干支物語補遺
佑筆:山仙
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はじまり

 東洋を襲った民主化要求の波は、その後動物の世界にも及び、その昔干支の選に漏れた動物たち…雉、熊、ぱんだ、鶴、鹿、狐、狼、狸、鯨、鴉、鰐、蛙たち…が組合を作って、十二支の特権制度を廃止するように、神様に要求し始めた。とどのつまりは、干支を輪番化せよと言う訳である。そうして、数十年に及ぶ運動の結果、神様会議の議題に登るに至ったが、なんせ東洋の神様たちの会議である。国連の安保理常任理事国を選ぶのとは話が違う。話は泡の如く流れて、玉虫色というか無責任な答申が下された。即ち当事者どうしの交渉で交代するかどうかを決めろ、という事である。
 これを受けて、特に常任干支になりたがっている、狼、狐、鰐、象など(決してドイツ、日本、ブラジル、インドを指している訳ではありませんので誤解無きよう)の動物たちが、十二支の現メンバーとの多動物間交渉を申し入れたが、既得干支権を主張する現メンバーの強力な反対にあって挫折し、交渉は二動物間交渉に持ち越された。こうなっては、十二支民主化組合は有力な代表を送らなければならない。相談の結果、信用のない狼、狐を避け、野蛮に思われがちな鰐も、威圧感の強過ぎる象も避けて、猫を交渉の代表に送り込む事になった。民主主義の原理に従えば、世界で最も繁栄している動物を選ぶのは確かに正しいし、その交渉能力は長靴を履いた猫が立派に示しており、更に、一部の南国では猫が兎の代わりに選ばれているという事情もあって、最終的にこのような人選となったのである。狐と狸と鴉と云う知恵袋を得、既に一部で認められている象のような実力者を背景に、猫は次期干支候補の筆頭たる自覚をもって意気揚々と交渉に当った。

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1.亥

 始めに会いに行った先は猪である。干支の最後のメンバーから始めたのは、彼が前回の選でギリギリ選ばれた幸運者であり、従って席を譲るべき一番の候補だからと考えたからである。
『猪さん、世の中は民主的になり……』
と猫が呼び掛けるや否や
『気安く名字で呼ぶとはふてぶてしい』
と言って、相手はいきなりマグワを振りかざして来た。猪は猪でも猪八戒だ。その本性は野豚である。
『天蓬元帥殿、申し訳ありません』
 根が単純だから、元帥と呼ばれるや武器のマグワを降ろす。
『それで、何用だ』
『元帥殿、今の世では、順繰り交替というのが流行です。そこで、干支も元帥殿には時々お休み頂いて、他の動物たちに順番で代わって勤めては如何かと思いまして』
 八戒に民主的という言葉が通じる筈がない。だから、彼の分かる言葉で説得する。
『馬鹿を言え、干支の御馳走を楽しみに俺は11年も待っているんだぜ、これ以上待てるか!』
 彼にとって、干支とは御馳走である。それ以上でもそれ以下でもない。
『仰られる事は分かりますが、他の動物たちも空腹を我慢している訳で』
『ハハハ、こりゃ面白い。そんなに空腹だと言うのなら、俺と食べ比べをしようじゃないか。俺より沢山飯が食ったら代わってやるぜ』
 八戒に勝てる者が何処におろう。かくて猫は空手で帰ってきた。

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2.申

 次に会いに行った先は犬でも鼠でもなく猿である。というのも、猪八戒が最後に
『あの弼馬温なら馬鹿だから煽てりゃ代わってくれるかもな』
と言い放ったからだ。弼馬温とは孫悟空の蔑称である。悟空にいつも虐められる八戒だけが使う。もちろん、他の人間が弼馬温とでも言おうものなら、金箍棒で一瞬のうちにぶっ叩かれるであろう。言葉には気を付けなければならない。
『大聖様』
 悟空は斉天大聖と呼ばれると概ね気分がよい。
『何用か』
『お願いしたい事がございます』
『申して見よ』
『大聖さまの提唱なされた輪番制度が、今の世では当たり前になりまして……』
と、慎重に言葉を選ぶ。
『ちょっと待て、俺がそんな事を始めたのか?』
『天帝に西の方に移れと迫られたではありませんか』
 天を騒がせた時の事だ。
『ははは、あのことか、あれは気の迷いだ。俺も若かった』
 さすがは妖怪随一の豪傑である。おのれの過去を豪快に断罪するところなど、とても人間には真似できない。
『あ、あ、そうでございますか。ええと……』
 人間しか知らない猫は接ぎ穂の言葉が見つからない。
『まあよい、それで輪番制度をどうしたのか』
 話が早いのも悟空の強みだ
『実は、干支を輪番制度にしてはどうかという話がありまして』
『噂には聞いておる。誰も譲りたがらないともな。俺も嫌だぜ』
 八戒が地獄耳と評するだけあって、情報にも通じている。
『そこを、どうにか。大聖様がお譲り下されば、いの一番に始めたという事で、ますます尊敬されましょう』
 この猿はお世辞とか一番とか云うのに弱い。
『うーむ。悟浄になら譲ってやってもよいが、他は駄目だ』
と、サル王らしく寛大な所を見せる。悟空は悟浄にだけは甘い。
『あー、あのう、済みません』
『どうした』
『河童は干支の候補にあがっておりません』
 猫はついうっかり本当の事を話してしまった。かくして、交渉は失敗に終ったが、そこは慈悲深いサル王である。最後にこう付け加えるのを忘れなかった。
『そうだ、俺様、犬だけは大嫌いだから……』
孫悟空は、お釈迦様以外に二郎真君にも負けているが、その負けたきっかけを作ったのが彼の飼犬だから犬には恨みがある。そうでなくても犬猿の仲というではないか。
『……犬を干支から追放してくれたら一回ぐらい干支を代わってやっても良いぜ、あばよ』
 そう言い放つや、かのマジックマンキーはきんと雲で視界から消えてしまった。

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3.戌

 2度続けて失敗した猫は、組合に戻って辞表を提出したが、交渉先が西遊記の英雄たちでは相手が悪い、との同情のもとに皆に慰留され、結局、決意を新たにして次なる犬のもとに向かう事となった。もっとも、組合幹部の狐や狸としては、犬だけは避けたいというのが本音かもしれない。
『犬さん、こんにちわ』
と猫は恐る恐る犬に声を掛ける。
『ふん、お前、何か用事でもあるのか?』
『実は、私たちの御主人様たちが民主主義という制度を発明しまして……』
『私たちとは誰の事か? え? 人間に忠実に仕えているのは俺たちだけだぞ』
 猫と一緒にされてはたまらんという態だ。
『……すみません、で、まあ、とにかく、その民主主義とかいう制度によりますと、干支の担当を特定の動物に固定してはいけないそうで、そこで輪番制度にしたらどうかという意見が強くなりましたので、それをお伝えにあがった訳で……』
『寝てばかりで、御主人様に全然忠実で無い癖に、良くそんな事がしらじらしく言えるな』
『寝てばかりいるからこそ経済的なんですよ。しかも、それで人間の心の安らぎになっているのですから、そこまで悪く仰らなくても』
 下手に出るべきだと分かっていても、ついつい対抗意識が言葉になってしまう。
『こら、御主人様の事を気安く人間などと呼ぶな、恐れ多い』
『そんな些細な事、どうでも良いじゃないですか』
『それにだ、御主人様の考えは俺たちが一番知っている。ようく聞け、御主人様は干支を変えろとは仰っていない』
『それは、一面に過ぎませんよ。私どもは距離をおいて観察していますから』
 猫の本性が段々と顕われて、肝心の干支の話から離れて行く。
『碌に役にも立たない癖に口だけはでかいな。じゃあ、聞くが、お前、ペットとして以外にどれだけ役に立っておる? 泥棒避けにはならん、盲導犬にもならん、芸も覚えん、橇も引っ張らん、狩でも役に立たん、しかもアレルギーの元でそこらじゅう爪傷だらけにして、迷惑なだけじゃないか。猪八戒のほうが遥かにマシだろうが』
『西遊記には書いてありませんが、あの時、お経を天竺から運ぶ時に鼠避けとして付添ったのは私の先祖なんですよ。その後遣唐使がお経を日本に伝えた時もしっかりお守りしました。だから文明の担い手なんです』
 猫は、未だに、昔日の栄光を語っている。
『ははは、そんな昔の話しか出来ない所を見ると、本当に役に立たないんだな、呆れたものだ』
『今でも鼠は追い掛けますよ』
『そればっかりじゃないか。お前の話は聞き飽きた』
 こう言われて、猫は慌てて干支の件を思い出した。
『そう仰らずに、干支の件を真面目に考えて下さいよ』
『却下!』
『では、せめて犬科のメンバーとだけでも……』
『なぜ俺が狐と代わってやらなくちゃならん? 毛皮にでもなりゃいいんだ』
『そう言っちゃ狐さんが可哀想ですよ、いつもずる賢いって言われているんだから……』
『なぜ俺が狸と代わってやらなくちゃならん? 腹鼓でも叩いてりゃいいんだ』
『そう言っちゃ狸さんが可哀想ですよ、いつも人を騙すと言われて、そのあげく狸汁にされているんだから……』
『なぜ俺が狼と代わってやらなくちゃならん? あんな有害なやつ』
『そう言っちゃ狼さんが可哀想ですよ、いつも悪役やらされて、いまや絶滅の危惧にあるんだから……』
『駄目駄目駄目。何と言われても御夫人様のお許しが無い限りダメ! 帰った帰った』
と言って唸り始めた。叉も交渉失敗である。

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4.酉

『コケ−ッ、苔えっ、コケ−ッ、虚仮えっ、コケ−ッ、……』
 鶏は新年の準備でけたたましく走り回っている。いや、新年が来なくても同じように喚きながら走り続けているに違いない。とにかく彼女の前に出る。
『何の用なのさ、泥棒猫の食べるものなんてないわよ、コケッ、うちの子供を食べようなんて思ったら、コケッ、後でなにが起るか分かってるよね…』
と、いきなり突つく真似をしたそのクチバシで
『…あ、ミミズがいる、パクッ』
と、ミミズをくわえる。猫は挨拶をする暇すらない。
『お久しぶりです、実は犬さんのところに寄ったので』
『イヌ? いぬって、コケッ、シッポを振るあの犬? だーいっきらい、コケッ、なによ、ワンワン吠えて脅すばかりか、ウチらの塒を襲って、コケッ、そのくせ、御馳走を食べて、ところかまわず黄色いものをぶっかけて、コケッ、誰彼かまわず追い掛けてきて、汚ったなあいものを道路に転がして……』
 喋り出したら永遠に終らない。
『あのう、犬の悪口は今度という事で、実は、お願いがあるんですが』
『お願い? お願いなら神社に行きなさい、コケッ、でもあそこの連中って、自分達が神鶏だって自惚れてるから、コケッ、あんたなんか無視してよ。なによあの連中、コッケェ、コッケェ、コッケェ、って鼻持ちならない声あげちゃってさあ…』
 猫にはコケッとコッケェの違いが分からない。いや猫で無くても分かるまい。
『…尻尾が長くて偉いんなら、蜥蜴が一番偉いって事になるじゃゃない、コケッ、トカゲのシッポなんて、食べ物の中でも一番不味いのに……』
 いつまでもまくしたてる。このエネルギーがどこから来るのだろう。
『お願いって、そうじゃ無くて、鶏さんに替わって貰おうって……』
『代わる? 代わるって何を? コケッ、鶏が一番上だからね。あのとき盗賊が逃げたのはトキを上げた鶏のお陰よ、コケッ、馬が何よ、盗賊は馬に乗り馴れてるのよ、コケッ、犬が何よ、犬は盗賊に吠えられ慣れているのよ、コケッ、猫が何よ、同じ泥棒の癖に。あの時連中が逃げたのは、コケッ、鶏の声で朝だと分かったからよ、連中は朝になったら逃げるものだからね』
 ブレーメンでの話だ。我田引水も良いところだが、飛べない鳥はこんなものかも知れない。
『それに、他の声でやったって門は開かないわよ、コケッ、門が開かなければ、食客なんて所詮役立たずって事になって、コケッ、中国文明がすっかり違ったものになっているに決まっているんだから』
 今度は函谷関での話だ。よくもここまで話がでかくなるものだ。
『第一、誰と代われっての? 鶏ほど地球の役にたつ動物いる? コケッ、時を伝え、肉は美味しく、コケッ、卵は完全食品で、ワクチンの製造に欠かせないし、コケッ、糞ですらそのまま肥やしになる、そんな動物は他にあったら言ってごらん、コケッ、クジラって言おうとしたって駄目、クジラをペットと勘違いしてる、動物愛護ナントカって連中に保護されて、コケッ、全然役立っていないんだから。鶏を狭いケージに入れる連中が、コケッ、何が動物愛護よ……』
 話は常に逸れて行く。
『そうじゃなくて、鶏さんにちょっと休んでいただこうと言う話なんですよ』
『休む? 休むのは夜の話じゃないの、コケッ、昼は目を覚まして仕事よ、あんた、コケッ、分かってないわね。猫なんて、コケッ、昼間は寝てばかりいて、たまあぁぁぁぁに起きて、たまあぁぁぁぁに鼠を追い掛けるだけじゃない、コケッ、そんな恥っさらしで、よく人間から追い出されずに済んでるねえ……』
 未だに干支の話が持ち出せない。持ち出したところで、到底自分と代わってもらうのは無理だろう。そう猫は悟った。
『いやいや、私みたいな寝ぼすけが鶏さんの代わりになれるなんて思ってませんよ、同じ鳥類の方々、例えば鶴とか雉とか鴉とか…』
『なに、コケッ、あの威張り腐った役立たずどもに、コケッ、代われって言うの、コケッ、このボケ猫が、コケッ、コケッ、コケッ、』
 怒った鶏は猫をクチバシで突つきかけ、あわてて猫は後ずさった。
『コケッ、威張り下ったツルは織物にでもなってりゃいいのよ、コケッ、気取ったキジは鉄砲で打たれりゃいいのよ、コケッ、ずる賢いカラスは残飯での漁ってりゃいいのよ、コケッ、ガーガーの一つ覚えのアヒルはマンガになってりゃいいのよ、コケッ、悪賢いホトトギスは信長に殺されりゃいいのよ、コケッ、糞害ばかりまき散らすハトはブッシュに虐められりゃいいのよ、赤字を垂れ流して世界一贅沢な暮らしをしているタカなんて、さっさと身売りして最下位になりゃいいのよ……』
 自分が飛べない事に劣等感でもあるのだろうか? 延々と続く悪口と剣幕に、とうとう十二支のジの字も言えないまま猫は引き下がった。
 所詮、口で敵う相手ではなかったのだ。

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5.午

 わんわん、にゃんにゃん、こけこっこうと話が続けば、ひひーんも寄らねばならない。ブレーメンの音楽隊で十二支から外れたのは猫だけである。あの音楽隊はいたわりの世界だった筈だ。犬と鶏は苦手だが、馬はそうでもないから、チャンスがあるだろう。そこで塞翁が馬の所に出掛けた。
『こんにちわ』
『なんだい、猫君、嫁さんでも探しているのかい? でも、連れ帰ったところで、飼い主が喜んでくれるとは限らないよ』
 塞翁の名馬が、別の名馬を配偶者として連れ帰った話は、余りに有名だ。
『そうじゃあなくて、馬さんはいつも働きつづめでお疲れではないかと思いまして』
『それを言うなら馬車馬だな。彼らは確かに休みが必要だ。でも、僕は主人が怪我をして戦争に行けなくなったから、暇なんだ』
 さすがに千里の名馬と言われるだけの事はある。
『休みと言っても、干支の事なんですが』
『干支? それなら、今だって12年のうち11年は休んでいるけど』
『12年は12年なんですけどね、数千年も同じ動物だけで回して来たので、そろそろ他にもやりたい方々に代わって頂いても良いんじゃないかと…』
『ははは、君、まさかロバが僕の代わりをやるって言うんじゃないだろうね、あの怠け者ののろまがやって御覧、1年中仕事が終らないぜ』
 猫は驢馬にもまして怠け者である。先を越された猫はちょっと困った顔だ。
『まあ驢馬ではそうかも知れませんが…もっと違った種類の動物と言う話なんですよ。狐さんとか熊さんとか…』
『君ね、これは人間の役に立つ動物が優先すべき役目なんだよ』
『それは分かるんですが、例えば、十二支には馬さんに牛さんに羊さんと似たものが3人も入っていらっしゃるのに、鳥は鶏だけでしょう? 小型動物では僕も入っていないし』
『ふむふむ、成程。でも、それを言うなら牛や羊に文句を言うべきだろう? 僕達は連中よりも絶対に上だぜ。だって、献上品の一等は昔から名馬って決まっているじゃないか。牛や羊を献上したって話は聞いた事がないよ。第一、馬が働き者なのは皆の知っての通りだ』
『そりゃ昔話であって、今は馬はエンジンのお陰で引退ですよ。それに引き換え、牛乳や羊毛は役立ち続けているじゃあないですか』
『おいおい、それって、ブレーメンで労りあった仲間の言う事かい? それにだ、君は現代を認識していないね』
『ペットの代表格として、少しは現代の孤独が分かっている積もりですが』
『ははは、じゃあ、なんで、植物性ミルクも合成毛もある時勢に牛や羊を擁護するんだ。一体、今はモノ作りの時代じゃあないよ、今の経済を動かしているのはサービスだ。生活に不要なものだ』
『あのう、それに心の安らぎも入れて頂けません?』
『なんだ、分かっているじゃないか。じゃあ、聞くが、時代を超えて今でも人々を熱狂させているサービス業は何だい? 熱狂だぜ。個人じゃ無く大衆を動かすような奴だ』
『ギャンブル、ですか?』
『そうだ。投資・マージャン・株・戦争…歴史は賭けを必要としている。そして、賭け事の一番の頂点が競馬じゃないか。晏嬰に推薦された司馬穣苴が、斉の景公に競馬の賭け方を伝授したぐらいに歴史が古く、今でも公営ギャンブルの筆頭にあげられるんだぜ。競馬のような熱狂を他の動物が与えられると思っているのかね? そうだ、僕の好きな賭けと行こう。誰かが中央競馬場で僕以上に大衆を熱狂させられたら代わってやるよ』
そういって走り始めた。所詮名馬には追いつけない。

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6.丑

 馬の次は牛か羊だ。
『牛さん、こんにちわ』
『……』
 牛はうつむいたまま反応が無い。
『あのう、牛さん』
『ハァー』
 全く元気のないその声は、溜め息なのか返事なのかすら分からない。
『どうしたんです、牛さん』
 その声にハッとしたように顔を上げる牛は、紛れもなくドナドナの牛である。仔牛だったのは昔の話だから、今はかなりなお婆さんの筈だ。
『ああ、あたしのぉ、運命をぉ、考えてねぇ』
 うつろな目で答える。ここでいきなり要件を切り出すのは酷というものだろう。
『そういつまでも歎いていてもしょうがないですよ、人生、楽しまなくっちゃ』
 いかにも猫の言いそうな言葉だ。人生を気侭に過ごす事に関して猫は天才と言えよう。
『楽しむぅ? どうやってぇ? 牛のぉ、運命にぃ、良いものってぇ、ひとうつもぉ、ないのよぉ、だってぇ、仔牛のぉ、時はぁ、売られ…』
『でも、まあ、売られてとぼとぼ歩く様子が絵になる動物って、牛しかしませんから、自信が持てるじゃないですか』
 能天気な事を言う猫を無視するかのように、牛は続ける。
『…元気なぁ、様子をぉ、ちょっとぉでもぉ、見せればぁ、虐められるし…』
『でも、闘牛は動物愛護ナントカってのが中止させるべく頑張っているし』
『ンー、モー、わかってぇ、ないわねえぇ。闘牛はぁ、いいのぉ、屠殺場でぇ、殺されるよりぃ、よほどぉ、名誉あるぅ、死にかたじゃぁ、ない…』
『じゃあ、何の話です』
『…たとえばぁ、一番ん、上のぉ、お兄様はぁ、悪者猿にぃ、降参してぇ、しまうし…』
 魔王7兄弟の筆頭、牛魔王の事だろうか。孫悟空と匹敵する力の持ち主で、7兄弟の裏切り猿…本人によれば改心したという事になっているが…の援軍との大立ち回りは、京劇3大出し物の一つなっている程に有名な牛である。或いは老子の曵く青牛かもかも知れない。老子の元から逃げ出して妖怪に成りすませた彼も、孫悟空とは互角だったものの、最終的には老子の持つ秘密兵器の前に降参した。
『まあ、あれだって牛の強さを見せた事になりません?』
『…それならぁ、菩薩様のぉ、乗り物にぃ、ぐらいぃ、昇格ぅ、させてぇ、くれてもぅ、良いじゃぁ、ありませんかぁ、モー、どうしてぇ、牛だけがぁ、鼻輪でぇ、繋がれなければぁ、ならないの…』
 確かに大型動物のうちの象と獅子と狼の三者は、それぞれ普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩の眷属として優遇されている。牛だけが鼻輪につながている。
『これはね、許由が堯から帝位を禅譲したいと言われた時、けがらわしい俗事を聞いたものだと憤慨して当てつけに耳を川で洗っていると、たまたま巣父という仙人が牛を曵いたやってきて事情を聞いたので、彼に一部始終を答えたら、巣父がそんな汚れた水を牛に飲ませる訳にはいかないと云って、牛を連れて上流に向かった事件以来、仙人が牛を曵くというのは中国の決まりごとになっているのだから、変える訳にはいかないんだよ』
と、猫は励まし続ける。
『…でもぉ、あたしたちぃ、インドではぁ、神聖なぁ、動物ぅ、そのものぉ、なのよ…』
『僕なんか神聖視されたのは古代エジプトだけで、その後は悪魔扱いですよ。招き猫は別だけど、ありゃ置き物だからね』
 そう、猫はうらやましそうに言う。そろそろ、干支の話を持ち出す時だ。牛は話を続ける。
『…それにぃ、今じゃぁ、どんどんー、人気がぁ、落ちていくわぁ…』
『そうですかねえ』
『…こないだはぁ、あやうくぅ、身売りかぁ、消滅するぅ、ところだったのよ…』
干支の話を喉まで云いかけた猫は何の事かと首を捻り、やっと理解する。
『でも、オリックスの名で生き残ったじゃないですか』
『それにぃ、最近はぁ、ベジテリアンがぁ増えてぇ、ニセ表示もぉ、増えてぇ、最高のぉ、牛肉ですらぁ、人気ぃ、落ちてるし…』
『いやいや、人気が落ちているのは狂牛病のせいですよ』
 あっ、しまった、言ってしまった。気付いた時はもう遅い。少しは元気を出したかに見える牛が再び落ち込む。干支の話どころではない。猫は慌ててフォローする。
『でも、本物の牛乳の人気は上がっているじゃあないですか、クリームとかチーズとか』
 そう言った時、猫は牛乳の恩を思い出した。干支より牛乳の方が大切なのは論を待たない。牛の恩は確かに人間の恩に勝る。しかもこの様子だ。交渉は諦めて帰る事にした。

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7.未

 12の干支メンバーのうち半分との交渉に失敗して、猫は今度こそ代わってくれと組合幹部に申し出た。そこで狼と狐が出かける事になった。行き先はそれぞれ羊と虎である。

 狼が羊の群れに近付くや、カン高い子供の声が響く。
『狼だあ、オオカミだあ、おおかみだあ』
羊飼いが叫んでいる。残念ながら嘘つき少年ではない。即座に大人達が鉄砲を手にやってきた。
『殺せえ、コロセー、ころせぇ』

 命からがら帰ってきた狼は、交渉役は人間に警戒されない猫しかあり得ないと主張した。つづいて狐も、ぶるぶる震えながら帰ってきた。おおかた、口先3寸で虎の威を借るのに失敗したのだろう。震えながら狐も、交渉役は、相手に警戒されない猫しかあり得ないと主張した。結局、猫が再び出かける事になった。

『羊さんこんにちわ』
『めえ』『メエ』『メー』『めめー』
 一匹に呼び掛けても必ず複数が答える。さすが、英語で集合名詞として扱われる唯一の哺乳類だけの事はある。常に群れている。群集である。集団思考である。こんなのは演説で集団催眠術にかけるに限る。
『皆さん、私は、とある民主化理事会から派遣されてきました』
 本当は理事会では無く組合だが、群集相手には響きの良い言葉を選ぶべきだ。だから理事会と云う事にした。詐称には当らないだろう。
『民主化賛成』『ミンシュカサンセイ』『みんしゅかさんせい』
 ぱちぱちぱちという拍手まで聞こえる。こりゃ話が早い。そう猫は思い、本題に入る。
『今回の民主化は十二支です』
 だが、それは世論操作として間違っていたのである。猫がそう言うが早いか、羊達が口々に騒ぎ始める。
『それ既得権よ、ねえ』
『そうだべえ、干支は羊のもんだべえ』
『また権利のはく奪か? それとも搾取か? 許せん!』
『誰だい、そんな勝手な事を提案する奴は』
『理事会とかいう名前からして、強国じゃあないの』
『こないだはカス国債買わされて、こんどは戦争でカネを供出させられて、その間に年金は無駄使いされて、……酷いもんだぜ』
『私たち庶民はいつも虐げられるんだから、これ以上税金を増やされたら生活出来なくなるわ』
 猫が唖然としているうちに話はとんでもない方向に流れている。さすが群れた羊だ。群集だ。
『民主化と税金は関係ありません』
 そう理性的に猫は言うが、誰も聞いていない。
『関係ない? 何言っているの。フセインは確かに大量破壊兵器を持ってわよ』
『しかもアルカイダとつるんで、いつおれたちを攻撃するか分らなかったんだぜ』
 話が飛躍するのも群集なら、一旦盲信した事を信じて大統領選挙に臨むのも群集である。
『大体さあ、民主、民主って、民主主義じゃあ、石油は確保出来ないじゃない?』
『イランを見て御覧なさいよ。イスラムで一番早く自力で王政を廃止し自力で選挙を始めた国よ。だから、いつまでもこっちの言うなりになってくれないじゃないの』
『おら、石油が欲しいだべ』
『石油の為に軍隊まで派遣したんだからな、見返りがなくっちゃ』
 話はますます変な方向に流れる。さすが既得権の亡者たちだ。だが感心している場合では無い。というのも、ある羊が変な事を言い出したからだ。
『そうだ、この猫野郎はアルカイダの手先に違いないぞ』
『糾弾しろ』『拷問だ』『こんな犯罪者に人権なんかあるか』『死刑だ』
 猫はあわてて逃げ出した。そして振り返るや叫んだ。
『この、分からず屋!』
 猫に群集は決して理解出来まい。いや、猫で無くても…。

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8.寅

 狐の震えていた様子を思い出して、猫は身の安全を確保すべく木の上から虎に声をかける。
『虎さん』
『無礼者!』
 いつもの怒鳴り声だ。但し、怒っているのかいないのかは分からない。
『李徴さん』
 そう、猫が訪れたのは、唐代の昔に李徴と呼ばれていた虎である。
『猫の分際で馬鹿にするな!!』
 今度こそ怒らせてしまったらしい。中国では名前を言っては失礼に当る。ましてや相手は唐の皇族である。
『隴西子!』
 隴西生まれの君子と云う意味だ。
『おうよ!』
 ようやく虎がまともに答えた。この虎、生まれた時は確かに人間で、しかも天才であった。巷に流布している記録によれば、彼は虎になったあと、日々人間の意識を失い、やがて完全な獣になってしまったそうだが、実際は、そこまで落ちぶれていない。
『何用だ?』
『お願いがありますんで』
『人に頼み事をする時に、木の上からするって法はないぞ』
 取って食いそうな様子はない。猫は恐る恐る木から滑り降りる。
『心配せんでもよい、俺はあの時の恩知らずとは違う…』
 昔、虎が猫を師匠として学んだ時、学び終えた虎は猫を取って食おうとした、その話だろう。猫は護身の為、木登りの技だけを教えなかった。
『…恩知らずとはさっき来た狐の野郎の事を云うんだ。むかし俺の仲間の威を借って散々儲けた癖に、お礼一つ云わずに、またも悪賢い事を企みおった…』
 既に干支の話が断られてしまっているのではないかと、猫は不安になる。
『…それで願い事とは何だ? 俺に詩を書いて欲しいのか? 画が良いか? それとも散文か?』
 要件は漏れていないようだ。ようやく猫は安心した。
『実は十二支のメンバーを入れ替えるべきだという話が動物界全体からありまして』
『なるほど。…それで俺に替わってほしいと?』
『そうです。大守だって、宰相だって、交替するものですし』
『俺は確かに大守を勤めた者だ…』
 李徴は虎に変身する前に大守の経験がある。
『…そして、その時思い知ったのだ。人間の身勝手な事をな。賄賂を出し、おべっかを使い、弱いものを虐め、長いものに巻かれ……だからこそ一年で辞めた。だから、その後、虎になった時、当初は悲しんだものだったが、今は喜んでおる』
『はあ?』
 猫には文脈がつかめない。
『かように下等な人間の風習が、どうして我が身の振り方を決める参考になろう?』
 そう彼虎は肅然と怒鳴った。虎の方が偉いという気概だ。猫は人間の好む民主化という言葉を使わなくて良かったとほっとする。
『それは仰る通りですが、そこは、干支をやりたがっている者が沢山いる現実にも目を向けて頂きたいと思いますよ』
『現実か? よろしい、現実を見てみよう。十二支の動物のうち、人間が極端な迫害を加えている対象はいずれぞ?』
『ああ、それは…』
 明らかに虎だ。虎だけが害獣扱いだ。
『虎がいなくば、虎退治の武勇談は成り立たたず、加藤清政も水滸伝の武松も精彩を欠く。虎がいなくば、食害を起こす鹿や兎が増えて、人間が飢饉に陥る。にもかかわらず、虎は狩られつづけ、今や中国では絶滅の危機だ。中国だけでは無い、世界中でそうだ。狼と同じ運命ではないか。その虎を十二支からすら追放しようというのか? 皆の要望という名の元に?』
 人に可愛がられて繁殖している猫はシュンとなっている。
『あのう、ダメでしょうか?』
『猫には恩があるから一肌脱いでやりたいが……そうだ、もしも俺と似た運命にある狼が、犬の代わりに入るなら、俺も猫科の誰かに代わってやっても良いぞ、おぬし犬の所に行って来い』
『まことに申し訳ありませんが、実は犬とは交渉したものの、頑固で全然譲りませんで』
『犬だからな』
『はあ』
『それでは俺も譲る訳にはいかん』
 これには猫も引き下がらざるを得なかった。猫と虎とでは格が違う。

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9.巳

 蛇と云うのは出来れば交渉したくない相手である。虎に
『竜と蛇は並んで入っておる。奴らは同族の癖に2人も入っているから、連中に代わってもらうのが筋だぞ』
と云われて来たものの、あまり気乗りしない。
『こんにちわ』
『なんだ猫か、シュルシュルシュー、くそ面白くも無い』
 もともと蛇は猫には興味が無い。猫は蛇に近寄らない。
『そんなこと云わないで下さいよ、せっかく顔を出したんだから』
『猫が何の用事がある、シュルシュルシュー、さっさと消えろ』
 冷淡な相手には要件を素早く言うのが正しい。
『その、用件ですが、実は干支のメンバーを交替制度にしよう皆の意見に従って……』
 全部言わせるまでもなく蛇は素早く反応する。
『帰れ! シュルシュルシュー、帰れ』
『帰れ、じゃ駄目ですよ。皆の意見は聞かなくっちゃ』
『誰がそんなことを決めた? シュルシュルシュー』
『動物全体の意見です』
『皆の意見を聞かねばならんと、シュルシュルシュー、誰が決めた?』
 さすが、薮の下で密かに弱い者を狙う動物だけの事はある。薮男よろしく協調心の微塵も無い。
『それが民主主義ですよ、神様すら認めている現在の潮流です』
『ふん、雑魚共は、シュルシュルシュー、長いものに巻かれてりゃいい。それが民主主義だ』
 薮でどくろを巻く輩にとっては、その廂にブッシュを選ぶ制度が民主主義の定義かも知れない。
『あのう、そんな事ばかり言ってると、皆から悪者扱いされて爪弾きになりますよ』
『悪者? 誰が? シュルシュルシュー、やまたのおろちは土地古来の守護神だが、侵略者に負けた故の悪者呼ばわりではないか。シュルシュルシュー、雨月物語の真女児は愛を全うさせた健気な女蛇だが、退治されたが故に悪者呼ばわりだ。ゲルマン神話のミッドガルド蛇は、世界を取り巻く城壁になってくれた。彼とて恐れられ滅ぼされた』
『うへー、詭弁だ』
 猫は思わず声をあげた。
『じゃあ、まむし殿はどうだ。シュルシュルシュー、美濃を見事に治めた故に、悪者として継子に殺されたぞ。シュルシュルシュー、だが今では英雄のひとりだ……』
 過去の非運の英雄をなぞらえて、己のわがままを正当化するのは政治家だけで十分である。
『……シュルシュルシュー、今日の味方は明日の敵、我が家の廂もそう仰っておる。シュルシュルシュー、今日の悪者は未来の英雄、ビン・ラビンもそう云っておる。そんな事も分からぬ哀れな雑魚どもよ』
『斉藤道三は、蛇さんと違って人の云う事に耳を貸していますよ』
『耳を貸して健康食品を食べたイブは、シュルシュルシュー、楽園を追放されていい気味だ』
『ほんとに悪役だなぁ』
と、猫はおもわず感嘆する。
『悪役のいない世界の何処が面白い! シュルシュルシュー、劉邦は白蛇を斬ったから唐土を支配した。その蛇がおらんで、どうして皇帝になれよう。シュルシュルシュー、役者は悪役を務められてやっと一人前。シュルシュルシュー、オレを除いて誰がその役をやれる?』
 確かに蛇と云えば悪役、悪役と云えば蛇かも知れない。インドのシバ神のように崇められているものもいるが、それは例外だろう。大抵の場合、蛇は祟るからこそ神に封じられる。猫とは違う。
『狐さんがいます』
『では、おまえ、、シュルシュルシュー、狐に祟られるのが良いか、、シュルシュルシュー、オレに祟られるのが良いか、、シュルシュルシュー、ようく考えろ…』
 祟りで蛇にかなう者なし。
『それは…』
『…干支をオレから奪おうものなら、シュルシュルシュー、万代の後も祟ってやるからそう思え!』
 そう云うや、蛇は猫を睨み付けた。蛇に睨まれた猫は慌てて引き下がった。

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10.卯

『もしもしネコよネコさんよ、世界のうちでおまえほど、ひるねで寝過ごす者はない、どうしてそんなに寝れるのか』
 猫の姿を見つけた兎は、いきなりそう唱って
『ようこそ、昼寝の王様、こんなむさ苦しい住処まで』
と帽子を脱いでお辞儀をした。長靴の猫よりもスマートな挨拶だ。アリスの訪れた不思議の国の住人らしい。
『ふん、僕は誰かさんと違って、亀との競争に負けたりはしないね』
『あはあは、あなた頭悪いわね。あれはわざと負けてやったのよ。だからこそ後世に名前が残ったんでしょ? あれで勝ってたんじゃ面白くもなんともないわ』
いかにも不思議の国の住人の言いそうな事だ。
『苦しい言い訳だなあ』
 猫は良い反論が思い付かない。
『じゃあ、聞くけどさ、猫が人間の意表をついた話ってはある? まあーったく無いわね』
 こうも挑発されては、やり込めない限り干支の話は始められまい。
『そんな減らず口を叩くから、皮を剥がれて目が赤くなるんじゃないかい』
と、因幡の話を持ち出す。
『皮は剥がれるのは貴方の方じゃなくて? 猫にマタタビ、猫取りに取られて、ピピンピンピンと、唄になる。都々逸に付き物の三味線って、あたしも弾いてみたいわねえ』
『はいはい、確かにそうです、そうですよ。虎は死して皮を残し、猫は三味線を残すのに、兎は何も残しませんなあ』
『兎は皮を剥がれても、死なずに大国主神に助けられるのよ。同じ皮でもどっちが偉い? 神様に助けてもらった白兎に決まっているじゃないの』
 因幡の昔から、兎は口が達者と相場が決まっている。
『その前に塩水で洗ってひいひい泣いた事は覚えていらっしゃらないとみえますな』
『迷子になっただけでニャンニャンニャニャンと泣く誰かさんよりよっぽど文学的だわ』
『あれが兎でなくて猫なのは、それだけ人間に愛されているからさ』
『そういう貴方、私の情けで卯の名前を借りなかったら、今頃は干支に引っ掛かりもしないすってんてんでしょ。それで良く、人間に愛されてますって威張れるねえ』
 干支の動物に若干の違いがあり、南越地方では卯というのは猫を指す。逆に言えば、そのくらい猫と兎は融通の利く相手である。お互いにぞんざいな喋りかたをするのも当然だろう。
『それは嫉妬と云うものでしょうな』
『役立たずが何をおっしゃる。あたし、聞いたわよ、貴方があちこちで干支交渉をやって、尽く失敗したって話』
 さすがに耳の長さは伊達で無い。
『じゃあ、兎さんは役に立つとでも?』
『かちかち山の活躍を知らないの?』
『あれは狸が馬鹿過ぎるんだよ。猫は始めから泥船なんて乗らないね。湿って気持ち悪いじゃ無いか』
『でも、猫に兎の代わりが出来て? 火事になっても飛んで火に入る馬鹿な誰かさん、主人を殺されても恩を3日で忘れる誰かさん』
 猫が火事に飛び込むという話は特に冬場に時々ある。
『いや、ちゃんと佐賀では主人の仇を討ったぞ』
『退治された癖に良くそんな嘘が言えるわねえ。あれは人間の血を嘗めたから化けたんで、仇を討つ為じゃあないでしょ?』
『でも、あの話には、猫を大切にしないと長生き出来ませんよって云う教訓も含まれているんだ』
 猫はちょっと凹み気味だ。
『ほほほ、長寿の話で貴方に威張られるとは思わなかったわ。いいこと、月じゃあ月兎が不老長寿の薬を搗いて、それのお陰で、天界の爺さん婆さんが西遊記に出られるのよ』
『そりゃおかしいな。天界の不老長寿の薬は蟠桃園の桃と老子の錬る丹の筈だよ』
 月兎が餅を搗くのは日本の話で、本場中国は少し違う。西遊記でも杵を持った月兎が出てくるが、搗くのは餅でなく、長寿食品である。
『そんな事言ってるから干支から外されるんだわ。天界はグルメの集まりなのよ。不老長寿の薬が2つだけの筈が無いじゃない?』
『その天界での職務を放棄して逃げ出した悪役が、よくもしらじらしく威張れるなあ』
 西遊記天竺国での話だ。
『悪役でですら出して貰えなかったのはどなたかしら。貴方ったら悪役すら出来ないのよねえ』
『いや、猫又がいるよ』
『あの、完全にやっつけられる化け猫の事? それに、月兎が天竺国の王女に化けたのは、ちゃんと因果応報に基づいているのよ。だから、罰っされもせずに直ぐに職務に戻ったじゃないの。格が違うわ』
 毒舌兎を前に、猫には分が無かった。対抗できるのは知恵者猫ぐらいだろう。いや、彼ですら笑って姿を隠すのみではないか。

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11.辰

 残るは十二支で最大の動物と最小の動物である。猫はまず夜叉ヶ池の竜神を訪ねる事にした。
 だが、夜叉ヶ池は藻抜けのからである。人間による開発や汚染で竜の住める環境ではなくなったらしい。とすれば、今の日本に竜の住める池はあるまい。いや日本に限らず、世界中の手頃な池はそうだ。残るは海か深湖か。寒がりの猫に深湖は無理なので、東海の竜宮まで行く事に決めた。
 亀に頼んで背中に乗る。水の苦手な猫には他に手段が無い。
『これは、これは、遠路はるばるようこそ』
 東海竜王の接待係がやってくる。
『こちらには始めてお伺いしますが、いやあ、噂に違わず素晴らしいところですねえ』
『はい、だから人間に見つからないようにするのがひと苦労でして』
 聊斎志異によると、竜宮は普通の人間には単なる魚の住処にか見えない。人間にばれる事を恐れて魚の姿を取っているからだ。
『ところで、敖広どのはおられます?』
 敖広とは東海竜王の事で、あまねく竜王の総帥である。
『先程、帰ったばかりですので、着替え次第参上します』
『それは恐縮です。どのような用向きの外出だったのでしょう?』
『台風1号を作っておりました』
 やがてその東海竜王・敖広がやってきた。時間にして、出されたお茶が猫に飲める温度になるくらいである。
『おお、これは猫殿、わざわざのお越し、誠にかたじけない』
 丁寧な挨拶である。こういう御殿でこういう挨拶を受けては、いきなり要件を持ち出す訳にはいかない。猫は世間話から始めた。
『今でも天帝の命をいちいち受けて雨を降らしておられるのでしょうか』
『それが、今の受け持ちは、雨そのものを降らす仕事ではありませんで……』
 竜王はお茶を飲みながらゆっくりゆっくり話す。せっかちな猫にはちょっと辛い。
『……気象学とかいうへんてこな学問が出来ましてなあ、……それ以来、雨は概ね、台風とか低気圧とかに従うという事になりまして、……我々の仕事は、その台風だとか、低気圧だとかを作る仕事に代わりました。まあ、渦を巻けば良いから、細かい数字を気にする必要はなくなりましたが、……その分、仕事が地球規模になりまして、骨は折れますな…』
 そう語りつつお茶をゆっくり注ぎ足す。まさに竜宮城時間だ。
『はあ、それは存じませんでした』
『そういえば猫殿も仕事を変わられたと聞いておりますが』
『はあ』
 猫は一瞬なんの話かと戸惑うが、それを無視して竜王は話を続ける
『それがしには、万人を救う経典を鼠の害から守る、と云う昔の仕事が大きい仕事に思えるのですが……』
 ようやく猫にも話が見えて来る。
『……よくよく考えてみれば、今は孤独と理屈から人々を守るべき時。個々の飼い主に心の安らぎを与える仕事も立派なものですな』
『お陰さまで可愛がって貰っております』
『……まあ、これが世の中の流れと云うものでしょうか。……我々にしてみれば、こうも個人的な事が問題になる時代というのは、窮屈で仕方ないのですが。……なんか、こう、張り合いがないというか、興奮が足りないと云うか、そういう気がします……』
 ゆったりと紡ぎ出されるその口からは、確かに気宇壮大な空気が醸し出される。天地を駆け巡る者のみが吐き出せる言葉だろう。
『……それにです。世界のあちこちに実在していた我々も、今では本や映画でしか想像できない者になってしまいましたから、肩身が狭いのなんの』
 そう自嘲気味に話し続けるが、どうして、どうして、竜王の威厳は並々ならないものである。
『龍殿はいつも人々の憧れですよ、我々のようなペットには雲の上の存在です』
『いやいや、雲の上は天帝のおわすふわふわした所、ここは海の下ですよ』
 一瞬話の接ぎ穂に困った猫だが、そこはお茶を飲みながらのゆったりした世界だ。何とか会話を続ける。
『雲の上でも海の下でも偉大な事には代わり無いでしょう。私には手の届かない世界ですから』
『そう言って頂けて恐縮です。しかしながら、憧れとは所詮空想に過ぎないのでしてね。人間どもが我々を夢見るのは、現実だけでは生きていけないからです……』
 現実のみで生きている猫には別世界の話だ。
『私共など、暖かい寝床と魚さえ与えられれば満足しますがねえ、……あ、すみません』
 竜宮は魚たちの御殿だ。魚を食べるというのは失礼に当る。しかし、竜王はにこやかに微笑んでいる。そのくらいでは気を悪くしでは、あの短気猿に付き合ってはいられないのだ。孫悟空の住む花果山水簾洞は東海竜宮の真上にある。
『いやいや、魚どおし食いつ食われつの激しい生存闘争をやっている訳ですから、気に為さらないように。猫の食べる魚の数なんて知れてますよ。問題は人間ですな』
『はあ、人間ですか?』
 猫は竜王の思考についていけない。鳳凰を前にした燕雀のような気分だ。
『我々如き幻の存在が大きい事は申せませんが、近年ちょっと思い上がっているように思われて仕方ありません』
『と仰ると、連中が魚を網でごっそり取り尽くす事が問題なのでしょうか?』
 それを聞いて竜王はからからと笑う。
『水中の闘いは浮力無重力の3次元世界ですから、それに比べれば、船と云う2次元でしか駒を動かせない人間共なぞ、ものの数ではありませんな。底引網とかいう非道な兵器は持っておるようだが、あれとて岩に守られた竜宮には手も足も出ぬでしょう』
『では何が問題と仰る訳で』
『それがしが話を致すからには水の事で御座る』
 竜は自然の化身として水を支配する役目を受け持つ。
『水と仰ると…』
『猫殿、不肖者のそれがしは、不肖なりにも天地に水の采配を任されています。それは人知の及ぶものでは決してありません。例えば、連中は水の循環について分かったつもりになっているようだが、ちょっと調整が狂うだけで、大雨になったり旱魃になったりする機微は分かっておりませぬ。天機漏らさずと申しますゆえ、詳しい事は語れませぬが…』
『その調整を竜殿が行なっていると云う訳ですか?』
『御明察のとおり。猫殿はこちらに来る前に白雪殿を訪問されたと聞きますが…』
 白雪とは夜叉が池の主の姫である。泉鏡花の報告した竜神の事だ。
『…彼女を彼の地に住めなくしておいて、治水だの砂防ダムだのぬかしておるのだから笑止ですな』
 遊水池をコンクリで固めれば、竜は住まなくなるが、水災には脆くなる。
『はあ、なるほど』
と相槌を打つものの、その日ぐらしの猫にはどうでも良い事だ。
『それにですぞ、台風やハリケーンを巨大化するものは、何も温暖化だけでは御座らん。海を知らぬもの、天気を語る事なかれ、ですわい。ま、金と弁論術でしか価値を判断できない現代人どもには無理でしょうがな』
 確かに気候が海の動きを支配するという言い方はあるが、海の変化の機微が気候を支配するとは云わないようだ。でなければ海に廃棄物を投棄しつづける筈が無い。
『でも、竜殿は人間に尊敬されているではありませんか』
 話についていけない猫は、さっきと同じお世辞を云って機嫌を取るが、今度の反応は渋い。
『ははは、それこそ昔の話ですて。白雪殿に聞いて御覧なさるが良い。彼女は確か、千島列島に避難されている筈じゃ』
 千島は猫にはちと寒い。
『そんなものでしょうかねえ』
『ほれ、ゲルマン神話の影響かも知れぬが、今の若いモンは、竜と云えば、ねぐらから宝物を奪う対象にしか見ておりませんな。我々は殺され役ですわい。そのくせ荘子冒頭の竜の話は知らぬとぬかす』
 ゲルマン神話と云うよりゲームの影響だろう。いずれにせよ、考えてみれば竜に失礼な話である。
『あのう、お怒りでしょうか?』
『はっはっは、こんなちっぽけな事で怒る竜なぞ何処にもおりませぬわい。我々が怒るのは文明が自然をないがしろにするからですわい』
 聞き捨てならない言葉である。干支とは文化そのもの。それを持って竜の逆鱗に触れるのは怖い。干支の順番よりも身の安全の方が大切だ。
『お怒りになられた場合、台風や竜巻きを作られるんでしょうか?』
『気象は天帝の命でしてな、我々の勝手にはなりませぬ。ですが、大水・山津波の類いは我々の意のままですて』
 夜叉ヶ池の話にもそういう下りがある。
『津波もでしょうか?』
『津波はさすがに被害が大きいので、竜族の一存という訳にはいきませぬ。天帝の裁可が必要となりますわい』
 どうやら、津波も竜が起こしているらしい。
『猫殿、考えても下され。海の深音を聞く事も出来ぬ輩が、地上にはびこり過ぎて、土地が無いとて浜辺に住む。しかも、コンクリで固め、海を汚す。それを許して良いものでしょうか? 浜辺に住んで良いのは海と共に生きる者だけですて』
 確かに動物達は海鳴りを聞いて津波から逃れる。逃げ遅れるのは人間だけだ。
『巻き添えとかは?』
『竜の怒りを忘れた人間に責任がある』
 人道の立場から不条理でも、竜には竜の論理があるらしい。こんな危険な輩に干支の話を出しては百年目、竜をないがしろにしていると云われて、どんなとばっちりを受けないとも限らない。

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12.子

 鼠は最後の頼みの綱である。こいつなら、こっちの言う事を聞くだろう、そう思って最後に残した。
『あ、猫さんこんにちわ』
 鼠がそう挨拶するや、猫は昔の恨みを思い出した。干支を決める時、鼠が猫に嘘を教えて、集合時刻に間に合わなかった事だ。
『この野郎、今出会ったのが百年目!』
 次の瞬間、猫は野生に戻って鼠を捕まえていた。
 
 
 鼠を食べて満腹になった猫は、そのまま幸せそうに食後の昼寝を楽しんだそうだ。干支のことなぞすっかり忘れて……。