屋を行き来しているのか、食事をしながら検討するっていうのはどうだい?キャサリン。」
「ええ、いいわ。……トラビス。」
「どうやらリリィは、ただの泥棒じゃなくて、キューピッドらしいな。」


 リリィは、ドラビスの腕からするりと抜け出すと、やれやれというように2人を一瞥して奥の寝室へと向かった。ベッドから机を経由し本棚の上に一気に駆け上がると、本の裏側にある通気口の網の破れ目へと潜り込む。隣の部屋では、初夏の日差しが日向ぼっこをするには最適の陽だまりをベッドの上に作っているのだ。リリィはゆったりとした足取りで陽だまりへ行くと、優雅な仕草で丸くなった。

〜 Fin 〜